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労働の解放をめざす労働者党機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
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  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1322号 2018年3月10日
【一面トップ】労働者党と日和見主議党――「働き方改革法」と労働者の立場
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】黒田日銀よどこへ行く――「金融緩和政策に限界なし」か
【二面トップ】「不磨の大典」にあらず――問題は憲法の歴史的階級的性格

※『海つばめ』PDF版見本

労働者党と日和見主議党
「働き方改革法」と労働者の立場

 裁量労働制の「削除」を勝ち取った野党は、勢いに乗って〝高プロ〟法案もまた葬ると〝攻勢〟に出ている。立憲民主党の長妻は、「〝高プロ〟はスーパー裁量労働制。それ(裁量労働制)を撤回するのであれば、〝高プロ〟も撤回しないと話の筋がおかしい」と叫んでいる。共産党も同様である。しかし失礼ですが、「話の筋がおかしい」のは、長妻さんたちも同様ではないですか。

まず横着な「一括法」採択を拒否せよ

 問題は、働き方改革法が、色々な性格や意味をもつ諸法案を〝「ミソも糞も」一括して〟提案していることにあるのであって、我々はまず、労働者にとって改良である労基法の改定と、裁量労働制法案や〝高プロ〟法案を切り離して議論し、採択することを要求する。

 というのは、これまで事実上無制約であった労働時間に形だけでも規制の網がかけられること、あるいは同一労働同一賃金の原則が謳われること等々は、仮に緩い網が課せられるだけ、あるいはほとんど謳われるだけという、根本的な限界があるにせよ、改良は改良であるからであるが、他方、裁量労働制や〝高プロ〟法案は、あえて反対しなくてはならない法案とか、態度を明らかにする必要があるといった性格の法案では必ずしもないからである。

 裁量労働制はすでに一括法から削除されているから必要ないのだが、しかしやはり論じておくことにしよう。

裁量労働制の適用対象の「拡大」

 裁量労働制の「拡大」が問題になったのは、それが賃労働者──おおざっぱにいって、製造業労働者ではなくサービス労働者、ブルーカラーでなくホワイトカラー、生産的労働者ではなく不生産的労働者、その労働力(商品)が「(産業)資本と交換されるのでなくて、収入と交換される」労働者等々だが──の賃金や〝労働〟の仕方に関係してくる(企業の中枢にあって「企画」等々に加えて、「業務」等々にたずさわる者に拡大される云々)だったからである。

 裁量労働制についていえば、その適用範囲は昨年の数字で、総労働者のわずか1・6%、もう少し詳しく見ると、「専門業務型」で2・5%、「企画型」で1%に過ぎない。

 そして事実上の〝裁量労働〟というなら、その何倍も、あるいはそれ以上いるのであって、非正規労働者の多くや、公務員の広汎な層や、保険業、金融業の従事者、教師や勤務医、等々枚挙に遑(いとま)ないほどである。事実上の長時間労働に追い詰められる教師の自殺や、鬱病などの精神疾患を病む教師もいくらでもいるし、また若い勤務医や研修医の〝長時間労働〟もきつく、1昨年、新潟市民病院の37才の女性研修医の自殺が報道されたこともあった。

 最近問題になった例では、裁量労働制の拡大適用によって、不動産大企業で「リロケイション」の仕事──海外に出る人々の住宅を、第三者に貸す仕事を担当し、手数料もしくは仲介料を得る業務──を担当する社員等々に適用される。

 とはいえ彼らは生産的労働者と比べて、一般に、賃金も優遇され、優位な地位や立場にあり、そのことによって長時間労働もある意味で、そしてある程度、償われているのであるが。

 かくして我々は、「長時間労働」に対する闘いをもっと広い、全体的な立場から提起し、その徹底的な一掃を呼びかけたのである。それは単なる裁量労働制の「拡大」に反対するといった、狭い闘いの課題ではないし、あり得なかった。

 我々は例えば綱領でも、選挙闘争でも、それに対する立場を明らかにしてきたのであって、それに比べれば裁量労働制の拡大や〝高プロ〟法案に反対する、立憲民主党や共産党や市民派の闘いの何と矮小で、偽りに満ち満ちていることよ。

 この点では、神奈川11区選挙戦における我々の事実上の選挙綱領──選挙区の全戸に原則として配布された『選挙公報』──の冒頭部分を、是非参照されたい(『選挙本』18頁)。

〝高プロ〟法案の対象はブルジョア層

 他方、〝高プロ〟法案の適用は、高度な専門知識を有し、年収1075万以上の階層という適用要件が明示されているのであるが、これは裁量労働制とは異なる極めて重要な条件の一つであって、この法案が労働者とはかかわりのない法案であることを明らかにしている。適用対象者は、もともと労働時間規制の枠外にいるようなブルジョア層である。あるいはアナリストとかコンサルタント、為替ディラーといった具体例も示されている。

 つまり裁量労働制と比べて、はるかに明瞭にブルジョアたちや、そんな階級に属する連中の問題であって、労働者にとってどうでもいい話である。

 こうした連中や、彼らのあれこれの疎外について個人として同情するのはさておくとして、労働者の闘いの問題として取り上げるのはピント外れであって、まして一括法案にそれが含まれているということを、一括法案に賛成する、反対するという立場を決めるときの判断基準にすべきではないだろう。

 コトは、ブルジョア層にも疎外があり、苦悩があり、同情するし、しなくてはならないといった〝ヒューマニズム〟の問題でなく、階級的な立場と階級闘争の問題である。

 天皇制の中に囲い込まれ、「人格を否定されるようなことがあった」(何が何でも「男子」つまり後継ぎを生め、他のことはどうでもいいといった圧力であっただろうことは想像に難くない)という雅子に同情することがありえても、それと、天皇制を否定し、一掃することとは全く別問題である。

 雅子は仮に「人格を否定するようなことがあった」としても、皇室の一員として残るのだが、それは「人格」などいくらか尊重されなくても、皇室の一員としての存在に、誇りか名誉かうぬぼれか、ちやほやされる喜びか優越感か差別意識か特権意識か、あるいは重大な任務か──「公務」だ!──生き甲斐か、安楽や豊かさや余裕や平穏や安息や家族団らんか、全体としての幸福か、何かは知らないが、そんなものをたっぷり享受できるから、とにかく皇室が居心地がいいからであって、そんなものを捨てて、〝普通の〟国民と同じ立場や社会的地位に戻る気持はさらさら無いのであるが、それは、ブルジョアや金持ちたちが、自分の地位や環境の中で、仮に疎外や不幸を感じることがあっても、ブルジョアの地位や環境を否定し、そこを去り、あるいは捨てる連中がほとんどいないのと同様である。

〝高プロ〟法で疎外され、不幸を感じるブルジョア氏が仮にいたとして、だからといって〝高プロ〟法案のために、労働者にとっての改良まで犠牲にして大騒ぎしていいということには決してならないのである。

労働者党と共産党、立憲民主党

 長妻や志位は、まず何よりも「一括採択」といった横着なやり方に反対して、そんな邪道で、「筋がおかしい」やり方を許さず闘い抜くべきであり、また彼らが要求した改良──労働時間規制、同一労働同一賃金──を労働者のために勝ち取るべきではないのか。 

 社民党の又市は、安倍政権のやり口は汚い、饅頭(労働者にとっての改良法案)の中に「毒」──〝高プロ〟法案等々──を交ぜると非難するなら、饅頭と「毒」を切り離して、饅頭を食うようにすべきであって、彼らが労働者にとって猛〝毒〟と呼んでいるものと一緒に、饅頭までも犠牲にするのは、「産湯(うぶゆ)と共に赤子も捨てる」ような愚ではないのか、「筋のおかしい」話ではないのか。(まして〝高プロ〟法案など、労働者にとってほとんど無関係であるにおいてをや)。

 我々の中の議論で、リベラルや立憲民主党や共産党の理屈や〝闘い〟に共鳴し、追随して、「今どき1075万くらいの年収の労働者はざらにいる」などと強調した人もいたが、しかし国は昨年の労働者の平均年賃金は350万ほどであると発表している。〝高プロ〟の3分の1でしかない。

 月収が10万台の非正規労働者も何百万といて、平均賃金を下げている、正規の労働者なら数百万くらいだと仮にいえるにしても、それはブルジョアたちのいう〝中産階級の〟労働者であって──まともに、律儀に働くなら、今の資本主義のもとでも、〝中産階級〟と自認するような労働者がいて当然である──、問題はまず、それ以下のまずしい労働者や、差別されている非正規や女性労働者も何百万、何千万もいるのが資本主義の現実であり、我々はまずそうした労働者の党であって、現実に満足できるような〝労働者〟の党ではないし、あってはならないのである。

 1075万の限度は今後いくらでも引き下げられる可能性がある、誰それが800万円等々に下げると言っていたといって、その〝危険性〟を叫ぶ向きもあるが、しかし裁量労働制ならともかく、〝高プロ〟法──共産党などが「残業ゼロ」法案、「定額働かせ放題」法案と呼ぶもの──が、8時間労働制も残業も否定して、全体の労働者階級に適用されることになる──そこまで資本主義が逆戻りする──などと考えることは途方もないこと、非現実的な想定というしかない。労働者がそんなものを許容することなど、すでにあり得ない。

 賃金が「労働」(時間)によって規定されるという観念は資本主義とともに古いが、そこには賃金は「労働力」の対価としでなく「労働」の対価として現象する、資本主義の特性があるのであって──この現象の背後にある真理を、つまり「労働価値説」を明らかにしたのはマルクスの功績である──、賃金は最初から「労働時間」との関係として認識され、自然の──したがってブルジョア社会に適応した、しかし俗流主義的で、間違った──観念となったのである。

 最後に一言付言すれば、裁量労働制法や〝高プロ〟法といったちんけなもので「労働生産性」を高め、もってして米中などの、世界のブルジョアたちに抗し、競争戦に勝ち抜けるなどと思うなどは妄想であって、単に日本のブルジョアの頽廃と衰退を暴露するだけである。

 そんな矮小な観念に浸っているからこそ、彼らは没落するのであり、事実ますます米中を始めとする世界のブルジョアの後塵を拝するしかないのである。

   

【飛耳長目】

★世界に衝撃のニュースが飛び交った。南北朝鮮国家の間の会談で、金正恩が非核化でトランプと対話の用意があると発言したという。北による「国難」を扇動してきた安倍らはうろたえ、安倍の使い走り小僧の河野は、厳しい制裁の効果だと大急ぎで取り繕ったが、彼らの動揺は大きい★金正恩の意図は、最初から金王朝体制の保障だから、それ以外ならいくらでも妥協できるということだ。核兵器などいったん諦めても、ほとぼりが冷めれば持てるし、またトランプの〝友好国〟なら、イスラエルと同様、将来持てないこともない★安倍らは制裁だとわめいたが、それは自国の核は容認するが、他国の核はダメだといった、露骨な自国第一主義であって、北が──北の労働者、勤労者が──納得できるはずもない★日米の制裁目的が、核兵器廃棄でなく、自らの体制を北に強いるためのもの、金体制の〝民主化〟等々だったら、いくらかでも正当であり、北の労働者らにも訴えることができた★かつて中国が矮小な形であれ〝民主化〟や経済の〝自由化〟をなしえたとするなら、金正恩がそれをなし得ないということはない。そして〝民主化〟された北の核がイスラエルの核と同様に、トランプにとって〝危険〟と感じられないこともあり得る★トランプや安倍が北に制裁を課すなら、なぜ金体制の〝民主化〟でなく核廃絶だったのか。それが問題だ。(鵬)

   

【主張】

黒田日銀よどこへ行く
「金融緩和政策に限界なし」か

 日銀副総裁に予定されている若田部が5日、国会で「金融(緩和)政策に限界はない」と啖呵を切った。まだ金融緩和をやり足りないというのである。

 「金融政策」に限界があるのは周知のことであって、実際、若田部とともに日銀副総裁になる雨宮でさえ、「世の中の政策にはすべて限界がある」と国会議員の面々の前で、若田部をたしなめ、反論したほどである。

 若田部は、金融緩和は今後もいくらでも膨らませることができる、国債を4割も買い占めたというが、「見方を変えれば」まだ6割も残っているとか、株や他の有価証券を買えば日銀券つまりカネをいくらでもバラまくこともできる──すでにやっているのだが──とか、そんな無軌道で、愚劣なやり方でも「副作用は顕在化していない(つまり雨宮が警告しているように、すでに積もり積もっているということか)」、あるいは副作用が仮に出ていてもメリットの方がはるかに大きいとか、あらゆる独りよがりの屁理屈もしくは妄想を並べたてている。

 若田部は5日国会で、財政についても、最も無責任な──そして非論理的な──発言を行っている。

 「金利が上昇する局面では、名目成長率が上がっているので経済は豊かになっている。そこから税収が得られるので、財政への影響は良いことはあっても悪いことはない」

 名目成長率が上がっているから「経済は豊かになっている」といった主張は、リフレ派の連中が破廉恥なデマゴギストであることを暴露している、というのは、誠実な人なら〝実質的な〟成長について語り、それに基づいて議論するからである。名目的に豊かになったと言うことは、実質的に豊かになったということとは全く別のことである。

 仮にインフレが10%進むときに、5%の賃上げがあったところで、名目は5%の賃上げでも実質は5%の賃下げでしかない、つまり労働者は「豊かに」なったのではなく、反対に「貧しく」なったことを、労働者なら身に染みて知るのだが、寄生的な生活を送るインテリ諸氏は観念の中に生き、名目的な賃上げで豊かになったと妄想できるというわけである。

 こうした主張を平然と、ぬけぬけと口にできるような人間が権力を握り、金融や財政を牛耳り、好き勝手に動かしていることに、深刻な危惧や危機意識を抱かないような人が、そんな連中が日本と日本経済を「壊している」と思わないでいられる人が1人でもいるだろうかと、我々は疑う。

 なぜ岩田が若田部に交代する必要があったかは知らないが、彼らはみな本来はリフレ派原理主義者であり、金融緩和をとことんやれば、経済も財政も労働者らの生活も自ずから良くなるという、愚昧で、品のないドグマの信奉者である(実際、輪転機を回してカネを印刷してバラまけば、すべての経済現象がうまく行くなどというだけの理屈は、野蛮で、知識も知恵も、教養も品性も何もない、ごたく〝理論〟ではないのか)。

 そんなまるで宗教(とりわけ密教?)のマントラや呪文のようなものを思いあがって叫ぶしか能のない、怪しげで〝ガラ悪〟な連中を、我々は5年前〝理論やくざ〟、インテリやくざと名付けたが、彼らは〝ガラ悪〟な政治やくざの安倍一派と結びついて、今や肩で風を切って闊歩し、我が世の春を謳歌し、満喫している。

 間違いなく、日本の金融は、したがってまた財政や経済の全体さえも、今や音を立てて壊れつつある、否、安倍や黒田や若田部のような連中によって「壊されつつ」ある。

   

「不磨の大典」にあらず
問題は憲法の歴史的階級的性格

 憲法改定問題が重要な、実際的政治課題として登場し、安倍政権は早ければ来年の参院選と共に、その強行突破を策している。この闘いは重要な政治闘争の一つであると共に、また重要な思想闘争でもある。ブルジョアや反動たちは、憲法改定の必要性の理由の一つとして、「日本の憲法には〝国民〟が作ったものは一つとしてない、だから今回の憲法改定は〝国民〟の作る憲法、〝国産憲法〟への第一歩である」と主張する。しかし問題は、憲法は〝国産〟であるべきかどうか、〝国産〟ならいいのか、〝国産〟といい、そうでないというが、その意味は何なのか、ということである。

〝国産憲法〟の 幻想

 彼らのいうところでは、明治憲法は〝国民〟ではなく、専制的な天皇制〝藩閥政府〟の作品であり、戦後の〝民主・平和〟の憲法も、日本〝国民〟のものでなく、事実上、アメリカ占領軍が〝押し付けた〟もの、「マッカーサー憲法」である。

 だから我々は〝国産憲法〟を持つべきであり、憲法改定もまたその方向で行われなくてはならないが、その中心は憲法9条の改定である、云々。

 しかし問題は憲法の歴史的、階級的な性格であり、内容であって、〝国産〟か、そうでないかは二義的な意義しか持たない。もし憲法の誕生や、性格──同じブルジョア憲法であっても、民主主義の点で、一掃徹底しているか、そうでないか等々──についていうなら、労働者、勤労者の革命や闘いによって勝ち取られたか、そうでなかったかを問題にすべきであろう。

 反動派のいう憲法が〝国産〟かどうかという詮索は、すぐにそのインチキ性と矛盾を暴露する。

 そもそも〝国民〟という概念自体、曖昧であり、どのようにも取れる。

 〝国民〟を労働者、勤労者ではなく、当時の合法的な、あるいは選挙で〝国民〟によって選ばれた政府と解するなら、2つの憲法とも、政府=〝国民〟によって作られた、あるいは承認されたものであって、〝マッカーサー憲法〟も同じである。

 敗戦後の憲法について言えば、当時の日本の合法的な政府(幣原内閣)が準備した、その限りでは、まさに合法的な〝国産〟憲法案では確かにあったが、反動派にとってはお気の毒なことに、それは旧憲法と大差のないものであって、日本を〝民主化〟して再び、〝過激な〟帝国主義の国家にしないと固く決意していた米国の容認し得るものではなかったのである。

 反動派が〝国産憲法〟という言葉でいいたいことは、結局、マッカーサー憲法でなく、松本案のようなものを採用すべきであったということに帰着する。しかし反動戦争と敗戦を経験して賢くなった日本国民はマッカーサー憲法を歓迎しこそすれ、旧憲法のような案には見向きもしなかった。新生国会も政府も、マッカーサー憲法を喜々として受け入れたのであり、その限りで、新憲法は立派に〝国産憲法〟になったのである。

 しかし他方では、〝マッカーサー憲法〟もまた剥き出しのブルジョア・チャンピオン国家アメリカの〝押し付け〟憲法として、ありとあらゆる限界や混乱や矛盾に満ち満ちているのであって、リベラルや共産党が美化するように、絶対化、〝無謬化〟できるような代物では全くない。

 そもそも民主国家に最初から矛盾する、時代遅れで、反動的な君主制(天皇制)の廃絶さえ実現できなかっただけではない、観念的な「絶対的平和主義」や意味不明の「権利・義務」の条項がいくらでも挿入されており、欠陥だらけの憲法であったとしても少しも不思議ではないのである。

 反動や国家主義派や安倍政権が言いはやす〝国産〟憲法といったものは幻想であり、そんな憲法は日本には歴史的に存在しなかった、というのは、〝近代〟日本には、〝民主〟憲法を実現するような徹底的な革命は存在しなかったからである。

 戦後憲法は、例えば第1次世界大戦の時期のドイツのように、労働者革命によって勝ち取った、ワイマール憲法のようなものさえ実現できず──これには、日本共産党が重大な責任を負っている──その結果、アメリカお仕着せの〝民主的な〟改革によって、我慢するしかなかったのである。 

欠陥と矛盾だらけの現行憲法

 したがって現行憲法もまたは、歴史的、階級的な法であって、「不磨の大典」──明治憲法に記されていた言葉──といったものでは全くなかっが、そんなものをあたかも「不磨の大典」として評価する共産党らは、明治藩閥政府の連中と同様な、愚劣低俗な観念しか持っていないのである。

 憲法は例えば、「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負う」(27条)など記するが、労働者にとっては余りにばかげた、意味不明の条項である。

 もし労働が「義務」だといった性格のものなら、なぜ首切りといったことが日常茶飯事におこなわれているのか、なぜその「義務」に違反するようなブルジョアの全体を憲法違反で告発し、逮捕しないのか。

 また労働者は自分の労働を「義務」として行うのでもなく、「権利」として要求するのでもなく、単純に自分の生活と消費のために──したがってまた、社会全体のために──、自主的、主体的にたずさわるのであって、そんなところに「権利・義務」といった観念を持ち込むことは徹頭徹尾ブルジョア的なナンセンスである。

 26条や25条についても、愚鈍なことがいくらでも書かれている。

 26条は「教育を受ける権利・教育の義務」の条項だそうだが、「能力に応じて」教育を受ける権利があるとされ、さらに「全ての国民は、・・・(自分の子らに)普通教育を受けさせる義務を負う」とある。ここでも「権利・義務」の観念が幅を利かすのだが、そのためにいっていることが支離滅裂である。

 そもそも「能力に応じて」教育がなされる等々は、教育のいわば技術論にかかわることであって、そんな観点から教育の根本問題を取り扱うことは〝ブルジョア的〟であって、根本から間違っている。

 また国民全体に向かって、自分の子供に「普通教育を受けさせ」なくてはならないという観念も奇妙なもので、明治藩閥政府の〝お上意識〟そのものである。個々の国民に「受けさせる義務」があるのではなく、卑しくも〝国民教育〟について語るなら、「国家はそれを保障しなくてはならない」というべきであって、それでこそ「義務教育の無償化」という言葉も生きてくる。 維新直後ならまだしも、敗戦後の新憲法が「教育を受けさせる」国民の義務について語るのはナンセンスで、アナクロニズムそのものである。

 また25条の「国民の生存権」といったものも、何のためにあるのか、何を規定しているのかもはっきりしない、つまり不可欠で、必要なものとは到底思われない。

 すでに自分の生活や生存のために独力で労働し、生きられない高齢者のためのものか、病気が悪化したり、不慮の災害や事故のために労働能力を奪われた人々のためだというのか。

 しかしそれなら、すべての〝国民〟についてのことではない。ある意味で特殊な人々のことであって、自ら労働できない人を社会全体の負担で養い、保護するのは、〝文化的な〟、つまり動物社会とは区別される、人間社会の自然なあり方であって、「権利・義務」といった問題、そんなブルジョア的な関係ではない。

 天皇制規定や、平和主義規定はいうまでもなく、こうした欠陥や限界や意味不明や混乱、矛盾などがいくらでも詰め込まれた、そんな憲法を、リベラルや市民派や共産党は何故、絶対化し、弁護し、懸命に擁護するのか、しなくてはならないのか。

 憲法の14条の1、2項(あれこれの差別禁止や、華族・貴族制度の廃止)や、20条(「政教分離」等々)、21条(「集会・結社の自由」等々)、24条(結婚などの社会的、日常的生活や関係における男女の平等の規定等々)など、支持し得る、立派な条文があるではないかというのか、しかしそれなら、そんな条文と100%矛盾するような天皇制──まさに男女差別等々をはじめとする「国民的差別」の象徴といえる──が、なぜ、いかにして、憲法の先頭に、麗々しく、厳かに鎮座しているのか、それは現行憲法を汚す、まがまがしいものではないのか。 

安倍の憲法改定論は非論理的な支離滅裂  

 安倍は今や、憲法問題の決着なくしては、自民党総裁の三選も、安倍政権の継続もないかに、憲法改定の実現に向かって突進しつつある。

 しかしそれにしては、彼の憲法改定策動の、何と矮小にして、珍奇で、矛盾したものであることよ。

 反動派や安倍が憲法9条を敵視し、それを改定しなくては憲法とはいえないとまで叫んできたのは、その観念性や平和主義的性格であって、具体的には国家として不可欠な、「戦略」つまり軍隊を否定しているからである。

 そうした彼らの立場からするなら、現行憲法の条文をそのまま残し、それに「自衛隊の存在」を付け加えるといった憲法改定は、してもしなくても同様な、日和見主義的で、どうでもいいようなもの、ただ安倍の権力主義や名誉欲、プライドのためにのみなされるといって少しも言い過ぎではないような代物である。

 安倍は今なお、自衛隊は「戦力」ではない、つまり「軍隊」とはいえない、国家自衛のための「最低限の」一定の戦闘力に過ぎないという詭弁とごまかしの上に立って、「自衛隊の存在」を憲法に付け加えるという。

「存在」を憲法に書き入れるといったことがどういう形でなされるかは知らないが、「存在」を謳うとはどういう意味か。呪文の文字のように、自衛隊と書くだけか、あるいは憲法は「自衛隊の存在を認めます」と記すということか、反動派の1人がいうように、「自衛隊を尊敬せよ」と謳うということか。

 まるでマンガであって、そんなものは安倍の独りよがりの主観の表現であって、憲法の条文でさえなく、そんなものを国民に押し付けようとするなら、それは最低の悪政とはいえても、まともな〝政治〟では全くない。

   

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