教育問題シリーズ 1
国民教育の成立とその歴史的意義
――フランス革命期における公教育
菊池 里志 著


教育シリーズいよいよ刊行!――フランス革命と、対立する教育思想

 いよいよ、「教育問題シリーズ」の刊行が始まった。パンフレット形式で、数巻の予定である。

 教育問題の出版計画は、当初、数人の執筆者による一冊の単行本として企画されたのだが、執筆者の足並みがなかなかそろわず、いつ世に出るか見通せない状況となる中で、原稿がまとまったものから、パンフ形式で順次出すというふうに変更されてきたものである。

 そして第一巻として、ここに菊池里志氏の「国民教育の成立とその歴史的意義」を、読者の手もとに送り出すことができた。我々は、このことを素直に喜びたい、というのは、この頽廃していくブルジョア社会おいて、教育問題もまた決定的に重要な問題の一つ、諸階級、諸勢力の先鋭な対立を呼ぶ“系争問題”の一つとなっているからである。

 こうした状況下では、教育について、あるいは教育問題について、正しい、深刻な観念を抱くことは、資本の支配に反対する労働者のイデオロギーの一つの重要な契機をなすだろう。

 菊池氏が、教育問題を研究するにあたって、フランス革命期の教育をめぐる対立、闘争に関心をもち、それを取り上げた意義は明らかであって、著者自身が、次のように語っている。

「(フランス革命期に議会に提出された“教育改革案”は)革命初期のタレーランの極めて自由主義的な公教育案にはじまって、コンドルセ案、ルペルチエ案、そして国民公会の解散直前に成立したドヌー案がその代表的なものだが、これらの教育改革案の中には、現在問題となっている重要な教育論争の原型がすべて現れているといってよい。教育における自由主義と管理(統制)主義、平等主義とエリート主義、知育主義と訓育(徳育)主義、親の教育権と国家の教育権、私教育と公教育の対立等である。これらの本質的なテーマが史上初めて、革命の砲弾の中の議場で、延々と白熱した議論が展開されたことは感動的ですらある」(四〜五頁)

 そしてフランス革命がこの教育における対立とジレンマを解決できなかったと同様に、現代ブルジョア社会(戦後日本の社会)もまた、この問題の前で当惑し、周章狼狽する以外、何もなしえないのである。

 ブルジョア教育の二大原理は、一方における個人主義、自由主義、他方における統制主義、国家主義である、あるいは結局はこの単純な対立もしくは矛盾に帰着するのだが、しかしこれが現在の社会のもとで解決不能のジレンマ以外でないのは、すべての人が日々の現実の経験の中で認めるところであろう。

 つまり日本の国家が日の丸・君が代を強要するために、なりふりかまわぬ狂乱した攻撃に出て来るかと思うと、その同じ国家が今度は、教育における「ゆとり」とか、個性の重視とかいった、自由主義的な空文句にいくらでもふけって、国民のひんしゅくを買う、といった具合なのである。

 そして菊池氏も強調しているように、資本の国家は、このジレンマを国家主義に、あるいはファシズム的方向に“止揚する”しかないのであり、また現実に、そうしつつあるのである。

 もちろん、教育の根底に対する菊池氏の立場は、自由主義でもなければ、“統制”主義・訓育主義(国家主義)でもない、むしろ氏は、教育もまた階級的であり、歴史的でしかない(ありえない)ことを強調するのである。歴史上のどんな教育理論も、歴史の舞台に登場した諸階級、とりわけ支配階級のイデオロギーであること、その利害と立場の反映であることを明らかにするのである。

 こうした菊池氏の観点から、どんな実践的な結論が引き出されるのであろうか、読者の関心もそこに集約されて行くであろう。

 もちろん菊池氏のパンフの課題は、この問いに直接に答えることではない。したがって氏は、この問題を正面からは展開していない。

 しかし氏が決して「教育」そのもの(あるいは“公教育”すなわち社会の責任における教育)や、その意義を否定するのでないことは明らかであろう。氏はむしろある意味で、それらの意義を十分に確認し、その上で議論を展開している。

 人類は社会的存在として自らを意識するや否や(つまり、親と子の共同の生活の中で、自然発生的に子供を育てるだけで十分であった時代を過ぎるや否や)、後世代のために、いくらかでも組織だった、いくからでも系統的で、意識的な形での、訓練、生活の知恵やより広汎な知識の授与、共通の社会的意識の育成、等々の必要性を自覚し、何らかの形での「教育」にたずさわってきたのであって、このことは、階級社会が克服され、資本の支配が廃絶されたあかつきにおいても変わることはないであろう。

 そして我々が、将来の階級のない社会における教育の姿を想像することは、それほど難しいことではないだろう、というのは、社会の根底から矛盾が取り除かれるからであり、また教育に対する資本の支配、階級国家の影響や圧力が一掃されるからであり、さらにはこのブルジョア社会における教育の、様々な矛盾やジレンマが“止揚”され、なくなるからである。そうした将来の教育像に、楽しく夢を馳せるのはもちろん悪いことではない。

 しかしこの階級社会における我々の基本的な課題は、将来の理想社会における教育について夢想することではなく、資本の支配に反対して闘いぬくことである、というのは、現在の教育が内包する諸問題、諸困難は、決して教育の枠内だけで、その“改革”等々によってだけで一掃され得るものではなく、もっと大きな、根本的な社会的変革と結び付いてのみ、解決可能だからである。

 菊池氏もまた、結論として、この資本の支配する社会の克服を呼びかけるゆえんである。

(林)

『海つばめ』第888号2002年10月6日


【目次】

一、はじめに

二、旧制度における教育制度
(1)民衆教育とコレージュ
(2)ナショナリズムの成立
(3)ラ・シャロッテの「国民教育論」

三、フランス啓蒙思想期の教育観
(1)フランス唯物論の社会観
(2)ディドロの公教育観
(3)ルソーの公教育観

四、革命期における教育闘争
(1)立憲議会期
(2)立法議会期
   イ、前 期
   ロ、中 期
   ハ、後 期

五、革命議会における教育闘争の対立軸
  ――コンドルセ案とルベルチェ案

六、ドヌー法の成立――ブルジョアの勝利

七、結語――国民教育としての近代公教育の出現

参考文献