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労働の解放をめざす労働者党機関紙
海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
一部50円(税込み54円)

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1342号 2018年12月23日
【一面トップ】困難な介護問題の解決――共同体原理の適用以外ない
【1面サブ1】軍事大国へ突き進む――防衛大綱、空母導入など更なる軍拡へ
【1面サブ2】全国で前進する選挙闘争③ 神奈川――神奈川から旋風を!
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】年金格差を解消せよ――少なくとも1・5倍の枠内に
【二面トップ】不毛な論争に終止符を打つべき
 有用労働による生産手段の――「価値移転」論について(中)
【お断り】
【単行本の紹介】

※『海つばめ』PDF版見本

困難な介護問題の解決
共同体原理の適用以外ない

 団塊の世代が後期高齢者の仲間に大量に入ってくる時代に直面して、日本は、世界もまたいくらかでもまともで合理的な形で解決する、どんな方法も持てないまま究極的な破綻に向かっているとしか見えない。

大雑把にいって、日本の介護に携わる賃金労働者はすでに数百万の多きに達しており、多くの若い女性――若干の若い男性も――その仕事を担っている。

 今世紀に入り、〝介護の社会化〟の美名のもとに、介護保険制度が壮大な規模で始まったが、しかしそれは介護問題も〝カネで解決する〟というブルジョア的原理を根底においたため、今ではその内在的な矛盾のゆえに破綻に瀕しており――そのもっとも端的な現れが介護を担う労働者がいないこと、労働者の決定的不足である――、その矛盾や困難はわずかの期間に、介護を担う数十万の労働者を、アジアを中心に海外から移入しなくてはならなくなっているところにも現れている。

 アジアからくる若い労働力は、日本がアジアに余剰資本を輸出して、労働者を搾取した(ファースト・リテイリングなどの例を見よ)――時には過酷に、残酷に搾取した――カネで雇われてくるのである。

 自らの祖父母や父母の介護の問題だというのに、どこかおかしく、何か狂っていないのか、破廉恥ではないのか。

 動物には全く見られない厄介な介護という文化を、いつごろから人類が始めたのかは、いつかははっきりしないが、すでに170万年もの昔、ホモ・エレクトゥスの時代に、その痕跡が見られるという(NHK出版「絶滅の人類史」145頁)。私の生まれた長野県上田市の近くには、有名な姥捨て山伝説もある。

 現代の困難な、しかも緊急な課題となった、介護問題の決定的な解決には、ただ共同体的な原理を採用するしかないように思われる。社会主義的手法の先行的利用である。

 介護問題の解決のカギが共同体的原理の適用にあるとは、一体どういう意味内容であろうか。

 それは例えば社会の成員のすべてが、1日、自分と社会の生活と存続ために四時間なり、一定の時間、労働した後、1時間なり、半時間なりを介護のために働くということである。

 もちろん毎日、そんな不合理で、非効率的なことはすべきでないのは言うまでもないのは当然である。

 色々なやり方があるであろうが、例えば1年のうちの1か月間だけ介護の仕事に従事するというやり方も考えられる。

 あるいは人生のうち、2、3年間だけ、介護の仕事を担うという方法もある。韓国などいくつかのブルジョア国家では、兵役でそんなやり方を採用しているが、物騒な兵役などをやめて、介護で採用した方が、はるかに平和的で、社会のために有用であろう。(林紘義)

   

【1面サブ1】

軍事大国へ突き進む

防衛大綱、空母導入など更なる軍拡へ

 安倍政権は18日、日本の軍事力の在り方と水準を示す新「防衛計画の大綱」(防衛大綱)とこれにもとづく5か年間の軍備拡大計画である「中期防衛力整備計画」(中期防)を閣議決定した。「中期防」では今後2019~23年の5年間に過去最高の27・5兆円の軍事費を投入、空母導入を明記、軍事大国への野望を明らかにしている。

 大綱では宇宙、サイバーなどの新領域を「死活的に重要」だとし、これまでの陸海空自衛隊を融合した「宇宙領域専門部隊」の新設を謳っている。

 また太平洋側の防空体制を強化するとして、短距離で離陸し、垂直着陸が出来る戦闘機(STOVL機)の導入ができるように「いずも」型護衛艦の改修を明記している。

 歴代の政府は、日本は専守防衛のために攻撃型「空母」は保有できないとしてきた。このため中期防では、戦闘機を常時艦載するのではなく、有事などの場合に限るので攻撃型「空母」にはあたらないとしている。しかし、戦闘機を艦載できるようにするための「いずも」の改修が攻撃のためであることは明らかだ。

 こうした軍拡の背景には、中国の軍事力の強化、海洋進出がある。安倍政権は、米国との軍事的同盟を強め、軍備を増強して対抗しようとしているのである。

 「防衛大綱」、「中期防」にたいして、立憲民主党は「専守防衛を逸脱し、事実上の基地攻撃能力の保有になる」(「朝日新聞、12・9)、また共産党の小池も「5年で27兆円を超える大軍拡計画で空母や長距離巡行ミサイルを保有するなど憲法を蹂躙し、専守防衛の建前を投げ捨て、海外で戦争する能力をもつことになる」(「赤旗」、12・9)と批判している。

 「専守防衛」の範囲を超えているからよくないというが、「専守防衛」ならいいのか。しかし、なにをもって「攻撃」と「専守防衛」との違いとするかは明確ではない。

 自民党や反動派は日本が攻撃される危険があるとき、これを座視していていいのか。攻撃されてからでは遅すぎる。攻撃先の基地をたたくことは「防衛」することであり、有事に備えて相手国の攻撃基地を破壊する能力を持つミサイルや戦闘機や爆撃機を艦載する空母を保有することは専守防衛に違反することではない、立憲や共産がいうようにこれを禁止することは自滅行為だと反論する。

 これに対して共産党らはまともに反論できない。「自衛権は各国が持つ固有の権利」などといっていれば、自民党の土俵にのることであり、結局は彼らに屈服せざるを得ない。国家的な利害の対立関係があり、対立が激化するならいつでも戦争は起こりうるのであって、問題はどちらか先に攻撃したかは根本的な問題ではない。

 安倍政権が米国との軍事同盟を強化し、軍備の増強にはしっているのは、米国に並ぶ軍事大国となった中国に対抗して、帝国主義国家日本の権益を守るためである。日本が世界の軍事大国として登場してきているのにたいして、「専守防衛」からの逸脱といった小ブルジョア平和主義では闘うことは出来ない。(田口)


【1面サブ2】

全国で前進する選挙闘争③ 神奈川

神奈川から旋風を!

★衆院選から早や一年

 昨年の9月、当初衆院選を、年明けと予想していた神奈川支部は、横須賀中央駅でようやく街宣を開始したばかりであった。そこに降ってわいたような安倍の衆院解散で、その後の1か月はまさに嵐のような期間であった。全国の同志が、古い軍港都市横須賀に集まり、献身的に選挙活動を担ってくれた。

 その甲斐あって、圷候補は、3133票(1・6%)の健闘を見せた。全く無名の小政党が、これだけの票を獲得できたのも全党一丸となっての活動の賜物であった。また神奈川支部にとってうれしかったのは、この選挙闘争を、党員と同じように担ってくれたY女史が、選挙後に我々の仲間に加わってくれたことである。

 年が明けて、県内主要駅での宣伝戦が開始された。先ずは、因縁の横須賀中央駅から初めて平塚まで西に移り、その後は内陸部へ特に労働者の乗降客の多い駅を回った。これらの駅は、京浜地域以外ほとんど初めての経験であり、今更ながら駅周辺の活性化とその変貌に目を見張らされた。我われはほぼ主要な駅頭一四か所の街宣行脚を終わり、年明けからは再び川崎駅からの街宣を始める予定だ。

★17日の記者会見

 12月17日(月)には、県庁記者クラブで神奈川支部の記者会見が行われた(開始に当たって幹事社(時事通信)から、当日は他に取材があり(時間がないので)、予定候補者の発言から始めて欲しいと申し入れがあったのはいささか残念であった。

 まず司会の伊藤から昨年の衆院選神奈川11区での圷候補の闘いが紹介され、来年の参院選では全国で10名の候補者を立てて確認団体として闘うという力強い挨拶があり、圷候補の所信の表明に移った。

 圷氏は、小泉王国の11区で小泉がロクな演説もせず、握手を繰り返すだけのヒドイ選挙だったと昨年の衆院選を振り返った。また教員を退職した後、二つのアルバイトをしているが、食材製造の現場では外国人労働者が酷使されていること、また強行採決された改正入管難民法は、非人間的な技能実習制度を廃止せず、外国人労働者の待遇改善は全く期待できないこと、そして来年の参院選では労働者の代表として徹底的に闘いぬくと決意を述べた。

★国政選挙復帰の意義

 次に支部長の菊池が、11日(火)の記者会見が林議長の脳梗塞でいったん中止せざるを得なくなったことを謝罪した後、労働者党が(党名は違うが)過去8回国政選挙に参加し、うち3回は確認団体として闘ったこと、しかしながら累積した供託金の負担に耐え切れず、党を解体して政治サークルとして13年間活動してきたが、昨年党を再建し、財政的にも組織的にも弱体であるのを承知で、約30年ぶりに昨年の衆院選神奈川11区の参加と来年の参院選神奈川選挙区に参加を決意したことを述べた。共産党は、野党共闘と言っているが、小池新党にはせ参じようとした枝野らの立憲民主党やもっと右の国民民主党などと共闘したところで肝心な時に裏切られるのがオチだ、今、世界は激動の時代に入りつつある予兆がある。日本の労働者や若者も何時までも黙ってはいないだろう。労働者党は働く者の闘いの結集軸になるべく全力で闘う覚悟である、と述べた。

★19参院選に向けて

 その後質疑に移ったが、昨年の衆院選での記者会見で労働者党の主張や政策を知っているせいか、我われの主張や政策に関するものはほとんどなく、全国で10人候補者を擁立すると言うが、神奈川以外ではどこか、圷候補の肩書や職業は何と書けばよいか等々、であった。

 反省としては、我われの主張を簡潔に明瞭に訴える能力にまだまだ欠けていることだ。10社近くのマスコミが集まっているのだから短い時間を大いに利用すべきであった。 (神奈川)


【飛耳長目】

★安倍は「消費増税対策」として、たかが2%の増税に戦々兢々として極端な小心者の本性を暴露している。しかも2%の増税に対して数%の「対策」をするというのだが、それくらいなら、いっそ増税そのものを止めた方がましだ★バラ撒きに対してしぶい顔をする財務省の官僚たちも今回は安倍のバラ撒きに対しては何一つ文句を言わず、やらせ放題である。財務官僚も今年はともかく、来年以降は丸々2%増税の収入増となるからと思っているのである★しかし来年も2%増税が続くなら、これもまた「消費増税慢性不況」の原因にならないとどうして言えるのか。しかも今年数兆円もの「対策」をほどこした上での不況なら、来年は十兆円の「対策」が必要という理屈にならないのか★かくしてブルジョアや安倍政権の「増税対策」のナンセンスさや無力や全き不毛性が明らかになるのである。退廃する現代のブルジョアたちは、バラ撒きによって、ますます深化していく経済的矛盾や困難に立ち向かい、それを一掃しうると信じ、そんな場当たりのやり方を続けて来た★今やそんなやり方が立ち行かなくなり、矛盾がたまりにたまって、こんなやり方で矛盾を糊塗し先伸ばししても、それだけ来るべき矛盾の爆発は一層激しく、困難の噴出は一層大きく、深刻であり、現代資本主義の根底を脅かす決定的なものとして現れるしかないし、既に現れつつある。(鵬)

   

【主張】

年金格差を解消せよ
少なくとも1・5倍の枠内に

 高齢者に対する現行の年金制度はまさに、現役時代のひどい差別体制を引継ぎ――あるいは現在の差別制度を反映して――、極度の差別的な制度になっている。わずか月額数万円の基礎給付を受け取るだけで、まともな生活さえままならぬ数百万の困窮者がいるかと思うと、15万、20万ほどの給付で――しかも彼らは利子や配当や賃料等々の十分な多くの他の所得をもたらす資産や貯蓄にもこと欠かない――、やれ外国旅行だ、やれゴルフ三昧とか、やれ絵画とか詩歌等のあれこれの趣味などに生きがいを見いだす暇をもて余す元ブルジョアやエリートや高額所得者がいくらでもいる、挫折感に苦しみながらも、自分の人生の目的は、スポーツジムにせっせと通って長生きすることだとかうそぶく元活動家や、大して社会的な意味も持たないボランティア活動をやって――しかも自分のやっていることの無力や無意味さも十分に自覚して〝ごまめの歯ぎしり〟にふけりながら――、何ら安倍自民党政権に対する断固たる闘いに立ち上がることなく、しらけ、怠惰と深い絶望の中に沈潜し、苦悩しつつ、無為と無活動の中に後退していく〝教養人〟とか、政治闘争からは逃避して、無反省に優雅な〝余生〟を満喫している数百万のブルジョアやエリートや〝知識人〟等々の高齢者もいる。

 自分たちのそんな優雅な日々が、自分たちの子供たちや孫の現役世代の日々の厳しい労働のたまものであることを自覚してか、していないかは知らないが。情けなくも、嘆かわしい現実である。

 一体なぜ現役時代の大きな格差を老後まで引きずるのか、引きずらなくはならないのか。そもそも大企業の労働者と中小企業の労働者の労働の間に、そして正規労働者と非正規労働者の労働との間に、一体どれほどの違いがあったというのか。ほとんどなかったことだけは確かである。

 少なくとも年金格差は1・5倍の枠内に収められなくはならないのである。すなわち、8万と12万の支給額に、である(単位は個人の場合と総額とで考えて、万円でも兆円もどちらでもいい)。どちらの場合も支給額の総額は20万円(20兆円)で変わらない。

 もし上層と下層からそれぞれ1万円ずつ減額するとすれば、支給額の総額は18万円になり、軽減となる(総額でいうなら、総額2兆円の縮小である)。上層からさらに1万円減額して11万になり、現役世代の負担はさらに1万円(総額1兆円)だけ軽くなる。そうして悪い理由は何もない。

もちろん我々の理想は、現行の陳腐で、矮小な年金制度の改革や改良ではなく、その止揚であり、それに終止符を打つことである。

 「働かざる者、食うべからず」という、古来からの当然の原則が実現し、社会の成人の全員が自らの生活と生存のために働き、同時によき社会人とし、社会全体の存続のためにも働き、従ってまた、労働者への分配が労賃制度を通して、労働力の対価として行われるのではなく、労働者の労働(時間)を基準として分配が行われる社会が実現すると共に、つまり一切のブルジョア的な労賃制度が止揚され、大戦後に定着した日本特有で、すでに時代遅れとなり、したがって不合理となった年功序列型の賃金制度や年金制度も止揚され、面倒な議論もすべて不必要となる。

 しかし現在では我々は、何百万の人々の緊急の問題として年金格差の問題を語り、その即時一掃の要求を安部自民党政権に突きつけざるを得ない。(林紘義)


不毛な論争に終止符を打つべき
有用労働による生産手段の――「価値移転」論について(中)

 しかし資本家的商品も、資本家的に生産されたということを捨象すれば、それが単純商品と同じ価値規定性を、価値概念を受け取るということは、マルクスもつとに強調している真実であって、価値法則は資本主義の全体を、その根底を規定する法則であるからこそ価値法則である。

 単純商品もまたある意味では、資本主義的商品と同様に、「過去の労働」でもある、あるいは「生きた労働」と「過去の労働」の合計でもあるといえる。というのは、ここでは生産者はまず生産財を作ってから、消費財を作るからである。例えば魚を取って市場にもっていこうとする漁師は、まず釣り針を作ってから、魚を取るだろうからである。彼は同時に釣り針を作りながら、魚を取ろうとはしないし、そんなことは不可能だからである。

 しかし原始的な社会をロビンソン・クルーソーのような一人の社会として考えるのではなく、複数人の社会として考えることもできる。

 この場合、漁師の労働を「過去の労働」と、「生きた労働」と区別して、魚の「価値」を、そんな二つの労働の和として労働価値説を説明しようとすることに、一体どんな意義があるというのか。何もないということは自明で、そんなつまらない説明しようとすることに一体どんな意義があるのか。そんな無意味な試みは、せいぜいブルジョアたちの「費用学説」といった俗説――商品の価値もしくは価格は、資本(不変資本)の価値、賃金(可変資本の価値)、そして利潤とか地代とかの諸所得等々の総和である云々――といった俗論に行き着くしかないのは明らかではないのか。

 原始的社会を、ロビンソン・クルーソーのような一人の人間によってではなく、複数の人間(例えばもう一人フライデーという人物を加えよう)によって代表させることもできる。そしてその場合、二人が分業して、ロビンソンが魚取りし、フライデーが生産手段、つまり釣り針等々作りにもっぱら従事するとするなら、二人は時系列ではなくて同時進行的な形で生産財と消費財のすべてを作り出し、手にすることができるだろう。

我々は「過去の労働」や「価値移転論」のお世話になることなく、極めて合理的に一定の期間における、社会的なすべての生産物と、その生産のために支出される労働との関係を理解することができるのである。

 我々は発展した資本主義社会における総商品資本の価値規定の場合も、個別資本の運動に幻惑された「価値論」(価値移転論)によってではなく、むしろ広汎で全面的な、同時並行的に行われる労働者全体の生産的労働による分業関係を想定することによって解決され得るのである。

 資本論の「端緒としての」商品も、資本主義的生産の結果としての商品(商品資本)も、「商品」の規定性としては同じあり、抽象的労働と具体的有用労働の結果としての、つまり「価値」と使用価値の統一としての商品である。

 両者の違いは、前者が孤立した個々の生産者の労働によるものであるのに対して、資本主義的商品が無数の労働者の社会的分業による労働の結果であるということだけであって、前者は「生きた労働」による商品であるが、後者は「過去の労働」と「生きた労働」の和によるものだといったところにあるのではない。

 ある意味では単純商品もまた、一人の労働分割である限り、前の労働――生産財のための労働は、それに続く生産においては――いわんや最終の生産にとっては「過去の労働」として現象する。そして資本主義的商品にあっては、生産財のための労働は一般に「過去の労働」として現象するが――とりわけ個別資本(とりわけ貨幣資本、生産資本)の運動の場合には――、しかし広汎で、全面的な社会的分業の下では同時進行的であるし、また消費財を生産する労働の方が生産財を生産する労働に対して「過去の労働」として現れる可能性さえあり得るだろう。

 問題は資本主義的生産にあっては、生産の後先ではなくて、広汎な社会的分業であって、総体としての商品資本を考察すれば、それらは個々の商品と同様に、価値創造的な抽象的労働と使用価値を生産する有用労働の結合した労働の生産物として商品であることが確認されるのである。

 ここで注意され、確認されなくてはならないのは、過去の労働とか、前の労働とか、昨年の労働とか、生きた労働、生産財や消費財のための労働等々、そういったものの合計が商品であり、その価値だといったことでなく、資本主義的商品はただ広汎な社会的な分業による総労働の協同作業の結果としてのみ商品であるし、あり得るということだけである。

 もし総商品資本としての概念もまた、冒頭商品の概念と同様に規定されるとするなら、価値移転に対する多くの理屈のナンセンスや空虚さがたちまち明らかになり、問題が極めて単純となり、明瞭なものになるのは明らかである。そしてそうして悪いという理由、間違っているという理由は何もないのである、否、むしろそうした単純な真理からこそ出発すべきであって、有害で、空っぽで、時間とエネルギーを浪費するだけの議論など徹底的に否定し、葬り去られるべきということになるし、ならざるを得ない。

 我々が――我々のみが――、社会主義社会における、消費財の分配法則の発見という偉業をなし得たのは、「生産財の価値移転」論という空虚なドグマを克服し、断固としてそれと決別した限りで、決別したからこそであることが確認されなくてはならない。

「価値移転論」の隠された〝秘密〟

 価値移転論は、結局はブルジョアたちの観念であり、資本主義の現象にとらわれた妄説である。資本は(すでに貨幣もそうなのだが)ブルジョアたちには、「独立した価値」として、自己運動し、「自ら増殖する価値」として現象し、目に映るのだが、しかし活動家の中には、資本についてのこうした〝マルクスの〟外面的な価値概念に驚喜乱舞する、奇特な男もいたのである。それは私の同級生で、ブンド崩壊後、珍奇な急進派の小グループ「戦旗派」のリーダーにおさまった水沢史郎?であったが、生産財の〝マルクスの〟価値移転論に執着する面々も、彼とそれほど隔たった地点にいるわけではない。

 しかしマルクスが資本の概念として、「自ら運動し、増殖する価値」と規定したからといって、それが正しく、称賛されるべき観念だなどといわれたら、マルクスは苦笑し、その軽薄さと無知を軽蔑するだけであろう、というのは、そんな資本の概念は、現実に物化された社会関係としての資本の、外面的で、空虚な観念、ブルジョアたちが抱く資本概念を一歩も出ない、低俗な観念だからである。

 ところで、資本の価値移転についてやかましく騒ぎ立てる人々は、一体かつての水沢謀らと、どれだけ違った立場にいるというのだろうか。

 我々は早くから、彼らの誤りにおける根柢の本質的な同一性を明らかにし、指摘してきた。資本はそのものとしては、「独立した価値」であり、「自ら増殖する価値」として運動する。そしてそれは貨幣資本(や生産資本)として典型的である。しかし商品資本としての運動は、運動(循環)の最初と最後において、単純再生産を前提する限り、基本的に同等のものとして――価値においても、使用価値においても――現象する。

 かつてMは何らかのセミナーの場か、研究会か学習会の場か忘れたが、商品の交換関係を、つまり商品の商品形態の貨幣形態への変態を、そしてまた貨幣形態の商品形態への再変態を価値移転の一つの例として言及し、林の抗議を受けて大急ぎで撤回したが、しかし商品変態を価値移転として理解する神経は途方もないものである。ブルジョアは生産を開始するにあたって、自らの貨幣資本を生産手段等々の商品資本に形態変化するが、それは価値を移転させて手放したり、失ったのではなく、単に別の形態に転化したに過ぎないのは余りに明らかである。

 彼は貨幣資本を生産資本に転化したからといって、どんな「価値」も移転させず、したがって手放さず、最初に貨幣価値として保有していたものをただ生産資本の価値としてやはり所有しているのであり、またその後も価値は生産物(商品資本)の価値として彼の手もとにとどまるのである。最後に、彼はそれを売却することによって、最初の資本価値を剰余価値を伴って回収する。彼が貨幣価値として保持していたもの(出発点の元素的資本)を、この過程の最後に生産物価値として、商品資本として、つまり当初の資本価値を剰余価値を伴って回収し得るのは、一年間なら一年間の労働者の労働の成果のすべてを――価値においても、使用価値においても――自分のものとして所有するから、できるからにすぎない。資本を保有し、それを投じたのはブルジョアとしての彼であって、実際に労働し、生産した労働者ではないから、私的所有の権利が認められるこの資本主義の社会ではそうなるしかないから、である。

 資本主義の諸関係の〝物化された〟形態に幻惑されて資本主義を理解する、「価値移転」論者の軽率なブルジョア的本性が暴露されるのである。

〔続く〕(林紘義)

   

【お断り】

 私の小論に対し、私の批判の当事者であるМ氏から「事実と違っているから撤回せよ」と言う要請を受けています。彼が「事実と違う」と言いはやしている箇所は、本紙「『価値移転論』の〝隠された秘密〟」の項目の第4パラと第5パラ、とりわけ第5パラです。

 しかしここで言われていることは全て事実と真実であって、撤回することはもちろん修正することは何一つありません。この問題については次号の『海つばめ』で、連載を一時中断して詳しく論じたいと思いますので、よろしくお願います。(林)

   

【単行本の紹介】

日本共産党と『資本論』 マルクス主義の曲解とえせ解釈、そして教条主義と修正主義

 林紘義著

 全国社研社発行

 定価1800円

   

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