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労働の解放をめざす労働者党機関紙
海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
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  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1335号 2018年9月9日
【一面トップ】世界史は変わり始めたのか――米国青年の〝社会主義化〟
【1面サブ1】国の見え透いた新提案――遠のく同一労働同一賃金実現
【1面サブ2】参院選を闘う10名の面々⑥――大阪選挙区の佐々木一郎さん
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】政権にすり寄る連合―― 立民は、国民はどこへ?
【二面トップ】昭和天皇と「戦争責任」――責任回避と人間的卑しさと
【二面サブ】読者の疑問に答えて――闘いのスローガンは実践的に

※『海つばめ』PDF版見本

世界史は変わり始めたのか
米国青年の〝社会主義化〟

 米国の青年たちが〝左翼化〟し、〝社会主義化〟しているという。民主党の大統領候補決定選でクリントンと争って惜しくも敗れたサンダースに熱狂し、期待した世代であり、彼らはさらに〝左〟に傾き、いまや〝民主社会主義〟どころか、〝社会主義〟そのものに賛成しているというが、しかし社会主義にも色々あろうというもので、彼らの登場の歴史的な意義や可能性と共に、その限界もまた正しく明らかにされなくてはならない。

 学生たちが、第二次世界大戦後の既成の社会主義、共産主義運動に、したがってまた労働運動に愛想を尽かし、新しい社会主義や共産主義を掲げて運動を展開したのは、1958年頃から始まった、日本の〝新左翼〟運動を皮切りに、枚挙にいとまない。いま米国の遅れてきた〝新左翼〟運動が模範とする、フランスの〝5月革命〟運動(1968年)もまたその流れの一部、一環であった。

 米国の青年たちが社会主義に傾いているといっても、その主流はやはりサンダース流の民主社会主義であって──彼が大統領選で青年たちを引きつけたのは、大学教育の無償化や国民皆保険の徹底拡大を求めたからであるにすぎない──、社会主義陣営の最大の党派は、サンダース派の「全米民主社会主義者」である。この党派は16年の5000人から、そのメンバーをわずか2年で10倍の5万人に急増させている。

 とはいえ、〝格差〟──問題になっているのは、必ずしも階級格差つまり生産現場における労働の搾取の強化ではない──の拡大する中で、資本主義を呪詛し、したがってまた〝社会主義〟という言葉に反感を抱くどころか、それに期待し、自ら社会主義者を自称する青年が巷に溢れるような情況が米国で見られるのは、第一次世界大戦末から1930年代のルーズベルトの時代にかけて以降は絶えてなかったことであり、注目に値する。

 2016年のある調査結果だというが、社会主義を「好ましい」経済体制と見なす米国民が35%もおり、20代の青年に限ると55%というが、これは確かに驚くべき現象であり、国際的に、スターリン主義の支配と共に始まった、1世紀にも及ぶ社会主義、共産主義運動の冬の時代が終わり、風向きが変わって新しい時代の風が吹き始めている兆候といえるかもしれない。

 だがこうしたことは、真の革命的社会主義の運動が、こうした動きの中から生まれ、結晶し、本当の闘いに移っていくかどうかということとはまた別の話であり、そんな方向に進むには多くの困難と経験と闘いが必要であるのは、我々の過去を振り返ってみるだけでも十分確認できる。

 米国の青年たちは、資本主義への幻想からさめ始めており、資本主義に変わるに社会主義だというが、しかし資本主義とは何かを歴史的に、〝社会科学的に〟理解しておらず、したがってまた社会主義についても本当の知識はほとんど持っていないのは、60年代から70年代にかけての、日本の新左翼の若者たちがそうであったのと同様である。

 例えば、日本の場合は、彼らの多くは毛沢東主義やその〝文化大革命〟や〝共産主義〟に夢中になれるほどに、歴史と現実について全き無知の中にあって、したがってまた簡単に無意味で反動的なテロリストに堕落するか、挫折してブルジョア社会に融合し、腐ってしまうのがオチだった。

 米国の社会主義について語る若者も、社会主義とは何より階級闘争の問題であり、さらには長期にわたるすぐれて政治的な闘いの問題であることを理解しているようには全く見えない。

 「選挙では何も変わらない」、ゼネストやデモで闘う、理想は学生と労働者が共に決起し、闘って成果を実力で勝ち取った、1968年のパリ5月革命だ、などと安直に浮かれているが──〝学生〟という、自分の客観的な社会的立場や立ち位置を反省することなく──、かつての日本の急進的な学生活動家たちと同様の、苦い幻滅と挫折と雪崩のような転向を繰り返さないという保証も何もない。

 我々は、こうした運動や趨勢から何が生まれるかを注意深く見守りつつ、状況に応じて、階級的で、真の社会主義的要素と結びつき、連帯することを追求していくべきであろう。

   

【1面サブ1】

国の見え透いた新提案
遠のく同一労働同一賃金実現

 安倍は総裁選挙の中でも、「働き方改革」を断行し、「同一労働同一賃金」を実現するかの幻想をなおも振りまいている。しかしそんなものは、「アベノミクス」のすべてのスローガンや約束と同様、みな偽りの空約束であり、決して実現され得ない、あるいは些細なところではほんのおざなりに実現されるだけで、基本的なところでは、ますます悪化さえしかねないような、そんな類の〝改革〟である。

 8月末、同一労働同一賃金について、「具体的なルール作りを定めるガイドライン(指針)作り」の議論、検討が、労働政策審議会(厚生労働大臣、つまり〝官許の〟、内閣お手盛りの諮問機関)で始まったが、これまでの政策に付け加えて、「正社員の待遇を一方的に──注目! 引用者──引き下げて実現するのは望ましくないという考え」が新しく、ことさらに盛り込まれた(朝日新聞8月31日)。

 一見して、労働者全体の利益を重視して当然かに見えるが、同一労働同一賃金の即時実現の取り組みを骨抜きにし、またはるか前方に先延ばしする、ブルジョア勢力と安倍政権の隠された意図が見え見えである。

 そんな新しい策動が無くても、すでに同一労働同一賃金の骨抜きは十二分に行われてきている。安倍政権の同一労働同一賃金の実現は最初から、枝葉の部分に置いてはもっともらしく行われるが、肝心要の根本的なところではほとんど現状のままである。

 つまり改善、改革は、通勤手当とか皆勤手当とかの、いくつかの手当や、食堂・休憩室・更衣室の利用といった、企業にとってほとんど新しい費用を必要としないといったところに限られていて、同一労働同一賃金の実現にとって最も根底的な基本給や賞与や、何よりも非正規労働者の社会的な地位や権利などではおざなりの変化を謳うにすぎない。

 そして国は、いまそれに加えて、「正社員の待遇を一方的に引き下げて実現するのは望ましくない」という、ご立派な新規の観念を麗々しく持ちだしたが、その〝心〟は何であろうか。

 これはつまり、ブルジョアたちが、儲けの中から労働者に支払う賃金の総体を全体として前提するなら、つまり彼らの得意とする〝資本の支払い能力〟といった理屈を持ち出すなら、非正規労働者の賃金差別の一掃は不可能であるという御宣託である。

 もちろん労働者が全体として決起し、大幅な賃上げを勝ち取り、その結果を非正規労働者に厚く分配するなら、「正社員の賃金一方的に引き下げ」ることなく、非正規労働者の賃上げも可能かも知れない。

 しかしそれ自体、賃上げの成果を非正規労働者に厚く分配しなければ格差は縮小せず、かえって量的には拡大さえし得る話になる。

 非正規労働者にとっては、賃金格差の解消は、正規労働者の賃金の変動とは全く別の問題であり、また別個の要求として提出され、資本の勢力に突きつけられなくてはならず、ブルジョアや国がいうようなおかしな新提案は──悪賢いわなであり、同一労働同一賃金の実行をサボるための悪質な策動の一つである!──断固として粉砕されなくてはならないのである。

 問題は資本の支配の下での労働者の分断であり、現代の〝身分差別〟である、つまり非正規労働者の経済的、社会的地位そのものである。そうしたひどい差別制度がいますぐ廃止されなくてはならない。


【1面サブ2】

参院選を闘う10名の面々⑥
大阪選挙区の佐々木一郎さん

 「佐々木さんは事前ビラ配布計画の中心を担い、綿密な配布計画を提供してくれた。夜遅くまで明日のビラ配布計画を練り、配布者に手渡す住宅地図をコピーする姿に頭が下がった。現地でも宅配を指導し、的確な指示のもとに配布が行われた。感心したのは短期間に横須賀、三浦市の地理に精通したことだ。車の助手席に座り的確に道案内をしてくれたが、それは車のナビより的確で、失礼ながらSナビと呼ばせて頂いた」(『我々はいかに闘ったか――神奈川11区の闘い』99頁より。この本は我々の闘いを生き生きと紹介しています、是非ご購読を。)

 佐々木さんは40年以上前から当時の「マルクス主義労働者同盟」の一人でした。いろんな疑問に対し、きわめて率直に「労働者階級の解放のために加盟して活動する」ように誘われたことを今も覚えています。

 佐々木さんは同志会が党への復帰を決め、選挙闘争への再挑戦を始めた時、その荷の重さを知りながら組織の責任者を引き受けました。さらには大阪選挙区の候補者も引き受けるなど、その心意気には頭が下がります。

 佐々木さんが労働の解放をめざす闘いの先頭に立つことを願います。(N)

【佐々木一郎 略歴】

 51年、大阪府大東市に生まれる。73年、北海道大学農学部林学科を卒業、大阪の建設会社で土木地質技術者として働く。

 卒業間際にマルクスの『経済学・哲学草稿』の「労賃は資本家と労働者との敵対的な闘争を通じて決定される」を読み、階級闘争の現実の端緒を認識するが、社会に出て資本主義社会の実際を目の当たりにし、社会主義運動に携わるべくその接点を模索する。

 74年、党の前身であるマル労同の参議院選挙運動と出会い、76年同盟に加入、以降、仕事と家庭と並立させながら、主に駅頭や団地、集会でのビラ配布による宣伝活動に携わる。後、設計会社に転職し、定年後は嘱託。

 2017年4月から大阪北支部支部長。定期的に駅頭で街頭宣伝を行っている。


【飛耳長目】

★国民民主の大会が終わり、新代表の玉木は、すべての国民に月10万、20万の給付を行うベーシックインカムとか、第3子から1千万円ものカネをバラまく「コドモミクス」など途方もない政策を掲げながら、他方ではブルジョア協調路線──安倍政権との妥協、協力路線──を深めている★玉木らの協調路線は、直近の議会闘争の中ですでに存分に発揮された。「対決より解決」や〝対案〟路線を謳い、来年の消費増税そのものには賛成だと共産との違いを誇示し、会期延長反対の審議拒否の時にはさっさと審議に復帰し、カジノ法案には形だけは反対したが、政府に注文をつけただけで容認、あるいは働き方法の付帯決議をめぐっては立民と一線を画して安倍政権への忠勤ぶりを発揮した★志位は、自民と協調するために〝独自性〟を誇示する玉木らまで含め、仲間に計算して野党共闘をまだ謳い、固執するのか。頼みの立民さえ少しも乗り気でなく、志位のいう「本物の」野党共闘にそっぽを向き、共産が立民を応援したいならご自由にとうそぶく時、共産と市民派とリベラルマスコミ(朝日や毎日ら)だけが、「巨大与党を従えた安倍1強政治に対峙する」ためには野党共闘しかない、力のない野党は団結するしかないと情けない声を上げている★国民民主や立民だけでなく、共産党や市民派もまた最初から闘う戦略も決意も無く、負け犬として振る舞うのだ。(鵬)

   

【主張】

政権にすり寄る連合
立民は、国民はどこへ?

 安倍政権と連合の接近、癒着はますます深化している。〝高プロ〟法案で事実上手を組んだ連合は、さらに安倍政権との結びつきを強めようとしている。

 連合が〝高プロ〟法案でとった態度は、賛成なのか、反対なのかさえはっきりしない、動揺したものだった。

 法案は6月末、参院厚生労働委員会で与党などの賛成多数で採択されたが、その直後、連合系の国民民主党議員の小林らが、その法案の乱用対策などを求める付帯決議を提案、与党の賛成を得てそれも採択された。

 こうした結果に行きついたのは、連合が表面は反対を唱えつつも、最初から、その成立を前提に修正を企んで自民党と協議してきた結果で、連合幹部は、こうした表裏ある態度を、〝高プロ〟法案が国会に提出されたらもはや修正できない、少しでも増しなものにするためだったと説明した。

 しかし〝高プロ〟法案の成立を前提に、その修正を自民党と協議するという立場は、連合内部やその外部の労組などの反発を呼び、連合本部に対するデモまで行われる中で、神津らは表面は、安倍政権との馴れ合いをあきらめざるを得なかった。

 しかし神津らは、実際には〝隠れて〟政権側と修正協議を続け、働き過ぎを防ぐ健康確保措置──〝臨時の〟健康診断等々──と引き替えに、事実上〝高プロ〟法案を支持し続けた。

 もちろん、自民党との協議はご破算になり、神津らは公然と法案賛成の立場を表明しなかったが、安倍政権側は〝高プロ〟法案採択に連合の要求を取り入れ、それが連合の要求を反映させた提案で、連合の支持を得たものであるかに繰り返して主張したが、連合は安倍政権のそんな振る舞いに一切クレイムをつけず、事実上安倍と協調したことを隠す必要さえ認めなかった。

 連合にとっては、自らの行為は正当であり、その修正によってこそ、〝高プロ〟法案を一層無害なものにできたというわけである。

 自民党は連合を意識して、「時間外労働に対する上限規制、同一労働同一賃金の実現も目の前に迫っている」と誘いをかければ、連合も、「政策を実現していくために何が一番良いのか。自民党との協議も重要だ」と応じている。

 安倍政権が続き、〝安倍一強〟体制が強まるに比例して、ブルジョア的労働組合の担い手たちはますます堕落して安倍支持に傾き、神津は「いまの1強の政治構造の中、最善を尽くしてきた」と開き直り、自らの「現実路線」を誇っている。

 労働組合が安倍体制に取り込まれ、野党がそれに引きずられていく情況の中で、労働者・働く者の利益はブルジョアや安倍政権に引き渡され、売り払われていったのであり、今後ますますそうなっていくのである。

 国民民主党はいうまでもないが、立憲民主党の連中は堕落していく組合主義者に依拠しつつ、一体どんなまともな、そして一貫した労働者・働く者の政治や闘いを組織し、展開していくというのか、できるのか。

 そして残るのはスターリン主義の共産党だけだが、ますますプチブル的、ブルジョア的に頽廃していくしかない、セクト政党の共産党が、どんな意味でも労働者・働く者の政党でないのは余りに明らかである。

 我々の党のみが、安倍政権と真剣に、まともに闘う──闘い得る──唯一の政党として、広汎な労働者・働く者の支持を得て躍進していくことができるし、またして行かなくてはならないのである。

 それこそがいまや我々の歴史的な役割であり、任務でもある。

   

昭和天皇と「戦争責任」
責任回避と人間的卑しさと

 昭和天皇に15年ほど「仕えた」侍従の日記が見付かり、その中の一部が注目を浴びている。

 「仕事を楽にして細く長く生きても仕方ない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。兄弟など近親者の不幸に会い、戦争責任のことなどいわれるなど」。

 マスコミなどは、こうした天皇の発言は、天皇が晩年まで、「戦争責任」のことを「気にしておられた」──国民のために?──証拠として重大だと騒ぎ立てている。

 確かに天皇にとっては、気になることではあったろう。しかし彼は一体、どんな気持で、意図で、自分の「戦争責任」について言及したのだろうか。いくらかでも、真剣で、まじめな契機があったのだろうか。それが問題である。

 自分に決定的な戦争責任があると誠実に反省してのことだ、ときっぱり言い切れる人は少ないだろう。歴代の天皇についてみても、自ら歴史に対して、自らが原因の一つになって国民が不幸や絶望や悲劇の歴史を経験したなどということで、「責任」を感じた天皇がいたということは、はばかりながら我々は浅学にして、そんな知識は余り持ち合わせていない。少なくとも、歴史と政治に直接の責任を負わなくなった、古代以降の──せいぜい平安時代、あるいは武士の時代の初期あたりから後の──天皇は、支配階級の寄生的存在として、歴史に対して基本的に責任を負うというより、自らの地位と生存を保持し、生き延びることに汲々としてきた連中、すでに歴史を前方に推し進める、社会の主役から降りた連中にすぎない、つまり〝無責任な〟、そしてむしろとことん利己的で、〝自己中心的な〟連中として、よく知られている。そんな連中が眞の意味で歴史と国民に対して「責任」を自覚し、それを背負うことはないし、ありえなかった。

 昭和天皇も同様であり、彼は例えば1931年から45年までの、内外の諸国民に対して、労働者・働く者に対して露骨に抑圧的、収奪的であり、凶悪だった日本のブルジョア帝国主義の時代について自ら「責任」を感じたり、それを主体的に自覚し、引き受けるどころか、最後には、自らその加害者どころか被害者の役割を演じることで「戦争責任」の罪から逃れ、マッカーサーに助けられるなどして、1945年以降の歴史を生き延びてくることができたにすぎなかった。

 彼が例えば東京裁判で「戦犯」として裁かれ、死刑になった、太平洋戦争中の〝盟友〟の東条に対し、その行為や「戦争責任」に対して、どう考えていたかは明らかになっていないが、しかし彼が東条らに対してとった態度は客観的に明らかにされている。

 それは、東条ら戦犯が、靖国神社に祭られるようになったときから、天皇がその参拝を一切行わなくなったことからもうかがい知られるのである。この天皇の行為は、戦犯が祭られるようなところには行くことはできないという意思表示として、天皇の〝平和主義〟と15年戦争の歴史に対する反省と否定的意思を表明している証拠として、ブルジョア世論は〝好意的に〟解釈してきたが、そんな評価は余りに卑俗で、ばかげている。

 つまり天皇は15年戦争の時代を通して、常に、あるいは原則的に〝平和主義者〟だったという、あり得ない、愚劣な神話を彼らはいまだに信奉し、振りまいているのだが、しかし天皇が基本的に15年戦争を肯定し、その先頭に立ちさえしてきたという事実はあり得ても、一貫して反戦平和の戦士であり、英雄であったなどという証拠はどこにも存在していない(戦争をして大丈夫かといった、〝個人的な〟危惧を表明するといったことはあり得ても、である。しかしそんなものも、国民のことを心配してのこととは全く別で、大規模な戦争を始めて、もし負けたときはどうなるのだといった、天皇としての自分の地位が動揺し、責任を問われることを心配しての、個人的動機からする発言でしかなかったのである。東条らが、大丈夫ですと保証すれば、それで簡単に満足する類の疑惑である)。

 東条は東京裁判の当初、自らの戦争責任を問われ、天皇の意思に反して戦争を始めたと非難された時、自分は骨の髄まで天皇制主義者であり、天皇の意思に反して太平洋戦争を始めるはずがないと抗弁したが、しかしすぐに自らがすべての責任を負うかの立場に転向し、その立場を最後まで貫いた。自分の天皇制主義者としての「信念」を貫けば、戦犯の追及が天皇に及ぶことになると悟ったから、あるいはそのように外部からいわれ、強い圧力を加えられたからであろう。かくして天皇は自らの「戦争責任」をほっかむりして明らかにせず、マッカーサーに助けられて、天皇の地位を守り通したのである。

 客観的に、東条は天皇の責任まで自ら背負って死刑になったともいえる。天皇にとっては、命と地位までも守ってもらった真の〝忠臣〟であり、大恩人である。

 しかし昭和天皇は、自分はアメリカの戦後政策を受け入れ、東京裁判の結果を尊重し、戦後の天皇として生きてきたから、仮に東条らが「戦犯」の汚名をそそがれ、靖国神社に祭られるようになっても、そんなところにお参りできないという態度をとったというわけである。

 かっこうよく振る舞い、筋を通したかに振る舞ったというわけだが、ある意味で、徹頭徹尾利己的で、これ以上ない厚顔無恥とさえいえる。昭和天皇の見え透いた態度は空々しく、果たして東条らに対して忘恩の振る舞いではないのか(右翼反動派は、天皇に相応しくない──というのは、天皇は完全無欠の道徳の鏡でなくてはならないから──言動を見過ごして、なぜ告発し、非難しないのか)。

 昭和天皇も、自分たちが生き延びるために、ありとあらゆる策略や権謀術数に溺れ、巧みに、陰険に支配的諸勢力を〝手玉にとり〟、利用しながら──そして利用のしがいの無くなった者たちを冷淡に、無造作、無慈悲に切り捨てながら──生き延びてきた、歴代の天皇たちと同じような、卑しい策謀家ではなかったのか。

 昭和天皇が、自らの「戦争責任」を気にしていたといっても、それは単に、すでに東京裁判で〝無罪〟となった、自らの「戦争責任」が改めて問題になり、喧喧囂々(ごうごう)の議論と検証の対象となり、自分の「責任」が問われることを恐れてのことだけであって、真摯な反省などといった心象とは何の関係もない。

 長い歴史の荒波の中で〝鍛えられ〟、生き延びてきた天皇一家の連中は、そんな〝ヤワな〟連中ではない。

天皇一家は、いま〝平和主義的ぼけ〟に浸りきっている日本のブルジョアやプチブルや遅れた労働者・働く者の中で──今ではブルジョアだけでなく、共産党まで天皇制の有益な役割を持ち上げ、賛美する有様である──、彼らの偽りのアイドルとして、偽善的に〝平和主義者〟を演じることで、その延命を図るに急である。それもまた、天皇一家の歴史的に身につけてきた、〝自然な〟行為もしくは〝深謀遠慮の〟知恵であり、また自らの延命策動である──それ以上のものでは決してない──ということを、労働者・働く者は確認しなくてはならない。

 天皇一家は戦後、神でも、その子孫でもなく、単なる「人間」であり、特別の人間でさえないと自ら語ったのだから、今や労働者・働く者は、天皇一家を、欲も煩悩も俗物根性も偽善も人並みに──というより、普通の労働者・働く者以上に、はるかに執拗かつ強烈に──有し、自らの利益や地位を守るためにありとあらゆる努力や策謀にふける、ブルジョア支配階級内に繰り込まれた「ありふれた」人間集団として、汚い偽善者集団として評価し、扱い、処遇することを学ばなくてはならない。

   

【二面 サブ】

読者の疑問に答えて
闘いのスローガンは実践的に

 我々は予定候補者パンフなどで、スローガンもしくは我々の主張の一項目として、「★バラまき《成長》やバラまき《福祉》は幻想であり、空手形だ!★バブルなき正常な経済と借金なき健全な財政を!」を、ペアとして掲げました。

 この2番目について、「正常な経済」、「健全な財政」を謳うのは「健全な資本主義を要求する」共産党の〝民主的改良路線〟と同じで、違和感がある、間違っている、共産党と同じにとられるといった疑問や批判が寄せられました。

 しかしこれら2行のスローガンは、その前の2行のスローガンを受け、それと対になっているのであって、切り離して字面だけで「共産党と同じだ」といった、否定的な評価をするのは感心しません。

 共産党が経済の「民主的改良」を謳うのは、我々のスローガンと似て非なるものであり、何の共通点もありません。彼らは決して財政・金融の膨張政策に反対していません──消費手段をテコにしてやるならいいといっています──、彼らの反対するものはむしろ〝緊縮路線〟であって、我々のスローガンが、そうした観念に対置して提出されているのは一目瞭然です。

 我々は資本主義が、そしてまた安倍政権がバブル経済に進む、その内在的で、不可避の矛盾を暴露するために、こうしたスローガンを掲げるのであって、その位置づけや意義は共産党とは全く別です。

 例えば、我々は安倍政権がプライマリーバランスを謳いながら、それを実現できず、財政政策でも破綻していく現実を告発し、安倍政権を追い詰めるために、こうしたスローガンを掲げ、訴え、彼らを暴露するのであって、ブルジョア社会を美化する共産党の主張とはその反対物です。

 また資本主義を止揚した社会が、その本性からしても、「バブルなき健全な経済」「借金なき健全財政」であることは余りに明らかであって──もちろん、こうしたブルジョア的に限定された表現とは無関係で、その実質的内容において、ですが──、そうした意味からも、こうしたスローガンを謳って悪いとか、間違っているということはありません、むしろ実践的に重大な意味を持っています。

 我々の路線や政策は、実践的、革命的な立場から提出されるべきであって、そうではなく、評論家的、抽象的、傍観者的なものになっていったら、具体的、実践的にブルジョアや国家権力と闘い、労働者・働く者を結集し、闘いに向けて組織して行くことは決してできないことを理解すべきです。

   

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