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労働の解放をめざす労働者党機関紙
海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
  お申し込みは、全国社研社
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  メールでの申し込みも可能です。

まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1339号 2018年11月11日
【一面トップ】現代の「徴用工」制度――外国人労働者の導入策動
【1面サブ】参院選を闘う10名の面々➈――東京選挙区の伊藤恵子さん
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】安倍政権に限りなく追随し――「消費(税)不況」という志位のたわ言
【二面トップ】空虚な安倍の憲法戦役(中)――「近代立憲主義」の幻想
【二面サブ】訪問で支援を訴える

※『海つばめ』PDF版見本

現代の「徴用工」制度
外国人労働者の導入策動

 安倍政権はブルジョアたちの「人手不足を何とかしてくれ、これではやっていけない、〝経済成長〟も妨げられる」という大合唱や悲鳴に駆り立てられるかに、大急ぎでこれまで禁句であった〝単純労働者〟つまり典型的で、根源的ともいえる被搾取労働者の国内〝受け入れ〟を決めた。何十万という規模でである。彼等はこれまで、外国人労働者はお断り、移民政策は取らないと叫び、そんな原則を誇っていたのにだ。「鬼が出るか、仏が出るか」、短期的には仏でも、中長期的は鬼が出るのではないかと、外国人労働者の導入を焦る、当のブルジョアたちでさえ疑心暗鬼である。

いっそのこと「労働市場」の海外開放を堂々と断行したらいかが

 多くの日本のブルジョアたちは今や、せっかくの好景気で稼ぎ時なのに、労働力不足つまり搾取対象の不足のために大きなチャンスを逃しかねないと焦りに焦っている。

 そんなブルジョアたちの、安価で、搾取しがいのある労働力に対する強欲に答えようと、参院選を前にあたふたする安倍政権は、場当たりで、まさに拙速そのもののやり方で、外国の〝単純〟労働者の導入に走りはじめた。外国の単純労働者は入れない、移民政策は取らないという、これまでの〝原則〟などなかったかに、どうでもいいかに、である。

 だからといって、外国人労働者に対して日本の労働市場を開放し──かつて1960年代に商品市場や、ついで資本市場を開放したように、つまり貿易自由化や金融自由化を断行したと同様に──、労働市場もまた〝自由化〟しようというわけではない(そうすれば、日本で働きたいという外国人労働者や〝難民〟はいくらでもおり、日本に殺到するかもしれないのに)。

 しかし頽廃する、したがってまた民族主義や自国ファーストや帝国主義に益々傾いていく、現代のブルジョアたちが、労働市場の開放という、資本主義の牧歌的発展期、自由主義的資本主義の時代にさえ存在しなかったばかりか、断固として要求されることもなかった(多分?)、労働市場の開放など主張し、実行に移そうなどと考えるはずもないのである。

 とするなら、国内の〝過剰労働力〟の不足──というより、むしろ深刻な枯渇──に慌てる日本のブルジョアたちが手軽に、難しい問題もなく手にし得る、外国人労働者を渇望するのも当然というものである。

 だからといって、もちろん日本のブルジョアも安倍政権も堂々と、労働市場の開放を断行する勇気や信念や、自由主義経済に対する信仰や愛着を持っているわけではない。

 むしろ彼らは、狭隘な民族主義や国家主義──それどころか、偏狭な国粋主義的妄執や、世界中に溢れる難民にも冷血観念──に取りつかれ、凝り固まる彼らは労働市場の開放や難民に受容をひどく恐れており、むしろそれを〝厳密に〟規制し管理しようとして、単純労働者の移動はただ厳しく規制された、狭い範囲でのみ許容してきたし、今もしている。

 その日本的な形態こそ悪名高い、半奴隷的で、偽りに満ちた「技能実習生制度」であった(難民についていうなら、そもそも難民とは結局はブルジョア先進国が中南米やアフリカ等々を帝国主義的世界体制の中で過酷に収奪してきた結果といえないのか)。

 外国人労働者はただ、日本政府が強要した職種あるいは業種のみ、しかも個々の働き場所でのみ──例えばブラック企業とか搾取的農場とか──、職業選択の自由も、居住の自由も許されないままで、しかも家族同伴もダメ(結婚も、異姓との交際さえ許されない?)、数年たったら帰国するという条件付きで──資本の社会が労働者・働く者に厳かに認めたはずの「人権」さえ全く否定するような、おぞましい形で──、つまり数十年前の帝国主義的戦争の時代、当時の植民地だった朝鮮から強制的に動員された「徴用工」たちと同様な形でのみ、日本で働くことが許されるのである。

 そしてこうした外国人労働者の〝受け入れ〟は外国人を徹底的に差別し、蔑視する「出入国管理」体制等々によって、支持され、守られ、外国人労働者に奴隷的地位を強要し、甘んじさせてきた。

 こうした形での外国人労働者の無神経で、非人間的な搾取は、当世の日本のブルジョアや、国家主義の反動たちや、安倍一派の恥ずべき、浅ましい本性を暴露して余りある。

「技能実習生制度」に上塗りして

 そして安倍の策動する、新しい外国人労働者の〝受け入れ〟は、世界に顔向けもできないような「技能実習生制度」といった半奴隷的制度を一掃して、外国人労働者の日本で働く権利の自由化、つまり労働市場の開放、〝自由化〟等々とは全く別の、自国ファーストの奴隷的労働力の導入のたくらみであり、したがってまた日本の労働者の、近い将来の半奴隷化と関係し、そこまで進化しないという保障すらない、卑しい策動である。

 新しい制度の「特定技能1号」の労働者とは、「特定技能」などといわれているが、実際にはいくらかでもまともな「技能」とは関係のない単純労働者の謂いであり、ただ新制度を「技能実習生」制度に上乗せし、継続させつつ、その根幹の半奴隷的搾取制度のままに単純労働者をさらに大量に〝受け入れ〟ようとする試みであって、最初は、20数万の現在の技能実習生がこれに当たるという。

 政府は農業や製造業やサービス業や介護等々の、日本人が敬遠し、就業を回避する──したがってまた人手不足が深刻な──14業種から出された労働者の必要数に合わせて外国人労働者を〝受け入れる〟かにいい、しかも業種数も人員も今後、随時増やすかにいうから、言ってみればまさに安倍政権は、半奴隷的労働者を求める日本の企業の強欲のために働く、さながら外国人労働者と企業等々の間に介在し、労働者を苦しめる悪質ブローカーか、せいぜいよくて労働手配師のような存在というわけである。まさに安倍政権のもと、日本は資本主義初期にもあり得ないような、野蛮で、歪んだ時代に逆もどりしつつあるかである。

 安倍は「来る側も受け入れる側も尊重しあえる共生社会の実現に向けた環境整備を進める」とか、「賃金や労働条件も日本の労働者以下にはしない」などとぬけぬけと言えるペテン師である。

 しかし半奴隷的な「技能実習生」制度を継続してきて、その野蛮な搾取制度に対して小指1本も動かさなかった安倍がいくらそんなきれい事で労働者をごまかそうとしても、もはやだまされるような労働者・働く者は1人もいないのである。

相変わらずナンセンスな野党や市民派 

 我々は最後にリベラルや共産党もふくめた野党に一つの警告を発しておかなくてはならない。

 立憲の偉ぶったエリートの長妻は、参院選を意識して〝拙速に〟来年4月からの新制度の発足を焦る安倍に、「国家、国民について哲学がない」と迫り、〝外国人労働者〟を受け入れる方向に転換し、「共生社会」を目ざすというなら、自国ファースト、国家主義、民族主義という安倍の「哲学」は矛盾していないのか、おかしいのではないのかと叫んで、安倍の国家主義の〝哲学〟に、「〝多様性〟こそが経済社会の発展につながる」といった深遠な〝哲学〟を対置する。

 しかし失礼ながら長妻さんよ、こんな立憲主義の観念的で、安直な〝哲学〟は、すでに移民問題、難民問題で苦悩する西欧はいうまでもなく、トランプ後のアメリカではむしろ、その逆であり得るということが現実の中で明らかにされ、破綻を暴露していないのか、とするなら、そんな大層な、こけおどしのような三文〝哲学〟を振りかざしてみても、安倍と闘えないだけでなく、安倍を助けることになりかねないのではないのか。

 というのは、そんな観念がリベラル派の一面的で、偏狭な観念的ドグマは、階級対立はもちろん、民族差別、人種差別、性差別等々のありとあらゆる差別とその根拠──資本主義と階級制度という根源的差別──の廃絶を、したがってまたその最終的一掃の展望を示していないし、示すことができないからである。

 他方、共産党はどうであろうか。

 4日の日曜日、NHKの政党討論会に出てきた共産党の笠井は、国際的には技能実習生制度は人身売買、強制労働と評価されている(だからどうしたというのか、自分の言葉や評価や批判はないのか)などとおしゃべりした後、「(外国人労働者の導入は)日本人の労働条件の悪化を招く、消費不況を促進することになる」と意味不明の発言をしただけであった。

 そもそも現実の資本主義の矛盾の深化を「消費不況」などと呼んで、こんな要領の得ない発言によって、一体いかにして外国人労働者の搾取に狂奔する、どん欲で、倫理観もなく堕落していく当世の日本のブルジョアを暴露し、またそんなブルジョアのために熱心に奉仕するだけの安倍政権と闘うことができるのか。

 安価で、しかも半奴隷的な条件で働く外国人労働者が、日本の労働者の労働条件を下げるということが仮にあり得るにしても──だからこそ、外国人労働者と日本の労働者との、国際主義に立脚した、資本の支配と搾取に反対する、団結した共闘が必要になり、必然ともなるのだが──、労働者・働く人々の階級的闘争の重要な課題や原則が「消費不況」の克服といった空文句──もちろんブルジョア社会に不可避の不況の問題を、こんな形で提出するのは根本から間違っており、資本の勢力と安倍政権に反対する労働者・働く者の闘いを〝あらぬ方向〟にそらせ、立憲などと一緒になって彼らを助けるだけであるが──といったいどんな関係があるというのか。

 共産党の笠井は、11月5日の赤旗紙上で、安倍政権に外国人労働者の「受け入れ体制」の不備について月並な言葉を連ねた後、次のように語って、彼等の立憲党追随の日和見的本性を暴露している。

 「こういうことにメスを入れずして、『多文化共生社会』など語れない」

 つまり共産党もまた、自由主義派や市民派の「多文化共生社会」についての空虚なおしゃべりの仲間入りするのである。

   

【1面サブ】

参院選を闘う10名の面々⑨


東京選挙区の伊藤恵子さん

 伊藤さんは京都出身。アルバイトで新聞配達をしていた時に、労働者党の前身であるマル労同の同盟員であった同僚たちと一緒に労働組合を組織。その同僚に誘われ、『共産党宣言』の学習会に参加し、初めてマルクス主義に接したといいます。

 この学習会や、当時の党の機関紙である『火花』などを読んで、階級意識に目覚めた伊藤さんは、その後、党員となり、仕事も郵政職場に転職し、労働組合の全逓でも活躍しました。

 一九七〇~八〇年代にかけて、党は何度も国政選挙を闘いましたが、伊藤さんは神奈川や兵庫などに出向いて選挙闘争を担いました。

 この時の経験から、もっと労働者が多く居住する地域で活動がしたいと、尼崎市へ転居を決意、ここで二度、国政選挙の候補者として闘ってこられました。

 伊藤さんは意志堅固であると同時にやさしい人です。自分で納得できないことはとことん問い詰め、不正や不合理には徹底して抵抗し、決して妥協を許さない点ではとても一貫しています。と同時に、弱者や職場の仲間などにはとてもやさしい存在です。五十一歳になってから介護ヘルパーの職に就かれた時も、利用者はもちろん、ヘルパー仲間からも頼られ、その一つ一つに、親身に対応されました。強い意志と頼れるやさしさを持つ女性候補です。(H)

【伊藤恵子 略歴】

 1947年、京都市東山区で生まれる。

 高校卒業後、民間会社や郵便局の事務員、介護現場で働く。アルバイトの新聞配達の同僚の誘いで「共産党宣言」の学習会に参加し、北朝鮮に帰還した小学校の友人とも労働者の国際主義によって繋がっていると確信し、自らは日本の労働者の階級闘争を先頭になって闘うマル労同への加盟を決意した。

 加盟後は自らも兵庫選挙区から立候補するなど選挙闘争に明け暮れる楽しい日々を過ごす。その後の一時期、組織を離脱したが、資本の軛から労働者を解放するという目標のために、再び社労党に復帰し組織活動を担う。

 来年の参議院選挙では、党内唯一の女性労働者候補です。


【飛耳長目】

★世界的に資本主義の矛盾が深まり、その歴史的な限界が全面的に暴露される中で、まさにグローバルな広がりで、〝保守派〟と〝革新派〟やリベラル派の対立、分断が深化しつつある★しかしこうした対立、分断は常にその背後にある、より本質的で、根源的な対立の表面的な仮象にすぎない★その背後にあるのはブルジョア階級と労働者階級の対立の深化と二極分化であり、したがってまた両階級の間の闘争の新たな始まりであり、激化である★ブルジョア階級の政治的、道徳的劣化や腐敗や退廃、そして反動化とファシズムや専制主義や独裁への志向は今や先進国はもちろん国家資本主義(中国、ロシア、東欧諸国等々)にとどまらず、アジア、アフリカ、中南米等々にあまねく広がっている★彼らは安倍やトランプに代表されるように、道徳律にも法律にさえもとらわれず、粗野で、虚偽に満ちたポピュリズム政治、デマゴギー政治にふけり、世界中をファシズムの空気で満たしている★労働者・働く人々は今や世界中にはびこるブルジョアの悪人たちのすべてを追放し、一掃していかなくてはならないのであり、日本の労働者・働く人々こそまさに安倍政権を粉砕し、一掃することで、その先頭に立たなくてはならないのである、というのはそもそも安倍こそトランプの先達であり、世界の反動派の見本であって、その後輩や猿真似小僧ではないからである。(鵬)

   

【主張】

安倍政権に限りなく追随し
「消費(税)不況」という志位のたわ言

 共産党は安倍政権に消費増税を止めよと要求し、いま増税などしたら2014年の時と同様に深刻な消費増税不況に陥ると脅し、そんなお粗末な理屈ややり方で安倍政権と〝闘って〟いるつもりのようだ。

 しかし失礼ながら、そんな闘いは安倍政権を暴露し、粉砕しようとしているのではなく、安倍政権と事実上緊密に協調し、その延命に手を貸しているだけではないのか。

 消費増税による需要減少などというのは、〝経済学的にみて〟、つまり科学的に──常識的に、でも同じことだが──議論すれば、全くのナンセンスである。

 消費増税による数兆円はただ〝需要〟なるものを──いくらか卑俗に〝購買力〟といってもいいのだが──消費者から政府に移すだけであって、当然の結果として、社会的な需要の総量は変わるはずもないのである。

 否、むしろ厳密にいうなら、総需要は増えるのである、というのは消費者の手にあったカネが政府の手に渡ることによって、消費者の手にあっては貯蓄や引き延ばされた支出に回ったかもしれない購買力が、政府の手に渡ることによって、直接かつ確実に支出され得るだろうからである。

 しかも安倍政権は今回の消費増税では、消費増税をした後、カネを財政再建のために支出するのではなく──そうしたら需要縮小といえるかもしれないが──、その代わりに教育無償化という〝全世代型〟のバラまきに転用するというのである。とするなら、共産党はこうした消費増税に、一体どんな需要縮小があるというのか、なぜ反対するのか。

 しかも安倍政権は消費増税不況を騒ぎ立てて、1兆円もの補正予算を組んで需要拡大のために、さらに奮闘するのである。

 消費増税不況などというのは安倍政権と志位共産党の協賛のデマゴギーの類であって、むしろさらなるバラまきのための、汚い消費増税策動と断定するしかない。

 安倍政権が消費増税のあとの自動車や住宅建設の需要縮小を見越して、いまから巨額の補助金まがいのカネを約束しているのも奇妙であり、止めるべきである、というのは消費増税後に自動車購買や住宅建設市場が収縮するのは、消費増税前の〝駆け込み需要〟による需要膨張の反動であり、ある種の均衡への復帰であって、そんな消費増税後の自動車大資本の〝苦境〟を救済するためと称して巨額の財政支出をする必要は、事実上存在しないからである。

 企業は先に得した分、あとで損しているだけである。

 消費増税問題について、最後にいっておくべきことがある。それはインボイス導入と関連して、共産党が今は認められている、零細業者の消費税の〝業者免税分〟の納入免除制度の廃止に、頑強に反対していることである。

 インボイス制度などが導入されたら、それに対応するための負担が膨れあがり、数百万もの中小業者は破綻し、破産するしかないと共産党はいうのだが、しかし中小企業の商売が困難ということを口実に、彼らが労働者・働く人々の納めた消費税をいわばくすねて利得を得、商売をし、生き延びていいということにはならない。

 そんな筋の通らない話を持ち出して、中小業者の筋の通らない利得を弁護するなど、共産党は血迷ったとしかいいようがない。

 彼らが、中小業者の立場と利益を擁護して票を増やしたいというなら、誰も止めようとしないが、しかしもう少し道理に合った、まともなことをいわないと、誰も彼らを信用しなくなることだけは確かである。


空虚な安倍の憲法戦役(中)
「近代立憲主義」の幻想

 今年の憲法記念日の5月5日、朝日新聞は社説で「近代立憲主義の考え」を弁護しつつ、次のように語った。「主権者となった国民が、個人の自由や権利、多様な価値観を大切にするよう権力に命じる」。もちろん、こうした観念はリベラル、市民派、多くの野党によって共有されている。要するに、憲法は国民――抽象的な「個」の算術的総和としての国民――が権力を「縛るためにある」といった観念である。

 憲法が政府を「縛る」というなら、それは間違いはないが、それは憲法が一般法として国民のすべてを「縛る」からであって、その限りのことでしかない。憲法は確かに安倍を「縛る」が、同時にまた共産や志位も、立憲も枝野も「縛る」のであって、個人主義者たちは憲法は権力や安倍を「縛る」が、自分たちを「縛る」ことはないと思い違いをしているだけである、つまり彼らは近代資本主義の、つまりブルジョア階級の統治形態である〝法治主義〟の概念を正しく理解していないのである。

 もし彼らがそれを正しく理解していたなら、それを間違って「立憲主義」などという、既に歴史の過去に属する、時代錯誤の観念に言い換え、大騒ぎすることは決してなかっだろう。

 だが、抽象的な「個人」を絶対化し、持ち上げるインテリらが立憲主義に走るのは一つの必然であった。問題はマルクス主義や共産主義についておしゃべりする共産党が、そんなプチブル観念にまで染まって堕落してしまっていることである。

 こうした観念の根柢にあるのはブルジョア国家の絶体化であり、それによって「国民」の、というより、個々の国民の自由や権利が、福祉や幸福や、生活さえもが保障されるという、たわいもない観念である。

 そしてこうした憲法とは究極の憲法、いわば〝完成〟された憲法であり、絶対的憲法、歴史を超越した憲法、つまり明治憲法と同様に「不磨の大典」である。

 一見して、こうした観念の労働者・働く人々にとっての空虚さやナンセンスや限界は明らかである。というのは労働者・働く人々の生活や福祉や幸福等々は、他者──それがどんなものであろうと、つまり「神」とか、神の地位に祭り上げられた「国家」や「憲法」等々であろうと──によって保障されるのでなく、自律的、自立的な問題であり、自らの(自分たち自身の)労働と意思と知恵と努力と闘いと営みによってのみ可能となり、保障されるのであり、またそうでなくてはならないからである。

 立憲主義者の頭の中で考え出された、抽象的観念は簡単な歴史的批判によって、たちまち崩れ去るのであり、そうならざるを得ない。

 立憲主義の観念が現れ、時代を支配したのは、18世紀から19世紀にかけての先進資本主義諸国におけるブルジョア革命の時代のことであり、台頭するブルジョアたちの、既存の封建的勢力や絶対主義的国家に対する闘いのスローガンとしてであって、ブルジョアたちは立憲主義の旗印の下、王権勢力に対して譲歩と権力の分譲を要求したのであった。

 ブルジョアたちの闘いの要求スローガンは、立憲主義であり、憲法体制=法治主義、法治国家であった。つまり国王もまた恣意的で、絶対的な専制主義によってでなく、憲法に従って、つまり〝立憲主義〟=法治主義によって統治するように強要されたのである。

 だから立憲主義が歴史的に必然であり、意義を持ちえたのは、台頭するブルジョア勢力とそれに対抗する封建勢力が対峙し、ヘゲモニーを争っていた時代においてであり、ブルジョア階級が絶対主義勢力を打倒し、一掃しない限りでのことであったにすぎない。

 だからこそ、15年戦争以前には、日本の反政府党の多くも立憲○○党等々を名のったのであって、そんな名を今頃持ちだし、麗々しく掲げるような枝野や長妻のような連中の党は時代錯誤もいいところであって、一体何のために安倍政権に反対する政治闘争を闘っているのかという根底さえ問われるのである。

 安倍政権が王権勢力や封建勢力の政権だとでも思っているのだろうか。そうだとするなら、途方もない勘違いの、愚昧政党というしかない。

 実際に、現行憲法を具体的に、客観的に検討してみれば、それが「個人の自由や権利、多様な価値観を大切にするよう権力に命じる」ためのもの、そうしたことを保障するためのもの、といった観念のナンセンスや観念性がたちどころに明らかになる。

 例えば戦後憲法もまた明治憲法と同様に、その冒頭で天皇制を謳い、それを国家、国民の「象徴」、「国民統合の象徴」──一種の神、神的存在──として規定するが、しかし単なる平凡な一個人を神になぞらえることは、そしてそんな人間に対してすべての他の人々に〝臣下の礼〟を強要することは、すでにそれ自体、他のすべての人に対する人権の制限であり、侵害ではないのか。

 天皇制──それがどんな天皇制、どんな王制や君主制であれ──を謳った憲法のために闘うということは、日本がいまだ立憲君主制や絶対主義的王政であるということを前提にして政治闘争を闘うということであるが、戦前の共産党ならともかく、戦後の日本において、そんな立場を打ち出すとは、戦前の〝スターリン主義〟のドグマに犯され、珍奇だった共産党をはるかに越える、政治的ナンセンスでなくて何であろうか。

 現行憲法を立憲主義憲法と勘違いし、そんな憲法に依拠し、それによってブルジョアや安倍政権と闘い得る、闘わなくてはならないなどと主張するのは、野党やリベラルやインテリたちだけであって、そんなたわいもない幻想に基づく闘いは直接に敗北への道へとつながっている。

 ブルジョアの民主主義的支配体制の下で、〝立憲主義〟を担ぎ回る共産党や、立憲民主党や、市民派はただそれだけで、現在いかなる政治的闘いを、またいかに貫徹するかを知らないのであり、したがってまた労働者・働く人々の闘いと無関係な、蜃気楼の中にのみ存在する政党であり、急速に没落し、労働者・働く人々に見捨てられていくしかない政党、否、すでに見捨てられ、ゴミ捨て場にいくしかないようなアナクロニズム政党である。(次号に続く 林紘義)

   

【二面 サブ】

訪問で支援を訴える

 「労働者党と古川ひとしを応援する会」の西部地区会長のMさんは精力的に支援活動にとり組んでいます。

 「大規模住宅地域では、ドア越しに『労働者党でーす、海つばめで―す』と大声ではっきり言うと、結構出てきてもらえました。まだ始めて間もないのですが、この一軒、一軒の訪問は『海つばめを購読してください』と始めて、本論に入り、労働者党のビラ(四つ折り)、海つばめ(四つ折り)を紹介しながら、「19参院選に出る事。協力者やカンパをお願いして廻っています。

 『海つばめは月2回(隔週)で年間2000円です』と言うと、『結構安いなあ』という反応があり、読者になってくれた人もいました。」

 またカンパの訴えについては次の様でした。「知り合いで仲の良い人たちにカンパを頼むと意外に5000円とか頼むと出してくれます。これで一票と数えていくと馬鹿になりません。近所の知人5人にカンパをお願いすると気やすく出してくれました。以前同じ職場で働いていた工員仲間にも労働者党の話もできます。工員仲間や知人から1円、5円硬貨がぎっしり入ったビニール袋をもらい、『商品券でもいいのか』ともらったりして入金を約束してくれた人の分を含めて14000円ほどカンパが集まりました。」(G)

   

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