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労働の解放をめざす労働者党機関紙
『海つばめ』

◆隔週日曜日発行/A3版2ページ
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郵政民営化の中で何が起きているのか?
郵政労働者は告発する!

■民営化の嵐の中で最大の御用組合の登場――JPU臨時全国大会議案批判
■郵政民営化――今、職場では/郵政現場からの報告
■恐竜化か、リリパット化か――郵政民営化のジレンマ
■西川善文著『挑戦――日本郵政が目指すもの』/民営化に賭けるトップの本音


憲法改悪と
いかに闘うか?


■改憲に執念燃やす安倍――「国民の自主憲法」幻想を打ち破れ
■労働者は改憲策動といかに闘うか
■国民投票法をどう考えるか
■安倍の「美しい国」幻想――憲法改定にかける野望


本書は何よりも論戦の書であり、その刊行は日和見主義との闘いの一環である。
マルクスが『資本論』で書いていることの本当の意味と内容を知り、その理解を深めるうえでも、さらに『資本論』の解釈をめぐるいくつかの係争問題を解決するうえでも助けとなるだろう。


全国社研社刊、B6判271頁
定価2千円+税・送料290円
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「不破哲三の“唯物史観”と『資本論』曲解』(林 紘義著)」紹介(『海つばめ』第1048号)


全国社研社刊、B6判384頁
定価2千円+税・送料290円
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「天皇制を根底的に論じる『女帝もいらない 天皇制の廃絶を』(林 紘義著)」(『海つばめ』第989号)他

理論誌『プロメテウス』第54号
2010年10月(定価800円)

《特集》菅民主党のイデオロギーと“体質”
・神野直彦の思想と理論――菅直人のブレインは「曲学阿世の徒」
・原則なき寄せ集め政党――顕現するブルジョア的“体質”
反動的な「文化」の擁護に帰着――レヴィ=ストロースの「文化相対主義」批判


 
 
 教育のこれから
   「ゆとり」から「競争」
   そして「愛国教育」で
   いいのか
 林紘義 著 7月1日発売

  (全国社研社刊、定価2千円+税)
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まかり通る「偏向教育」、「つくる会」の策動、教育基本法改悪の動きの中で、“教育”とは何であり、いかに行われるべきかを、問いかける。  


 第一章  
教育基本法改悪案の出発点、
森の「教育改革策動」
 第二章  
破綻する「ゆとり」教育の幻想
 第三章  
“朝令暮改”の文科省、
「ゆとり」から「競争原理」へ
 第四章  
ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書
 第五章  
歴史的評価なく詭弁とすりかえ
つくる会教科書(06年)の具体的検証
 第六章  
日の丸・君が代の強制と
石原都政の悪行の数々
 第七章  
憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動

●1316号 2017年12月10日
【一面トップ】安倍の最後のあがき――はびこる「教育無償化」幻想
【1面囲み】19参院選に飛躍期す――総選挙闘争の意義確認した党大会
【コラム】飛耳長目
【二面〈主張〉】9条に「自衛隊」を付記――開始された愚劣な改憲策動
【二面トップ】明仁の傲慢と増長――天皇の退位と交代

※『海つばめ』PDF版見本

安倍の最後のあがき
はびこる「教育無償化」幻想

 茶番としか言いようがない総選挙が安倍自民党の圧勝として終わり、安倍政権は2年のちの消費増税とその組み替え政策――国の借金返済に回すべきカネを使って「教育無償化」を実現する――への大々的なキャンペーンを開始し、その幻想を広げている。アベノミクスの種が尽き、森友学園、加計学園事件への追及も止む気配もなく、安倍政権の化けの皮がはがれた今、教育無償化幻想を振りまく以外、失われた安倍政権のへの信認と求心力を回復する手立てはないとばかりに、である。

 

 安倍政権は8日、消費増税の組み替えを財源とする2兆円の「政策パッケージ」を発表した。

 その中心内容は幼児教育の無償化だが、その一部は予定より1年早めて19年4月から実行すると強調している。要するに、消費増税の組み替えが出発点だというのに、その半年ほど前に教育無償化を「前倒し」して実行するというのである。まさに安倍政権の教育無償化政策とは、19年の夏の参院選を意識した露骨なバラまきであるという、活きた証拠である。

 2兆円のうちの最大支出を占める3~5才までの「所得制限無しの」教育無償化――保育園や幼稚園の無償化――を実現するというのだが、今もすでに低所得や一人親の世帯には負担軽減の措置がとられている。こうした事実は、「教育無償化」がブルジョアや豊かな階層を対象にした政治であることを教えている。

 だからこそ、教育無償化は「所得制限無し」であるし、なくてはならないのである。かっての民主党の「子育て支援の」バラまきも、同じことである。

 2歳以下の乳幼児に対する無償化は、当面は住民税非課税世帯(年収約260万以下の世帯)が対象だというが、こんな政策はピント外れである、というのは、この階層はすでに保育料の減免を受けている世帯だからである。

 いま待機児童解消が大きな課題となっているが、その9割は2歳児以下の乳幼児を持つ家庭に関係している。教育無償化のための2兆円の一部のカネを活用するだけで――3~5才の幼児のための教育無償化8000億円などを転用する――、この困難な問題も解決に近づくのだが、安倍政権はバラまきのためにカネを使うことはあっても待機児童問題の解消には関心が薄いのである。

 安倍は2013年4月、保育の受け皿を40万人分整理し、待機児童を一掃すると勇ましく宣言したが、その公約を果たせず、この6月、その目標を32万人に変えて2020年まで先送りした。しかし彼はその財源について語っていないし、語ることはできない。 高校の授業料無償化は私立高校にまで対象を広げて、公明党への〝配慮〟から持ち出されているが、その詳細は今後に委ねられている。

 高等教育――大学、短大、専門学校――の無償化は、維新に媚びたもので、私学の利益が複雑に絡らんでいる。低所得者層に限定するというが、それはすでに一定程度実現されているが、安倍政権はそれを私立にまで広げようというのである。

高等教育の意義や位置づけを、そしてまたその歴史的、社会的な意味を検討することなく、その無償化を図ることは問題である、というのは、高等教育に進む者は今では多数派とはいえ、全員ではないからである。

 いくらかでも具体的に検討してみれば、消費増税の組み替えによる教育無償化なる政策は、国民の税金を利用した、安倍政権のための、その延命と支持率回復のための卑しいバラまき政策であり、そう非難されても否定できない、ありとあらゆる契機を有している。

 そして安倍政権は教育無償化の政策を、消費増税の景気に対するマイナスの影響を緩和する――できる――という、おかしな口実からも重視している。

 そんなことが心配なら、かつて二度もそうしたように、消費増税を延長すればいいだけのことである。消費増税の転用による教育無償化のバラまきで点数を稼ぎ、ついでに教育無償化のバラまきは消費拡大で景気にプラスだなどと言って点数を稼ぎたいとするなら、余りに虫が良すぎるというものであろう。

 せいぜい安倍は「虻蜂取らず」のオチにならないように用心すべきであろう。

 消費増税の用途変更という政治、つまり教育無償化の政策が、参院選を目前にした安倍の策動だとすると、そんな邪な意図から実行されるバラまき政策の一環だというなら、そうした有害な政策は粉砕されなくてはならないし、労働者・働く者は必ずやそうするだろう。

 今回の総選挙においては、全ての政党は安倍政権の教育無償化に賛成であり――色々なニュアンスの相異ややり方の違いや、程度問題もあったとしても――、またそれだけではなく、さらに露骨な、さらに徹底したバラまき政策を競ったのである。

 例えば新政党の希望の党は、極端なバラまきで目立とうとしてか、ベーシックインカム(最低生活保障の給付)を謳ったが、これは例えば、国民のすべてに恒久的に毎月10万ずつのバラまきを施せといった〝政策〟である。

 年々150兆円もの無駄ガネが、財政も崩壊寸前、社会保障も音を立てて瓦解していくような、衰退しつつある経済や国家のどこに眠っているというのだろうか。とち狂っているとしか見えない。

 今や安倍政権のもと、ちまたは教育無償化等々の美名のもと、諸政党、諸勢力がここを先途とバラまきを競う政治の場と化しつつある。

 教育無償化で少子化の趨勢を逆転し、現役世代を増やすのだといっても、教育無償化――その内容も明らかではなく、また仮に明らかにされたとしても、そんな偽りの手法――で、少子高齢化の趨勢を劇的に反転させ得るという保障は無に等しい。少子高齢化という名の「国難」との闘いの放棄、その責任の放棄である。

 そもそも教育無償化で仮に少子化の趨勢を反転させ、いくらか子供が増えたとしても、20年、30年先のことである。しかもその可能性さえ怪しげな話である。労働者・働く者への目くらましであり、ごまかし、解決されるべき課題と責任からの逃避である。

 安倍は、「国難」と闘っていると見せ掛けながら、結局は自分の政権のことと、その延命しか考えていないのである。こうした政治の後にくるのは、国家の、財政・金融の、そしてまた労働者・働く者の生活の破綻であり、破滅である。10年ほど前に起こったギリシャの悲劇の再現である。

 まさに昨今の教育無償化等々のバラまき政策の跳梁跋扈は、ブルジョア民主主義の政治の根底を蝕み、議会制民主主義制度の全体を頽廃と腐敗の極限にまで導き、資本の勢力の政治支配の弔鐘を鳴らすものであると結論するしかない。

そもそも社会保障を救うために、全世代型社会保障といった、珍奇な観念を持ち出すこと自体、安倍の言うところの「国難」から目をそらさせ、その解決を無限の遠くに押しやり、むしろ「困難」を深め、さらに深刻にするしかないというのは明らかである。

 例えば少子高齢化や、危機に瀕する社会保障問題の焦点として、今やかましく論じられている「25年問題」というのがある。〝団塊世代〟がみな後期高齢者(75才以上)になる2025年までの8年ほどで、65才以上の高齢者は200万ほど増えて4000万になるが、他方、それを支える生産年齢人口(15才~64才)は1000万も減って6000万に縮むと予想されている。

 年金制度の破綻や、医療制度の崩壊が迫るのだが、それにたいしてますます空洞化し、寄生化する経済や、破産に瀕している財政や無力な国家は、何ごともなし得ないという現実が訪れようとしている。

 介護についてみても、安倍政権のやっていることは介護の社会的な契機を縮小させ、私的な契機を高めるようなことだけである、つまり介護の「社会化」でなく、その「自助化」への逆戻りであり、ブルジョア的な「社会化」の破綻である。

 もし安倍が、教育無償化は現役世代への給付であり、バラまきであり、したがって「全世代型の」社会保障の実現であり、何か新しい理想社会の実現だというなら、我々はそんなものは「全世代型の」健康な諸関係の喪失であり、労働者のまともな生活の崩壊や解体であると答えるであろう。

   

【1面囲み】

19参院選に飛躍期す
総選挙闘争の意義確認した党大会

 読者の皆さん、17総選挙における、神奈川11区の小選挙区の闘いに対する多くのご支持、ご協力、ありがとうございました。

 投票日、激しい風雨という最悪の天候もあって、3133票、1・6%の得票率に留まり、必ずしも満足できるものではありませんでしたが、我々は全力を尽くして闘い、我々の闘いに対する、労働者・働く者の確かな手応えを感じ、大きな自信と、次の闘いへの強い決意を持つことができました。

 我々の闘いと有権者の反応などについては、近く敢行される「我々はいかに闘ったか・神奈川11区の闘い――安倍、小泉の政治に反対して」に詳しいので、是非ともご検討下さい。

 12月2、3日に開催された第二回大会では、総選挙の闘いの意義を確認すると共に、我々の運動や選挙闘争を厳しく点検し、その欠陥も総括し、さらに闘いを貫徹していくことを決定しました。

 安倍政権が20ヶ月のちの参院選まで継続する限り――よほどの激動が安倍政権や自民党に起こらない限り、厚顔無恥にも継続しそうですが――、教育無償化や「全世代型の」社会保障といった、半デマゴギー的で、無責任な政治、危機を深める社会保障も財政危機もかえりみず、かえってその崩壊を早め、不可避とするような政治に反対した我々の闘いは、まさに安倍政権に対する原則的で、正当な闘い、先駆的な闘いとして貫徹され、ますます深められ、発展し、労働者・働く者の大きな支持と期待を集め、広がっていくと確信します。

 大会はステップの闘い――次の参院選挙区の闘い――が、今回の闘いと、当初予定したように連続したものと必ずしもいえなくなり、20ヶ月もあることを考慮し、当初の計画通りにではなく、総括も踏まえて再考することにし、次の闘いを我が党の闘いの道を切り開く決定的な闘いにすべく、具体的な決定に時間をもう少し取ることにしました。できるだけ早く19参院選闘争の具体的で、壮大な(大きな希望と夢を抱けるような)方針を改めて決定して、次の闘いを開始する予定ですのでご期待下さい。

 2017年12月6日  代表委員会


【飛耳長目】

★トランプが何を思ってか、突然、エルサレムをイスラエルの首都と認めると宣言した。数十年にわたって、アメリカ自身が、世界が、そのことをタブーにしてきたというのに、である★ただでさえ「現代のバルカン」と呼ぶに相応しい、中東の地にまるで新しい火種を投げ込んだような暴挙である★動機は個人的な家族関係か、有力な金づるとの関係か、あるいは国内の支持勢力への配慮か、いずれにせよ、政治的なもの、まともな〝外交〟というより、安倍の森友学園、加計学園の事件と同様、色濃く権力野心や個人的動機が見え隠れする★中東をたちまち新しい動乱の嵐の渦中に投げ入れかねない危機の種がまかれたのである。資本主義世界においては、強大国の民族主義、国家主義、帝国主義等々はそれ自体、人類の不幸や悲劇の原因となり得るが、大国の指導者がヒトラーとかスターリンとかトランプとかの場合――安倍や習近平や金正恩らも付け加えられるべきか――、それらは人類にとってとてつもない惨劇として襲いかかる場合がしばしばあり得るのは、歴史の悲しい事実である★安倍はこんな人物との〝比類のない〟親近性を自慢していいのか。世界の多くの国と圧倒的な〝世論〟はトランプを非難している。安倍と日本だけは、トランプとともに孤立している。安倍政権継続の、日本の、労働者・働く者にとっての〝危険性〟はいよいよ大きい。(鵬)

   

【主張】

9条に「自衛隊」を付記
開始された愚劣な改憲策動

 安倍自民の圧勝と共に、憲法改定が現実的な政治課題として浮上してきた。

 政権や自民の内部では、19参院選と改憲のための国民投票をダブらせるという構想さえ論じられている。

 この12月、憲法〝論議〟が動き始め、「衆院憲法審査会では、協議のテーマやペースを握る幹事人事が決まった。与野党の論客はさっそく民間の討論会に登場した」(朝日)。

 その討論会で、自民の中谷元は、憲法への自衛隊「明記」について、「国を守る組織として容認されるべき」と語った。

 各党の立場も明らかになりつつある。公明や維新はいわずもがな希望や立憲さえ改定そのものに反対ではない。〝改憲勢力〟は国会議員の8割を越える。わずかに改憲反対の勢力は、立憲も加えて2割程度である。

 討論会に出席した立憲の山尾は、「立憲的改憲」なる奇妙な観念を持ちだし、枝野はかつて、「憲法をいい方向に変えるのは当然で、悪い方に変えるのには反対する」と述べている。

 つまり無条件に憲法を支持するのは共産、社民くらいの極小勢力である。

 共産は立憲を野党共闘に引き込むために、「安倍政権のもとでの改憲には反対」と謳って、自分の立場を曖昧にし、ごまかしていて、まるで腰が据わっていない。

 そして安倍自身、総選挙後に、9条の全体を残しつつ、「自衛隊の明記」を付け加えるという、ばかげた改憲案を持ち出している。

 そもそも憲法の9条の原文を残して、「自衛隊の存在を明記する」といった、改憲にどんな実際的な意味があるのか。

 9条のもとでも、自民や政府はこれまで、「自衛隊の〝合法的な〟存在」を認めてきた。だからこそ、強大な軍隊である自衛隊がすでに「存在する」。

 安倍は、自衛隊は確かに事実上存在するが、尊重され、敬愛されていない、感謝されていない、国家防衛のために、あるいは震災救助や救援のために、日々活動している自衛隊のために、尊敬の念等々を「明記」すべきだというのだが、途方もない愚論でしかない。

 憲法は〝法律〟であり、客観性と事実に基づいて書かれるべきであって、主観的なものや情緒的な文章で書かれるべきでないのは明らかである。

 国家や自衛隊に「愛情を持て」といっても、それは国民の側だけの問題でなく、国家や自衛隊の側の問題でもある。国家がファシズム国家、軍国主義の国家であり、そのための軍隊であるとするなら、そんなものに労働者・働く者は「愛情を持つ」ことはできない。

 つまり憲法に国家や軍隊に「愛情を持て」などと書くことが必要なのではなく、国家や軍隊が、労働者・働く者から「愛情を持たれるような存在」になることが問題であるにすぎない。

 安倍は、自らの改憲案について、「できるだけ多数派を得るためには、もとの9条は残さなければ難しいだろう」と語って、自らの改憲策動が、〝国家社会〟のためという、国家主義派の〝崇高な〟理想のためですらない――安倍の個人的な野心や政権延命のためでしかない――という、その卑しく、ちっぽけな本性を暴露している。

 安倍のこうしたご都合主義的な改憲策動は国家主義的反動はだけでなく、すべての政党や勢力の反発や策動を助長し、政治的混乱を収拾しがたい所に導き、改憲策動そのものを一掃してしまう可能性さえある。

 いずれにせよ、安倍のめざす憲法改定が愚劣で、矛盾した支離滅裂であることだけは確かである。

   

明仁の傲慢と増長
天皇の退位と交代

 明仁の「お言葉」なるものから一年、明仁の退位と天皇の交代のときが決まった。退位は来年4月30日、新天皇は5月1日に誕生するという。生前退位という明仁の意思が結局まかり通ったのだが、それで良かったということには少しもならない、というのは、戦後憲法の根底がないがしろにされ、天皇や政府や政党、政治家連中の憲法違反がまかり通り、天皇制の〝変質〟さえあらわになって来たからである。今や天皇制問題でも 〝法治国家〟としての日本の面目はなく、跡形もなくなったかである。

明仁のこだわる天皇の〝公務〟

 その先頭に立ったのは明仁であり、彼の天皇制維持と永続化の野望であって、生前退位という憲法違反の要求は、反動派や議員、安倍政権の側から出てきた政治課題ではない。つまりこの点では、明仁は誰よりも政治的であり、政治的に振る舞ったのである。戦後憲法に規定された〝天皇〟としては、まさに憲法違反をこととする最悪の天皇であり、天皇失格である。

 明仁が生前退位を望んだのは、高齢のため、憲法に余りに明白に規定された天皇の任務――「天皇は、この憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」として規定されている、「国会を召集すること」、「衆議院を解散すること」、「栄典を授与すること」等々の10項目の形式的な仕事――を果たせなくなったからではない。そうではなくて、憲法には何ら義務的なものとして規定されていない、〝公的行為〟が行えなくなったからだと、明仁自身が明白に語っている。

 なぜ新憲法で、天皇の存在を純粋に形式的なものに貶(おとし)められたかといえば、その理由は簡単にして明瞭である。

 1931年から45年まで続いた15年戦争の時代――中国を始めとするアジア諸国への侵略戦争や、米英との世界とアジア領域の覇権と再分割をかけて戦った帝国主義戦争の時代――、天皇とその一家は、「国民と共に」ではなく、軍部ファシストと共にあり、彼らと融合して、国民をそんな反動戦争に駆り立て、死と破滅に導くという役割を担ったからである。

 天皇一家のはたした、そんな反動戦争の〝戦犯〟筆頭のような役割――本来なら、そんな許し難い機能を発揮した天皇制の廃絶こそ当然であり、必然であったのだが――があったからこそ、マッカーサーは仮に天皇制の存続を認めるにしても――とにかくマッカーサーも天皇も、結局は同じ支配階級に属し、結局はブルジョア支配を肯定する、その限りではお互いに〝親近感〟を抱く立場にあったのだ――、その〝政治的な〟関わりは厳しく制限されるべきと結論したのである。

 明仁が生前退位の意思を政府に明らかにした2015年秋、安倍政権は強く反発し、憲法にも示されておらず、天皇がいわば勝手に、〝私事〟――天皇が自由意思で、政治的言動と紛らわしいような〝私事〟をやっていいのかという問題は問わないとしても――としてやっている「公務」と名付けられた言動の縮小や、国事行為を代行する摂政――皇太子が適切だ――をおくという形を考えたが、それを事実上拒否したのも明仁であった。

 ここでも明仁は、「天皇は国事行為のみを行う」、そしてその国事行為でさえ、「内閣の助言と承認により・・・行う」という憲法の規定に背いて、実際上、自分の意思を政府に押し付け、内閣を自らに従わせたのであった(もちろん安倍が譲ったのは、安倍政権がいくらかでも天皇を敬愛して天皇の意思を受け入れたわけでなく、単に〝世論〟なるものを恐れたからだったのだが)。

 まさに明仁の事実上の、重ね重ねの憲法違反というしかない。

〝象徴天皇〟など幻想

 そもそも明仁が、「本来あるべき天皇の姿として象徴天皇を考え、また実践してきた」などと言うべきではないし、また言うことはできない。

 というのは、象徴天皇の概念はまだ誰1人として、論理的に、また説得的に明らかにした人はいないのであり、またその概念も保守派、国家主義派や、自由主義派、観念インテリ等々、千差万別、数限りなくあるのであって、どれが正しいなどと誰も言えないからである。

 憲法が仮に、「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する国民の総意に基づく」といってはいても、ただいっているだけで、どんな根拠も正当性も保証されていないのである、つまりア・プリオリである。

 天皇は日本国の象徴だといっても、その内容は何かということになれば、100人いれば、その100人がみな違うことは確かである、というのは、各人の「日本とは何か」という認識はみな違うからである。

 明仁が何をもって「日本国の象徴」と規定するかは知らないが、仮にそんなものを明仁が語り得るとしても、それが客観的な真実だなどと言うことはできないし、また明仁も言う自信はないだろう、というのは、世界と日本の歴史や社会関係の総体を抜きにして、それを言うことはできないからであり、その意味では絶対的でなく、相対的なものに留まるからである。

 したがって、明仁は天皇が日本の国や国民の象徴として実践すべきだと言い、また実践したとしても、それが〝正しいもの〟と言うことはできない。ただ明仁が正しいと思った限りの〝正しさ〟にすぎない。

 事実、国家主義的反動派や〝純粋〟天皇制主義者の中からは、天皇は〝公務〟など行う必要はない、ちまたにでしゃばって臆面もなく出没し、国民のために祈ったり、国民慰安だ、慰霊だといって出ずっぱりにならず、宮殿の奥深くにあって国家のために祈っているだけで十分だ、国民に親しまれ、愛される必要などない――芸能人やタレントでもあるまいに――、むしろ国民から畏敬の念をもって仰がれる、尊厳のある存在であるべきだという、別の意味での「国家の象徴」という概念が持ち出されるのであり――「天皇は続くことと、祈ることに意味がある」云々――、明仁もこの概念をむげに退けることができず、動揺するのである(自ら告白したように)。

 保守派は、現行天皇制のわずかな修正も、ひび割れも、天皇制の最終的な崩壊と消滅の第一歩となるのを極端に恐れるのであり、天皇制のどんな修正や〝改革〟――例えば、女帝制――にも反発するのだが、しかし〝古色蒼然たる〟天皇制を守ったとしても、すでに時代遅れで、国民差別の〝象徴〟である天皇制を永遠に存続させることなど、できるはずもないのである。

 

〝公務〟は憲法違反、止めるべき

 明仁が憲法違反の〝疑い〟も何のその、ひたすらでしゃばって〝公務〟に励むのは、天皇制の役割が純粋に形式的な〝国事行為〟だけだったとしたら、天皇制は形骸化し、国民から忘れられ、江戸時代の天皇制のような、あるかないかの希薄な存在に転落し、やがては滅び、消滅してしまうと恐怖するからである。

 だから明仁は、自分が十分に〝公務〟を果たせないというなら、十分にその仕事をこなせる若い天皇に交代すべきだと考えるのであり、〝公務〟を減らしても、死ぬまで天皇の地位に留まるのが憲法と皇室典範の定めるところであり――安倍や保守派も同様に考える――、そうすべきだという安倍政権の見解に同意しないし、できないのである。

 憲法は天皇が自分の意思で、勝手に行うような〝公務〟等々を認めていないのは、そうしたものが容易に〝政治的な〟行為となり得るからである。

 例えば明仁は盛んに、日本軍が壊滅したり、〝玉砕〟した、太平洋の島々の〝激戦地〟を〝慰霊〟のために訪れたりしているが、それが優れて政治的行為であるということに無自覚である。

 明仁はペリリュー島を訪れ、そこで〝玉砕〟した――つまりほとんど戦死した――軍人たちを〝慰霊〟したが、そこで無念にも死ななくてはならなかった労働者・働く者の若者たちは、天皇の命を記した「赤紙一枚」によって、彼らにとって何の意味もない侵略戦争、帝国主義戦争にかり出され、あたら無駄に命を落としたのである。

 明仁がまず死者に心から詫びることから始めたならともかく、彼は天皇一家が〝戦犯〟筆頭の悪事を働いたという自覚もなく、死者の魂を〝慰霊〟するというのである。

 労働者・働く者はこうしたことを平然とやれる人間や一家を、ならず者、最低の人間たちとみなさないであろうか。

 しかし明仁はペリリュー島に出かけても謝罪から始めないのである、それがまず最初に為されることだという自覚もないのである。そんなことはできないだろうと明仁に同情する人もいるかも知れない、というのは、そんなことを明白に言ったら、安倍政権は決して明仁のペリリュー島訪問を許さなかっただろう、安倍一派にとって15年戦争は、日本にとって「祖国防衛」の正当な戦争、正義の戦争だったから、労働者、勤労者の若者は、そんな神聖な戦争のために死んだ〝英雄〟でなくてはならないから、と。

 そして明仁が15年戦争の死者に謝罪するなら、安倍一派もまたしなくては世の中が治まらなくなるかも知れないのである。

 もちろん、明仁は安倍政権がこわくて、激戦地で死んだ労働者、勤労者の若者に謝罪しなかったのではない、この無反省な男は、自分の父らの行った、労働者、勤労者に対する恐るべき罪を自覚しないのである。そんな歴史的事実を知らないかに装い、15年戦争や父らの言動を美化し、正当化すると共に、そのことによって、安倍政権のために事実上〝犬馬の労をとり〟、奉仕するのである。

 こうした行為が、どうして天皇の憲法違反の行動、〝政治的行動〟でないことがあろうか。〝公務〟だなどとは真っ赤な偽りである。

 そして明仁の退位と、新天皇の即位は、4月30日と5月1日にめでたく決まったのだが、ここでは4月1日に天皇の交代という明仁の希望は入れられないで、安倍政権の〝政治的な〟都合が優先されたのである。

 安倍はようやく最後に、自分の利益と意思を貫徹し、明仁の〝わがまま〟と野望に一矢を報い、国家の事実上のトップとしての体面とプライドを守り、明仁にも劣らない厚顔無恥の本性と野望を明らかにした。

   

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