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マルクス主義同志会機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1303号 2017年6月11日
【一面トップ】象徴天皇制≠フ再編成――はびこった憲法違反≠フ言動
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】「王様は裸だ」――成立した生前退位の特別法
【二面トップ】加計学園問題と「国家特区」――「岩盤規制」破壊の幻想破綻の末に

※『海つばめ』PDF版見本

象徴天皇制≠フ再編成
はびこった憲法違反≠フ言動

 1867年の明治維新つまり「王政復古」という時代錯誤の幻想と共に始まった、日本資本主義のスタートの時代以降、初めての天皇の「生前退位」が実現したと、ブルジョア世論は大騒ぎし、浮かれている。しかし労働者、勤労者にとっては、そんなことは本質的に、どうでもいいこと、無関係のことである。天皇制は単に時代遅れの遺物であるだけではない、20世紀前半、ブルジョア支配階級や、ファシズムにかぶれ、侵略の野望に燃える軍部が利用し、国民の全体を帝国主義戦争、侵略戦争に駆り立てることに決定的な役割を果たすことで、遅くとも1945年に一掃されるべき、反動的で、有害な社会的存在であることをすでに明らかにした制度、この現在の民主主義≠建前にする社会におけるガン細胞、民主主義≠フ原理に敵対する差別制度、それを食い荒らし、空洞化させ、解体に導く悪性腫瘍の一つでしかない。天皇一家や安倍政権は、「生前退位」といった小手先の細工によって、すでに時代錯誤となり、ますます滅び行くしかない天皇制を維持し、延命させようとするが、労働者、勤労者はそんな策動に断固として反対する。

 生前退位の策動が実現したが、それはただ憲法違反≠フ言動が横行し、法治主義≠フ原則がないがしろにされる中で大急ぎで強行されたのであって、将来の災いのもとを一つ新しく植え付け、付け加えた以上の、どんな意義も持たない。

 天皇明仁は昨年9月、事実上、天皇の「生前退位」という、憲法に規定された天皇制の修正を主張したのだが、それが、天皇は憲法によって明確に規定され、ただ憲法の定める「国事行為」のみ許されるとしているのに公然とそむいた二つの政治的言動であることは明らかであった。

 というのは、天皇制≠フ修正が優れて政治的課題であることは自明のことだからである。

 だから安倍政権は、そんな発言は天皇には許されていないと言って済ますこともできたのだが――事実、天皇制擁護の反動の中からさえ、天皇の発言を危ぶみ、反対する連中も出た――、それを森友学園問題や加計学園問題から関心をそらせ、政権への求心力を取りもどす、絶好の国民的♂ロ題として利用しようと策動したのであった。

 もちろん、明仁の言うことは、ただ天皇制の安定と生き残りのためであって、「国民」――一体、どの「国民」のことか――でないことは、天皇の務めが大変でできないというなら、それをいくらでも減らすこともできるのであって、「生前退位」など持ち出す必要はなかったのである。

 明仁らが強調する「象徴天皇の務め」には、明仁らが勝手に始め、膨らませてきた「公的行為」が含まれているのだが、それらを一切止めて、憲法によって許されている「国事行為」に限定すれば、「生前退位」がなくても、高齢になったから天皇の役割が演じられないということはないのであって、それは大正天皇や昭和天皇の晩年の経験からも容易に確認できることである。またそれを可能にする摂政%凵Xの制度も存在する。

 憲法では天皇に許されていない「公的行為」あるいは「公的任務」といったものは、明仁の代になって急激に膨張してきた、被災地への訪問とか、激戦地の戦没者∴ヤ霊とか、かつて日本が侵略したアジア諸国への親善とか、沖縄へのご訪問≠ニか、あれこれあまたあるが、それらは象徴天皇を象徴天皇とするために必要だと明仁は考え、実践するのだが、単なる思い違いか、増長慢でしかない。

 そもそもそんなものが何のために必要か。

 天皇が象徴天皇であるためには、天皇が「国民と共にある」べきである、あるいは「国民と共にある」存在性を明らかにする必要があるからだそうだが、そんなことは明仁には問題かもしれないが、労働者、勤労者にとってはどうでもいいことである。

 「国事行為」以外の言動が天皇に許されないのは、それらが容易に「政治的」言動になるから、なり得るからであって、明仁は無責任に、そんな言動をやっていいはずもない。

 例えば激戦地にいって、戦没者≠「慰霊する」言動は、果たしてすぐれて「政治的」言動ではないのか。

 戦没者≠ネどと言って、単なる死者であるかにいうが、天皇や軍部が一緒になって行った侵略戦争、帝国主義戦争の死者であり、自分たちの全く関係のないそんな戦争にかり出され、殺し合いを強要された労働者や農民の若者である。

 こうした戦争が正しい戦争であったか、それとも許し難い戦争であったかで、二つの見方が今なお決着が付かないで存在している。

 安倍一派や国家主義派の反動派は、15年戦争はブルジョアや軍部や天皇ら支配勢力の利益のための、彼等の戦争であるという敗戦後の一般的な反省や総括に反対し、15年戦争の正当性を擁護し、歴史の修正や「見直し」を主張して来た。

 明仁らは、激戦地≠ノ出かけ、そこで命を落とした労働者、勤労者を「慰霊」するというが、「どのツラ下げて」そんなことができるのか。15年戦争や多くの労働者、勤労者の死に、「軍部と共に」責任を負うべき、天皇一家のやっていいことか。彼等を単なる死者として慰霊するということは、自らの責任を回避し、安倍一派らの国家主義者と共に、その反動戦争を正当化することではないのか。

 こうした明仁らの言動はすぐれて「政治的な」ものである、というのは、それは安倍一派と一緒になって、15年戦争を美化し、またそれとともに自分たちを正当化することだからである。

 そもそも明仁のいう、自分たちは「国民と共にある」という観念自体が幻想である。

 昭和天皇さえ、「国民と共に」15年の反動戦争を戦ったと強弁できるのだが、しかし実際には、彼が労働者、勤労者と共にではなく、「軍部と共に」あったこと、だからこそ、15年戦争に責任のある日本指導者の筆頭として、戦争犯罪人として告発される寸前にあったことも(マッカーサーの浅慮や思い違いによって救われたが)、すでに一つの歴史的真実である。

 今回の生前退位の問題でも、明仁が「国民のために」ではなく、徹頭徹尾、天皇制の安定≠ニ延命のために、つまり皇室の利益のために、憲法など何のその、それを無視して奮闘したことは明らかである。

 そしてまた、安倍もまた自らの権力の維持と延命のために、天皇の意思を利用して奔走したのであって、天皇と同様に、憲法や皇室典範などどうでもよかったのである、つまり彼等は自分たちの利益が問題になるなら、法治主義≠ニいう、ブルジョア社会の秩序≠フ根底さえも軽視し、自ら解体して止まないのだが、そうした趨勢の行き着く先がファシズム勢力の狂暴な独裁体制であることは、すでに20世紀の資本主義の歴史が十分に証明している。

 安倍もまた、憲法も法治主義もどうでもいいかに振る舞い、安倍政権の利益と延命のために策動したのだが、まさにそれこそ、特別法による生前退位の承認という茶番であった。

 明仁の願望が生前退位の制度的確立であったことは明白であり、またそれは「国民世論」の多数派のものでもあった(ついでに言えば、天皇制の安定や延命のためには、女性天皇を承認することが最短の道だが、明仁も安倍もそれを認めることができず、自ら「皇統」が絶える道を選ぶのだが、それは彼等の自業自得であって、我々の預かり知らぬことである)。

 安倍は皇室典範に手を付けることが、それがどんなものであれ、天皇制の解体に道を開くことを回避したい原理主義派の天皇制主義者の反発を呼ぶことを恐れ、便宜的な特別法のやり方を選び、それこそが恣意的な、あるいは強制的な天皇の生前退位を回避できると強弁したが、しかし安倍政権が今回やったことは、安倍政権の思惑や利益に沿った、まさに恣意的≠ナあり、また強制的≠ナもある天皇の生前退位ではなかったか。

 つまりこの事実は、特別法による生前退位こそ、将来ますます天皇制の政治利用に道を開くものであることを教えている。特別法が天皇制の政治利用を防ぎ、皇室典範の改定による生前退位の方が危険だというのは、安倍や菅のご都合主義的詭弁であって、彼等の自己正当化のために白を黒とすり替えて平然としている、卑しい根性を暴露するのである。

 菅は盛んに、特別法が「将来の先例になる」というが、勝手気ままに特別法で天皇の生前退位を決めるということが「先例」になるということ、それは菅や安倍が今回やったように、天皇制の悪用が「先例」になるということ以外ではないことに気がつかない、あるいは気がつかない振りをして詭弁を弄するのである。

 共産党は憲法順守を建前としながら、特別法といった、憲法違反の邪道に賛成したが、この憲法幻想に生きるしか能のない無様な政党は、憲法を「丸ごと擁護」すると壮語した手前、身動きのできない政治的立場に自らを追い詰めている。

 共産党の小池は、安倍政権の特別法に賛成しつつも、特別法が天皇の「お気持ち」について触れていることは、天皇の政治的言動を禁じている憲法に違反することになり、よくないと難癖を付けたが、それは問題の本質をそらし、特別法に賛成して「国民的合意」の虚構に手を貸した犯罪的裏切りを労働者、勤労者から隠そうとするためでしかなかった。

 国会の代表質問で、自民党や公明党はもちろん民進党までもが、最後に「皇室の弥栄(いやさか)を願ってやまない」といった言葉で自分の発言を終えたが、許し難いことであろう。

 我々は1945年8月まで、皇室のいやさか≠フために、日本人だけでも何百万の人々が、無意味に命を犠牲にしなくてはならなかった悲劇を見てきた。

 だから、そんな時代の許し難い言葉が今また、無反省に国会の中で繰り返されるのを見ると、その意味する恐ろしさに戦慄する。

 我々は、皇室に「いやさか」と言祝いでいるとき、国民は天皇制の下、圧政と戦争と絶望に苦しみ、のたうち回っていた時代があったのである。そしてそんな時代をまた呼び戻そうとして「国民的合意」を演出した、すべての腐敗政党を糾弾し、そんな国会に風穴を開けるべく労働者党の本当の代表を送り込む必要性を訴え、そのために闘うように呼びかける。

   

【飛耳長目】

★金融緩和政策に行き詰まった安倍政権が、今度は財政膨張政策に先祖返りし、経済成長を追求するという。国家財政が借金の重さで破産するから財政政策はダメだ、金融緩和なら前途洋々だと国民をだましてきた4年半はどうしてくれるのか★財政膨張に走るため、国家債務をいくらかでも少なく見せかけることが必要とばかり、財政目標に新指標を採用するという。これまでの基礎的財収支の均衡に代えて、「債務残高GDP比」でやるというのだ。前の方式では2020年にその挫折が明らかになるが、新方式だと見通しの失敗をごまかせるのに加えて、経済成長でGDPが増えていけば、債務が膨張しても問題になることは少ないという思惑である★かつて安倍は500兆円のGDPを100兆円増やすと豪語したが、それから数年たっても一向に増える気配はない。昨年の暮に一気に30兆円増えたと大騒ぎしたが、しかしそれはGDPの計算の仕方を「国際基準」に切り替えた結果、それまでGDPに算入してこなかった企業の研究開発費を「投資」に入れたからだという★そんな計算の仕方によるGDPの増加が単なる水ぶくれであって、100兆円の目標に近づいた云々はまるで人をバカにした話だ。経済の好転の全てが仮象の話だとするなら、そしてその陰で経済の衰退や破綻が進み、悪化しているとするなら、それが表面化するときが恐ろしい。(鵬)

   

   

【主張】

「王様は裸だ」
成立した生前退位の特別法

 明仁の生前退位法が参院でも可決され、成立した。

 天皇の意思でも国民多数の意思でもない特別法が出席政党と議員の全体によって、「国民的総意」の装いのもとに成立したことは、天皇制の神聖化、絶対化に大きな一歩が記されたということで、今後政治の反動化と相まって、働く者の政治的、経済的闘いの上に重くのしかかってくるだろう。

 とりわけ特別法は憲法違反であると主張しつつも、それに賛成した共産党の裏切りは重大である。

 共産党は現行憲法を歴史的上部構造の一つとしてでなく、何か絶対物として「全体として」擁護すると主張し、その結果、これまで反対し、誰よりも敵対視してきた天皇制もまた擁護するというのである。

 自民党は調子に乗って、再開された衆院憲法審議会では、天皇の元首化や天皇の公的行為≠憲法に挿入し、それを天皇家の私事から公務に格上げせよとわめいている。天皇制を神聖化、タブー化し、それをテコに、働く者支配を強化しようと策動するのである。

 そもそも天皇の生前退位云々は、天皇の人権尊重の視点から認めるべきだといった次元の問題ではない。

 もし天皇の「人権」尊重をいうなら、天皇制を廃止すればいいだけのことであって、その根本を棚上げして、天皇の「人権」を云々するのは愚劣であり、間違いである。天皇の人権喪失は特権者のそれであって、同情に値するものではない。

 天皇が高齢で自分の責務を果たせないというなら、大きな比重を占める「公的行為」――ただ皇室の延命のためにのみ行われている、天皇一家のいわば私事=\―をまず止め、憲法がそれ「のみ」を行うべきと明瞭に規定している「国事行為」に、自らの活動を縮小してから言うべきである。

 天皇と皇室は、1945年まで、15年にもわたる帝国主義戦争の先頭に一貫して立ち、それに国民を動員し、駆り立てるために巨大な役割――戦争犯罪人としての役割――を果たし続けたのである。

 そんな天皇一家は今、自分たちの寄生的地位や特権が日々脅かされることを感じるのであり、まさにそれゆえに、天皇制のありもしない存在意義を明らかにすべく、偽りの公的行為≠ノあくせくするのである。

 そして明仁らのそんな策動は、安倍によって、政権の強化延命のために利用されたのである。持ちつ、持たれつというわけである。

 天皇らは盛んに「国民と共に」というが、それはブルジョアたちと共にということであって、働く者と共にでないのは、彼等の生活が働く者の犠牲と負担の上にのみ存在していることからも明らかである。何か、天皇が国民のために祈っているとか、それはありがたいことだなどといわれているが幻想であって、天皇が祈れば働く者の生活の困難がほんのわずかでも軽減され、縮小されるといったことはないし、あり得ない。

 天皇の生前退位を保障する特別法は、憲法違反であるばかりでなく、天皇制延命の策動の一環であって、徹底的に反動的である。

 問題は、働く者にとって癌腫の一つとなっている天皇制の廃絶を勝ち取ることであって、生前退位等々によってその延命を策すことではない。 

 天皇制をどんな形であれ働く者に押しつけることは、資本の支配を働く者の上に立つ絶対的な′威や権力を押しつけること、そして働く者の人格や権利や闘いや存在まで制限し、否定していくことと同じである。

 日本の天皇もまた、その本性を見抜くなら、「裸の王様」でしかないのである。

   

加計学園問題と「国家特区」
「岩盤規制」破壊の幻想破綻の末に

 安倍は加計学園への利権供与の問題で追い詰められて、加計学園問題の本質は、「岩盤規制にどのように穴を開けていくかということだ」と国会で開き直ったが、しかしもちろん加計学園利権供与の問題は、基本的に、安倍の金看板の一つであった「規制緩和」等々とは全く無関係であって、加計学園獣医学部新設によって、どんな規制緩和による「岩盤規制」の粉砕といったことなどなかったし、あり得なかった。実際には、むしろ新たな「岩盤」が、安倍の私的な利権構造という強固な「岩盤」が生まれ、はびこることに帰着しただけである。我々は安倍の「国家特区」の試みを点検することによって、アベノミクスの破綻の一例を、それが結局は、安倍個人の卑小で、ちんけな利権騒ぎ行き着いた必然性を明らかにしなくてはならない。加計学園は、国家主義者の安倍の人間的矮小さを、権力を私物化する貧相な本性を、道徳性の欠如を暴露する汚職の一種であり、増長慢や思い上がりから来る、ありきたりの権力犯罪の一つである。舛添と同様、安倍もまた追放されなくてはならないことは自明である。

 我々は、安倍が加計学園に対する利権供与事件を正当化し、隠蔽しようとして、それは「岩盤規制」に風穴を開けようとした試みに過ぎないと強弁し始めた以上、彼の「国家特区」という政策の本当の性格と内容を明らかにし、アベノミクス破綻の一つの証拠として提出しなくてはならない。

 安倍は2012年暮の総選挙で勝利すると、経済成長政策の柱の一つとして、国家指定の「戦略特区」をテコとする規制緩和を主張し、翌13年12月、「国家戦略特区法」を成立させ、6つの「特区」を指定し、安倍政権主導によって、それらを活用した「岩盤規制」を破砕し、「経済成長」を実現すると豪語した。

 特区において、試験的に「規制緩和」を強行し、それが成功するなら全国展開に持って行こうという話である。

 安倍はこの特区の諮問会議の議長に就任し、自らのヘゲモニーも確保したが、しばらくしてご丁寧にも、そこから各省庁の大臣の関与を排除する決定まで行っている。要するに、安倍の個人的意図もごり押しできる体制を確保したのだが、こうした立場は加計学園への私的な介入のために大いに役立ったのである(森友学園問題も似たようなものであったが)。

 国家的な課題を背負った「特区」としては、当初は、東京圏、関西圏、沖縄県、新潟県、福岡市、そして山村地域の養父市の6つが指定されたが、2年半たった現在も、ほとんど成果を上げることができていない。

 一見して明らかなように、指定された地域も目的もやり方もてんでバラバラであり、しかも対象も課題も矮小であって、国民経済の全体にいくらかでも重要な影響を及ぼすような「計画」ではなかったからである。

 東京圏には東京の他に、神奈川や千葉県の成田市が含まれ、関西圏には大阪府、京都府、兵庫県が入り、さらに新潟県や福岡県が付け加えられるといった、大ざっぱな話、東京圏とか関西圏とか、府県といった広大な地域とともに、そんな巨大自治体と対等な資格で、高齢化、過疎化が進む1山村(養父市)が名を連ねるといった、ずさんで、バラバラで、軽率さだけが目立つようないい加減なものであった。

 2014年9月に、まず福岡市と養父市の「区域計画」が始めて承認されたが、養父市の計画の内容は、農地の転売を容易にするために、新しく「農業委員会」の権力を排除して「規制緩和」を行うといったもので、その目的は企業の農地所有を容易にすることであった。

 他方、福岡市は「グローバル創業・雇用創出地区」と大層な名前を付けられたが、その内容は、道路を占有して自由にイベントやオープンカフェを実施するといった、矮小で空虚なものであった。ベンチャー企業を引きつけようと、「解雇トラブル」を未然に防ぐための「相談窓口」を作るといったことも謳われたが、そんなものでベンチャー企業が集積されて「経済成長」につながるといったことは幻想に終わるしかなかった。

 東京圏では、国際ビジネスの拠点として、ビル規制の緩和とか、医療法の特例を利用して外国人の医療ツーリズムをやるとかいったことで、そんな課題で特区になれば、いくらかの補助金等々が国から出るといったこと以外、どんなメリットがあるかないかもわからないようなものが羅列されるだけであった。当然の結果として、そんな思いつき的な「特区」構想は大部分看板倒れに終わるしかなかった。

 「世界一ビジネスのしやすい都市を作る」と宣伝されたが、その内容は、労働者の解雇がより容易になる等々の「規制緩和」であって、そもそも今どきそんなことに魅力を感じて日本にやってくる外国企業はいないだろうし、そんな目的だけでやってくる外国企業にろくなものがないのは明らかであった。

 それ以前に、特区だけでそんな「規制緩和」をやろうという発想こそナンセンスであって、それがいいものだというなら、なぜ堂々と日本全体の政策としてやらないのか。「特区」だけでまず通用させ、それをテコに国内に波及させ、一般化させ得るというのだか、しかしそんな確かな保障や見通しなどほとんどなかったのである。当たるも八卦、当たらぬも八卦のような話であり、一種のバラまき政策を出るものではない。

 外国医師への「門戸を広く」解放するといったような規制緩和策も「追加」されたが、いかなる名医≠ェやって来たかは知らないが、そんなものが一体日本の労働者、勤労者のどんな利益になるというのか。

 そして「外国人労働者の受け入れ」も議論されたが、何とその内容は「家事代行」(いわゆるお手伝いさん)の女性の受け入れということだというのだから、その提案の貧弱さにはただ呆れるしかない。

 特区だけに、外国人の「家事代行」の女性の「導入」が認められるのか、一体何のためか。

 安倍政権はまた「特区」を「解雇自由」地域にしようと策動し、例えば「遅刻したら解雇する」という企業と労働者の契約も解禁、あるいは労働時間の長さを規制せず、残業代もゼロにする「規制緩和」を考えたが、さすがにそれを強行する度胸はなく、早々に放棄してしまった。

 国際的に太刀打ちできないような低生産性の農業改革についても、特区に指定された養父市の実験をテコに、規制緩和に風穴を開けるかにいわれてきたが、笑止千万であり、一つの空想もしくは欺瞞でしかない。

 問題になっているのは、農業への企業の「参入」であり、農地の流動化等々であるが、それが必要であり、農業の発展に資すると思うなら、特区などを設け、もったいぶって「岩盤規制の粉砕」などと空騒ぎして時間を浪費しないで、安倍政権の経済政策として真剣に検討し、早急に実行すればいいだけのことである。問題は国民経済の全体にかかわることであって、単に養父市にかかわることではない。

 むしろそんな「岩盤規制」の粉砕をしようとしないのは、農業保護主義に固執してきた自民党や安倍政権であって、大騒ぎされてきた特区養父(やぶ)市の「農業改革」とか、そこにおける「岩盤規制の粉砕」とかは、農業における「岩盤規制」を粉砕するドリルの役割を演じてきたのではなく、反対に、その断固たる実行を引き延ばし、安倍政権の怠慢や保護主義を隠し、中途半端なものにすりかえるごまかしのヤブ「改革」でしかなかったのである。

 要するに「特区」に入れる必然性もないようなものまでも、口実を付けて「特区」のなかに入れてみたり、労働者の利益を損なうような規制緩和を強行してみようとしたり、労働者、勤労者の全体に押し付け得ると幻想したり、一体何のためのものかも分からないような「特区」の試みが、加計学園事件に象徴されるように、安倍の個人的な利権騒ぎに、空虚で、矮小なスキャンダルに行き付いたことは一つの必然であった。

 1980年、中国の香港に隣接する深せんの地で始まった「特区」構想は、毛沢東流の農業共産主義≠フ幻想と最終的に決別し、日本を始めとする世界の大資本を呼び込み、資本主義の本格的な「導入」を図り、中国における国家資本主義の発展に道を開く壮大な試みであり、その延長線上にのみ、世界でも1、2を争うブルジョア大国の中国、そしてたちまち帝国主義大国としても出現している現在の中国があるといえるのだが、そんな歴史的に巨大な意義を持ち得た「特区」ならともかく、小泉や民主党や安倍らの「特区」といったものは、名前だけは仮に中国の試みの模倣であったとしても、その内容や歴史的意義についていえば、まるで矮小で、貧相で、ばかげている試み、愚劣で、反動的でさえある試みでしかない。

 そんなものは帝国主義段階に到達し、寄生化し、空洞化さえする日本の資本主義にとっては、時代錯誤で、矮小な茶番として終わったし、終わるしかないのである。

 「特区」は第2弾として、15年に「地方創生特区」の美名のもと、秋田県仙北市、仙台市、秋田県が、16年1月に第3弾として、広島県、今治市、千葉市、北九州市などが選ばれている。ここに始めて今治市が特区として指定され、安倍の加計学園への策動が本格化していくのである。

 労働者、勤労者は、今治市の「特区」入りが何のためであり、どんな意味を持っていたかを、今では完全に確認できるのである。緊急の必要性がないと判断された学校を、いま今治市――他のどの地域や場所でもなくそこにこそ――に何が何でも開設することが、日本の「経済成長」や「規制緩和」等々と何の関係もないことは一見して明らかである。

 「特区」の指定にまで安倍の個人的な利権が関係していたというなら、安倍のいう「経済成長」とは一体何であったかが問われるのであり、その真実が暴露されなくてはならないのである。

 安倍が加計学園の設立は、「経済成長」や「規制緩和」のため、「岩盤規制」を粉砕するためのドリルであって、安倍による利権供与や汚職の類ではない、そんなこととは無関係だと言いはやせばはやすほど、安倍の経済政策の本質が、そのいかがわしさやインチキ性が、つまりそれが「経済成長」や働く者のための政治ではなく、政権維持のための場当たりの方便であり、空騒ぎやはったりやバラまき等々でしかないことが暴露されるのである。

   

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