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労働の解放をめざす労働者党機関紙
海つばめ』

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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1329号 2018年6月17日
【一面トップ】課題はすべて先送り──トランプと金正恩の首脳会談
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】北の核廃棄は猫だまし――大国の核軍拡は加速する
【二面トップ】今どき「宇野理論」?――迷妄弄舌振りまく柄谷行人

※『海つばめ』PDF版見本

課題はすべて先送り
トランプと金正恩の首脳会談

 トランプと金正恩の〝世紀の〟歴史的会談は、大した具体的な成果もなく、たった1日で終了した。2人は声を合わせて、そのすばらしい意義について語るが、もちろん、世界の労働者・働く者にとっては、2人の専制的な支配者が、それぞれの利益と野望のために顔を合わせ、取り引きをし、満足したという以上の意味を持ちえない。こうした会談から、世界の、アメリカの、南北朝鮮の労働者・働く者が何らかの有益なものを勝ち取ることができるとしても、それはまた別の話であって、自らの努力と闘いという契機を欠いて、それ自体によって可能になるものではない。

金正恩の〝懺悔〟は本物か

 会談の二つの課題、トランプ側が持ち出した、北朝鮮の核兵器の「完全で、検証可能で、不可逆的な核廃棄」と、金正恩が持ち出した「体制保証」という課題についていえば、いずれも言葉としては合意されたかだが、具体的で、疑いもなく実行され得るという実際的で、確かな保証は事実上何もないし、確認されてもいない。

 朝鮮戦争の終結という課題容易に合意され得て、実現すれば、両者にとってはもちろん、南北朝鮮国民と、世界にとってさえ意義を持ち得る課題──さえ実現できなかったとするなら、一体何のための鳴り物入りの会談だったのか。

 北の核廃絶については、トランプは金正恩が誠心誠意約束したし、その約束は信用できるといい、金正恩もそれを裏打ちするが、しかしそれを現実に可能にするのはかなりの長い時間がかかるし、それはやむを得ないと、トランプは会談後はいうが、もちろんそれは会談前に言っていたことと180度ほども違っている。

 北が5年のち、10年のち、やはり核兵器保有国であり、しかもインドやパキスタン、あるいはイスラエルのように、世界中の国家から、核保有国として公然と、あるいは暗黙に承認される国家となっている可能性もまた否定できない。

 そしてそんな場合、北朝鮮が〝欧米型の〟民主主義国家ではなく、依然として金正恩のもと、現実と大差のない、金王朝の専制国家として存在しているということさえあり得るだろう。

 金正恩は会談の冒頭で、硬い表情でトランプに向かい、「我々には足を引っ張る過去があり、誤った偏見と慣行が時に目と耳をふさいできたが、あらゆることを乗り越えて、この場にたどり着いた」と、取りようによっては重大な意味を持つ、懺悔ともとれる発言をしたが、こうした発言が具体的に何を意味しているのか、祖父の金日成以来、70年余の金王朝の体制とその歴史自体のことなのか、国民を奴隷化してきた専制体制と、朝鮮戦争を含む、多くの歴史への大罪についてのことなのか──あるいは30年にもなんなんとしたスターリン体制を告発し、否定した1953年のフルシチョフの演説にも匹敵するような意味を持つ反省の弁なのか──は、まだ何ともいえない。

 今のところは、金正恩の懺悔は抽象的なものであって、フルシチョフ演説ほどの全般的で、具体的で、否定的なものではなく、また金王朝の中心にあり、またその体制を代表してきた彼が、自らフルシチョフほどの、ある意味で徹底した批判をなし得るとも思われない。

 金正恩は今後の北朝鮮国家の課題は、核兵器による強国ではなく、経済の発展を、したがってまた国民の経済生活の向上や豊かさであるかに語るが、しかし金正恩が一方で、これまで演じてきた毛沢東の役割──これには、専制国家の維持と強大化も含まれた──と決別して、今度は鄧小平の役割を、1人で巧みにやり得るという保証もない。

トランプに北朝鮮の核廃棄を謳う資格はない

 トランプは一方で北朝鮮の核廃棄を強調し、他方で、イランとの核合意は、イランの核保有を制約するのではなく、むしろそれを助長するものだと断じ、単独でもイランとの核合意を破棄し、力の政策、制裁強化の政策に戻ると主張している。イランは反発し、制裁などあれば、公然と核開発を行うと反発を強め、中東における核兵器による新しい軍拡競争の危険性が、恐怖が高まっている。イスラエルはこれを歓迎し、イラクの核施設の破壊を口にするが、アメリカはなぜ中東の核兵器競争の大本である、イスラエルの核兵器に対して沈黙を守るのか、それを擁護するのか、できるのか。

 自ら歯まで核兵器で武装しながら、そしてロシアや中国などと核兵器の増大強化の競争にさえふけりながら、自分の覇権に異議を唱え、抵抗する小国にだけ、核廃棄を強要する国家は醜悪な国家、横暴で、野蛮な帝国主義の国家ではないか。

 そしてそんな大国の核政策に追随するだけの、安倍政権の日本もまた同様に、トラの威を借りて、空威張りするキツネ同然の国家ではないか。

 周知のように、トランプは今年の初め、ロシアや中国の核兵器〝近代化〟の策動を口実に、アメリカも負けてはいられないと、新しい、より効率的で、機能的な核兵器の採用を謳い、核兵器による軍事力強化の競争に乗り出すと宣言した。

 アメリカは一貫して、核廃棄の国連の決議に反対を表明し、抵抗してきたが、そんな国家が、北朝鮮に核廃棄を、強大な力を背景に強要し、そんな資格や権利まであると考えるのである。

金正恩の「体制保証」

 首脳会談では、金正恩はトランプに自らの「体制の保証」を求め、トランプはそれを保証したということになったが、金正恩の願望はナンセンスだし、トランプは一体何を金正恩に「保証」したのか、できたのか。

 金正恩の「体制保証」とは、一体何であろうか。核兵器こそが「体制保証」を確実にするというのが、これまでの金正恩の戦略であり、考えではなかったのか。もしアメリカとの「対話」で「体制保証」が可能だというなら、最初からそうすればよかったのである。トランプのような悪党、アメリカ第一主義で、国家利益しか考えないトランプにすがって、核兵器がなくても「体制保証」が可能と考えることは果たして正しく、まともなことなのか。

 北朝鮮を〝民主化〟するというならもっと早くやればよかったし、経済自由化が「体制保証」を可能にすると考えるなら、さっさとやればよかっただけである。

 核兵器で「体制保証」できないから、核兵器無しで「体制保証」を求めるということは、トランプの強大な軍事力に全面的に従属し、屈従することであり、アメリカに頭を下げ、その従属国家になることによって、自らの「体制保証」を手にしようということでしかない。つまり奴隷の「体制保証」であり、安倍の日米同盟絶対視の立場と同様である。

 それに、いくらトランプが金正恩の専制体制の「保証」をしても何の意味もない、というのは、北朝鮮の労働者・働く者が決起し、金王朝を一掃してしまうなら、あるいはそこまで行かなくても、労働者・働く者の強烈な不満や怒りの圧力を受けて、金王朝が内的に分裂したり、自ら崩壊して行くなら、誰がその「体制保証」をしようとしても無意味であるのは、例えば1990年代、ソ連共産党と、その帝国主義体制が崩壊して行ったとき、東欧や中央アジアの多くの国家の〝スターリン主義体制〟が持ちこたえられなかった事実からも明らかであろう。

金王朝の行方

 そもそも金正恩が核廃棄と結びつけてかどうかは知らないが、今さらのように〝経済改革〟や、ひょっとして何らかの〝政治改革〟をやろうとすること自体、僭越であり、途方もないことでないのか、一体金正恩にそんなことを実行に移す、どんな資格があるというのか、能力や可能性があるというのか。

 彼は専制体制の中心にして、絶対的権力を握ってきた万能の〝君主〟であり、反体制の労働者・働く者はもちろん、反体制のもしくは反体制に見えただけの、多くの人々さえ逮捕し、拘束し、牢屋にぶち込み、抑圧してきた人物、自分の叔父であれ、兄弟であれ、殺害さえ辞さなかった人物──もちろん肉親殺しは、野蛮な君主制の本性であって、全世界の王政や君主制の歴史は、日本の天皇制も含めて、そんな多くの実例で満ち満ちている──であって、そんな人間が今、どんな政治改革や〝民主制〟について語れるというのか(金正恩が今、そんな〝改革〟を口にしているということではないが、もし今後も語らないというなら、彼の新しい立場はますます矛盾したものとなり、金王朝を内部から分解、解体する要因の一つに転化していくだろう)。

 そして南北朝鮮の融和や接近や経済的関係や結びつきの深化発展は、分裂した国民の再統一と統一国家建設に至るまで留まることはないだろうが、しかし北朝鮮が王政──にわか作りの、たまたま形成された、お粗末な王政であれ、三代も続くなら、すでに概念として天皇制と同様、立派に王政である──のままでは、朝鮮民族の単一の国民的形成は不可能であろう、というのは、かつての東西ドイツの国民的再統合を見ても明らかなように、それがただ民主化されたドイツとしてのみ可能だったのは、決して偶然ではないからである。

 とするなら、金王朝の一掃は、統一国家形成を希求する朝鮮の労働者、勤労者の不可避的な要求となるのであり、朝鮮が再び国民的統合を成し遂げるための不可欠の契機、前提である。朝鮮の国民的統合は、金正恩の手によって成し遂げられるのではなく、ただ彼がいなくなることによってこそ可能になる。

 この面からしても、金王朝の「体制保証」は、第二次世界大戦敗北後の、英米諸国に対する、日本の反動らの天皇制の「体制保証」の要求にも負けず劣らず、破廉恥であり、ナンセンスであり、反動的であろう。あの時、日本が「体制(国体=天皇制)の保証」を求めて、終戦を1週間も2週間も引き延ばしたため、日本の若者や国民が何十万もあたら無為に、余計に死ななくてはならなかったのだが、金王朝の延命のためにも、朝鮮の労働者・働く者の多くの命が無駄に失われるかも知れないのである。

南北に分断され、分裂した朝鮮の国民的再統合は、東アジアにおける、一つの進歩的な要因であり、歴史の前進的過程である、というのは、それは朝鮮の労働者、勤労者が一つのより強大で、団結した勢力として登場するということだからであり、少なくとも日中韓の労働者・働く者の接近と連帯と共同の闘いを促進し、発展・深化させ、強化する一つの契機となるからである。

   

【飛耳長目】

★安倍は「最大限の制裁」とか、「最大限の、検証可能で、不可逆的な核廃棄」を散々にわめき、北風路線で北朝鮮いじめの先頭に立ってきたが、頼みのトランプが突如、太陽ポカポカ路線に転向してしまったため、周章狼狽して、やむを得ず自らも追随したが、今やらち問題の「解決」で失点回復を目ざすという★トランプに金正恩の説得を頼み込んだが、トランプは自らの利益や得点にならないことには熱意なく、口利きをしただけで、安倍自身が金正恩と「ディール」でもやって解決したらと突き放されてしまった★しかしそれでらちされた被害者が簡単に帰ってくるなら好都合だが、親の敵同然に北をいわれなく敵視し、「最大限の制裁」を最後までわめき散らした安倍に対する北の憎しみは深く、そんな連中を相手にらち問題の解決を図るしかないのがしゃくのタネ、上から目線を捨ててトランプのように役者を演じ切れるかどうか★しかもかつての天皇制軍国主義国家の日本が植民地だった朝鮮の何千、何万の女性を軍隊の性的奴隷とした問題で、そんな事実はなかったと開き直り、南北朝鮮の強烈な反発を招いてきた張本人だ。そんな「歴史修正主義」をきっぱり捨て、謙虚に、誠実に、北朝鮮の国民に向き合えるのか★それができないなら、北朝鮮との「ディール」もとんとん拍子に進むとは限らず、役者交代ということになりかねない。(鵬)

   

【主張】

北の核廃棄は猫だまし
大国の核軍拡は加速する

 トランプは金正恩との首脳会談で、金に核廃棄を約束させた。確かに「完全で検証可能で不可逆的な」核廃棄、即時の核廃棄ではなく、形は〝段階的〟核廃棄となったが、これまで通り、核廃棄をごまかすための時間稼ぎと評価すると大きな勘違いに終わるだろう。

 金もまた核廃棄を受け入れ、トランプの愛顧と後援を背景に、国民に経済発展とその恩恵を保障しつつ、「体制の保証」を、つまり金王朝の存続と永続化を確かなものにし得るという幻想にふけっているかである。

 しかし北朝鮮の〝非核化〟は、核兵器を巡る超大国の最近の動向を見れば、ほとんど意味のないものであることが明瞭となる。

 共産党のプチブルたちが、どんなに高い評価を与えようと、北の核廃棄は、核兵器を主要な武器とした超大国の覇権闘争と軍拡競争の中で重要な意味をすでに持たないのである。

 それは世界の超大国の核兵器の増強競争をむしろ覆い隠し、その真実を見えなくさせるヴェールの役割さえ果たしている。

 米国とロシアと中国の、核兵器増強の熾烈な対立と競争の現実をみてみよう。

 トランプは今年2月始め、8年ぶりに核戦略指針として「核体制の見直し」を発表し、重大な核兵器戦略の修正を謳ったが、それはオバマ政権の核軍縮の戦略を反転させ、核兵器による「抑止力を高める」必要性を強調したものであった。

 というのは、今やロシアや中国が軍事費を膨張させ、核兵器の増強に励み、それを背景に軍事強国として、領土的野心もあからさまに覇権主義に走るからであり、それに対抗しなくてはならないからだそうである。

 米国は、ロシアが全廃するはずの中距離核ミサイルの開発を密かに進めていることとか、大洋の海中を進んで米国海岸の大都市を直接に攻撃できる「核魚雷」の開発計画があることを暴露している。

 また中国の軍事費は16年、米国に次いで2位、米国の3分の1だが、急ピッチで増え続けている。弾道ミサイルに複数の核弾頭を乗せ、一挙にいくつかの都市を攻撃できる多弾頭弾を持つという物騒な話もある。

 トランプはそんなロシアや中国を念頭に、「米国はこの10年間で、核の保有数や役割を減らした。他の核保有国は備蓄を増やし、他国を脅かす新兵器を開発した」と息巻いた。米国も負けているわけにいかないというのである。

 「核体勢の見直し」で謳われている、米国の核兵器の進化や強化は、一般的にいえば、オバマ等がサボり、先送りしてきた、必要な核兵器の増強であり、また新しい、機能的な核兵器の開発である。爆発力を抑え、小型化して使いやすく、柔軟性のある核兵器を導入し、限定的な核戦争にも対応できるものを導入する、そしてまた、サイバー攻撃やテロに対する「抑止力」としても核兵器を考えていく等々である。

 さらに具体的にいうなら、現在の潜水艦発射弾道ミサイルに搭載する核弾頭を改良し、爆発力を抑え、機動性を高めるとか、オバマ政権が廃止した海上船舶配備型の核巡航ミサイルを再開発すること、等々である。

 つまり核兵器に限ってみても、軍備縮小ではなく軍備の大増強が図られ、一般的趨勢となっていくということであって、そんな中で、仮に北朝鮮の核廃棄が可能になったとしても、トランプの政治の全体にとっては、単なるパフォーマンス以上の意味は持たず、11月中間選挙を有利に闘うための小細工程度の問題である。

 まさに大山鳴動してネズミ一匹である。

   

今どき「宇野理論」?
迷妄弄舌振りまく柄谷行人

 マルクス生誕200年ということで、いささか大げさに言えば、猫も杓子も――つまり現代世界の超大物である習近平もプーチンも、あるいは欧米の急進派も自由主義派の論客も、スターリン主義共産党のエセ学者たちも、みな賛否かしましく論じている。  『海つばめ』今号では、そんな連中の典型的な一員であり、宇野弘蔵の〝マルクス主義〟にいたく感銘を受け、影響されたという柄谷行人(からたにこうじん)を取り上げてみよう。彼を取り上げるのは、たまたま朝日新聞で目にとまり、マルクス主義への余りにも愚劣で、無知な典型的評論の一つと見えたからにすぎない。

柄谷の空論もしくは錯誤

 柄谷の出発点は、彼の自認するとおり、まさに〝宇野的〟である。

 彼は若いときからマルクスを読み、今も読んでいると言うが、それはまさに宇野派流の、歪められ、俗流的、空論的で、究極的にはブルジョア的な理論として理解され、改作された『資本論』であって、だから彼にとっては、資本主義がブルジョア市民として生きている彼の生き方と何ら矛盾したり、対立しないからであるが、それは若いときに宇野理論の信徒であった、青木昌彦が現代資本主義を表象するブルジョア経済学の大家として登場した――し得た――のと同様な社会現象にすぎない。

 彼はまず資本主義もしくはその根底である商品生産社会(市場経済)を、「交換を強いる『物神』の力」の支配する社会であると規定し、そんな社会を批判的に研究し、分析したのがマルクスの仕事であり、『資本論』の本質的な内容であるかにいいはやしている。

 余りにもばかげていて、愚昧というしかない。要するに、彼は資本主義の本性を、「交換を強いる『物神』の力」などの観念で表現するのだが、自分の言っていることが、200年も前、つまりマルクスが生まれた頃に、すでにブルジョア経済学の祖としてのアダム・スミスが、資本主義を特徴づけて、「神の見えざる手」が働いていると喝破したことと、何ら異ならないということに、そんなすでに骨董品的な観念を、200年たった今、偉そうに、もったいぶって開陳しているにすぎないことに、気がついていないだけである。

 彼はマルクスの「労働価値説」は陳腐で、スミスやリカードの理論であると批判しつつ、マルクスの「市場経済」論の特質は、「生産でなく交換を重視したことにある」などと、まさに宇野学派に相応しい妄説を持ち出すのである。

 この柄谷の観念の根底は、資本主義の本性は〝モノ〟の売り買いにあるという、まさに資本主義(市場経済)の最も表面的な現象にとらわれた、ブルジョアたちの俗流意識にあるのだが、宇野はそんな卑俗な資本主義に対する彼特有の意識を、例えば「商品とは流通形態にすぎない」といった、混沌とした、意味不明の空虚なドグマとして提示し、かくしてプチブルインテリや1960年前後の新左翼の学生達の教祖として登場し、一世を風靡したのであり、できたのである。

 「交換は共同体と共同体の間で生じた。それは、見知らぬ相手に交換を強いる『力』なしにはあり得ない。マルクスは商品の価値を、物に付着した物神、一種の霊的な力だと考えた。貨幣や資本はそれが発展したものである。その意味で、資本主義経済は宗教的な世界である。宗教を小バカにしているような人たちが、この物神を心から信じているのだ」

 柄谷の言うことは一つの迷妄である、というのは、モノはモノであって──例えば、食糧は人間の欲望の対象として食糧であり、それ以外でない──、そんなモノにどんな「一種の霊的な力」もないし、あり得ないからである。

 柄谷ははるか古代の人々が信じた「物神」に、つまりアニミズム等々の原始的宗教の世界に迷い込み、そんな観点から資本主義を、〝市場経済〟を理解しようとし、またできると考えるのである。

 「(モノ、正しくは人間の生活に必要なモノの)交換は共同体と共同体の間で生じた」と言うのが仮に正しいとしても、共同体と共同体の関係が「見知らぬ不気味な相手」同士などと想定すること自体、恐るべき無知と勘違いであって、例えば「山の民」と「海の民」が互いにモノを交換するとするなら、それはそこにすでに一定の相互的関係があるからであって、それは日本の古代において、海幸彦(ウミサチヒコ)と山幸彦(ヤマサチヒコ)に〝濃密な〟関係があったのと同様である(古代日本の神話によれば、両者は兄弟であり、相互にとって最も重要なもの──当時の生産手段ともいえる弓矢と釣り針──を貸し借りした、というが、それ以前に両者が、魚と獣の肉を物々交換していたと考えられていい、つまり海の民、山の民として、両者はそれぞれ共同体的存在であり、両者の間に、日本において最初の商品交換もしくは原初的な形態の商品交換が行われたといえるのである)。

マルクスの「物神崇拝」とは

 マルクスの言う、商品の(したがってまた貨幣や資本の)〝物神性〟とは、柄谷の理解することとは違って、モノの「見知らぬ不気味な相手に交換を強いる『力』」といったものではない。確かに、そんなモノが実在したら、「不気味な」、そして「霊的な力」であるが、商品の(したがってまた貨幣や資本)のもつ〝物神崇拝性〟の魔力は──この魔力は商品とその交換関係をみていただけでは直接には認識できないが──、それが貨幣や商品や資本として現れるとき、人々はようやく、その魔力を感覚的に自覚し、狂乱するのである。

 柄谷は宇野の忠実な弟子として、マルクスの理論の根底が「労働価値説」にあることを否定するのだが、商品の交換関係──それは不可避的に「等価交換」の関係であり、それ以外ではないし、以外ではありようがないのだが──とは、一般的な社会的分業の中で貫かれる、社会的に支出される労働の相互関係の表現であり、そのブルジョア的な、したがってまた歴史的な形態であるという、本質的なことが、その歴史的形態の矛盾や限界が全くわかっていないだけである。

 労働の社会的な関係が、モノの、つまり商品の社会的な関係として現れるのは、真実の関係を覆い隠すことであり、そんな表象にとらわれた意識は、モノつまり社会関係の結晶であり、ただ資本主義と市場経済の枠内でのみ持ち得るモノの「力」が、あたかもそれ自身(モノ自身)に備わっているかに目に映るのは一つの必然であって、そんな資本主義や市場経済の外観にとらわれた人々の意識を、マルクスは「物神崇拝」意識と呼んだのだが、柄谷や宇野は何を思い違いしたかは知らないが、そうした意識をまさにモノ自体に備わる魔法の力だと理解し、わけのわからない独善を振りまくのである。

 彼らの独善とドグマの根底にあるのは、市場経済に本質的である、モノの売り買いという現象にとらわれた最も卑俗な意識、モノの売り買いによってこそモノの「価値」も決まり、分配も需給もうまく調整される、資本主義はそのものとして、自ずから「神の見えざる手」によって巧みに導かれる、人間が理想とすべき社会だという200年も昔のアダム・スミのと同レベルの時代錯誤の意識、つまり時代からはるかに遅れてしまった意識、市場経済と資本主義の〝魔力〟に驚き、賛美するブルジョア的な(あるいはプチブル的な)俗流意識と同根である。

唯物論まで否定して

 また柄谷は宇野派の俗物に相応しく書いている。

 「一般にマルクス主義は唯物史観(史的唯物論)だということになっている。それは社会構成体の歴史は、生産力と生産関係という経済的土台の変化に規定されて、最終的に社会主義にいたるというような見方である。そして、このような考えは、20世紀の末にほとんど消滅してしまった」

 「私はマルクスを若い時から読み、今も読んでいる。多分、それは一度も『マルクス主義』(唯物史観)を信じなかったからである。その理由は、宇野弘蔵の影響を受けたことにある。宇野は、唯物史観も社会主義もイデオロギーであるが、『資本論』は科学である、という」

 柄谷は「『資本論』は科学である」と大層威勢よく喝破し、その内容が続けて書かれているが、ここでは、マルクス主義は「イデオロギー」であって、『資本論』だけが「科学」であるという、宇野派の、そしてブルジョアイデオローグ一般の、つまらない批判にはひと言、反論しておかなくてはならない。

 もちろんイデオロギー(思想一般、あるいは「哲学」一般)と「科学」が直接にイコールに置かれるものでなく、別の次元の問題であるというなら、特に異を唱えるつもりはないが、しかし一つのイデオロギーとして、哲学として、唯物論は、したがってまた唯物史観は、人類の歴史におけるすべての科学と歴史的経験と、その発展深化の結果として獲得されてきた、人類の貴重な歴史的、文化的遺産であって──「社会主義」の観念も同様である──、人類がありとあらゆる宗教的迷妄や観念論的妄想やおしゃべりという災いもしくは重荷から解放されるための──したがってまた人類が人類として解放されるための──不可欠にして、極めて重要な契機である。

 宇野派の連中は、〝社会民主派〟のイデオローグとして、階級闘争の中ではブルジョアの陣営にたち、観念論と観念史観を擁護し──唯物史観は、ヘーゲル等に代表される観念的歴史観や観念的社会観の否定として、その止揚として措定され、獲得されたのである──、『資本論』のほめ殺しにせいを出し、そんな仮装の陰で、『資本論』をつまらない俗論にすり替え、あまつさえ『資本論』のほとんどすべての重要な概念を否定し、それらを空虚な屁理屈──理論と呼ぶさえ恥ずかしいような詭弁と空論の堆積──に置き換え、ブルジョア社会にとって無害なおしゃべりにすり替えてきた。

 だからこそ、今では柄谷や伊藤誠や岩井克人らのインテリたちは、ブルジョア社会の利用し甲斐のある寵児や名士として、マスコミを賑わせるのである。

   

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