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労働の解放をめざす労働者党
代表委員会メッセージ

【2017.7.19】
安倍に「塩を送る」も同然の裏切りだ――連合執行部、「高プロ」(残業代ゼロ)法案を容認へ
【2017.7.15】
安倍政権の現在と近未来――行き詰りと政治的閉塞の時代の到来か
【2017.7.7】
「説明責任」の問題ではない――今こそ安倍打倒を勝ち取るべき時
【2017.7.1】
瀕死(ひんし)の安倍政権――安倍も「全国展開」なる致命的「失言」
【2017.6.25】
 自民と小池の空疎な対決――民進も共産も影の薄い都議会選挙
【2017.6.18】
 民進、共産の裏切りを糺弾せよ――安倍政権の開き直りと延命を許した者たち
【2017.6.16】
安倍は直ちに首相を辞めよ――〝関与〟していたら辞めると明言したのだ

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安倍に「塩を送る」も同然の裏切りだ
連合執行部、「高プロ」(残業代ゼロ)法案を容認へ

         2017年7月19日

 連合執行部は、所得の高い一部の専門職に残業代なしの成果型賃金を適用する「高度プロフェッショナル制度」の導入容認に動き始めた。「残業代ゼロ法案」との批判を受けて2年以上も継続審議(たな晒し)になっていたが、これを秋の臨時国会に提出予定の労働基準法改正案に紛れこませようというわけだ。
  これまで、連合は残業代などの負担を企業に強いることが長時間労働にたいする一つの“歯止め”となってきた、残業代がなくなれば長時間労働を一層促進しかねない、省令で対象者が拡大される可能性があるなどとして、「高プロ」制度に断固反対を表明してきた。6月7日に発表された「政策・制度 要求と提言」でも「長時間労働につながる高度プロフェッショナル制度の導入や裁量労働制の対象業務の拡大は行わない」と明言してきた。
 ところが連合は、年間104日以上の休日確保を企業に義務づけたうえに、労働時間の上限規制や終業時間と始業時間の間を確保するインターバル制度に加えて新たに「オリジナルオプション」(2週間の連続休暇と臨時の健康診断)を追加し、そこからどれかを選択すれば、“歯止め”をかけたというのである。とんでもない議論だ!
 104日の休日と企業が比較的受け入れやすい臨時の健康診断を実施したとしても、それで長時間労働の“歯止め”がかかったとはおよそ言えない。週休2日で1年52週なので、それだけで休日は104日となり、それに臨時の健康診断を採用しても、政府提出の法案とほとんど変わることはない。「実を取る」などとは程遠く、長時間労働は現状のまま温存され、「高プロ」制度の導入で一層強まるとの懸念は何一つ払拭されないのだ。
 だから、連合傘下の組合から、「寝耳に水だ」「裏切り行為だ」(全国ユニオンなど)との批判の声が上がり、過労死家族会が「方針転換に憤っている」と怒りの声を上げるのも当然である。  連合は、3月の「働き方改革」の政労使合意に続き、「残業代ゼロ法案」でも、労働者の利益と立場を投げ捨て、安倍と財界に屈服、追随してしまったのである。
 3月に決まった安倍の「働き方改革」は、全くのまやかしとしかいいようのないものであった。安倍は、過労死をなくすために長時間労働の規制を「躊躇なしに行う」と豪語したが、出てきたものは繁忙期には月100時間(過労死ラインだ!)まで認めるとか、年間720時間(休日を含めると900時間)まで認めるといったとんでもない代物であった。実際には、企業が長時間労働を労働者に強要することを手助けするもの、それを巧妙に支援するものであった。
 今回の連合の「高プロ」制度の容認は、3月のそれに続くものであり、安倍の「働き方改革」の策動――口先で労働者の味方ずらをしつつ、資本の都合のいいように労働法制を改悪する――に全面的に取り込まれるものである。これは、労働組合として労働者に対する「裏切り行為」であり、“自殺行為”に等しいことだ。
 まして、安倍政権への支持率が急落し、国民的な怒りと批判の声が高まっているときに、「働き方改革」で安倍政権との協調(屈服)路線を打ち出すのは、「敵に塩を送る」も同然の「裏切り行為」である。
 安倍が、長時間労働の制限を「躊躇なしに行う」と叫んだのだから、労働者がその断固たる実施、実現を要求して悪いことはない。安倍のごまかしと空約束を徹底して暴露・告発し(連合のように惑わされ、安倍に助け船を出すのではなく)、長時間労働に代表される搾取労働や差別労働の即時廃止を要求して闘おう!

安倍政権の現在と近未来
行き詰りと政治的閉塞の時代の到来か

         2017年7月15日

 都議選で致命的な打撃を受けた安倍は、直近の国政選挙がないことに辛うじて救われ、自民党内にも安倍権力を掘り崩す反対勢力も現れず、何とか生き延びようとしています。民・共も労働者、勤労者の大衆的運動を組織する意思も力量もなく、安倍政権の延命を許しています。
 安倍政権が勢いを失い、死に体のママ政権を維持し続けるという、政治的頽廃と衰退の一時代が、民主党政権の後半の時代や、小泉政権後の福田、麻生政権の時代のような行き詰まりと閉塞の時期がやってくる可能性があります。安倍は、今は解散、総選挙に走ることもできず、現在の議会勢力のまま(憲法改定を発議できる3分の2の国会勢力を保持している今)、それを利用して憲法改定に急きょ乗り出そうという構えも見せていますが、しかし今からでは、スケジュール的に見てさえ困難でしょうし、安倍の権力と権威が後退し、弱化した今では、憲法改定に対する安倍の構想で自民党が一致するのは難しいでしょう。
 安倍は今回の支持率の低落が、単にあれこれの政策的なあやまり等々の問題ではなく、政権の〝体質〟に対する、その本性にかかわる深刻な不信であり、ちっとやそっとのことでぬぐい去られるような簡単なものでないことを自覚していないのです。彼は再び三度、経済政策推進により失われた支持を回復し、自らの野望の実現を狙おうとしていますが、問題は今回の政治危機がアベノミクスの延長のような経済政策により容易に克服され得るのかどうかということです。
 それに加えて、煽られた期待感に依存するような経済政策の化けの皮がはがれようとしており、その〝効果〟もまた怪しくなっています。統計は最近税収――消費税も所得税も法人税もみな揃って――が減少しつつあることを明らかにしていますが、そんな現実の前では、バラまきによって景気回復が実現する、そしてそうなれば税収も増えて財政再建も可能になるといった、安倍一派にとって好都合な夢物語は説得力を失い、金融緩和で挫折したアベノミクスは、今後、ただ財政危機を一層深化するだけであるという真実が暴露されています。金融緩和に続いて財政膨張に走ろうとしても、今や安倍政権は「経済政策」の持ち札をなくしたのです。異次元の経済政策等々が、そんなにいつまでも、無尽蔵にあるはずもありません。
 安倍政権は事実上すでに権力を保持する力を失いました、しかし自民党内には、安倍に代わる勢力も形成されず、また民・共は安倍失墜の受け皿になることはできず、維新も小池新党も全国的な党派でないとするなら、死に体の安倍政権がダラダラと続くだけと言うことになりかねません。今やブルジョアの政治支配は極端に弱体化し、解体し、深刻な危機の時代を迎えつつあるといって言い過ぎではありません。
 労働者、勤労者の経済闘争、政治闘争が激化し、発展する時代が訪れようとしています。それはまた同時に、新しい労働者党が労働者、勤労者とその闘いと結びつき、先頭に立って闘い、躍進していく時代でもあるのです。

    

「説明責任」の問題ではない
今こそ安倍打倒を勝ち取るべき時

         2017年7月7日

 安倍は都議選に惨敗し、しおらしく自民党に対する「厳しい叱咤と深刻に受け止め、深刻に反省したい」として、これまで拒否してきた国会閉鎖中の証人招致をやるという。リベラルや民・共は大喜びだが、今この時期、前川の国会招致をして、何が出てくるのか。
 民・共は、安倍政権や官僚らに「説明責任」を果たさせる、真実を明らかにすると騒ぎたてている。
 リベラルマスコミも、「首相の『反省』は本物か」と問い、「反省が言葉だけなら、民意はさらに離れるだろう」ともったいぶって安倍を諭し、また「調べない。説明しない。押し切る。政権はそうした体質を改めるべきだ」(朝日新聞7月3日、5日)とも主張する。
 安倍が実際に何一つ「反省」していないことは、虚偽発言を繰り返した、おなじみの財務官僚佐川を、国税局のトップに昇進させた事実からも明らかである。
 民・共もマスコミインテリらも、問題はすでに「反省」でも、「説明責任を果たす」ことでもないことを自覚しない。
 しかも安倍が体よく〝外遊〟しているときに、何のための参考人招致か。なぜ証人が前川であって、萩生田や松野文科相でないのか、安倍や菅でないのか。
 森友学園のときならまだしも、そもそも加計学園では基本的で、重要な「事実」や、それを明らかにした文書や「証拠」はすでに出揃っているのであって、前川の証言もいくらでもなされてきており、改めて聞くことはほとんどない。
 必要なことは、安倍と安倍政権の腐敗や虚偽や厚顔無恥や犯罪――単に道徳的な意味だけでなく、実際に法律に違反するような犯罪――を徹底的に明らかにし、安倍政権を退陣に追い込んでいくことだけである。
 そもそも民・共は最初から闘うやり方を間違えたのだ、チャンスがあれば、本気になって安倍政権の打倒を目指して闘う意思も決意も何もなかったのである。
 民・共はすでに文科相の隠されていた文書の存在を前川が証言したときから、そしてさらにないとされた文書が実際に出てきたときから、闘争がすでに客観的に、安倍政権を打倒する闘いに転化したことを決して理解しなかった。
 安倍らが、そんな文書は存在しないと強弁した時、民・共は「もしあったらどうする、責任を取って退陣するか」となぜ鋭く問い詰めなかったのか。
 あるいは文書の存在が明らかになって、菅がそれは「怪文書であって」、信用できないと断言したとき、もしその文書が本物であって「怪文書」でなかったら、菅は責任を取るのかと、どうして断固として対決しなかったのか、そして安倍一派の退路を断ち、決定的に追い詰めなかったのか。
 安倍らに「説明責任」を求めても無駄である、というのは真実を語るという「説明責任」を果たしたら、彼らは首相などやっていられないほどの悪事をいくらでもしているからである。そんな悪党たちに「説明責任」を要求するなど、リベラルや民・共は何というとんまな連中か。安倍らには権力の陰に隠れ、権力を悪用して事実と真実を隠す以外の選択肢はないのである。 安倍らにはすでに最後の最後まで、知らぬ存ぜぬで白を切り続けるしか道はないのである。
 安倍らに「説明責任を果たせ」など要求することは、ことここに至っては、ただ安倍政権の延命策動に手を貸す茶番であり、田舎芝居でしかない。
 すでに政治闘争の現段階は、安倍政権の腐敗と犯罪を告発し、安倍政権の打倒の旗を高く掲げ、妥協なき闘いを続けるときである。

瀕死(ひんし)の安倍政権
安倍も「全国展開」なる致命的「失言」

         2017年7月1日

 下村が加計学園から200万円を受け取りながら、政治資金報告書に記載しておらず、法律違反を追及されると、学園からではないとごまかし、あまつさえ「選挙妨害と受け取らざるを得ない」と開き直り、都議選の最中に、逆ギレを演出して見せてくれた。その直前には稲田が自衛隊失言問題での発言、取り消し、口先だけで謝罪したが、北朝鮮など国難のときに全力を上げて防衛大臣としての任務を果たすことが重要で、辞任している時ではないとふんぞり返った。安倍政権はまさに自壊の様相を呈してきたが、それは第一次安倍政権の時と同様に、逆境に弱い安倍政権の本性を再び明らかにしつつある。
  そして安倍にとって致命的な発言は、加計学園問題は「岩盤規制」にドリルで穴を開ける問題だと話をすり替え、加計学園だけを認めるという不十分なやり方でやったので誤解を招いた、これからは加計学園だけでなく、京都畜産大であろうと、どこであろうといくらでも獣医学部を許可することにする、まさにこれこそが徹底した「岩盤規制」の粉砕である、文句があるか、などと言い始めている。
 しかし後知恵でそんなことを言っても誰も信じないであろう。安倍が言うようなことなら、何も特区を設定し、そこで獣医学部を認めて「岩盤規制」の突破だなどと大騒ぎすることは最初から何もなかったと言うことであって、安倍の加計学園でやったことがますます安倍の国家と国政の私物化であることを教えるだけである。
 特区でやるということは、特区でやってみて、うまくいったら、それを「全国展開」するということであって、加計学園が成功するかどうかも分からないのに、「全国展開」もくそもないのだ。
 そもそもいくらでも獣医学部新設の「需要」があるというなら、まず「特区」で突破口を切り開き、全国展開するなどと言う、回りくどいやり方をする必要は安倍政権にはなかったはずである。加計学園に続いて、今、いくらでも獣医学科を認可するというなら、そんな力が安倍政権にあるというなら――安倍は、そんなことが安倍政権の力でいとも簡単にできるかに言い張るのだが――、何も特区でわざわざ加計学園を「一点突破」で認可し、それから「全国展開」するといった、大回りの、まどろっこしいやり方をしたのか。そんなことがまるきり必要なかったということになるだけである。
 安倍が加計学園にこだわったのは、ようやく1校だけ獣医学会や文科省が認めたから、そこに何が何でも加計学園を押し込まなくてはならなかったからである。問題は1校だけが公正なやり方で決まったのではなくて、政治の力が働いて、権力の圧力によって加計学園に決まり、他のすべての大学が排除されたということである。一点突破が行われたことが問題ではなくて、その1校が安倍政権の力で不正に決められたということである。
 だから他の大学にも、加計学園が認可されるなら、他の獣医学部も次々と認可されるといったこととは無関係であり、それは別のことである。そんなことは全く前提されていないのである。
 つまり結局この問題は、「岩盤規制」にドリルで穴を開けるとか、明けないかといったことでは全くない。今治が加計学園のための「特区」になったのだが、それはまた、「特区」という「成長政策」が全くのペテンでしかないこと、山師的政策であって実際的な内容が何もないことを暴露してしまったのである。
 国会が閉会なると、後はごまかし、事態が沈静化するのを待ち、時を稼げばいいとばかり、安倍はホッとしたのだが、しかし安倍は急落する支持率に恐慌を来たし、焦りに駆られて、つい余計なことを言い出してしまい、自分で加計学園問題で新しく追及されるようなばかげた発言をしてしまい、格好の攻撃材料を野党などに与えてしまったのである。
 安倍を先頭に、和泉や萩生田や稲田や下村や、さらには豊田ヒステリー女史まで次々と登場したのでは、さすがに安倍政権も持たないかである、あるいは仮に政権が続いたとしても、安倍政権は、否、自民党政権自体、レームダック(足の不自由なアヒルのこと。米国などの大統領が、任期末になるなどして力や影響力を失い、何もできないような状態になるたとえ)の状態に陥るしかないであろう。
 政府交替か、それとも次の総選挙で自民党が大敗し、しかも自民党に代わって政権を担う党派、担える党派がいないなら――民進党や共産党に、あるいはその連合勢力に、政権を担う力のないことは余りに明らかである。ゼロやマイナスの政党がいくつ集まっても、その力はプラスにはならないのだ――、無政府状態と混沌と激動の時代へと移っていくのか。いずれにせよ、安倍政権が存続できないことだけは確かであろう。

自民と小池の空疎な対決
民進も共産も影の薄い都議会選挙

         2017年6月25日

 都議選が始まりました。加計学園などで追い詰めれている自民党と、「都民ファースト」といった、ポピュリズム丸出しのスローガンを掲げる下品な小池新党の争いという、最低の選挙戦になっており、民・共はまるで影が薄く、反動たちだけがわが物顔で闊歩するだけです。
  小池は選挙直前、築地移転問題で行き詰まり、苦し紛れに、豊洲も築地もといった、まるで愚劣で、現実に実行しようとすれば収拾困難に陥り、あらゆる面で行き詰まり、破綻しかねないような方針を――というより、単なる思いつきを--打ち出して来ました。選挙を前にして、「何も決断できない小池」という自民党の厳しい批判に直面し、どうしていいのか途方に暮れて持ちだした〝政策〟とは、豊洲移転派(ブルジョア的勢力)と築地残留派(プチブル的勢力)の立場を足して二で割ったような折衷論で、そんな折衷論がうまく行くはずもないのであり、両方の膨れあがっていく不満と、白けた失敗に帰着するしかないようなものです。
  市場としての機能は豊洲に移すと言いながら、築地にも市場的機能を持たせると言うのですが、一体どんな市場機能を残すというのでしょうか。「築地ブランド力を強調する」と言うのですから、本来の卸し市場に隣接し、市場の生鮮食品を利用する商店街のことを言っているのでしょうか。
 しかしそれは卸し市場としての築地市場があっての話であって、まさかそんな隣接商店街を意識して、築地の意義を語るなら、小池のやり方の行く末は最初から見えています。 カネがいくら浪費されるかも、分かったものではありません。
 一言で言って、「食のテーマパーク」幻想といっても、具体的な内容は何もない。小池のやろうとしていることは、文字通り「都民ファーストで(すら)なくて選挙ファースト(小池ファースト)」であって、そんなレッテルに対して反撃できないような小池が、仮に一時的に議会で多数派を勝ち取ったとしても、勝った途端に負けに転化し、転落していくような勝ちにしかならないでしょう。 小池の権力のためだけの卑しいポピュリズムは破綻しつつあります。
 小池に追随する民進党や共産党――共産党は築地残留こそが最善といいますが、自分たちが正当化し、擁護する政策が、築地のプチブル的要素の立場や利益でしかないことを自覚しないのです――が、存在感がまるでないのも当然です。

民進、共産の裏切りを糺弾せよ
安倍政権の開き直りと延命を許した者たち

         2017年6月18日

 国会は「共謀罪」法の成立と、加計学園問題における安倍政権の開き直りの中で幕を閉じた、つまり民進や共産の完敗として終わったが、その責任と罪は、あげて民進と共産、市民派やリベラル派の〝大連合〟勢力にこそある。
 彼らは今ごろになって、「ひどい国会だ、こんなひどいことはない」とか、「こんなでたらめで卑劣なやり方はない」とか憤慨するふりを見せるが(その代表は共産の小池ら)、しかしそんな結果に行き着いたのは、彼らが、文科省の保有する文書が明るみに出た時から、そしてそんなものは「怪文書」だと菅が発言して、森友学園と同様に、知らぬ存ぜぬというやり方で乗り切る態度を明らかにした瞬間から、安倍政権の即時打倒を目指しての闘いを開始し、やり抜かなかった日和見主義のためであり、彼らの自業自得でしかない。
 安倍政権は、森友学園のとき、自分が「関与」し、行政をねじ曲げるような事実があれば、自分は首相を辞めると白々しくも開き直り、公言したのである。
 とするなら、まさに民・共やマスコミ・リベラルは、安倍に加計学園事件でも同じように、自分の関与が明らかになれば、辞めるかと迫るべきであり、徹底的に安倍とその政権を逃げ道のない形で追い詰めるべきだったのである、あるいは、ただ単純に、文科省に加計学園事件への「関与」は「総理のご意向」とか、「官邸の最高レベル(安倍でないとしても菅である)が言っている」という内閣府からの圧力を明示する文書が「怪文書」ではなく、本物であり、実在するとはっきり語り、明らかにすれば良かったのである。
 加計学園事件の段階では、森友学園の時とは違って、前川発言と共に、すでに「真相は明らか」になったのであって、問題は、単に「真相を明らかにする」ことではなく、安倍政権の「進退である」ことを、そうした情況になったことを、民進党も共産党も自覚しなかった、あるいは問題をそうした決定的な問題であると評価し、理解し、闘い抜こうという意思も決断も勇気も賢明さも何もなかったし、持とうとしなかったことである。
 民進党は09年から3年間政権を維持しながらも、ほとんど労働者、勤労者のためのまともな「改革」を――社会を前進させるようなよりよき「改革」も――なし得ず、「政権を獲得すること自体に意義かある」などと浮ついたことをいって政権を握ったに過ぎないのであり、当然の結果として、〝保守〟や自民党にすり寄った末に破綻したのである。
 彼らはそんな経験がトラウマになって、安倍政権が倒れたらどうしたらいいのかも分からずウロウロするだけの存在に堕しており、共産党は共産党で、そんな負け犬同然の民進と共に国民連合政府を組織すれば働く者の未来が開けるかの独断的なたわごとをふりまくだけであって、そんな頽廃した民・共に、本気で安倍政権を追い詰め、粉砕する力も展望も意思もすでに残っていなかったのである。
 「共謀罪」法案の粉砕が可能になるチャンスがあったとするなら、加計学園事件によって安倍政権を追い詰める闘い、天皇制を巡る〝憲法違反〟の天皇や安倍政権の策動を粉砕する闘い等々と結びつけて、断固として闘ってのみあり得たことは明らかである。  問題を単に加計学園の「真相を明らかにする」といった目標に切り縮め、限定した民・共や、自由主義派の日和見主義が、安倍政権の開き直りと延命を許したのであって、安倍政権に敗北した原因は、民進や共産やリベラルマスコミにこそあったと結論して、少しも間違いでも言い過ぎでもない。
 しかも彼らはそんな決定的な政治情勢の中で、天皇の生前退位問題で安倍政権といちゃつき、全面的に助け、安倍の〝憲法違反〟でさえあるやり方を「国民的合意」のオブラートをかぶせて実現させたのである、〝静謐な中での〟、まるで愚劣な協調主義や馴れ合いの「政治休戦」を演出したのである。
 必要だったことは、森友学園、加計学園の事件と結びつけて、天皇問題でも安倍政権と天皇一派の〝憲法違反〟の策動を暴露し――そしてもちろん、「共謀罪」法の野望に反対する闘いとも結びつけて――闘い抜き、安倍政権を一掃することではなかったのか。
 それを回避し、闘いから逃走した瞬間から、彼らの敗北は不可避となったのである。  腐敗堕落の極致、安倍政権を許すことはもはやできない。
 今こそ民・共やリベラルの裏切りを告発し、新しい労働者党の果敢な闘いが、働く者の怒りや闘いと結びつき、その先頭に立って、国政の場でも断固として登場する時、しなくてはならない時となったのである。
 全国の心ある男女の労働者、青年、活動家の諸君、結集し、共に闘おう。

安倍は直ちに首相を辞めよ
〝関与〟していたら辞めると明言したのだ

         2017年6月16日

 同時に、二つの大きな政治的出来事が相次いだ、というより、安倍政権がそうした情況を演出した。 一方では「共謀罪」法が成立したこと、他方では、安倍政権の犯罪を明らかにする決定的な文書が「怪文書」ではなく、実際に存在したものであることを、そしてそんな文書に内閣府が、つまり安倍や菅が深く〝関係〟していることを、文科省や内閣府が自ら認めたし、認めざるを得なかったことである。
 「共謀罪」法の成立は労働者というより、自由主義派のインテリ、マスコミや民・共(民進党や共産党)にとっての敗北であるが、他方、安倍政権の権力犯罪が事実であることが確定されたことは、安倍政権にとって致命的であって、この政権は今や持ちこたえられるかどうかという危機に追い込まれている。累卵の危機にあるといっていい。
  一見して両方の痛み分けかに見えるが、それはただ安倍政権(自民党)も民・共も、とうに破綻していたことを改めて確認することになったに過ぎない。
  我々が確認すべきは、民・共や自由主義派の闘いが間違った、日和見主義的なものであったからこそ、安倍政権は「共謀罪」法まで成立させ得たのである。安倍政権が近く解体し、退陣を余儀なくされるなら、〝厄介な〟置きみやげを、イタチの最後っぺを残していったことになるが、その責任はあげて日和見主義に溺れた――天皇生前退位問題で、安倍政権となれ合っていちゃつき、「政治休戦」にまで応じた――民・共にあると結論するしかない。
  加計学園に関する「怪文書」がでてきて、その問題が大問題になってきているとき、民・共は、それを安倍政権打倒の決定的な機会としてとらえることなく、何か文書が本物かどうか、事実はどうかといった矮小な闘いに押しとどめてしまった。
  安倍や菅が事実を否定しようとしているとき、もし事実だったら責任を取るのかどうなのかという決定的な闘いに転化していかなかったのは、まさに日和見主義そのものであり、安倍が策動し、「共謀罪」法に狂奔することを許したのである。
 森友学園のとき、安倍は「私が関与していたら、首相を辞める」と公言したのである。加計学園では言っていないといっても、通用するはずもない、というのは、安倍も菅も、そんな文書はない、「怪文書」だ、虚偽だと頑強に、断固として言い張ってきたからである。内閣府の萩生田は今も、同様な発言を繰り返すが、それは責任が安倍や菅に及ばないためであるに過ぎない。今や安倍や菅は、責任を官僚に押し付け、転嫁するほか何もなしえないのである。卑しいげすというしかない。
  森友学園でも同じやり方をして通用したから、今回も大丈夫だと思ったかどうかは知らないが、森友学園と同じ〝強気な〟やり方を、つまり知らぬ存ぜぬという厚顔無恥を押し通そうとしたことは明らかである。
  しかし文科省は財務省ではなく、内閣府の、安倍の不当な特別扱いをするようにという指示が存在したこと、その証拠を明らかにしたのである、つまり安倍政権はもはや退陣するしかない状況に事実上追いつめられたのである。
  それを勝ち取ることができなかったとするなら、民・共の責任以外ではない、彼等が日和見主義に陥り、追及の仕方を、闘い方を誤ったからでしかない。そればかりか、決定的な闘いのさ中、天皇問題で安倍政権や自民党と共闘し、国民的合意を演出し、安倍政権との闘いを止め、もしくは妥協してしまったのである。敵に〝内通〟にする裏切りでないとするなら、天皇制問題での安倍政権への屈服や妥協は何であったのか。
  民・共は安倍政権との闘いのカギが、安倍政権を追い詰め、打倒していく闘いの中心が、その主戦場が、この間、森友学園・加計学園問題であり、また天皇生前退位の問題であることを理解せず、いたずらに「共謀罪」法に固執したが、彼等は現実的な政治闘争とは何かを理解せず、全く自覚していないのである。
  共産党の小池晃は16日の最後の国会審議で、安倍に「あなたは国民に迷惑をかけたと謝らないのか」といきり立ったが、問題は口先だけの「謝罪」でないことを最後まで理解しないのである。「謝罪するだけならサル(安倍)でもできる」ということを知らないのである。小池は「安倍は本当にひどいと思う」「卑劣」だと叫んだが、そんなにも「ひどい」政権をいまだ打倒できないことをこそ反省すべきであろう。
 「共謀罪」法も安保法も、一般的には日本ブルジョアジーの帝国主義化、専制主義化に対応し、それを反映する反動法であったが、しかしそれらは直接に労働者階級や労働者党に対する弾圧法ではないし、また日本の労働者、勤労者を〝戦争〟――今はいかなる〝戦争〟か、あるいはむしろ単なる〝戦闘〟か等々は問わないが――に動員する、そうした意味での〝戦争法〟でもなかった。
  将来において、それらの法律がどんな役割を果たすかは、どんな政権ができ、どんな風に利用する――悪用する――かにかかっているのであって、反動勢力、ファシズム勢力が勝利するなら〝何でも〟するのだが、それはどんな〝平和〟憲法があっても、自民党政権が強大な軍隊を持つことを妨げないことや、安倍政権が出て来て安保法でも何でも成立させ、〝好き勝手〟をすることと似たようなものである。
  「共謀罪」法について批判されたことは、基本的に、「内心の自由を侵しかねない危うさがある」とか、「恐れがある」、「不安や懸念がある」、「民主社会の萎縮を招くとかの指摘も多い」とか、「監視されたくなければ政権にとって都合のいい市民であれ、といわんばかりだ」とか、「知らないうちに息苦しい社会に行きかねない」とかいった、事実や現実とは無関係な、推測や恐れや危惧や、流行の〝忖度〟ばかりのような話ばかりであった。
  現実はといえば、国家権力や警察権力による「監視」といったことは、今後のことではなく、すでに今でもいくらでも〝良き〟国民、普通の労組や政党のメンバーに対しても(もちろん、体制にとって大して〝危険〟とは思われないような市民派の諸君も、ここに加えてもいいが)、日常茶飯事に行われているといって言い過ぎはないのであって、むしろそれを糺弾し、追及し、やめさせるべきではないのか。
 森友学園事件であれほどに〝忖度〟を批判した民・共が、「共謀罪」法という現実的な課題で、将来の「可能性」とか、「忖度」でしか安倍政権を告発し、闘ええなかったことほどに、民・共の愚劣さを暴露するものはない。
  天皇の生前退位問題で、「憲法や皇室典範に反して」、特別法による、将来に禍根を残し、天皇の神聖化、絶対化に努め、「国民的合意」の見せ掛けのもとで安倍政権に協力し、「民主社会の萎縮を招く」も何もないではないか。
 天皇の神聖化が進むなら、「民主社会の萎縮を招く」しかないことも明らかではないのか。この点での、民・共の立場ほどにナンセンスで、矛盾しているものはない。 安保法も同様であったが、「共謀罪」法に対する闘いもまた、プチブル的であり、ブルジョア的でさえある民・共やリベラルの闘いであって、安倍政権と対決し、それを打倒していく労働者、勤労者の政治闘争として闘われなかったのであり、だからこそ安倍政権を追い詰めることも、文書の正当性が明らかになっても、それが安倍政権の粉砕と結びつかず、したがってまた「共謀罪」法の粉砕にもつながらなかったのである。
 「共謀罪」法の成立も、森友学園や加計学園などの問題も、安倍政権の打倒につながらなかったとするなら、それはある意味で、民・共の日和見主義と裏切りによるものであって、そんな野党がいくら国会の中に存在していても、労働者、勤労者にとって何の意味もないことを、さらに明らかにしている。
  民・共はすでに労働者、勤労者の党として腐りきっており、存在していないも同然である。
  我々はこの4月、新しい働く者の党を再建し、まさに腐敗議員、腐敗政党ばかりがはびこる伏魔殿のような様相を呈している国会に風穴を開け、本当の労働者、勤労者の闘いを国会の中でも貫徹するために、100万票を勝ち取って、真実の働く者の代表を国会に送り込むことを決定した。
  我々は全国の心ある労働者、勤労者に共に闘うよう呼びかける。