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労働の解放をめざす労働者党機関紙
海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1336号 2018年9月23日
【一面トップ】安倍圧勝ならず――安倍政権の終わりの始まり
【1面サブ】参院選を闘う10名の面々⑦――長野選挙区の斎藤よしあきさん
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】労働の生産性とは何か――安倍政権と闘うためにも正しい概念を
【二面トップ】資本家たちは戦々恐々――再現する金融パニックの悪夢

※『海つばめ』PDF版見本

安倍圧勝ならず
安倍政権の終わりの始まり

 自民党の総裁選は、安倍が68%の得票を得、石破は全体の3分の1を獲得した。当初200票にも届かないと見られた石破が、それを数十も上回る票を獲得し、党員票では半数近くの支持を集めたことは安倍政権にとって大打撃であり、その「終わりの始まり」を強烈に印象づけた。

ついえた「圧勝戦略」

 総裁選に圧勝し、その勢いで来年参院選でも勝利して憲法改定を実現するという安倍戦略はゆらぎ、むしろ安倍が来年に参院選で敗退し、憲法改定勢力でも議席の3分の2を割る可能性さえ大きくなった。

 安倍は今や、参院選以前の国会で強引に憲法改定案の発議を決め、参院選と同時に憲法改定の国民投票というスケジュールでやるか。憲法改定そのものを諦めるかのどちらかを選ぶように追い詰められつつある。

 どちらを選ぶにしても、安倍にとって試練の道である。しかも総裁選中でも、安倍は石破から、自民党の憲法改定の原則からそれて曖昧で、ご都合主義的で、不真面目な改憲案に固執していると厳しく追及され、まともに答えることさえできなかった。安倍の改憲策動が、安倍を支える強力な支柱であった、自民党の保守派、〝原理派〟からさえそっぽを向かれる可能性さえあるのを、石破の〝健闘〟は示唆しているように見える(かつて09年にそうだったように)。

 平和主義勢力にも、軍国主義勢力にも──まるで水と油であるのは誰が見ても明らかだ──媚を売りながら憲法改定を強行しようとしても、そんな信念も覇気もないような・〝邪道の〟憲法改定策動は成功する、しないの前に挫折し、破綻するしかないし、仮に強行されても勝利する展望もない。

 しかも安倍はここに来てもなお、〝経済主義〟的やり方で国民の支持をかき集め、それを背景に自らの信念ともする憲法改定や軍国主義の政治を強行しようとするのだが、しかし今では安倍の肝心の〝経済主義〟つまりアベノミクスもすでにタネが尽き、行き詰まり、その神通力の化けの皮はすっかりはげ落ちている。

 社会保障の充実を今さら口にしてみても、全世代型社会保障といったおためごかししか持ち出すことしかできないが、しかしそんなものは真剣に社会保障の問題と対決し、いくらかでもまともな解決をする意思も能力も無いという真実をごまかし、隠すための口先だけのインチキであることは、すでに労働者、勤労者から完全に見抜かれている。

 安倍にできることはせいぜい2回の延期された消費増税を今回は行い、その何兆円かのカネを教育無償化等々の新しい形のバラまきに転用するくらいだが、そんなものが社会保障の充実とは無関係で、むしろそれを後退させるもであるのは自明である、というのは、もともとこの消費増税分は2012年の自公民の与野党3政党によって、財政健全化と社会保障の充実のために支出すると固く確認されていたものだからである。安倍が教育無償化等々の全世代型社会保障のために転用するなど余りに愚劣で、無用なお節介でしかなく、社会保障という課題の解決を脇に押しやり、安倍の権力欲や私利のために政治をねじ曲げているだけである。

野党共闘に展望なし

 安倍政権を支持する人たちの理由の第一は、「他に支持する政党がないから」であり、拒否する人たちの理由の筆頭は「人柄が、つまり人格や人間性が信用できないから」といった、ある意味で政治家にとって致命的なものである。こうした政治家は専制に傾き、独裁を志向するしかないが、それは安倍政権のそのままである。

 他に支持する政党がないから安倍政権だというのは、野党のすべての支持率を見れば、立憲民主党がせいぜい10%で、他の野党が──野党ではないが、公明党も含めて──数%以下であることの裏返しでもある。共産党も愚昧な、単なるドグマ政党、〝宗派政党〟にすぎず、あってもなくてもどうでもいいというのが、野党の体たらくである。

 そして彼らが抱く観念は、そんな政党が束になって闘えば安倍政権を圧倒できるという夢想だが、個々の政党としてまともに、堂々と対決し、闘い抜けないような政党が、束になったところで安倍政権に勝つことができないのは一つの法則といっていいほど確実である。

 参院選は32の一人区がカギだというが、本気で野党共闘をいうなら、2人区や3人区でも野党共闘を考えるべきであり、さらには個々の政党として闘うのではなく、野党共闘を一体として闘うべきだが、そんな第一歩さえきちんとできないとするなら、何が野党共闘で勝利しようか。

 我々はそんな愚劣で、数合わせで安倍政権に勝とうなどという、超日和見的で、姑息因循で、余りに〝技術主義的な〟、したがってまた勝利よりも敗北に行きつく〝戦術〟──野党の圧倒的に有利な情勢下で闘われた、17総選挙の大敗の経験を想起せよ──ではなく、各政党が自らの政策や政治路線や戦術でもって、自主的に、そして主体的に、最大限の力を持って闘い、結果として安倍政権を一掃する闘い方を、〝戦術〟を、野党共闘戦術に対置する。

 我々は仮に参院選で1議席しか勝ち取れなかったとしても、その我々の1名の議員は、安倍政権とその政治に反対する、最も信用でき、最も有効に、果敢に闘う1議席であって、野党の中でも最も労働者・働く者の立場を代表する、信用できる議席、労働者・働く者の利益や地位や権利を先頭に立って守り、闘う議席、近い将来には数名、数十名にも増え行く議席、そして将来の労働者・働く者の利益や地位や運命さえ左右する議席であると信じ、独自の選挙闘争、政治闘争を貫徹することを決意している。

労働者党は比例区と主要選挙区に10名の候補者を擁立し、初議席目ざして闘う

 我が党は、来年の参院選に「確認団体」として参加し、10名の候補者を擁立し、議席目ざして闘うことをすでに内定し、近く党大会で正式の方針として決定する。比例区はもちろん、選挙区は東京、大阪、愛知などを中心に8つの主要都道府県で立候補する。

 こうした全国的で、広汎な、しかも徹底的な闘いを貫徹する形になったのは、我々の闘う意思がようやく一つになった結果であって、我々は党の全エネルギーと決意を結集して闘い抜き、勝利を目ざすつもりである。

 昨年春に労働者党を十数年ぶりに復活させ、国政選挙復帰を決めて以来、我々は困難な道をたどってきた。18年に予想された衆院選に向けて、闘う支部もなく、候補者でやるという党員も1人もなかった時に比べれば隔世の感がある。

 そして今年の1月、早められた総選挙の総括も踏まえて22年参院選ではなく、3年早めて19参院選で勝利しようと代表委員会が提起したときには、ほぼ党の半分が「ムリ」と反対し、進むのか、後退するのか、党内が混沌した時もあった。

 しかし我々はそうした動揺や混乱を克服し、今や、来年の参院選に向けては、10名の候補者が皆自ら、あるいは代表委員会の声がかかるか、かからないというのに、立候補を決意し、闘いへの旺盛な意思を明らかにしてくれたのである。 党が衆院選後、当初の路線を転換するという、苦しい、動揺の時期を経て──まさに雨降って地固まるの言葉通りに──、今や固い信念と決意の下に参院選闘争に臨む体制も確立し得た意義は、いくら強調してもし過ぎることはない。

 今こそ安倍政権打倒の旗印のもと、断固として、ただひたすら闘い抜くべき時となった。

 我が党は、全国の労働者・働く者の皆さんに、共に団結し、決然として闘いに立ち上がり、勝利を手中にするように強く呼びかける。

   

【1面サブ】

参院選を闘う10名の面々⑦
長野選挙区の斎藤よしあきさん

 斎藤さんは、1970年代の「マル労同」の時代から今日まで、四十数年間にわたって、我々の同志として活動してきた筋金入りの党員である。だが、その風貌には「闘士」のイメージはない、極めて控えめで生真面目な人柄がにじみ出ている。彼は、入党の動機として、当時の機関誌『火花』の理論と「真摯な姿勢」とに感銘を受けたからと言っているが、彼自身が正にその「真摯な姿勢」を貫いてきた人である。

 政治闘争と党建設闘争を中心課題にしていた「同志会」の時代には、斎藤さんは長野県の支部長として我々をリードしてくれた。会議の度に、県北部から100キロを超える道のりを、当たり前のように通ってくる。 来年の参院選を闘うことが決まってからは、自ら主宰している読書会のメンバーには勿論、県内の労組や市民団体等の状況を率先して調べ、働きかけを強めている。

 それだけではない。母親の介護や農作業など手を抜けない諸事情を抱えながらも、自ら候補者となって闘う決意を固めたのだ。これは、労働者の闘いと我々の組織活動とに対する強い信念と責任感とがなければ出来ないことである。(O)

【斎藤よしあき 略歴】

 1950年、長野県栄村で生まれる。

 東京教育大文学部在学中に友人たちとマルクス主義の学習を始め、学生運動・〝新左翼〟運動が四分五裂し頽廃していく中で、当時の機関紙『火花』に出会い、その真摯な姿勢と理論的卓越性に感銘、長野県で職を得て入会する。

 1975年~2013年、長野県立高等学校の社会科教諭として勤務。80年代後半の「日の丸・君が代」闘争では分会役員等として先頭になって闘う。バブル崩壊後は生徒たちの生活環境も一層厳しくなり、不登校などさまざまな問題を抱える生徒に寄り添って取り組む。

 2007~17年、党(同志会)支部長。2016年より仲間と共に「信州・働く者のセミナー」を立ち上げ、セミナー・シンポジウム等を実施。現在、実家で母親の介護を兼ねて農業を営む傍ら、長野市内で『資本論』読書会を主催。


【飛耳長目】

★安倍政権の〝売り〟の一つが外交政策で、安倍は外国を訪れた回数は歴代の首相でも最多だとか、大国の首脳と個人的に親しい関係を結び、良好な外交関係を深め、国家利益を保証していると、自らの外交の成功を自負して来た★しかしここに来て、安倍外交の神通力は失われ、プーチンにもトランプにも軽く見られ、引き回されるだけである。トランプには、個人的な親密さは経済問題とは別だ、日本は米国を犠牲にして経済的な利得を追求してきた、円安政策や農業保護主義は許さないとすごまれ、プーチンから「年内に平和条約締結」から始めようと突然言われ、北方四島での「共同経済活動」から始めて4島返還につなげようという安倍の対ソ外交戦略──実際には小手先で愚昧な外交政策──の根底を揺さぶられた★安倍外交の完全な挫折である。北朝鮮問題でも、安倍はトランプの後を追っただけで、どんな積極的な役割も果たせなかったし、らち問題でも何の〝進展〟も見い出せなかった★つまり安倍は国家主義者とは、自国第一主義を本性とする者であるということを悟らなかったのである。個人的親密さを重視し、政治外交問題をそんな個人的な感情問題に従属させた安倍の政治家失墜である。世襲の〝お坊ちゃん〟政治家の甘さである★安倍の外交でのつまずきは、アベノミクスの破綻の顕在化と相まって、安倍の急速な没落を予感させる。(鵬)

   

【主張】

労働の生産性とは何か
安倍政権と闘うためにも正しい概念を

 安倍政権のもとで急増したヤクザ議員の1人、杉田水脈(みお)が、子供を産めない男女、あるいは生もうとしないカップルを「生産性がない」と攻撃し、多くの世論の顰蹙を買った。

 もちろん杉田の観念は余りに愚劣だが、しかしブルジョアや安倍たちの「生産性」の観念も杉田と大同小異であって、彼らもまた一貫して正しい観念に立つことはない。

 現代のブルジョアたちの労働生産性についての〝公認の〟理論は、GDP(国内総生産)を総労働者数で除したもの(国民もしくは労働者1人当たりのGDP)といったものである。

 あるいは彼らにとっては、生産性とは資本家活動が生み出した「付加価値」を労働者数で割った数字である。

 そこで直ちに混乱と矛盾が起こる。ブルジョアにとっては、企業の付加価値の全体は、大きくいって利潤と労賃に別れるが、そもそも付加価値の全体は労働者の労働による以外に、いかにして生み出されるのか。資本もまた、付加価値に「貢献する」といっても、「貢献」と付加価値形成とはまた別である。

 そもそも労働生産性の概念は、抽象的な人間労働──これは〝近代の〟概念である──と個々の生産物(使用価値)とその量に関する関係であって、例えば同じ労働で、これまで米が10キログラム生産されていたのが、労働生産性の上昇の結果、20キロ生産されるようになったということ以上を、本来的には意味しないのである。

 異なった生産物を持ってきて、こちらのコストは、他の生産物のコストより小さいから、生産性が上だといっても意味がないのは、1台の自動車と1キロの米の価格は大きく違うから、自動車を生産する労働の方が米を生産する労働より生産性が大きいとか小さいとかいっても無意味なと同様である。

 そして結局ブルジョアには、生産性とは、労働者が1時間なら1時間あたりに上げた「成果」である。

「日本生産性本部によると、16年時点の日本の時間あたりの労働生産性は46ドル。米独の3分の2程度に留まる。長く働いても成果が出ていたわけではない」云々(日経新聞6・30)。

 この「成果」とはもちろん価値で表される付加価値やGDP等々であり、ある場合は企業(資本)の利潤である(つまりブルジョアは自分たちの都合のいいように、二重にこの言葉を用いる)。

 したがってまた、ブルジョアたちが生産性上昇でいうのは、労働者の「働き方改革」(利潤を最大にする労働の能率の向上、つまり労働時間の延長とか、残業代なき残業つまり労働強化による実質的な労賃の引き下げ)であって、他のコスト要因について何もいわない──少なくも、重視しない──のだが、それこそまさに安倍の「働き方改革」の核心でもある。

 安倍政権やブルジョアは、労働時間を短くしても、労働者に競争を強要して「効率的に」働かせることが、労働者の幸福を高め、生活も改善・向上し、資本も「成長」し、繁栄していいことずくめだというのだが、一体利潤を至上視し、搾取労働を根底とする、この資本主義社会で、そんなことがいかにして可能なのか。

 そんなものは、つまりアベノミクスなるものは、ブルジョアたちの世迷い言もしくは白昼夢であるか、さもなければ労働者をペテンにかける偽善もしくは幻想である。 

 労働者はブルジョアや安倍政権との闘いをより有効に、徹底的に闘い抜くためにも、労働の生産性についての正しい、〝科学的な〟概念を持つべきある。

   

資本家たちは戦々恐々
再現する金融パニックの悪夢

 9月15日はリーマンショックから丁度十年の〝記念日〟であり、商業新聞はその前後、リーマンショックの反省や近づきつつある新しい金融危機についての危惧や警戒心の記事で埋め尽くされた感があった。

 彼らには危機意識を抱かざるを得ない十分な理由があろうというものである。長く景気上昇が続いたといっても、本当の経済成長や繁栄とはほど遠く、しかもここに来て世界の強大国を中心に「国際協調」に代わって自国ファーストが横行し、米中を中心とする貿易戦争が突如勃発する等々、怪しげな黒雲が拡がり、さらには米国やEUから始まった利上げ等々の金融正常化──その客観的な正当性や必要性を認めるにしても──についての危惧や、ドル流出を契機とする新興国の通貨危機が浮上し、にわかに不穏な兆候にこと欠かなくなっている。

 中国経済がこけたら世界もこけるという恐れもあり(中国の企業──といっても、その中心は〝国有〟企業だが──の債務の膨張は半端でないが、そんな信用が崩壊するなら、その影響は決して中国の国境内に留まらないだろう)、ブルジョアたちは、気を休めるいとまもないかである。

 彼らはリーマンショック以降、大規模に実行してきた金融緩和策への自信を失い、債務の累積額の大きさに愕然とし、新たな経済危機の出現という悪夢に怯え始めている。

 彼らの気がかりの第一のものは、リーマンショックの時とは違った形の信用の膨張であり、世界的規模での巨大債務の急増である。

 国際金融協会(IIF)は、世界経済の政府、企業、家計、金融機関の債務残高の合計は、今や247兆ドル(2・7京円)という巨額なものに膨れあがり、リーマンショック後だけで、43%、75兆ドルも増大したことを明らかにしている。

 GDPを〝実物経済〟の規模と見なすのはもちろん正しくないが、しかし少なくとも〝実物経済〟の規模や運動と、信用膨張の規模が大きく乖離し、まさにリーマンショックにも劣らない、それを単なる本物の信用危機の先駆けにするような、巨大な金融危機さえやってこないという保証は何もない。

 こうした債務の異常な膨張の原因が、主として、世界の強大国とその中央銀行による金融緩和の名による、カネ(通貨)のバラまきによるものであることはいうまでもない。

 現代資本主義にあっては、国家によるカネのバラまきは、同時に、国家の債務の増大、信用の膨張──必ずとも正常でも、まともでもないような──であり、また国家はこうした形で、カネをバラまいて来たし、またバラまくことができたのである。

矛盾は債務膨張だけではない

 企業の債務増が28兆ドルというのはいいとして、政府の債務増加29兆ドルは必ずしも数字通りの意味を示すものではない。

 というのは、日本の経験からして、政府債務は中央銀行券が債務の肩代わりをする限り(つまり直接、間接を問わず、国債の日銀引き受けの形を取る限り)、事実上、国家の債務ではなく、紙幣の発行だからであり、まさに文字通りのカネのバラまきだからである。

 日銀の保有する「資産」(その大部分は国債)の規模は17年度決算によると、49兆円増えて528兆円になった。他方アメリカは2014年以降、国家資産(国債)の減少を図ったため482兆円で日本より少なくなり、EUと共に、さらに今後も減らそうとしている。EUの中銀は581兆だが、遠からず、相変わらず「資産」を増やし続ける日銀に世界一の地位を譲ることになるであろう。

 安倍政権のもと、日銀が年々80兆円もの国債を買い続けた──そして最近はそれを減らすといいつつも、なお数十兆円も買い続けている──結果、日銀の保有する国債は今や政府が発行した国債の半ば以上になっている。

 一体これは何を意味しているのだろうか。

 政府が年々数十兆円もの国家財政の赤字を埋めるために国債を発行し続け──つまり巨額の借金を積み重ねることを意味している──、国家がその債務を返済することはもちろん、利子さえ払えなくなるなら、国家は破産するしかない。

 ブルジョア国家がそれを回避するには、債務をもはや増やさないようにするに留まらず、既存の債務を減らし、返済する以外に、なすすべがないのは明らかである。

 日本などが、何百兆円もの国家債務を膨張させ、それを縮小するために指一本動かさず、維持しているのは(日本は無反省に、それをまだ増やそうとしている)、経済的に何を意味しているのだろうか。

 それは政府という国家機関の1千兆円の国家債務の過半(528兆円)を、他の国家機関の一つである日銀の債務に振り替えることであるが、客観的には政府が、それだけの金額の紙幣を発行したことと同じである。というのは、国家の借金のうちの半分は日銀が政府に返済を請求しない限り、事実上、国家債務では無くなるからである(悪名高い、日銀による国債の直接引き受けと同じである)。そして同じ政府機関の日銀が、政府を破綻に追い込む、そんな要求をすることは決してないのである。

 もちろん日銀が手持ちの国債を〝市場〟で販売するなら、できるなら、この限りではないが、そんな〝超〟緊縮政策を日銀がするはずもないし、また現実にできないのである。

 だから日銀の手中に帰した、528兆円という巨額の国債は、それだけ政府が紙幣を発行したということと同じであり、またそんなやり方で数百兆を越える富を、歴代の自民党や民主党の政府が、そして誰よりも安倍政権が、対価なしに国民から強暴に収奪し、有無をいわさず強奪したということと同様である。

 紙幣を発行するということは、政府もしくは国家が貨幣を、信用を、そして資本までも作り出し、創造するということ、しかも全くの〝無〟からそうするということであり、単に信用を作り出すこととは根本的に異なっている。

 国家が国債を発行するのは国家が信用を作り出すことであり、国家の債務は国家によって返済され、解消されなくてはならない、しかしその国債を日銀が「買う」なら、それは政府の信用創造を、債務を国家に代わって解消すること、事実上チャラにすることである、というのは、日銀の支払うカネは日銀が国民から借りたカネでも、政府のように税金として集めたカネでもなく、ただ輪転機を急速回転させて〝無〟から作り出したものにすぎないからである。

 かくして国家はその限り、万能の経済権力として登場し得るのだが、そんなことをなし得るのはただ万能の専制権力、ファシズム国家でしかないのは、国民全体に対して、万能の政治権力を手中にし、凶悪に行使し得るのがファシズム国家であるのと同様である。

 そしてブルジョア国家もしくは政府による紙幣の発行とは、まさに経済政策における〝超法規的〟なやり方であり、経済政策の無政府主義的な暴走、経済政策以外の何ものかへの移行であり、一口でいうなら経済的ファシズムの実現である。

新しい経済危機は違った形を取る?

 新しい経済危機が接近しつつある兆候はますます頻繁に、そしてますます明瞭に現れつつある。

 日本では、アベノミクスや黒田日銀の〝異次元の〟金融緩和が行き詰まり、今やその偽りの、一時的な効力よりも弊害や欠陥やマイナス作用が目立ち始め、リーマンショック後の〝膨張的な〟経済政策の修正や〝正常化〟がやかましく言われ始めている。

 もちろん彼らも、危機がリーマンショックと同じような形で再現するとは考えていない。彼らはリーマンショック以降、信用膨張や債務の無政府的な膨張に対する警戒心を抱き、金融機関の自己資本率の改善とか、安易で、乱脈な信用拡大に対する規制強化を図り、リーマンショックのような危機の再現に対する対応を十分やってきたから、世界の大銀行がリーマンショックのような危機に陥る条件はほとんどないと言いはやしている。

 しかしそれでも彼らの気がかりは膨れあがるばかりである。

 というのは、金融危機、経済危機は本質的には同じ原因から生じ、発展してくるとしても、それぞれ別の契機を有し、別のきっかけや原因からいくらでも生じてくるのであり、あれこれの違った形で現れ得るのである。

 過去の金融危機を見ても、日本の1990年代の後半の金融危機はまさに大銀行の危機、その膨れあがった不良債権から生じてきたし、20世紀末のアジアの金融危機やラテンアメリカで発展した危機は通貨危機として現象したし、リーマンショックは信用力の低い借り手に住宅ローンを貸し付け、その債権が「証券化」されて世界中の信用膨張とからみ合ったことから勃発した。

 だから世界のブルジョアたちが、今は銀行経営は健全であり、心配のタネは無いなどと――EUを見れば、これさえも怪しいのだが──、安心し、楽観しているなら、彼らは再び、三度、またまた苦い目を見、周章狼狽することになるだろう。

 アメリカの金融緩和政策の停止や利子率引き上げ政策は、経済の健全化、正常化のために不可欠といわれて実行に移されているが、しかしその一段階、一段階に、世界中のブルジョアは、とりわけ金融資本家は戦々恐々とし、怯えている。

 トランプが挑発した世界的な規模での、とりわけ世界の2大経済大国の米中の貿易戦争──これはまたさらに、為替戦争にも拡大しそうだが──、世界経済の分裂や対立、貿易の収縮や経済活動の萎縮等々につながろうとしている。

 安倍政権の登場の頃、リフレ派はインフレ政策、為替引き下げ政策、〝異次元の〟金融緩和政策や超低金利政策を、あるいは農業の保護政策等々、つまりは自国ファーストの諸政策を擁護し、こうした個々の自国ファーストの政策も、世界中の諸国家が「みんなでやれば怖くない」、というのは、例えば各国のインフレ政策や低為替政策は個々の国家の利益であると共に、すべての国家の利益であって、しかもすべての国家が行えばお互いに解消し合って困難に陥ることはないなどとまじめに主張し、正当化したが、しかし今や世界的な規模で行われ始めているむき出しの自国本位の経済政策は、リフレ派の主張とは反対に、世界の経済危機を深化させ、広げる、最も危険な契機として立ち現れている。

   

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