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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1298号 2017年4月2日
【一面トップ】まず国会での証人喚問だ――昭恵や松井や財務省エリート官僚ら
【1面サブ】はげ落ちる小池幻想――猪瀬、舛添から続くポピュリズム
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】安倍政権に犬馬の労――共産党と天皇の生前退位
【二面トップ】ますます経文に――安倍の「働き方改革実行計画」
【二面サブ】再稼働される高浜原発――国と東電に原発事故責任問われる時に

※『海つばめ』PDF版見本

まず国会での証人喚問だ
昭恵や松井や財務省エリート官僚ら

 安倍政権はそれまで断固として拒否していた、森友学園疑獄の関係者の国会証人喚問に対し、安倍の学園への100万円寄付問題や、昭恵への謝礼問題が浮揚するや豹変し、籠池の国会招致に賛成した。籠池が、詐欺師同然の、とんでもない食わせ者であると国民に印象づけ、この事件の幕引きが可能であると判断してのことであった。しかし彼らにとってお気の毒なことに、国会での籠池発言は、100万円のことは添えごとであって、問題は安倍夫妻の森友学園への入れ込み――彼らにとって、森友学園こそが、そこでの教育≠アそが、彼らの理想の教育に思われたのだ――や応援や支援、口利きこそが、国有地の8億円もの値引きを可能にしたという事実にあることを浮き彫りにしたのであった。

 籠池は、国会承認で、森友学園の国有地購買価格が10兆円弱からほとんどただ同然になったのは、「神風が吹いた」、自分では背景も分からない幸運がやってきた、「安倍昭恵夫人(つまりその背後にいる安倍首相)の名前によって、物事が動いたんだろうと推察される」と証言し、背後に政治の力があったとも明言し、安倍夫人が財務省に働きかけた、明白な物的証拠まで提出した。

 これに対する、安倍やその一派の批判と反論は、余りにお粗末なものであって、ただ籠池証言の真実性をさらに確認しただけである。

 安倍がせいぜい言い得たことは、つまらない表面的、形式的なつじつま合わせだけであり、安倍の論拠は一々崩れ去るだけである。彼は今や虚偽を連ね、真実を覆い隠し、権力の陰に隠れ、それを悪用しつつ、権力の座に執着するのである。

 安倍は、夫人付きの政府職員(財務省の役人の谷査恵子)が、夫人の意を受けて財務省に働きかけた結果を籠池に送ったファクスについて、その存在はもはや否定し得ないので、「(財務省からの回答は)ゼロ回答なので、財務省が忖度していないことは明らかである」などと強弁している。往生際の悪いことはこの上なく、破廉恥そのものである。権力の座にあれば、白を黒と言いくるめることも、可能であると思いあがっているのである。

 しかし、一介の公務員の谷が、昭恵の指示も承認もなく、籠池の意を受けて、自分の判断で財務省に連絡し、働きかけるなどということがあり得るはずもないことは――そもそも財務省は、そんな谷の依頼など簡単に無視するか、懲罰にかけるだろう――、誰でも容易に理解することができる。

 谷の籠池側へのファクスは、「内閣総理大臣付 谷査恵子」の名で送られており、木っ端役人谷個人のものと、財務省側が受け取ることは間違ってもなかった。

 そして関係者の国会での証人喚問が、森友学園事件の真相解明にとって有効であり、必要であることが明らかになると、安倍一派はまたもや真実の隠蔽やごまかしや強弁、すり替えの屁理屈や巧妙な、しかし見え透いた詭弁、事実のねじ曲げ、トカゲの尻尾切り――籠池や下っ端役人の谷(昭恵の付き人の政府職員)等に、一切の責任を転嫁すること(菅は籠池を偽証罪で告訴すると息巻いているが、強がりのブラフなど振りまく前に、やれるならさっさとやればいいのだ)――等々走り、後ずさりして、籠池以外の国会招致を拒否し、脅されて怯えた亀のように甲羅の中に逃げ込み、頭や手足を隠してしまった。

 籠池の元弁護士や、大阪の私立学校審議会の責任者や、審議会の認可問題をリードし、強引に不認可の結論を逆転させた府の役人も呼んで真相をただすのも、最優先の課題の一つである(もっとも、この最後のことは大阪府権力の問題であり、維新の会の松井や橋下にかかわる疑惑であるが)。

それができないということは、安倍一派は、また安倍政権は、自分たちが有罪であると知っているからであり、それが明らかになることを死ぬほどに恐れているからと結論するしかない。

 安倍は国会で、財務省が不正をしているとかいう者は、国家や国家の職員を侮辱し、誹謗する者であり、許されないと高飛車に、思いあがってわめいたが、かつての天皇制軍国主義者にも劣らない恐るべき暴言であり、習近平顔負けの専制主義者安倍と、その政権の隠されている――すでに十分に露出している?――素顔を暴露して余りある。

 もし財務省の役人が不正に手を貸し、政治をねじ曲げているというのが「あらぬ疑い」であり、そんな疑いは根拠がないというなら、そして安倍は自分の部下の官僚エリートたちが無罪だと本当に信じているなら、彼らを擁護したいと本気で望むなら、安倍は国民を脅迫し、脅しつける代わりに、彼らを自ら国会の証人喚問に出させて、真相を明らかにすべきであり、そんな疑いがないことを明らかにすればいいだけのことである、そうすれば問題はたちどころに片が付くのである。

 そうする代わりに、国民を恫喝してことを済まそうというのは、安倍が財務省役人の不正な口利き%凵X――安倍の悪事と密接不可分の――を知っていて、それを糊塗し、隠し、また財務省の悪徳高官を擁護しようとしているということでしかない。

 そうでないというなら、安倍政権は、国会でいけしゃあしゃあと虚偽を並べる、財務省のエリート官僚(佐川ら)や、責任ある他の財務官僚(迫田や武内ら)や、大阪府知事の松井らや稲田や、責任逃れに走り、罪を谷等に転嫁しようとする昭恵らの国会証人喚問に賛成すべきなのである。

 橋下一派は、「民主主義の本性は忖度政治≠ノある、いい忖度と、悪い忖度がある、安倍は森友学園事件では、いい忖度をしただけだ」と開き直れと、安倍にご親切にも助言する、しかし安倍は、「忖度した」などといえば、国有地の8億円もの値引きの責任が自分に跳ね返ってきて、政権を投げ出すことになるのを恐れるから、一切無関係という立場にしがみつく。

 そして安倍一派は、そもそも悪いのは、森友学園側の私学校開設の認可基準を緩和し――この問題では、森友学園だけの――、籠池の要望を受け入れて、開設を認めた橋下や松井が悪いと、維新への責任転嫁に走るのである(これには、松井らは、安倍政権や安倍の意を受けた財務省の圧力があったから、それに応じただけだと反撃しているが、そんな反撃は両者の「共謀」した犯罪をさらに確証するだけであるということに、愚かな彼らは気が付かない)。

まさに狐と狸か、大狸と小狸かは知らないが、二つの権力犯罪者集団の化かし合いや責任転嫁の醜い争い、権力保持と延命のあがきである。国家主義派、愛国#hの――今では、ファシスト派≠ニさえ呼びたくなるような――あさましさと人間性のレベルを暴露している。

 今や安倍一派や橋下一派が、籠池の告発や非難攻撃のために言っていること、やっていること――偽証罪だ、補助金の不正受給だ、ありもしないことを言いはやしている、真実を隠し、ごまかそうとしている、実際の証拠を出せ等々――は、全て自らにブーメランのように返ってくるようなことばかりである。

 もし籠池の経営ややり方がえげつなくて、犯罪に値するというなら、そんなことを長年許してきた安倍政権(安倍一派)や、財務省や大阪府の責任が、「監督責任」こそが問われなくてはならず、籠池を犯罪者として罰することで幕引きを図っていいことではない。

 籠池のやったことはすべて、籠池の罪である以上、安倍一派や橋下一派の罪である。むしろ彼らの籠池批判は矮小な、二義的なことばかりなのに、彼らのごまかし、隠していることは、森友学園疑獄問題の真相を明らかにする上で、本質的で、根本的なことばかりである。

 8億円もの国有地の値引きが突然可能になったことや、籠池が3種類の金額の違った工事請負契約書を作って、補助金を詐取したとかいったことは、籠池に罪がある以上に、安倍や橋下といった権力者やその息のかかったようなエリート官僚等々が策動した結果であって、そんなことを許し、あるいは実行した安倍一派や橋下一派こそがまず糺弾され、罰せられなくてはならないことは明らかである。権力犯罪集団の本末転倒の言い抜けやごまかしを許してはならない。

 安倍は――ついでに、橋下一派も――、もはや退陣する以外の、どんな道も残されていない。

   

はげ落ちる小池幻想
猪瀬、舛添から続くポピュリズム


 小池は築地市場の豊洲移転に関して、その経過の怪しげな点を暴き立て、そこへの石原の関与を明らかにして点数を稼ぐことをねらい目にし、石原を針のむしろに座らせることに成功したが、しかし肝心の市場移転の問題ではますますジレンマに陥っている。

 そもそも彼女は豊洲移転問題の疑惑問題を暴き、その問題の解決≠長引かせ、その移転問題を争点に都議選挙を闘って勝利しようと打算していたのだが、豊洲移転が、小池の思惑に反して、大勢として動き始めており、それに強引に逆らうことが困難になってきて、市場移転を争点にしては有利に闘い得ないことが明らかになってきたのである。

 「豊洲の安全は担保されても、その安心は担保され得ない」といったへ理屈による、小池の引き延ばし作戦は業者たちを満足させるものではなく、また移転延期による巨額の無駄な費用も都民の反発を招きかねないのである。

 築地でも地下から有害物質が検出されてまずいことになり、築地ではコンクリートがあるから安全だといってみても、しかし豊洲もまたコンクリートがあるのだから同様であるといわれてひと言も反論できなくなっている。豊洲の有害物質をはやし立てて、移転を引き延ばす理由はない、ダブルスタンダードだという、自民党などの批判に反撃することも危うくなってきた。

 かくして築地からの移転を遅らせ、移転問題を争点≠ニして自民党と対決し、都議選に勝利するという小池戦略に狂いが出てきたのである。

 小池は急きょ、新たな盟友の公明党を利用し、豊洲移転を明確化して苦境を乗り越えようとしているかであるが、すでに権謀術数の手法に頼るだけの小池都政の化けの皮がはがれ落ちつつあり、彼女が石原の後を継いで、猪瀬、舛添らのポピュリズム都政の悪しき伝統を受け継ぎ、したがってまた先輩らと同様に、たちまち没落する運命に足を踏みいれつつあるかである。

   

【飛耳長目】

★厚生労働省によれば、昨年発生した特別養護老人ホームなどの介護施設で発覚した、2015年度の、職員による高齢者への虐待≠ヘ408件だったという。被害者は778人で、一人が亡くなっている。神奈川県の施設における、若い職員による、入居者への大量殺人の記憶も新しい★虐待の要因は、認知症への理解不足といった「教育・知識・介護技術などに関する問題」が三分の二ほどで、それについで、職員側のストレスや「感情コンロールの問題」が多かった。介護による職員の肉体的、精神的な負担がなまじっかなものでないことがうかがわれる★虐待≠ニいった事実の責任を、単純に賃金労働者でしかない、介護職員に帰することができないのは、親族間の介護でも、いくらでも虐待や思い余った殺人や、老夫婦の心中などが頻発している事からも明らかである。きれい事で済む問題でない★介護問題の社会的な解決を謳いながら出発した今の制度は、結局カネで解決するということに帰着し、困難はすべて、貧しい被介護者と、介護労働にしか生活のかてを見出せなかった労働者にしわ寄せされている★真の解決は、何でもカネで解決しようとするやり方が一掃され、介護の課題が社会成員全ての共同の、自由意思によるサービス♀動として自覚され、実現され、介護される者も、介護する者も共にハッピーになる時にのみ訪れるだろう。(鵬)

   
   

【主張】

安倍政権に犬馬の労
共産党と天皇の生前退位

 共産党は天皇の生前退位問題で、安倍政権に全面的に協力し、自民からおほめと激励にも似た言葉を頂戴したが、自らの日和見主義の矛盾や混乱を正当化するために、手の込んだ詭弁とごまかしを並べている。

 共産党は今月13日、全ての10政党が集まった、個別の意見聴取の場所で、小池晃や穀田恵二らは、「共産党の意見」なるものを提出した。

 その「意見」は生前退位の「立法の根底に、憲法を据える」べきだと強調するが、そもそもこの問題は、天皇の見解の公表から始まった、つまり天皇の憲法違反から始まったのである。

 そしてまた、憲法と皇室典範を無視した、「特別法」による生前退位法こそ明瞭な憲法違反であり、違憲立法ではないのか。

 共産党は自らの立場の矛盾をごまかすために、憲法には「個人の尊厳」が、「日本国憲法の根本原理」だから、その原理を天皇にも適用し、生前退位を認めるのは人道的であり、天皇が憲法に定められた天皇の仕事を高齢で担えないというなら、やり方は何であれ、とにかく早急に決めるべきだと主張し、民進党をさておいて――野党共闘はどこへやら――、押っ取り刀で安倍政権協力に馳せ参じた。

 しかし現行憲法には、「個人の尊重」という概念はあっても、「個人の尊厳」という言葉は盛り込まれていないのである。マッカーサー原案の英語では仮にdignity――共産党はあえて「尊重」ではなく「尊厳」という言葉にこだわるから、そうかもしれないと推測するだけだが――であり、それを日本側が急いで翻訳するときに「個人の尊重」としたのだから、本来は「個人の尊厳」なのだ、それでいいのだと共産党の諸君が主張するのかしないのかは知らないが、「尊厳」と「尊重」は少なくとも日本語では同じ概念を表現する言葉ではない。

 もし現行憲法が非人間的で、「個人の尊厳」を犯すものだと、共産党が天皇のために人間的な%ッ情の観念を抱くなら、共産党は一貫するためには、天皇が天皇でなくなることを、つまり天皇制の廃絶を願い、あるいは勝ち取るために奮闘すべきであって、天皇が天皇の地位に止まりつつ、それを望むのは空想的であるばかりか、天皇制の存続を前提に議論する限り、極端な日和見主義であり、欺瞞である。

 もし共産党が原則として天皇制を否定し、それと闘う必要を承認するなら、彼らは現行憲法の限界や矛盾――民主主義的立場からさえもの限界や矛盾――を確認し、憲法に批判的立場を取るべきであろう。

 彼らはそもそも、結党以来、何十年を越えるような長い期間、懸命に天皇制に反対し、その打倒と一掃を訴え続けてきたのである。

 彼らは過去の天皇制反対の闘争のために弾圧され、明治の幸徳秋水や昭和の小林多喜二のように、命さえ失った、多くの労働者や活動家に対して、どんな弁明をし、どんな顔向けができるのか、まさに現在の共産党は、それらの人々を根底から裏切っていないのか。

 まさに現在の共産党のやっていることは、かつての闘った戦士たちに対する裏切りであり、忘恩の行為である。共産党は今や、安倍政権と天皇制問題で共闘するまでになった、悪臭紛々の腐肉のような存在である。

 戦前の天皇制と、戦後の象徴%V皇制は違うなどといっても通用しない、というのは、今や安倍政権は、ブルジョアたちと反動派は、自らの権力を維持し、永続させるために、ここを先途と天皇制の利用に走りはじめているからである。

   

ますます経文に
安倍の「働き方改革実行計画」

 政府は3月28日、「働き方改革実行計画」といった、こけおどしの、空々しい文書を発表した。ほとんど内容のないものだが、その中でいくらかでも労働者の関心を呼びそうなものは、同一労働同一賃金の実現や長時間労働の規制に乗り出すといったことである。しかしそんなものにさえ、労働者の労働条件や賃金水準の改善や、労働者の中に広汎に、深く浸透した差別の解消につながるような現実的、実際的な内容や契機を見出すことは全くできない。

 まず鳴り物入りで掲げられている同一労働同一賃金の実現だが、同一労働の「基準」を何に、どこに置くかで、何一つ、確かで、客観的なことについて語っていないし、語ることができないのだから、せいぜい良くて現状維持以上に出られないことは最初から明らかである。

 経営者や個別資本家や安倍政権が、そしてそれらの肩を持つ以外能力のない学者や知識人らが言いはやすことは、雑多で、一貫しないおしゃべりでしかない。

工程表≠ツまり実行計画に書かれていることは、同一労働同一賃金とは「仕事ぶりや能力」に基づく賃金だとして、「同一労働同一賃金実現に向けては、各企業が非正規労働者を含む労使の話し合いによって、職務や能力などの内容の明確化とそれに基づく公正な評価を推進し、それにのっとった賃金体制など処遇体制全体を可能な限り速やかに構築していくことが望まれる」といった、いかようにも取れる、曖昧な言葉だけである。

 またそこには、「基本給は、実体に違いがなければ同一の、違いがあれば違いに応じた支給を求める」といった、一体どんな実質的な内容や意味があるのかも分からないような、空疎で、無意味なことばかりが書かれている。

 こんな「工程表」によっては、労働者が要求し、期待する「同一労働同一賃金」の万分の一も実現しないことだけは確言できる。

 政府は昨年の11月に「同一労働」の観念らしきものを発表したが、結局何を言っているのかわからない、いい加減で、無概念で、ちまたで振りまかれている、あれこれの俗説を折衷したようなものでしかなかった。

 基本給について「同一労働」は何かということについて3つの基準があると言い、一つは労働の経験、能力、二つは業績、成果、三つは勤続年数、だと羅列している。

 要するに、そこでいわれているのは、職務給とか、能率給、年功給など色々な賃金体系がある、そんなものの「基準」を並べただけのもので、結局のところは、何の概念もなければ、何の意味もないような官僚の作文である。

 政府がこんな有様だから、実際、資本の意思を代表する経営者たちやブルジョアたちは、賃金基準には会社への「貢献度」まであるし、なくてはならないなどと手前勝手なことを言いはやし、いくらでも恣意的で、主観的な基準を並べ立て、賃金の大きな格差や不公正を、非正規労働者への過度搾取をごまかし、そんな現実を正当化し、永続化させようとするのであり、安んじてし続けることができるのである。

 こうしたことは全て、安倍の「労働の働き方改革」といったことは、必然的に、空文句としてのみ存在し、また終わるしかないことを教えている。

 労働者は、同一労働同一賃金の「基準」は存在するし、またそれは客観的なものであるし、そうでなくてはならないと主張する。つまりそれは労働時間であり、それ以外ではないし、あり得ない。

 生産的労働者の労働はもちろん一面では個々人と社会の消費対象――生産的消費であるか、個人的消費であるかを問わず――を生産する労働(使用価値を生産する有用的労働)であるとともに、商品の「価値」(対象化され、商品に含まれる人間の労働、ただ大きさもしくは長さ=労働時間によってのみ区別されるだけの、社会的に支出された抽象的な労働)である。

 従って、それに基づいて分配を受ける場合の労働を「評価する」唯一の、客観的基準となり得るのは労働時間であり、それだけである。

 同一の職場の同一の労働だけが同一の支払いを受け取る権利があるだけではなく、全ての職場の労働が抽象的な人間労働、単なる労働の支出として、労働時間を基準にして、質的に同一で量的にのみ異なる同一労働として評価されるなら、賃金もまた同一でなくてはならないということになるし、ならざるを得ない。「職務給」は、こうした「基準」を歪んだ、無概念的な形で反映しているのである、もちろん単に反映しているだけではあるが。

 もちろん、労働時間が同一労働同一賃金の「基準」として押し出され、差別粉砕の闘いの出発点とならなくてはならないというのは、ブルジョアや安倍一派らの反動の心悪しき策動と闘い、労働者の現実的な闘いを前進させるためではあるが、同時に、こうした概念の限界をもまた、我々は確認しておかなくてはならない。

 その第一のものは、こうした概念が適切で正当なものとして適用され得るのは、モノを作る産業労働、生産的労働に対してであって、例えばサービス労働や不生産的労働に対してではない、ということである。

 後者の労働は商品の価値として対象化≠ウれ得ないものであり、したがってまたその限り客観的な「基準」に適応しないのであり、また適応するにしても、生産的労働に準じて、あるいはそれにさらに規定されてであるにすぎないからである。

 ましてブルジョアのための、資本の剰余価値のための管理労働%凵Xが、つまり彼等の言葉によれば、「資本への貢献度」等々が、正当で、客観性のある「基準」となり得ないことも、最初から明らかであろう。

 資本のために働く経営者等々が、年間数千万や数億の報酬を得る事実が、労働時間を「基準」にして説明され得るといったことは間違ってもないし、あり得ない。

 そしてもう一つ重要なことは、労働者の受け取る賃金は、労働者の直接に自らの消費のために支出した労働の対価ではないという、このブルジョア社会の根底にかかわる事実である。

 労賃は、労働者の労働力(その「使用価値」が、労働者の支出する労働の全てであるが、労働者はその全てに対して対価≠受け取るわけではない、というのは、その一部は「剰余労働」としてブルジョアに搾取されるからである)の対価であって、それは労働者の生活と生存(世代交代も含めた)を保障する「必要労働」に限定されるからである。

 例えば労働者が8時間労働したとしても、労働者の賃金相当分の労働時間は4時間等々に限られ、残りの4時間は剰余価値としてブルジョアに搾取され、彼等の利潤を形成する等々。

 同一労働同一賃金の法則を規定する「基準」が労働時間と言うべきだとしても、こうした問題もまた、根本的であって、それは同一労働同一賃金の理論の決定的な限界を教えており、「労働に相応した分配」を言うためには、我々はブルジョア的生産様式を、したがってまたその分配法則を止揚した、新しい共同体的生産様式に移って行くしかない。

 だから同一労働同一賃金の原則は労働時間以外ないとしても、それは労働者にとっては、全ての労働者が平等の条件で資本によって搾取されると言うことを意味するのである、平たく言えば、共産党のように非正規労働者をなくして――みんな正規労働者に格上げして――済むということでしかない。

 そんなことが仮に可能であるとしても、それは労働に対する資本の止揚を意味しないで、賃金奴隷としての、労働者の地位はそのままであり、労働者に対する搾取が依然として継続するということ、そしてそれが貫徹するならまた、労働者に対する差別や長時間労働等々もまた克服され得ないで復活、存続し、強化されさえするということである。

 同一労働同一賃金を求める闘いは、労働者とりわけ差別に苦しむ女性労働者――非正規労働者の7割は女性であり、そして今ではその多くは単なる主婦層の気軽な労働とか、学生のアルバイト等々ではなく、ますます一家の柱として世帯を支える労働の担い手である――の切実で、切迫した闘いとして重要である、しかしその要求と闘いは最終的には、「労働の解放」として、つまり搾取の廃絶を求める闘いとして、したがってまた分配が労働する人々の労働時間に対応した形を取るまで深められ、貫徹されなくてはならないのである、さもなければ、その闘いは頽廃し、ブルジョアたちや安倍政権に利用されるものに堕すしかないのである。

 最後に長時間労働の規制についてみれば、安倍のたっての要求に榊原が折れて、月残業時間の限度が、100時間からありがたくも「100時間未満」に変わったことを報告するだけで、それが悪名高い「36(さぶろく)協定」――長時間労働を規制したというより、それを正当化し、促したと総括された――と五十歩百歩の改革でしかないことを暴露しているというだけで十分であろう。

   
   

再稼働される高浜原発

国と東電に原発事故責任問われる時に

 この3月、原発問題で二つの異なった動きがあった。

 一つは、原発事故は回避できなかったかどうかを問う裁判で、始めて、回避は可能であり、事故の責任は上げて原発資本に、東電にあるという判決が前橋地裁から下されたことである。

 そしてもう一つは、そんな判決が下される中、大阪高裁は、関西電力の高浜原発の再稼働を容認する決定を行った。

 しかし何か相反し、全く無関係に見える二つの判決は、まさに同一の真実の、異なった二つの表れである。

 その同一の真実とは、原発事故を電力資本による社会的犯罪として告発しないで、核エネルギーそのものの原罪と決めつけ、抽象的に原発に反対してきた、反原発派の闘いの挫折という現実である。

 我々は原発事故の最初のときから、この事故の責任は資本にこそあると明確に語り、原発事故はとりもなおさず、核エネルギーの資本家的利用の結果であると明確に資本を告発し、それとの闘いを訴えた。

 いまやその真実が一方では、前橋地裁の判決として明確に示され、他方では、資本との闘いが抜け落ちて今や安倍政権も原発資本も何の根本的反省もなく、原発事業に復帰し、原発再開でも、あるいはその輸出でも何でやり放題というわけである。


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