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労働の解放をめざす労働者党機関紙『海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
  または各支部・会員まで。
  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1354号 2019年6月16日
【一面トップ】野合共闘の「共通」政策――内部的矛盾で矛盾し、呉越同舟
【1面サブ】Eさんの知人への葉書――ツイッター、ブログを見てくれ
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】意味不明の市民連合要望書――賛同して結集したピエロの野党諸党
【二面トップ】細川氏著「『生活習慣病』批判」――党の観点に立つ氏のライフワーク
【二面サブ】《解説》『経・哲手稿』とは

※『海つばめ』PDF版見本

【1面トップ】

野合共闘の「共通」政策
内部的矛盾で矛盾し、呉越同舟

 野党は32の一人区のうち、30で野党共闘が成立し、これで勝ったかの浮かれようだが、単なる愚劣であり、余りにばかげているというしかない。そもそも野党と市民派の合意による13項目による「共通政策」――野党共闘派のいわば選挙綱領――だが、市民派の提案を受けて野党が署名したのだという。最初から市民派に追随し、迎合したものであって、野党のいい加減さ、主体性の欠如を暴露したものでしかない。

 そもそも市民派といった、素性も基本的な思想も立場定かではないようなインテリたちを信頼していいのか、「市民」といってどんな連中なのか。インテリたちが勝手に「市民」を名乗り、プチブルインテリの偏狭な見地を偉そうに押し出し、うぬぼれているだけではないのか。

安倍のやる改憲は反対? 

 まず「共通政策」の憲法改定問題だが、「安倍9条改憲・発議の阻止」を謳っているが、なぜ「安倍(政権のもとでの)改憲」に反対なのか、その意味は何なのか、他の改憲があるというのか、立・民や共産は「安倍改憲」とは違った「改憲」があるというなら、それを提示すべきだし(実は共産にさえあるし国・民には改憲論者がぞろぞろいるのは周知のことだし、立・民の山尾も、安倍の提起する改憲論議に具体的、「積極的に関与すべきだ」と意味は曖昧だが、枝野の執行部の闘い方に異議を唱えている)。いずれにしろ、「安倍改憲には反対」などと謳うことはナンセンスだし、自らも「改憲」を否定しないという、「衣の下に鎧が見える」の類の表現である。内実はバラバラの呉越同舟、寄り合い世帯以上ではない野党共闘のおそまつな本性が透けて見えている。

 実は共産党がある意味ではれっきとした「改憲論者」であるのはいくらでも証拠がある。彼らは、今の憲法では自衛隊は持てないが、「将来日本が独立したあかつきには、憲法改定して軍隊を持てるようにする」と公然と語ってきた。

 彼らはまた現行憲法が絶対平和主義の憲法であり、自衛隊はアメリカに従属し、「真の独立」を失っている〝半植民地国家〟〝従属国家〟である日本の軍隊、日本の〝真の〟独立を守るための軍隊ではなく、「アメリカのための」軍隊だから、自衛隊に反対するといった世迷言を弄するのだが、二つの理由を並べることすらおかしなことだが、しかもこの自衛隊を拒否する契機が論理的にバラバラで、何の結びつきもないのである。

 そしてまた、なぜ「憲法発議の阻止」なのか、国民投票をなぜ恐れるのか、国民を信用しない、できないのか、「発議」されたら負けると決めて、あきらめるということか、臆病な敗北主義ではないのか。それにしても、野党や共産は何というつまらないことを偉そうにいうのだろうか。労働者・働く者に対する不信、ここに極まれりである。

 共産党や立・民は敗戦後一貫して、憲法9条によって日本の「平和」が守られてきたと、市民派やリベラル派とともに言いはやしてきた。

 しかし一つの法によって、一国の平和が守られたり、それが守られなくなったりするなどというのは、戦争と平和における、全くナンセンスな観念論でしかないのは、第一次大戦後、1918年のウイルソンの14ヶ条や1928年の「不戦条約」やドイツのワイマール憲法等々によっても、第二次世界大戦が「阻止」されなかったことからも完全に歴史的に、事実でもって証明されているのである。

 日本憲法によって、日本が戦争を経験しなかったというのは、一面的なドグマではないのか。確かにそれは本当らしく思われる。しかし日本は敗戦後の「朝鮮戦争」にはいろいろな意味で関与したし、軍事的にもアメリカ軍を助けて色々な意味で〝参戦〟したが、それはベトナム戦争や中東戦争やイラン戦争でも同様であった。ブッシュのイラク戦争は完璧な侵略戦争だったことが後に明らかになったが、小泉は「自衛隊が行くところが安全地帯です」といった名言(迷言)とともに自衛隊を戦場に送っている。

 しかも3年前の安保関連法(戦争法)の成立以降、野党は「日本は戦争する国家、できる国家になった」と散々に言いはやしているのである。矛盾ではないのか。平和憲法のもとでも〝戦争法〟が成立することによって「戦争をする国家」になったとするなら、単に憲法を守れでは、平和国家としてやって行けることはない、あり得ないということの証明ではないのか。

 共産や野党の観念論が破綻しているのは自明である、にもかかわらず共産や野党はそんなドグマやたわごとをほざいて、戦後一貫して労働者・働く者をだましてきたし、今もしているのである。

消費増税を決めたのは野党共闘派

 「消費税10%の廃止」に至っては、さらに厚かましいというしかない。野党が今こんなスローガンを掲げる資格がどこにあるというのか、自分たちのやってきたことを反省しているのか。

 野党共闘派には、消費増税に反対する理由も資格もないことを、彼らは都合よく忘れている。彼らはそもそも民主党の政権(野田政権)こそが、2012年、野党だった自公と組んで、5%の消費税の10%への引き上げを決めたということを思い出すべきなのである。民主党とは今の立・民であり、国・民の諸君ではないのか。自ら7年前に決めた野党が今なぜ、いかにして消費増税反対を叫ぶのか、叫ぶことができるのか。 彼らはあまりに厚顔無恥、無節操で、政治的、道徳的に破綻していると結論するしかない。

 それに、そもそも「消費税10%の廃止」とはどういう意味か。10%の消費税廃止を今回の参院選で問おうというのか、それとも8%の消費税を10%に引き上げることに反対ということか。何のためにこんなあいまいな政策が必要なのか。野党共闘派はまずこうしたことからはっきりさせるべきである。

 沖縄の基地問題も同様である。「普天間基地の早期返還と新基地建設の中止」を掲げるが、そもそも09年に政権を握った鳩山民主党政権は、当初、「少なくとも県外移設」を公約して出発し、沖縄県民に大きな期待を寄せられたのだか、政権に着くと直ぐに動揺し始め、〝迷走〟した結果、元の木阿弥に、普天間基地の現状維持に回帰してしまった。そんな連中が、民主党政権のまともな総括もできないままに、また同じような主張や政策を謳って、労働者・働く者が白けるだけだとしても、それは労働者・働く者の罪でないことは余に明らかである。

 さらに「いまの状況下の再稼働は認めず、原発ゼロを目指す」というのだが、どういう意味かさえもはっきりしない。「いまの状況下」という理由は、野党共闘派の中に、国・民や電力労組など原発容認派がいることを配慮した表現だが、要するに野党共闘派は結局原発に反対なのか、賛成なのかは明言しない、断言しないということである。

 有権者はこうした野党共闘派の根本的な限界をしっかり確認しておくべきであろう、というのは仮に野党共闘派が政権を握っても、原発政策も今の安倍政権、自民党政権と全く変わらないということだからである。

野党共闘派の「共同政策」は無力で欺瞞的

 そして我々が何よりも危惧するのは野党共闘の政治が消費重視、金融緩和重視、財政膨張重視、つまり流行りのバラまき政治そのものに、つまりミニ安倍政権型に堕していくこと、経済も財政も金融も社会保障もメチャクチャにし、解体して行きかねないということである。ギリシャや今のベネズエラにも似た国家に誘導し、おとしめ、労働者・働く者の労働(職場)も生活も人生も破壊していきかねないということである。

 何しろかつての民主党政権は、安倍政権の〝異次元の〟バラまき政策の元祖みたいな存在だったからである。

 10年まえ、「とにかく政権交代そのものが必要であり、大事だ」といった、無原則で、不謹慎なスローガンのもとで政権の座に就いた民主党は、安倍政権の乳幼児教育無償化や全世代型社会保障など足元にも及ばないような「子育て支援」という壮大なバラまき政策を始めたが、それは0才児から中学卒業までの子供に、月額26000円、年間31万円余――これは所得は問わず、すべての家庭に支給される――といったものであった。

 この時、野党だった自民党は、高所得者に支給する必要ない、それではバラまきだと批判したが、今は乳幼児教育無償化では所得を問わず、あるいはむしろ主として高所得者に厚く支給するというのだから、人は権力を握ると変われば変わるものであると感服するしかない。

 以上簡単に野党共闘の共通の参院選の政綱を検討してきたが、結論はただ一つ、野党共闘は完璧に無力で、余りにナンセンスで、みんな集まってもゼロはいくら集まってもゼロにしかならず、安倍政権を圧倒するどころか、1昨年の総選挙と同様に完敗するしかないということである。労働者・働く者の一人一人の支持を、そして労働者・働く者の全体の支持を労働者党に集中し、参院選では比例区と選挙区で快勝し、多くの労働者党の議席を勝ち取ろう。

   

【1面サブ】

Eさんの知人への葉書――ツイッター、ブログを見てくれと

 『海つばめ』読者Eさんが知人に送ったという葉書です。Eさんが送ってくれたので紹介します。ちなみにEさんは、ポスター貼りをすると言っていますし、「応援する会」の集まりにも参加の予定です。

前略

 俺は毎朝PCで「労働の開放をめざす労働者党」のツィッター、ブログをみる。代表委員会メッセージ、機関紙もみる。

 タダで読むことができる。機関紙の名は『海つばめ』。小さな組織だから隔週発行。

 はじめて読んでみて、こういう見方・考え方があるのだと思うかもしれない。それはそれで良い。

 党名が長い。単に「労働者党」(略称でそう云うようだ)とできなかったのは、独ナチが「国家社会主義ドイツ労働者党」という党名を使ったせいだろうと俺は考えている。もちろん「共産党」の名も使えない。

 弱小な党が今夏の参議院選挙で10名の候補者を立てることにした。

 悪名高い供託金だけで4200万円かかることになる。没収されると戻ってこない。

 俺は今年の8月で74歳になる。

 PCで読んでみよう。


【飛耳長目】

★志位が天皇制を肯定し、支持した方針転換を、つまり裏切りを隠し、弁解するために赤旗の4頁をフルに使って、長広舌を振るっている。よくもまあ、空虚な理屈を思いつき、長々と屁理屈や詭弁を語り続けられるかと、その異様な才能に呆れるばかりだ★志位の論理は、現実と、彼の観念や願望を混同し、願望を現実にすり替えることで成り立っている。現在の天皇制は「有権者・国民のコントロールのもとに置かれた」という幻想から出発し、従って現実もそうだと主張し、願望するのであり、あるいは労働者の任務は、憲法の天皇制規定条項をしっかり守らせることだと主張する★志位は、天皇制がいまや実際に安倍政権によって、安倍政権とその延命のために百%利用されていること、完全に政治的な存在になっている現実から目をそらせ、それが憲法の規定に沿って行われていることを見ないのであり、天皇制の無害を説くばかりか、天皇制を美化し、迎合して恥じないのである。反動的で、裏切りをこととするプチブル悪党政治家の面目躍如である★戦後、三笠宮は新憲法下では、天皇一家は政府の奴隷になるしかないと嘆き、危惧したように、天皇制はいまや安倍政権の意のままに動く一種の奴隷として、安倍政権に忠実に奉仕し、協力するのだが、それはまた、それが天皇一家が生き延びる最善最強の道であることを自覚しているからである。(鵬)

   

【主張】

意味不明の市民連合要望書
賛同して結集したピエロの野党諸党

 野党4党が、市民連合の意味不明の要望書によって、野党共闘をめでたく成立させた。それがどんなものであるかは、市民派の要望書をほんの少しでも検討しただけで明らかになる。  市民派要望書の最重要な内容は以下のようなものである。

 「安全保障関連法の廃止と立憲主義の回復(集団自衛権行使容認の閣議決定の撤回を含む)を実現すること、そのための前提として、参議院において与党および改憲勢力が3分の2の議席を獲得し、憲法改正へと動くことを何としても阻止することを望みます」。

 まさに市民派の痴呆的愚劣さを教える文章である。

 「安全保障関連法の廃止」と「立憲主義の回復」が並置されているが、一体この両者の観念は如何なるものであり、いかなる内的関連があるというのか。そんな関連は、市民派の頭にあるだけで、客観的には別個の二つのことである。

 加えて「集団自衛権行使容認の閣議決定の撤回」が「含まれる」というのだから、問題はますます混沌とし、何がどうなっているのか、どう考え、行動すべきかはさらに不明である。

 そもそも「立憲主義」とは、その「回復」とは何か、そんな理念問題が「安全保障関連法の廃止」という困難な政治課題とどこで、どう結びつくのか。現実と遊離したところで、頭の中だけの、そして自己満足の観念的お遊戯に没頭しているだけではないのか。

 「立憲主義」の観念とその歴史性を、そしてそれが進歩的で、実質的、現実的な意味や意義――限界のある――を持っていたのは、せいぜい17から19世紀のブルジョア革命の時代であり、そんな観念を自らの政治の根底理念として保持することは、自らの反動性と恥ずべき無知とアナクロニズムをさらけ出すことであることではないのか(立憲主義の内容と概念について、論じる暇も紙面もないが)。

 そしてそんな立憲主義等々の「回復」を実現するための「最低限度の前提」が、参院選において、改憲派の3分の2の議席獲得を「阻止する」ことにあるなどというのも、訳の分からないたわ言の類である。

 参議院の3分の1以上の議席を改憲反対派が獲得することが、立憲主義等々の「回復の最低限度の前提」というなら、日本語として何とか理解可能かもしれないが、概念としてはチンプンカンプンでしかない。

 市民派や野党は今国会に立憲主義は存在しないといっているのか、とするなら、立憲主義の「回復」にはなぜ過半数の議席が必要だと単純明確に言わないで、3分の1の議席でいいのか、現行憲法をそのままにしておくことが立憲主義の回復と、どういう関係があるのか。内的で、必然的な関係などはない。

 また「最低限の前提」とはどういう意味なのか、次々と分かったような、分からないような曖昧な言葉、言葉の山が続くだけで、理念的、実践的に明らかになることは何もない。

 要するに、今は3分の1以上の議席をどんな方法によっても確保して、憲法を守ればいつの日にか立憲主義は「回復」するが、憲法9条が改定されれば、その希望は無くなるという、矮小低俗な観念と、被害妄想、小心の敗北主義があるだけである。

 臆病のプチブルやインテリたちや、気楽な学生らは空っぽなおしゃべりと、頭の中だけの安倍政権との闘いに明け暮れようと、それは何百何千万の労働者の生活や闘いとは何の関係もない別世界の余計な無駄ごとであり、〝雑事〟である。 そんなどうでもいいことは、市民派や野党の暇人たちに任せて、労働者とその政党は、安倍政権とその政治に反対する、現実的で、実践的な確固たる闘いに勇躍として赴き、勝利するだけである。


【2面トップ】

細川氏著「『生活習慣病』批判」
   

党の観点に立つ氏のライフワーク

 「労働環境病」を強調する細川勝紀氏の待望されていた著書がようやく出版された。一読して、我々にとっても学ぶことの多い、重要な労作だと感じた。原稿は昨年、早くからほぼ完成されていたようだが、本人が念には念を入れたかったのか出版が遅れ、心配していたが、ようやく日の目を見てうれしくも、頼もしくも思った。我が党と、その闘いにとっても、一つの大きな助っ人の出現である。

 「労働環境病の提唱――『生活習慣病』批判」という本名からも明らかなように、氏が課題とするのは、今、癌とか心臓病とか脳卒中など現代の3大病を始めとする多くの疾病や死因の原因を、「生活習慣病」という命名によって扱い、軽率に片付けようとする現代医学の大勢に抗議し、片手落ちであり、考え方の方向がおかしく、間違っているという強い警告でもある。

 氏が強調するのは、労働者・働く者の健康や生活を損ない、様々な病気にいざなうのは「生活習慣」ではなく、彼らの生活と人生にとって最も基礎的であり、本質的な契機である日々の労働(生産的労働)であり、それが資本主義と市場経済の下では、氏も冒頭でも引用するマルクスの『経哲手稿』の言葉を借りれば、全面的に「疎外された」労働であり(本書33ページ以下参照)、それこそが、「労働者における慢性的なストレス」をもたらすのであり、したがってまた労働者・働く者の「生活習慣」を規定するのであり、多くの生活習慣病の原因をなしている、つまり生活習慣病は原因でなく、むしろ結果でしかないということである。

 だから氏は、〝悪い〟生活習慣病もまた個人生活や消費の問題である以前に、悪い〝生産と労働〟にこそ、その真の原因があると、執拗に、あらゆる方面から告発して止まないのである。

 生活習慣病の論理が、結局は病気の原因を労働者・働く者の個人的な責任に帰し、資本の支配と搾取を免罪し、ブルジョアたちの責任を回避することに対する、氏の批判と怒りは、氏の著書を貫く通底音であり、規定音である。

 結局は、氏は流行のイデオロギーである「生活習慣病」の論理は、生活環境の中の生活や「消費」に重点を置くのだが――経済学でも、現実の政策でも、ブルジョアや共産党のプチブルたちが、「生産」や労働でなく、狭い意味での日常生活や「消費」を重視、問題とし、そこから出発すると同様に――、他方、氏は、広い意味での生活の中の労働や「生産」を重視し、思考と論理の根底に置き、したがってまた「疎外された労働の解放」をまず問題にすると言えるのだが、その限り、氏は我々の党名である「労働の解放をめざす労働者党」の政治と立場に無限に接近されるのであり、我々の党とその闘いに深い共感と大きな期待を寄せられるのだが、それは決して偶然ではない。

 氏の結論は以下のようなものである。

 「関係するのは、社会生活全般であり、衣食住、労働の仕方、経済状況などである。このことが分かっていて、すべてを個人の悪い生活習慣の責任にし、他の問題は口を閉ざす、政府のやり方が非科学的なのである。労働の問題は、初めからストレッサー〔抑圧要因。ストレスの契機〕から除外してあるのである。うつ病になっても、会社の働かせ方が悪いのではなく、うつ病になった本人が、会社のやり方に合わないということを、結果的に悪いとされてしまうのである。

 主要疾患の主な原因は、悪い個人的な生活習慣ではなく、今では人生の半分を占める労働のありようなのである。この悪い生活習慣をもたらす労働のありようを検討しない医学は、科学たり得ないのである」(152頁)。

 氏は一介の医者でありながら、解決の出発点として、「労働者、政権を作ろう」と本の中で何回も訴えている。例えばコラム欄の「自殺と失業率」の中では、こんな具合に、である。

 「失業率上昇後は、職場環境の悪化により、仕事のストレスが増え、心筋梗塞・脳卒中が起きてくる。その後、失業による経済的困窮からの脱出が展望できずに、自殺が増えるのである。

 資本主義社会では、賃金を抑えるために、必然的に過剰労働人口が生まれるのである。失業などで自殺を考えるようになった人は、自殺へのエネルギーを資本主義社会への怒りに変え、しぶとく生き抜こう。そして、労働者政権を作ろう」(65頁)。

 事実上、氏は人類の多くの、様々な疾病からの「解放」が、労働者・働く者の労働の資本主義からの「解放」と結びつき、依存していると強調するのだから、そんな〝非正統な〟観念が、エリートである医師世界や医学会から高く評価されるはずもないのである。

 だが資本の強制労働や搾取労働に絶望し、憤激する多くの労働者・働く者にとっては、氏の論理や観念は身近で、身につまされるものであり、大きな共感、共鳴を呼ぶだろう。

 しかし氏の著書は「労働環境病」をいたずらに強調するだけの何か狭い書物と理解するのは間違いである。

 氏のこの著作は、氏が20年以上にもわたって、毎月1回出し続けていた「細川医院便り」の一部として、医療実践に携わる傍ら、医療問題と理論について研究し、考えたことを書き続けてきた文章を編集し、まとめたものであり、氏の長年の理論的研鑽と思考と努力のたまものであり、結果でもある。

 だから氏の本は深い思索と反省の書であると共に、豊かな知識と教養やユーモアや氏の限りなく優しい心情や謙譲さがあふれる楽しい書物でもあるし、ある意味では明治維新以降の日本資本主義の政治経済史の興味ある素描でもある。ちりばめられた多くの知見も散見される。植民地下で日本の天皇制軍国主義国家の下で多くの苦難をなめた朝鮮の人々や在日朝鮮の人々に対し、氏は日本人としても、個人としても次のように謝罪するのである。

 「現在まで、様々の差別に満ちた在日朝鮮の方々の苦難に、日本人の一人として心からお詫びします。また、私事で申し訳ないが、小学生の時、差別用語でいじめたナカムラさんに心からお詫びします」(109頁)。

 私は本の草稿を読ませていただいたとき、唯一、タバコについての肯定叙述について意見を言わせていだいたが――、何しろ嫌煙家のドグマに凝り固まってしまった人間なので――、それを考慮してだいぶ〝公平な〟書き方になったようですが、本当にそうなったのか、もし信念をまげ、そうなったのなら申し訳ないことをしたと思っています。何しろ、私の嫌煙観念には何の科学的な根拠もないかもしれないのですから(最近、コーヒーの有害、無害も、個々人によって異なり、反対ですらあり得るという事実をテレビで知らされました)。

 私は、『海つばめ』の読者も、ぜひ細川氏のこの本の意義と価値を評価し一読してほしいし、また多くの人々に奨めていただきたく思います。読みやすい、簡潔な文章で書かれてもいます。

     (林紘義)

(定価1000円+税、第三書館発行)

   

【2面サブ】

《解説》『経・哲手稿』とは

 マルクスの『経・哲手稿』(『経済学・哲学手稿』)は、20代の若きマルクスが、〝哲学〟から現代のブルジョア社会の「解剖学」である経済学(スミス、リカードを中心とする「古典派経済」)に関心を移し、その内在的批判的分析を通して、マルクス主義〝経済学〟の確立=経済学批判をやりとげる出発点とも基礎ともなった、『資本論』の理解に不可欠な文書といえる。

 その中でマルクスは賃労働は、労働者の資本による奴隷化の手段であるとともに、労働の疎外=外化形態であって、止揚されなくてはならないと情熱的に論じている。

 マルクスはサンシモン主義者のビュレを引用しつつ「労賃」の部分で次のように論じている。

 「労働力商品が多量に供給されると『商品としては、労働はますます価格を下げざるをえない。』一方では、資本家と労働者の競争が、他方では労働者たち相互の間の競争がこのことを余儀なくさせるのだ。『労働者人口、すなわち労働の売り手は、強制的に生産物のわずかな分け前しか得られない、労働を商品と見る理論は、仮装した奴隷制の理論でしかない。』大製作所は特に婦人や子どもの労働を買うが、それは男の労働より少ない費用で済むからだ。『労働者は、彼を雇用する者に対して、自由な売り手の立場に立っているのではない・・・資本家が労働を雇用することは常に自由であるが、労働者は労働を売ることを常に強制されている。・・・もし、労働(者)は毎日食物によって代謝されなかったならば、死滅する。従って、人間の生命が一つの商品であるためには奴隷制を承認しなければならない。』

 それゆえ、労働が一つの商品であるとするならば、それはもっとも不幸な特性をもった商品なのである。国民経済学の諸原則から見てさえも、労働は商品ではない。なぜなら、労働は自由な結果ではないからである。現在の経済制度は、労働の価格とその報酬とを下落させ、労働者を完全なものに作りあげるが、人間を下落させている。」。

 まさに参院選を前に、「8時間労働を勝ち取ってまともで、普通の生活を送れるようにしよう」などと賃労働制(マルクスの言葉によれば、労働者に対する奴隷制)に対する気楽な幻想を振りまいているような、共産党の能天気な諸君に読ませたい文章である。

 さらにマルクスは言う。「国民経済学者は、起源から見ても概念上から見ても、労働の全生産物は労働者に属するという。

 しかし同時に彼らは現実においては、労働者の手に入るのは生産物のうちの最小部分、全く必要不可欠の部分だけだという。

 つまり、労働者が人間としてでなく、労働者として生存するに必要なだけ、また労働者が人類としてでなく、労働者という奴隷階級として繁殖するに必要なだけという。」

   

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