WPLLトップページ E-メール


労働の解放をめざす労働者党機関紙
海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
一部50円(税込み54円)

定期購読料(送料込み)1年分
  開封 2000円
  密封 2500円

ご希望の方には、見本紙を1ヶ月間無料送付いたします。

◆電子版(テキストファイル)
メールに添付して送付します

定期購読料1年分
 電子版のみ 300円

A3版とのセット購読
  開封 2200円
  密封 2700円

●お申し込みは、全国社研社または各支部・会員まで。
E-メールでのお申し込みもできます。



郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
●お申し込みは、全国社研社
または各支部・会員まで。
E-メールでのお申し込みもできます。
「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
●お申し込みは、全国社研社
または各支部・会員まで。
E-メールでのお申し込みもできます。
「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1326号 2018年5月6日
【一面トップ】南北の融和と核廃絶――いかに進行し、解決されるのか
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】連合・神津と政治――民進党政治家のせいにするな
【二面トップ】野党は改憲策動と闘い得ず――国会は天皇制廃止を〝発議〟せよ
【二面サブ】18メーデー報告

※『海つばめ』PDF版見本

南北の融和と核廃絶
いかに進行し、解決されるのか

 南北朝鮮の融和ムードが高まり、首脳会談が行われ、金正恩は、「体制保障があれば、核廃絶に応じる」という立場を表明した。こうした歴史の流れは、一方における、南北朝鮮の国民の接近と統一と、他方における、北の核廃絶が、いかに為されるかということである。つまり核兵器をどうするのか、いかなる体制での統一か、という問題である。

核廃絶の幻想

 核廃絶の問題はすでに半ば解決されている、つまり金正恩の国家は核廃絶を明言しているからである。

 ブルジョア世論は一方ではまだ信用しないながらも勝ち誇り、経済制裁や圧力が功を奏したと自画自賛し、共産党までも大喜びし、〝対話路線〟の正当性が証明されたと浮かれている。

 しかし北の核廃絶は、世界から核兵器を一掃するという課題からすれば、ほとんど何の意味もないような些事にすぎない。

 核兵器の本当の危険性についていうなら、アメリカやロシアや中国や、そしてイスラエル等々の核兵器であって、朝鮮の核でないことは、今まさに金正恩の核廃絶宣言によって最終的に確認されてしまった。

 我々が常にいってきたように、金正恩の核開発の派手な演出は、「臆病な犬はよく吠える」のたぐいであって、そんなものを「国難」であると大騒ぎし、経済制裁だ、最大限の圧力だと言いはやしてきたのは、トランプや安倍の政権の都合からであって、彼らはそんな大騒ぎによって、ますます人気を失っていく政権維持の一助にしようと策動したのである。

 もしトランプが本気で、危険な核兵器保有を許さないというなら、北朝鮮にする前に、中国やロシアに、せめてイスラエルくらいにも迫るべきであり、それを断固として実行すべきであった、否、まず自らが核放棄してから、それをいうべきであった。

 実際、北の核廃絶を仮に勝ち取ったとしても、そんなものは人類の核の危機からの解放とは何の関係もない。我々が北朝鮮の核廃絶は茶番であり、幻想であるというのは、それが決して実行されないからというのではなく、仮にそれが実行されても、〝核の脅威〟や恐怖からの、アメリカや日本の、人類の解放とは何の関係もないという意味においてである。

 金正恩にとっての最も重要な課題は金正恩王国の安泰であり、継続である以上、彼の新しい立場は決して新しいものでもない。むしろ「体制保障があれば、核廃絶に応じる」というのは、彼としては一貫している。

 北朝鮮の「非核化」が世界の核廃絶や、あるいは国家間の関係や世界情勢の根底に影響を与えるような重大な出来事でないのは、かつてのリビアの「非核化」がそうであったのと同様である。北についで、どこかの核保有国が続き、核兵器の全面的な廃絶につながるといった話ではない、むしろ世界の列強の核保有は正当化され、強化されただけ、人類にとっての核廃絶が一層遠のいたとさえいえるのである。

南北の融和と国民的統一

 金正恩が自己の野蛮な専制政治を知らぬかに、どうして民主国家の人々や指導者と「親しげに接することができるのか」、できるはずはないと反動たちはいうのだが、しかし、そうしたことも、奇々怪々がブルジョアたちの国際秩序の中では特別に珍しいことでもない。民主国家の指導者といえども労働者・勤労者をいくらでも押さえつけ、体制に反対して闘う党派や人々には専制主義的に振る舞ってきた指導者と必要なら平気で「親しげに」振る舞うことはいくらでもあるのであって、アメリカなどは中南米やアフリカなど独裁者としょっちゅう「親しげに」振る舞うだけではない、大きな援助や支持さえ鷹揚寛大に与えるのである。

 欧米諸国の〝紳士〟たちであるはずのチャーチルやルーズベルトらも、ロシア国内で野蛮で、冷酷で、そして大規模な「血の粛清」を行ってきたばかりのスターリンと、何回も「親しげに」首脳会議を──カイロ会談だ、ヤルタ会談だと──持つことができたのである。

 問題は、今開始したかに見える、南北朝鮮国民の融合が、その実際的な国民的統合と統一に行きつき得るのか、行きつき得るとするなら、どんな形でか、である。

 北が遅れた、貧しい、野蛮な国家に転落していったのに反し、南が急速な反映する、豊かな国家として成長できたのは、「共産主義」(スターリン流の「国家資本主義」)に対する「資本主義」の優位性や正当性を証明するものだが、経済発展が極端に開いてしまった南北は果たしてうまく統一できるのか、今後北は短期間で急速に経済発展を遂げることができるのか、それとも大きな経済格差はそのままで統一につっ走るのか、困難は限りなく大きい。

 金一族の専制体制は、その体制を維持したままで、しかも「話し合い」や「平和的やり方」で、国民的な統合を勝ち取ることはできないであろう、というのは金一族の狭い利益は、朝鮮の労働者・勤労者の全体の利益とは一致しないからである。

 1990年前後、ロシアも含めて、東欧などの多くの国家は多かれ少なかれ〝民主化〟を経験し、勝ち取ったのだか、それはスターリン主義体制を粉砕し、一掃することなくては、ほとんど不可能であった。ドイツは1990年、連邦共和国として統一されたが、それはただ東ドイツがスターリン主義国家を否定し、止揚したから、した限りで可能になったのである。

 もちろん金正恩が〝全能の〟専制君主から、〝民主主義者〟に変身し、衣装を替えることもありうるが、しかしそれは至難の業である。東西ドイツの統一は1990年、スターリン主義の専制国家が打倒され、曲がりなりにも〝民主国家〟に移行することによって可能になったが、北が金正恩の専制国家のままで、そんなことは不可能であろう。

 他方、金正恩が1人で、毛沢東と鄧小平の両方の役割を演じるようなことも容易にできそうもない(もっとも鄧小平の中国は、今や習近平の中国に、元の木阿弥に行きついたかの感があるのだが)。

 彼は国民的統合を自らのヘゲモニーで行うためには、これまでと同様な〝絶対的な〟権力、専制的体制を維持し、或いはさらに強化しなくてはならない、つまり労働者・勤労者をさらに専制主義で縛り上げ、抑圧しなくてはならないが、しかし他方では、自らの国家を民主化しなくては、その意味では、そしてその限りでは労働者、勤労者を解放しなくては、その統一も達成できないのである。

金王朝体制の「保障」

 仮に金王朝の体制の安泰と継続をアメリカが保障したからといって、それは金王朝が実際に存続でき、延々と続くということとは全く別である。

 むしろアメリカの保障があろうがなかろうが、金正恩の権力が今後続くとは限らない、というのは、ますます矛盾した立場に落ち込んでいく金王朝は動揺を深め、弱体化していくかも知れないし、南北融和やいくらかの民主化の進展などで南の現実により接することが増え、世界の情報をより容易に、より多く手にすることができるようになっていく、北朝鮮の労働者、勤労者の不満や怒りが爆発し、金王朝を一掃するような闘いが発展するかも知れない、否、それはむしろ不可避だろうからである。

 金正恩が経済の〝自由化〟や、政治体制の、仮にわずかな〝民主化〟であっても、何らかの改善、改革に踏み出すだけでも、それは労働者、勤労者を勇気づけ、より徹底した改革、改善への闘いの出発点になり得るだろう。南との融和の謳い文句のもとに、抑圧を少しでも緩和すれば、民主主義の切れ端でも許容すれば、情報管理を少しでも緩めれば、労働者、勤労者の南の政治体制や自由や生活や文化の影響や憧れが広がり、南や日本や欧米の労働者、勤労者と同じものを享受し、共有したいという欲求は深く北の労働者、勤労者の中に浸透し、金体制をゆるがせ、それを否定し、拒否する労働者、勤労者の意思や決意や情熱をますます膨れあがらせるだけである。

 そしてその趨勢は、北の金王朝国家の一掃、民主化と、分離した南北の国民的統一に行きつくまで止まらないであろう。

 そうした統一国家の出現は朝鮮の労働者、勤労者とその未来、その階級的な闘いにとって好ましいもの、有利なものであって、その意義は確認されなくてはならない、というより、それは労働者の究極的な解放をめざす、新しい労働者の階級的な闘いの出発点となるのである。

 統一朝鮮国家は、2つの巨大帝国主義国家の挟間にあっていかなる位置を占め、いかなる形で、いかなる役割を演じつつ、存続し、生き延びていくのだろうか、行き得るのだろうか。

 仮に金正恩が自らの体制保障のお墨付きをアメリカから得たとしても、そんなものは南北朝鮮の労働者、勤労者にとっては全くどうでもいいことであって、労働者、勤労者を抑圧する金王朝を一掃する上で、何の関係もないし、心を煩わせなくてはならないものでもない。

 そして金王朝の粉砕と一掃は、まさに〝下からの〟朝鮮国民の統一を可能にし、確かなものとするだろう。 東西ドイツの統一が、EUの中核としてのドイツを生み出したといえるなら、統一朝鮮国家が東アジアで、アジア全体で、そして世界の中に置いて果たす役割と意義は何であろうか、そしてそれは日本の労働者、勤労者の闘いといかに関係し、結びついて行くのだろうか。

トランプ追随で
〝孤立した〟安倍

 「最大限の圧力」をトランプに懸命に進言して寵を得たかの安倍は、トランプの変身に付いて行くことができず、情勢の激変に賢く、柔軟に対応することもできず、今や死語となった「最大限の圧力」を愚鈍に、決まり文句として繰り返すだけの、哀れなピエロになり下がっている。

 安倍の「最大限の圧力」という路線は挫折し、廬武鉉(ノムヒョン)=文在寅(ムンジェイン)路線が勝利したのである。トランプはその路線に乗ったのである。もっともこの路線の勝利の意味や限界──つまりこの勝利とは、矛盾だらけの、ブルジョア的な解決としての勝利でしかないということ──も、明確に確認されなくてはならないのだが。

   

【飛耳長目】

★今年はマルクス生誕2百年だとか、欧州で作られた、マルクスやエンゲルスの青春時代の映画が公開されたこともあって、志位らが若者を共産党に囲い込もうと盛んに2人をほめあげ、「世界や日本でわき起こっている新しい市民運動に参加しつつある」若者たちにも、2人が受け入れられる「条件が広がった」とか浮かれている★志位は市民云々するが、彼らが労働者だとでも考えるのか、そしてそんな人々の運動と、2人がいつ本来的な関係を持ったというのか、まるで若者にデマを振りまくのと同様だ★市民とは歴史的概念としてブルジョアであり、またそうした階級として都市住民であり、また〝中産階級〟でもあった。現代においても都市のブルジョア層やインテリや自由業者、医者や弁護士や学者や教授らであり、さもなければ寄生階層の学生らである。ひと言でいって個人主義者つまり観念化されたブルジョアだ★労働者でさえ抽象化すれば、直接的存在ではブルジョアだ、というのは、すべての商品交換者と同様に自らの労働力を売り、またそのカネで生活資料を買って生きるからである★この社会が〝市民〟や彼らの運動によって、いくらかでも根底的に変革されることはあり得ない。労働者は市民としては何ものでもなく、また社会を変革する闘いの主体としてはすでに市民でなく、資本に本来的に対立する階級的存在、自覚した賃労働者である。(鵬)

   

【主張】

連合・神津と政治
民進党政治家のせいにするな

 今、連合の神津は、野党政治が自分の思うままにならず、自らの権威や威信が失墜し、がた落ちする現実に憤懣やる方なしである。

 この男は、単に労働組合運動の頂点に立っただけでは満足できず、政治の世界でも大きな影響力を発揮したいという、つまらない野心に燃えるのである。

 連合が09年の民主党政権のスポンサーあるいは黒幕であったことは、隠れもない事実である。

 そして神津は昨年の総選挙でも、小池新党と、民進党の前原一派の合流をテコに、再びまた政権与党の立場に立とうと策動した。

 神津は、そんなやり方で労働組合勢力が政権与党の座に就いたとしても、労働者の利益――わずかな実際的利益――にさえならず、かえって安倍長期政権を招き寄せ、許したという反省もなく、また同様な策動に溺れるのである。

 神津は民進党の政治家たちを「民主党政権が崩壊して以降のバラバラ感、ガタガタ感…。そのことの反省が一人ひとりの政治家にどこまであるのか」と非難するが、しかしいま神津が肩入れした新党、国民民主党への求心力が少しも働かず、期待した野党第1党の座さえ見えてこないのは、旧民進党の政治屋たちというより、神津ら連合幹部たちの責任ではないのか。

 前原一派の民進党の分裂と、小池新党への合流にお墨付きを与えながら、今度は民進党の再結集の音頭を取ったところで、さすがに頽廃した民主党=民進党系の政治家たちも、おいそれと乗れないのは当然である。

 もちろん枝野も今は――将来はさておくとして――、国民民主党には何の魅力も感じず、むしろそれと別個の党に政治家としてのすべてを賭けている。今さら国民民主党などに走れば、立憲民主党は何ものでもなく、たちまち支持を――一体誰の、どんな階級の支持か――失うこと必至である。  枝野らが神津の旧民進党勢力の再結集という神津の構図に何の魅力も展望も見出さないのは必然である。 そして長島や細野といった悪党たちは、ブルジョア政党への転進に自分の未来を賭けるのである。

 もちろん立憲主義などという時代錯誤の空虚なドグマに立脚し、市民派や、市民主義の迷彩色に隠れる共産党との連携に賭けたところで、枝野や長妻や辻元らにどんな未来もない。

 枝野らの路線はすでに民主党政権の実験として、市民派の鳩山や、その後を継いだ菅直人の政治として実際的に行われ、その結果がどんなものであったかは、周知のところである。

 3年間続いた民主党政権によって、市民主義の無力やナンセンスも、またその失敗も破綻も、それが保守反動の政治に行きつくことも、すでに完璧に暴露されたのである。

 神津は思いあがって、国民民主党結集をためらい、渋る「政治家」に、「信頼感ある振る舞いがないと、心より応援するということになり得ない」と、圧力を、一種の脅しを掛けてもいる。

 もちろん労働組合の組織やカネの応援は「政治家」が喉から手が出るほどに望むものであるにもかかわらず、国民民主党への結集が進まないのは、すでに社会党時代のように、労働組合による支持というものが、かつてのように強固でも、決定的でもないことを教えている。労働者のためにではなく、資本のために奉仕するようなブルジョア的労働組合者が頽廃し、内実を失い、解体して行くのは一つの必然である。

 今や連合の組合主義者も腐りきり、労働者大衆からも見放されるときが近づいており、動揺し、解体する気配が立ちこめている。

   

野党は改憲策動と闘い得ず
国会は天皇制廃止を〝発議〟せよ

 反動派の世論を代表する産経新聞でさえ、憲法記念日の3日、トップ記事で「遠のく改憲発議――東京五輪後にずれ込む公算」と書き、マスコミ(朝日新聞など)の世論調査も、「安倍政権のもとでの憲法改定」反対が多数派であると報道する有様で、安倍の追求する、安倍方式の憲法改定策動は今や風前の灯火である。他方では、「自主憲法」の獲得という、反動派、国家主義派の改憲策動はますます意気盛んで、ブルジョアやプチブルや〝若者〟の中に浸透する一方、現行憲法の擁護勢力――共産党、立憲民主党、市民派、リベラル・マスコミやインテリや、昔なつかしい〝進歩的〟文化人や堕落した組合主義者等々――は、相も変わらず、観念的たわごとに終始し、自らの究極的敗北――それが具体的にどんなものか、ファシズムの勝利か何かは、今は明言できないとしても――に向かって沈滞し、右往左往し、迷走している。

現行憲法は〝普遍的〟か

 野党や市民派はそもそも敗戦後の憲法を、非歴史的、〝超越的な〟絶対物として理解すること自体まるでナンセンスで、実践的に有害な観念論であることさえ知らないのだから、驚くべき無知蒙昧と知的貧困と幼稚を暴露している。

 彼らは、13世紀のマグナカルタや聖徳太子の17条憲法――これはもちろん「もののたとえ」であって、フランス革命期のジャコバン憲法や、「不磨の大典」を自称した日本の明治憲法などでも同じことだが――が、歴史的産物であり、それ以上ではないことを知っているらしいが、しかしこと現行憲法の話となると途端に歴史的観念論に陥るのだが、それはブルジョアやインテリたちが、資本主義以前の生産様式について、その欠陥や歴史的限界についてはよく知っているのだが、こと自分たちの生産様式、ブルジョア社会についての話となると、それを絶対化し、美化するだけであるのと同様である。

 現行憲法もまた、戦後の資本の社会に適応した、その〝上部構造〟としての憲法であるとするなら、まず歴史的なものであるしかなく、またそうしたものとして評価し、扱われ、実践対象となるのであって、〝絶対物〟として、労働者・勤労者の擁護対象として扱われるなら、その闘いは解体し、敗北に導かれることは100%確かである、というのは、それは現存の資本の支配体制を容認するも同然だからである。

 現行憲法が謳う「自由」とか「人権」とか「民主主義」などの原理は絶対的で、〝普遍的〟と、憲法絶対主義を振りまくリベラルや市民派や共産党らの有象無象はおっしゃる。しかしそれは本当か。

 資本の下での「自由」や「人権」は決して〝普遍的〟ではあり得ない。階級社会ならどんな歴史的社会にあっても、労働者・勤労者(直接生産者)が自由で、人権を有すると決していえないのであって、自由や人権を100%享受したのは、支配階級だけであった(もちろん、天皇一家のような寄生階級も同様だったが)。働き、そして搾取されてきた生産者や人民にはほとんど自由や人権などなかったし、あり得なかった(その典型的なものは、奴隷たちであった)。

 ブルジョア社会は、確かに「自由」や「人権」や、「民主主義」を謳い労働者・勤労者にもある意味でそれを保障したが、しかしそれでも依然として、それらは基本的にブルジョア搾取階級、支配階級の専有物として存在したにすぎなかった。

 奴隷制社会とブルジョア社会の違いは、たとえていえば、ブルジョアや天皇一家などに百%の自由や人権を保障しながら、労働者・勤労者にもそのおこぼれを、つまり10%、20%くらいの――もちろん、こうした数字はただ分かりやすいたとえとして持ち出されたものにすぎない――自由や人権を認めているというところにあるが、それは労働者は依然として一種の奴隷の地位に、「賃金奴隷」の地位に留まっていることを暴露するのである。

 現行憲法は労働者が単に〝賃金労働者〟としてのみ生き得る〝権利〟を、つまり労働者がブルジョアに労働力を売って生きる権利を、ただ搾取されることによってのみ生き得る自由や権利を認めているにすぎない、つまり労働者は制限された、根本的に限界ある〝解放〟を保障されているにすぎない。

 賃金奴隷制はもちろん、歴史上のありとあらゆる奴隷制度に比べれば一歩前進であるが、しかし人類の社会史における最後の奴隷制であり、したがってまた賃金労働者も今なお資本の下で苦悩する一種の奴隷であって、現行憲法の〝普遍性〟といったものもまた歴史的で、限界あるものとして評価され、理解されなくてはならないのである。

憲法擁護では闘えない

 現行憲法を擁護することで、ブルジョアや安倍政権や反動たちと闘い、彼らを圧倒できると思うのは幻想である。

 むしろ反対に、彼らと闘い、彼らの支配を圧倒することによって、はじめて現行憲法もまた、存続できるのであって、例えば第二次大戦の前の、ドイツのナチスや日本の天皇制軍部のような〝ファシズム〟勢力が労働者、勤労者の闘いを粉砕し尽くして勝利するなら、どんな立派な憲法があっても、憲法は無視され、簡単に廃棄されるのである。そうなってみれば、憲法擁護など、坊主や耶蘇教の説教師の唱えるありがたいお題目と同等であることが明らかになる。

 天皇制を始めとする、単純な〝欠陥〟や、リベラルや共産党らがいうところの〝普遍的〟原則にさえ反し、それを損なうような内容に満ち満ちている、その限り、まさに歴史的なものとして止揚されてしかるべき現行憲法を、〝絶対的〟などと錯誤し、狂乱するなら、それはただブルジョアや反動派を利し、彼らが自己を正当化してはびこることを許すだけである、というのは、リベラルや市民主義者や共産党は、根底から観念的であり、間違っているからである(だからこそ、この三者はいま野合をこととするのである)。

 そもそも現行憲法を、つまりはブルジョア支配の現実を「擁護する」と宣言することは、まさに〝保守主義〟そのものであって、ただそれだけでも、資本主義の根底的な変革を目ざして前進していくべき労働者・勤労者の立場として落第である。

 憲法闘争は、安倍政権がそうしようとしているように、一つの政治闘争として提起されるなら、労働者・勤労者も徹底的に闘い抜かなくてはならない、しかしそれ自体、現行憲法を変えるか、変えないかという形で提起されるなら――安倍は憲法に自衛隊と記入しても、現実は何も変わらないと強調する――、そんなものは階級闘争、政治闘争にとって従属的であり、絶対視されるべきではない、つまりそんな憲法改定が行われれば、労働者・勤労者の存在や闘いがなくなるとか、〝戦争〟――どんな戦争か――の時代になるとか、反対に、現行憲法が擁護され、存続するなら「すべて世はこともなし」といった、パラダイス――「すべて世はこともなし」がパラダイスかどうかは知らないが、詩人はそう感じたのである――が出現する云々は幻想であり、つまらないナンセンスでしかない。

 そんな観念をひっさげて〝闘う〟というなら、それはもはや闘いとさえ言えず、結局は共産党もリベラルも市民派も――それにしても、本来的には犬猿の仲であってしかるべき、共産党(しかも悪名の高い、官僚的で、ドグマに凝り固まったようなスターリン主義の共産党)と、個人主義を至上視する市民派やリベラルとの〝共闘〟とはどういうものか、最初からうさんくさく、何か醜悪で、相互の本心を隠した打算だけの野合にしか見えない――、反動や安倍政権の軍門に下るし、下るしかないのである。

国会は憲法1章「天皇」(1条から7条)の削除を〝発議〟せよ

 今安倍政権と天皇一家は、憲法と皇室法に反して、天皇の生前退位の策動を繰り広げている。

 安倍にとっては追い詰められた政権を何としても延命させるためであり、天皇一家にとっては天皇制の生き残りのためである。

 生前退位は、天皇一家の仕事であり、〝義務〟でもある「公的任務」をしっかり果たすためだと説明されるが、そもそも天皇の「公務」といったものは天皇一家の一種の政治的行為であり、憲法では禁止されているものであって、彼らの〝義務〟などでは全くない、むしろ現行憲法は、天皇はただ憲法が明記する「国事行為」のみを行うべしと厳しく規定しているのである。

 安倍政権と天皇一家のおこなう〝代替わり〟のキャンペーンは、まさにその意味で、憲法違反の破廉恥な策動であって、直ちに止めさせるべきである。

 安倍政権は卑しくも憲法改定を謳うなら、第一義的に優先して、憲法一章の削除の国会〝発議〟をなすべきである。

 すなわち憲法改定は、時代遅れの過去の亡霊であり、15年間(1931年――45年)にわたって行われ、国民の悲劇そのものだった反動戦争の戦犯の筆頭、すでに歴史の負の遺産でしかなく、しかも現在の国民差別の〝象徴〟、反動派、国家主義派の実際的、精神的支柱でもある天皇制、すでに70年前の終戦時に実現されるべきだった天皇制の廃絶から始めるべきである。

   

【二面 サブ】

18メーデー報告

 今年のメーデーは全国33か所で宣伝を行い、3万4千枚を超えるビラを配布。安倍政権の即時打倒を訴えるとともに、来年の参院選に初の議員を目指して闘うことをアピールした。

 中央会場での演説では、労働者党の再建、総選挙を神奈川11区で闘った報告をし、安倍政権の打倒を呼びかけた。

 安倍が5年間居座った結果、経済はガタガタ、政治は悪臭芬々、安倍政権はまさに末期症状を呈している。

 そんな中で、昨年秋の衆院選で安倍は再び大勝した。 我々は、なぜ野党が大敗したかを問い、野党共闘路線こそ敗北の最大の責任を負っていると告発した。

 共産党系の参加者を前に、志位の野党共闘路線は現実に破綻し、空中分解して、安倍の圧勝に繋がった、その総括なくして、何回選挙しても安倍に勝てないと強調し、各党が独自に全力をあげて闘うように訴えた。

   

ページTOP