『林紘義著作集』の刊行にあたって
社労党中央執行委員会
今回、社労党の活動を中心になって担ってきた林紘義氏の著作集、全六巻が出版されることになりましたので、『海つばめ』の読者の皆さんにお知らせすると同時に、熱烈なご支援、ご協力をお願いします。
著作集は六月から始まって、一月もしくは二月に一巻の割で発行していく計画で、順調に行けば、今年中に出版を終える予定です。
一貫して革命的社会主義の旗を高く掲げ、“右の”日和見主義すなわち社・共にも、“左の”――左を装った――日和見主義すなわち新左翼・急進派(革マルとか中核とかブントとか)にも、毅然として終始一貫反対して活動してきた林氏の重要な論文が出版されることは、少なからざる意義を持つと思います。
それはまた、現代における革命的社会主義派の思想と闘いを広範な労働者の中に広げていく最良のきっかけになり、さらには自覚した多くの労働者を組織的に結集していく一つの出発点、重要な契機にもなるだろうと期待しています。
しかしこの出版は、社労党の財政事情の悪い折、直接に党の事業としてでなく、林氏の個人出版の形を取ることになり、最終的には林氏が全責任を取ることになりました(財政的にも)。
もちろん、党としても様々な形で支援と応援の体制をひいていくつもりです。
そんな事情ですので、読者やシンパの皆さんの大きなご支援なくしては、この事業の成功は非常に困難なものがあります。
とりわけ、多くの心ある方たちの財政的な支援を呼び掛け、かつお願いしたいと思います。
差し当たりは、全六巻の予約購読を行い、資金的に強く支えていただきたく、切にお願いします。
著作集の値段は一巻二千円で六巻、合計で一万二千円になりますが、予約購読の場合は全六巻で一万円としますので、一人でも多くの方に全巻で予約購読していただければ大変助かります。
また、カンパもできるだけして頂ければ、この事業の成功はいっそう確かなものになるでしょう。
なお、全六巻は次のような内容で予定されています。
★第一巻 「ソ連論」(国家資本主義論)
★第二巻 腐朽する現代資本主義
★第三巻 イデオロギー(宇野弘蔵、黒田寛一、広松渉、林道義等)批判
★第四巻 労働価値説を擁護して
★第五巻 革命的社会主義の政治
★第六巻 文学論、教育論他
各巻はA5版三百頁ほどのものとなります。
六月に最初に出る第四巻、「労働価値説を擁護して」の原稿はすでに印刷所に入っています。これは、マルクス主義(経済学)に最初に接近する青年労働者や学生にとって最適なもので、学習会に利用することもできます。もちろん、労働者が読んで、マルクス主義の基礎をいまいちど確認し、資本主義の根底的な矛盾をさらに自覚して、資本主義の克服に思いを馳せるのもいいと思います。この著作は宇野学派に対する批判を根底において展開されており、その意味でも単純な『資本論』解説といったものとは全く違った内容と質をもっており、生き生きとした興味と関心をもって『資本論』理解が進むという大きな特徴とメリットがあります。
もちろん、それに続いて出版される予定の「ソ連論=国家資本主義論」もまた、林氏がすでに三十年近くも主張してきた理論、そしてソ連邦と共産党権力の崩壊によって、またソ連や中国の資本主義への公然たる移行によって、その正当性が実際的にも証明されてきた、まさに歴史的な理論であって、極めて刺激的で、重要な著作だと確信します。
要するに、六冊の林氏の著作集は、社共や急進派に反対して闘ってきた林氏の思想的、実践的な闘いの神髄の結晶であり、多くの労働者、青年の必読の文献であり、非常に有益なものである、ということです。すべての巻が豊かな思想と内容にあふれていると言っても決して言い過ぎではありません。
ぜひ、一人でも多くの読者に予約購読をお願いします。
なお、予約購読の申し込みやカンパは直接党員にしていただくか、以下の口座にお願いします。
《さくら銀行池袋東支店、店番号671、普通預金口座6933180、林紘義宛》
『海つばめ』第677号1998年5月17日
『林 紘義』著作集の刊行始まる
俗流経済学=宇野派への徹底した批判
第一巻「労働価値説」擁護のために
いよいよ林紘義著作集(全六巻)の刊行が始まった(各巻の標題は別表参照)。この著作集は、社労党中央執行委員長の林紘義氏がこれまでの長い党の活動を通じてさまざまな機会(党の前身である「マル労同」や「全国社研」の時代も含む)に機関紙・誌で発表して来た膨大な諸論文の中から、各テーマごとに選択してまとめたものである。革命的社会主義の旗を高く掲げ、左右の日和見主義(社共・新左翼等)と一貫して闘って来た、その足跡から学ぶことは、社会主義をめざし闘う意識ある労働者にとって極めて大きな意義があると考える。ここでは第一回配本となる第一巻「『労働価値説』擁護のために――一切の俗流学派とりわけ宇野学派に反対して」を紹介し、多くの労働者の購読を勧めるものである。
◎『資本論』学習の重要な手引き
本書は五部に分かれているが、今、それぞれの部にそって概要と特徴を紹介して行こう。
第一部「『商品』とは何か」は、一九八四年十月から八七年四月まで、ほぼ二年六カ月、当時の社労党機関紙『変革』紙上に八十五回にわたって長期連載されたものである。それは『資本論』の最初の三つの章をほぼカバーし、資本の生産過程の基本的内容(「労働の搾取」)を対象としている。
マルクス自身、その初版序言で「すべてはじめはむずかしい、ということは、どの科学にもあてはまる。だから、第一章、ことに商品の分析を収める節[現行の『資本論』では第一章にあたる――引用者]の理解は、もっとも困難であろう」と述べているように、『資本論』を初めて学ぶ者にとっては、その最初の商品の分析は“難解”とされている。
しかし本論文は、連載に当たって著者が「いよいよ、マルクス主義経済学の“易しい”解説の連載をはじめます」と書いているように、『資本論』のこの難しい部分を逐一平易に解説するものとなっている。だから本論文は『資本論』をこれから学ぼうとする労働者にとっては格好の参考書となるものである。『資本論』を読み進めるにあたって本書を横に置き、“難解”部分に突き当たるごとに本書をひもとけば、必ずや明快な説明を見出し理解を助けることであろう。
実を言うと、この連載論文はこれまでにも党員の間では、『資本論』を学習する上での重要な参考文献の一つとされてきたものである。大阪でもある同志が連載を切り抜き編集して一冊の冊子にしたものがあるが、それは党員間で重宝されてきた。しかしそれはかなり以前に発行され部数も少なかったために今では入手が困難で、新しい党員は旧い党員から借りてコピーして学んできたほどである。それがこうしてまとまった形で刊行されるということは、『資本論』を学習しようとする多くの意欲ある労働者にとっては一つの朗報であり、大いに活用されるべきであろう。
しかも本論文は単に『資本論』の平易な解説にとどまるものではない。むしろ本論文の特徴は、マルクス主義の経済学を攻撃するさまざまな「マルクス批判家」や俗流学派、特に宇野学派に対する徹底した“論難の書”でもあるというところにある。
例えば「若干の“方法論”について」という最初の節では、「純粋な」資本主義についての宇野の「おしゃべり」を「全く観念的なもの」と退け、次のようにマルクス主義の立場を対置している。
「他方マルクス主義者は、『資本論』とは資本主義の理論であり、その真の認識であるという。現実の資本主義が仮に多かれ少なかれ『不純な』要素をもっていようと、『資本論』がこの“近代の市民社会”=ブルジョア社会の諸関係の真の認識であり、科学であることを何ら妨げない。それはやはり現実の“反映”としての理論であって、ことさら、この現実のほかに“モデル”=『純粋な』資本主義を想定する必要はないのである」
そしてさらに「宇野“理論”とは、現代ブルジョア哲学と経済学によってマルクス主義を修正する試み、その限りブルジョア大学に寄生する知識人の本性にぴったり一致する試みなのである」と喝破している。
これ以外にも本論文では『資本論』の「冒頭の商品の性格」をめぐる論争や「複雑労働と簡単労働」の問題など、これまで『資本論』の理解に関して繰り広げられて来た多くの論争問題も積極的に取り上げ、“決着”を付けている。
第二部「あらゆる『価値論』の契機が混在――スミスの『価値論』について」は、社労党の理論誌『プロメテウス』第二十七号(九七年秋季)に掲載されたもので、第一部の「商品論」の理解をさらに深める上で重要である。
マルクス主義の「労働価値説」は、古典派経済学の積極的なものの継承である。スミスの価値論もそうした“正しい”ものと“間違った”ものとが「混在」していると著者はいう。著者はスミスの価値論に混在するさまざまな価値論(「投下労働価値論」と「支配(もしくは購買)労働価値論」の二重性、あるいは「価値分解論」と「価値構成論」の二重性等々)の意義と限界を明らかにしている。そして「スミスの『価値論』の歴史的評価」として次のように指摘する。
「もちろん、スミスの価値論が、一方における投下労働価値論、他方における購買労働価値論の二重性を基本的な内容とするものであること、そしてこの二重性こそ、スミスの価値論の、したがってまたスミスの理論の歴史的な意義と限界を規定するものであることは明らかであろう。その意味で、スミスの価値論を理解することは、マルクス主義的価値論の意義を理解することであり、それが人間の認識の、どんな合法則的な発展の過程で生まれ、形成されてきたかを理解することでもあろう」
ここには本論文の意義も同時に述べられていると言えるだろう。
◎マルクス主義の“信用論”と“地代論”
第三部「“信用”の意義と仮空性――マルクス主義の“信用”論」は、現代の資本主義(国家独占資本主義)の理解にとって重要な問題、特に今日の金融危機などを理解する上で不可欠の問題である「信用論」が取り上げられている。これも第一部の論文と同じ『変革』紙上に一九八七年四月から九月まで十八回にわたって連載されたものである。つまり第三部の論文は、第一部の論文の直接の“続き”として書かれたもので、最初に次のような記述がある。
「この“信用”論はこれまで連載してきた“商品”論とも大いに関連がありますが――マルクス主義の“価値論”が根本の前提――、連載では殆ど述べなかった“資本”――労働の搾取、つまり剰余価値の生産――の論理と一そう直接的な関係をもっています」
よってこの“信用”論も、著者自身が「できるかぎりやさしく、分かりやすくと心がけてやってゆく」と述べているように、マルクス主義の“信用”論の平易な解説となっている。“信用論”を取り扱っている『資本論』第三巻第五篇は、第三巻の編集を手がけたエンゲルスがその「序言」で述べているように、編集に最も手を焼いたところである。それだけマルクスのその部分の草稿が未完成だったからであるが、それだけにわれわれにとっても第三巻の当該箇所の理解はなかなか困難な部分でもあるわけである。もちろん内容的にも難しいからであることは言うまでもない。それだけに本論文の解説は極めて“貴重”であるといえる。
本論文は必ずしも第三巻の関係個所の逐条解説といったものではないが、それだけにいまだ第三巻を読んでいない読者にとっても十分理解できるように書かれており、しかもマルクス主義の“信用”論の基本的な内容は十分展開されている。そればかりか、常に現代的な問題と関連させてマルクス主義の“信用”論が論じられており、われわれの理解を助けるものとなっている。例えば、日銀券について、次のように論じている。
「日銀券が単なる紙幣でなく信用貨幣から出発しているということは、現代の資本主義の諸特性を理解する上できわめて重要です。例えば、今むやみに“遊資”――投下先の見出せない貨幣資本――があふれる一方、それが直ちにインフレにつながらない――直接につながらないのであって、近い将来のインフレの高進がない、ということではありません――のは、日銀券が直接に紙幣でなく、事実上紙幣化した――ますますしつつある――信用貨幣であることと、深い関連を持っている等々」
第四部「マルクスの『地代論』も共産主義者としての“理論的自己実現”」は、本巻に収録されたものの中では一番早い時期に書かれたもので、社労党の前身である「マル労同」(マルクス主義労働者同盟)の理論誌『科学的共産主義』第五十七号(八三年春季)に掲載されたものである(同誌上で連載された《資本論研究》の第十回の論文)。
マルクス主義の“地代論”も、なかなか理解が難しいものである。『資本論』や『学説史』の当該個所を読んだ方なら経験があると思うが、さまざまな複雑な計算式が出てきて、それを一つ一つ追っていくだけで頭が破裂しそうになるものである。そのあげくが、そもそも地代とは何か、という肝心のことが十分理解されずに終わったりするわけである。
もし貴方自身が、マルクス主義の“地代論”について、何か分かったようでもう一つ分からないモヤモヤを抱えているとするなら、本論文は一服の清涼剤のような“効果”を発揮するであろう。少なくともマルクスが論じている資本主義的地代の二つの正常な形態(差額地代と絶対地代)と「本来の独占価格にもとづく地代」について、その基本的な内容や特徴、三者の相違、及び地代の歴史的・社会的意義等々について、極めて簡単明瞭で“整理整頓”された認識を得ることが出来るであろう。だからまた例え『資本論』などの当該個所を読んだことがない読者にとっても、地代についての正確な概念が獲得できるわけである。
例えば差額地代と絶対地代の相違について、前者は有利な条件で生産する資本が手にする特別利潤の一種で、土地所有はこの超過利潤の原因ではなく、その地代の形態への転化の原因だが、後者の場合は、土地所有そのものが農産物価格を引き上げ、地代をつくり出すという決定的な相違があること、また両者の相違は、前者が資本主義の基礎上では消滅しないが、後者は消滅しうる場合があることも見られる等々。
またマルクスは差額地代は「一つの虚偽の社会的価値」であると述べ、その理解について様々な論争がなされてきた。本論文ではこれらの問題についても基本的な解決を与えている。
◎生産的労働の概念
さて最後の第五部「生産的労働のマルクス主義的概念について」は、本巻のもう一つの大きな柱をなすものである。この論文は第二部と同様比較的新しいものであり、『プロメテウス』第二十四号と第二十五号(九七年冬季と春季)に分割掲載されたものである。
生産的労働と不生産的労働との区別の重要性については、マルクス主義者なら認めないわけには行かない。なぜなら、それはこの社会の依ってたつ基盤を明らかにし、それに寄食するものとの相違を確認することだからであり、現実の階級闘争の真の担い手を明確にすることでもあるからである。だからまたそれは同時に革命的な社会主義政党の階級的な立脚点を明らかにすることでもある。さらに労働者の目指す将来の社会主義像とも密接に関連するものでもあるのだ。社労党の『綱領』は次のように明確に述べている。
「社会主義はただこれらの労働者(「何千万の生産的労働者、準生産的労働者」――引用者)の自覚した階級的闘いとしてのみ可能であり、また必然であって、社会主義労働者党はまさに彼らの独自の、独立した階級政党であって、この階級のすべてのすぐれた、積極的な分子を結集して資本に反対する階級闘争を貫徹する」
しかしこれほど重要な生産的労働の概念だが、実際には、必ずしも明確であるとは言いがたい。むしろ日和見主義者によって、ますますこの概念があいまいにされているというのが現状である。本論文ではこうした日和見主義者に対する徹底した批判もなされている。
本論文は、大きくは二つに分けられ、前半は生産的労働のマルクス主義的概念がマルクスの論述を紹介しながら解明されており、また教育労働や家事労働を如何に評価すべきかも明らかにされている。また後半では赤堀邦雄と飯盛信男のそれぞれの「生産的労働の概念」や「サービス労働論」の徹底的な批判が展開されている。
本巻が林紘義著作集の最初の配本として刊行されることは意義深いことである。なぜなら本巻の対象とするものは、マルクス主義の諸学説や階級闘争の諸理論のなかでも、もっとも基礎的なものの一つであり、しかも極めて分かりやすく書かれたものが多いからである。だから本巻は著作集全体の入門書的意義もあるであろう。是非、本巻をきっかけとして、著作集全巻を読破されることを期待するものである。
(ういんぐ・出版企画センター刊、定価二千円、但し全六巻予約の場合は合計一万円)
(亀崎) 〔6巻見出しに戻る〕
『海つばめ』第683号1998年6月28日
林著作集第二巻発行さる
現代史の“謎”解き明かす・国家資本主義論(ソ連・中国体制論)
林著作集第二巻『幻想の“社会主義”』を読む
林紘義著作集の第二巻『幻想の“社会主義”(「国家資本主義」の理論)――スターリン、毛沢東の体制はなぜいかにして資本主義に進化したか』が発行された。二十一世紀を目前にした今日、ロシアや中国における革命の勝利とその後の“社会主義体制”の成立・発展、さらにはその変貌と劇的な崩壊(ソ連・東欧)についての正しい観念なくしては今世紀を理解することも来世紀を展望することもできないことはすべての人の一致するところであろう。しかし、この革命と“社会主義体制”の評価ほどに、世界中で熱く激しい論議を呼び起こして来たものもない。このいわば現代版「スフィンクスの謎」に挑戦し、現代史の真実を解明する決定的なカギを与えたものこそ、林氏の国家資本主義の理論に他ならない。またそれによって初めてプロレタリアートの新たな革命運動は理論的・実践的に確固たる礎石を獲得したのである。著作集第二巻はこの国家資本主義論にあてられている。
◎二十世紀最大の“謎”の解明に挑む
著作集第二巻は、今回新たに書かれた「序文」と、七部に構成された諸論文とからなっている(別掲の「目次」参照)。
「序文」の冒頭で著者は本書の内容を簡潔に次のように語っている。
「スターリン、毛沢東の“社会主義”、“共産主義”は、あからさまの資本主義に進化した――現代においてこれほど不可解で、理解を超越したかに見える歴史的現実はないであろう。まさにこれは、二十世紀最大の“謎”といえよう。実に著作集第二巻は、この“世紀の謎”を解き明かそうとする継続的な努力の結晶であり、その軌跡でもある」
実際、今でこそ、ソ連、中国を資本主義と規定することに抵抗を感じる人はあまりいないだろうが、この著作集に収められた最初の論文が発表された二十数年前には「ソ連、中国は社会主義である」という“神話”がごく当たり前の常識として広範な人々をとらえていた。当然のこととして、ソ連、中国の体制を一種独特の資本主義と規定する国家資本主義の理論は、日本共産党のスターリニストの諸君からは「社会主義体制の破壊をめざす帝国主義の手先の攻撃」等々の悪罵・中傷をもって迎えられ、トロツキストや急進派の諸君からも反発や冷笑をもって迎えられた。ソ連などを「堕落した労働者国家」等々と批判する後者もまた、ソ連や中国を根底においては「労働者国家」、「過渡期社会」として美化する点ではスターリニストと何ら変わりはなかったからである。
こうした時代にあって、国家資本主義の理論を打ち出し、「社会主義体制」と偽られてきたソ連、中国の社会経済体制の真実の姿を明らかにし、社会主義をめざすプロレタリアートの新たな革命的闘いの展望を切り開いてきたことの意義はどんなに強調しても強調しすぎることはないであろう。今回、こうした形で編集された林氏の国家資本主義論をまとめて読み直してみて、その深い歴史的な洞察力と先見の明に改めて感心させられた次第である。
ソ連・東欧、中国におけるその後の歴史の推移は、これら諸国の体制のブルジョア的本性をますます顕在化させ、国家資本主義の理論の正しさを一歩一歩鮮やかに確証する過程であった。そして、ソ連・東欧諸国のスターリニズム体制は一九九〇年を前後して相次いで崩壊し、今や公然と自由資本主義の途を進み始めており、中国もまた「改革・開放」と「社会主義的市場経済」のスローガンのもとに、露骨にブルジョア大国への途を歩み始めている。我々の眼前で展開するこうした現実こそ国家資本主義論の正しさを決定的に証明するものであろう。かくして、この理論を適用することなくして、これらの諸国と世界の動向を、そして二十世紀の歴史を何一つ根本的に把握できないことは、今では誰もが承認せざるを得ないまでになっている。
先に紹介したように本書は七部構成になっているが、さらに大別すれば三つの部分からなっている。すなわち、主にソ連を論じた第一部から第五部、東欧諸国を論じた第六部、中国を論じた第七部という編成である。
以下、かいつまんで本書の内容を紹介していこう。
◎スターリン体制のブルジョア的本性を暴く
第一部は国家資本主義論を初めて世に問うた単行本『スターリン体制から「自由化」へ』(一九七二年)に付された「序文」である。「序文」は「必要なものは道徳的批判ではなく、歴史的批判であり、ここにこそマルクス主義の神髄がある」として、「スターリン体制がどんなに『非文化的』で、野蛮で、はずかしげのないものであったにしても、それは、商品経済を基礎に、“経済外的手段”によって国民的資本の形成を強行的に達成する国家資本主義に最もふさわしいものであり、その必然的な“上部構造”であったのだ」と国家資本主義論の立場からのスターリン体制に対する明確な概念規定を与えている。それとともにまた、「われわれのソ連、中国等の『社会主義』に対する批判は、日本の(世界の)労働者階級が勝ち取るべき真の社会主義についての、ヨリ正確で、ヨリ正しい理解を生み出すであろう。ゆがめられ、いやしめられて来た科学的社会主義の真の概念を復活させることは、何十万、何百万の労働者階級が、ヨリ決然と、ヨリ断固として社会主義のための革命的闘争のために結集する一助となるであろう」とその意義を強調している。
第二部はこの単行本の中心論文「スターリン体制とその内的“進化”としての“自由化”」である。論文はまず「社会主義のもとでも価値法則は残る」というスターリンのドグマ(今流行の「社会主義的市場経済」論の元祖だ)の検討を通して「社会主義とは資本主義的生産の止揚、その対立物であり、したがって必然的に商品=価値生産の止揚、その対立物である」ことを理論的に明らかにしている。そのうえで、スターリン体制下の経済・生産関係(コルホーズ、農業集団化、国有企業、賃金労働等々)の全面的な分析に移り、それが後進的諸国に独特の資本主義の体制すなわち国家資本主義の体制(独占資本と帝国主義の支配する二十世紀の歴史的環境のなかで、これらの諸国はすべての剰余価値を国家に集中することで急速な資本蓄積を図らざるを得なかった)であることを論証するとともに、ソ連の「国民経済的発展」にとって果たしたその歴史的な役割を明らかにしている。
さらに、論文は六〇年代に始まった「経済自由化」の動きを国家による管理・統制を特徴とするスターリン体制の行き詰まり、資本としてのより自由な運動を求める国家資本の本性の現れ、つまりスターリン体制のブルジョア的な内的“進化”の現れとして解明している。こうして、「社会主義」の名で覆われていたスターリン体制のブルジョア的な本性と内実、この現代史の“謎”を解くカギが与えられたのである。
第三部のロシア革命六十周年にあたって書かれた論文では、ロシア革命とそれによって生まれた国家の歴史的な意義やその性格を明らかにし、小農民が圧倒的で生産力の未発達な当時のロシアでは直接に社会主義を実現する物質的な条件が存在しておらず、ネップからスターリン体制への移行は不可避であったことを論証し、第二部の補足をなしている。また、第四部では、日本で「国家資本主義」論の先駆をなした対馬忠行のドグマチックな理論(資本主義の「完成体」、「唯一の国家資本」としての「国家資本主義」)を取り上げ、その批判を通してソ連・中国の現実の分析に立脚したマルクス主義的な国家資本主義論との違いを鮮明にしている。これもまた国家資本主義論の理解を深めるうえで重要である。また、ここでは「労働証書制」の問題なども論じられているが、これらはわれわれのめざす社会主義のイメージを明らかにするうえで不可欠であろう。
第五部の「トロツキズム批判」では、ロシアの歴史的な現実を踏まえて、レーニンの革命理論と対比つつトロツキーの「永続革命論」や「世界革命」論を詳細に検討したうえで、「トロツキーの方法はナロードニキ的である、すなわち主観主義的、ロマン主義的である。それはナロードニキ的ロマン主義のマルクス主義的表現である」と特徴づけている。スターリニストの汚ない誹謗・中傷を排して、トロツキズムに初めて正当な歴史的評価を与えたものとして、これもまた歴史的な文献である。
◎中国のブルジョア大国への“進化”を追跡
第六部の「スターリニズムに反対して――東欧労働者の闘い」には一九六八年のチェコ事件に関連した論文と、七〇年代後半から八〇年代初めにかけてのポーランド労働者の闘いを論じた新聞掲載論文がいくつか収められており、東欧労働者の闘いは「“社会主義”の名で呼ばれているソ連や東欧諸国が、実際には国家資本主義であり、労働者の抑圧と搾取に基礎をおいていることを鋭く暴露」するものであると、ソ連・東欧における階級闘争の発展の必然性とその世界史的な意義が明らかにされている。
また、第七部には中国を論じた七〇年代初頭から九〇年代初頭に至る論文が集められており、「“文革派”の中国から“実権派”の中国へ」のサブタイトルに示されているように、この間の人民国家からブルジョア大国への“進化”の軌跡が追求されている。
最初の一章では、六〇年代後半から七〇年代前半にかけて日本の学生やインテリにも大きな影響を及ぼした毛沢東主義と文化大革命の総括が行われており、マルクス主義の新たな発展ともてはやされた毛沢東主義が実際にはナロードニキ主義や農民共産主義の思想に彩られた急進的な農民革命のイデオロギーに他ならなかったこと、また文革は中国の「国家資本主義的現実に対する最初の大規模な抗議」であったが、それは本質的に後ろ向きの「小ブルジョア的反発」であったがゆえに結局は挫折し、“文革派”は“走資派”、“実権派”すなわち中国の国家資本主義の担い手たちに席を譲らざるを得なかったことが明らかにされている。
続く二つの章では、七〇年代後半以降、台頭する“実権派”がトウ小平の「改革・開放」路線のもとで支配権を確立し、国家資本主義的な経済発展を推進し、九〇年代に入るや「社会主義的市場経済」の名の下にいっそう公然たる、あからさまなブルジョア化の途を歩み始めるまでの過程がその時々の特徴的な事件や情勢の論評を踏まえて鋭く分析されている。
以上、簡単に本書の内容を紹介してみた。紙数の関係ではぶかざるを得なかったのであろうが、ソ連・東欧のスターリン体制の崩壊とその後の動きについての論文がもっと収められていればさらに良かったであろう。
◎この一冊をぜひ次代を担う若い世代に!
さて林氏は「序文」の中で次のように強調している。
「ソ連や中国の正しい認識は必要であり、重大である。ソ連や中国の体制を社会主義と妄想してきた共産党が、決して日本の革命についても正しい戦略や展望を見つけることができず、社会主義の名で事実上、修正資本主義や国家資本主義(そして、日和見主義的協調主義!)を持ち回っているのも当然である。ソ連や中国の体制を社会主義と考え、そうしたイメージで社会主義を闘いとるといった立場が、ブルジョア的なナンセンスにしかならないのは一つの必然である、というのは共産党が目的とするソ連や中国の体制自体が徹頭徹尾、資本主義的なものだからである」
われわれが本書を労働者や学生、とりわけ次の世紀を担う若い世代の諸君にぜひとも読んでもらいたいと願う理由もまたここにある。
世界的に資本主義の行き詰まりと退廃がさらけ出されているまさに現在、若い世代の人々が「ソ連・中国おける失敗で社会主義の破綻は証明済み」という新たな神話の囚われの身となり、社会発展の法則的な認識の道さえ閉ざされて、一時代を再び出口のない混乱の中でもがき苦しまなければならないということほどに人類とその未来にとっての不幸はあるまい。
そこで重ねてお勧めしたい。現代世界について明瞭な認識と新たな世紀に向けての展望を獲得したいと望む意欲ある諸君は、“現代史の謎を解く”というこの知的魅惑に満ちた一冊をまずもって読まれんことを!
(町田 勝) 〔6巻見出しに戻る〕
『海つばめ』第689号1998年8月9日
頽廃深める現代資本主義を暴露
『林紘義著作集』第3巻
林紘義著作集の第三巻『腐りゆく資本主義――バブル、企業腐敗、金融危機、国家解体……』が発行された。時あたかも戦後はじまって以来の大不況の真っ只中。現代資本主義は恐慌を克服したとか、あるいはそうした兆候が現れてもそれを最小限に食い止めることができるなどと言われてきた。またソ連の崩壊時には、資本主義は社会主義に勝利したとか、資本主義こそが未来永劫の繁栄を約束するものであるかのような主張がまかり通っていた。しかしそれが真っ赤な大嘘であることが現実の姿によって暴露されてきている。今ではブルジョアジーのこうした言葉を信じる人はいないであろう。ただ多くの人々は、こうした現実がなぜ起こってきたのか、それは何を意味しているのか、そしてこの状況はいかにして克服されるのかといったことについて明確な答えを見出しているわけではない。本書はそうした問題に答えるものであり、頽廃を深める現代資本主義の現実をするどく暴露するとともに、労働者がそれといかに闘わなければならないかを指し示す実践の書でもある。
◎バブル経済の“謎”を解明
本書は、第一部「バブル経済と不況」、第二部「バブルと企業腐敗」、第三部「現代の土地所有とバブル」、第四部「財政崩壊と解体する国家」、第五部「失われる世界資本主義の“秩序”と“ルール”」、第六部「『金融資本論』批判」の全六部で構成されており、これに新たに書き下された序文がつけられている。以下、その内容を簡単に紹介していこう。
まず何といっても現代資本主義を特徴づけるものはバブル経済であろう。モノの生産や取引に必要な資金の何十倍といったカネが世界を駆け巡っている(例えば、世界の貿易取引額は年間で五兆ドルであるのに対して、外国為替取引はたった一日で一兆二千億ドルにも上っている)が、社会的な富の生産から乖離したこうした膨大なカネの流れの存在は、この社会が現実の生活から遊離し、ますます頽廃していく社会であることを物語っている。
本書の第一部から第三部ではこうしたバブル経済の実態を暴いているが、まず第一部は「バブル経済と不況――バブル経済は資本主義の本質を暴露した」である。これは社労党第十回大会(一九九三年十一月)の中央委員会報告の一部として書かれたものであるが、一九八〇年代後半の日本のバブル経済とその後の状況を集約することを通してバブル経済そのものの背景と本質にせまるものであり、この第三巻全体の内容を総括するものとなっている。
著者はここで、「バブル経済とそれを可能にしたもの」について論じている。つまり、過剰生産に対する救済として国家は信用を膨張させてきたが、この国家信用によるある意味で無制限な“通貨”の増発こそが過剰な貨幣資本を生みだし、バブル経済を必然化させたとして次のように述べている。
「現実資本の運動から生じた“過剰な”貨幣資本も、あるいは独占資本の大きな利潤も、一定の役割を果たしたことを否定は出来ない。しかし現代資本主義にあっては、貨幣資本の形成は現実資本の蓄積はもちろん、貨幣資本の自生的な蓄積さえも前提することなく、まさに国家信用によって容易に生み出すことができるのである。というのは、貨幣がすでに内在的な価値を持つ貨幣ではなくて、中央銀行券すなわち“通貨”に転化しているからである。通貨の増発が可能である限りで、同時に貨幣資本の形成も可能である(もちろん、この両者は直接に同じではないが)。……
また、もう一つ、ドルの“たれ流し”から来る、通貨の増大すなわち過剰な貨幣資本の形成がある。一九八〇年代を見ると、前半の五年間(八〇年〜八四年)に日本の貿易黒字は合計一一五九億ドルであったが、後半の五年間(八五〜八九年)には四一七一億ドルにふくれ上がった。日本経済に流入したこの過剰ドルは、すなわち過剰な貨幣資本として、独占資本の手に滞留した。これは言ってみれば、アメリカの通貨の増大による世界的な規模での『過剰な貨幣資本』の形成である、とも言えるだろう。
このように、現代資本主義にあっては、国家の経済的機能によって容易に『過剰な貨幣資本』が形成されるし、またされてきたのだ。……こうして形成された貨幣資本は、最初から現実資本・産業資本との関係は希薄で、それとは独立した存在であり、必ずしも現実資本・産業資本とむすびつき、それに転化される内的な衝動を持っていなかった。こうした“出自”の貨幣資本が容易にバブル経済を演出するようになるのは、むしろ一つの必然ではなかったろうか」
国家独占資本主義のもとでは、国家は独占資本を救済するためにその機能をフルに発揮するのであるが、それは資本主義の矛盾を覆い隠すだけで何ら問題を解決するものではない。むしろ問題を先送りすることで矛盾を一層大きなものに深めるだけであった。過剰生産の現実を覆い隠して空景気をつくりあげたバブル経済は、その崩壊とともにこの社会が抜き差しならないほど深刻な事態に至っていることを公然とさらけ出したし、出さざるを得なかったのである。
過剰生産のもとで産業資本に転化できない過剰な貨幣資本は土地や株といったものに向かい、バブル経済を形成したのであるが、こうした生産活動と結びつかない投機的な経済活動は必然的に企業腐敗やそれと結びついた政界や官界の腐敗を生み出した。その実態を暴いたのが第二部「バブルと企業腐敗――株価や地価の暴騰に浮かれて」である。ここには、古くはロッキード事件から石油ヤミカルテル事件、リクルート事件、株のインサイダー取引、金融資本による損失補填等々、企業腐敗の特徴的な事件についてその時々に暴露した記事が収録されている。
また、第三部「現代の土地所有とバブル――地価高騰はいかなる矛盾の爆発か、そしてそれはいかに解決されるべきか」はバブル経済の典型的な現れであった地価高騰問題と土地所有の問題を全面的に論じている。労働者が土地問題を考えるうえで大いに参考になるだろう。
◎国家による信用の膨張と『金融資本論』
バブル経済を準備した大きな要因は国家による信用の膨張である。
六〇年代の繁栄を終えた資本主義経済は、七〇年代に入ってスタグフレーションという新しい事態にみまわれ、不況とインフレが同時に進行するという困難に直面した。これは、国家財政による“需要”を創り出すことで資本主義経済はコントロール可能となり、もはや恐慌は過去のものであるとするケインズ主義の破綻を意味し、ブルジョアジーを苦しめたのである。
著者は当時(七一年)、この問題について次のように述べている。「スタグフレーションとは、今まで程度のインフレ政策でもってしては、激化しつつあるブルジョア社会の矛盾に対して効果がないことの証明である。すなわちそれは、マイルド(クリーピング)インフレをもたらすには十分であったが、しかし過剰生産としてあらわれつつあるブルジョア社会の矛盾の集中的爆発を一時的にひきのばし、あるいはおおいかくすには全く不十分であることを示しているのだ。こうしてブルジョアジーには二つの選択の道が残されている――すなわちこの不況を徹底的にたえしのぶか、それともインフレ政策をもっと大規模なものに拡大することで不況をひきのばしていくか、である」
ブルジョアジーは後者を選択し、せざるを得なかった。彼らは不況を耐え忍ぶなど我慢ならないことであり、国家がいままで以上の財政支出をしてくれれば問題が先送りできるというのなら、それを選択しない手はなかったのである。
これを契機に財政資金は湯水のように使われ、国家の信用を利用して借金に借金を積み重ね、挙句の果てがバブル経済とその崩壊を招いたのであるが、今度はその崩壊の穴埋めにまた国家財政を使おうとしている。第四部「財政崩壊と解体する国家――借金に借金を積み重ねるしかない国家」では、こうした七〇年代以降の国家財政崩壊の過程を暴いている。それはまた、国家解体の過程でもある。
さらに第五部「失われる世界資本主義の“秩序”と“ルール”――IMF体制の崩壊と『変動為替相場制』の意味するもの」はバブルの背景をなしている金との関連を失った“通貨”の問題に関するもので、著者の既刊書『変容し解体する資本主義――“管理通貨制度”とは何か、そしてそれは歴史的に何を意味するか』を補完するものとなっている。ここにはドルと金の交換性が停止された一九七一年頃からの著作が収録されているが、その内容はいままさに世界で起こっていることを二十五年以上も前に予言的に論じたものであり、著者の深い洞察力――それはマルクス主義に裏打ちされた科学的なものであるが故にその力を持ちうる――を示している。
最後の第六部は、世界を支配しているのは金融資本――文字通りの金融に関する資本ではなく独占資本一般に対する概念として長らく左翼陣営のドグマにもなってきたそれのこと――だとする『金融資本論』に対する批判、「『金融資本論』批判――氾濫したスターリン主義的ドグマ」である。ここでは、共産党をはじめ、いまなお左翼陣営を支配している金融資本論の概念を徹底的に解明し、この誤れる理論が日和見主義の運動と不可分のものであることを明らかにしている。腐敗し解体していく資本主義社会を支配しているのは誰なのか、そしてそれを打ち倒し新しい社会を作ろうとする労働者階級はいかに闘わなければならないのか、こうした問題に対し、ドグマの呪縛からわれわれを解き放ち、本当の闘いの方向を示してくれるのである。
この第三巻に収録された中心的な論文は十年、二十年前に書かれたものである。しかしその内容はいま読んでもまったく古臭くなく、むしろ資本主義の矛盾が噴出しているいまこそ著者の主張が圧倒的な力となって読む者を引き付けるであろう。資本主義社会の腐敗、頽廃が誰の目にも明らかな時代に入ってきたが、こうした時代にこそ自覚的な労働者やこれからの時代を切り開く若者に本書をぜひ読んでいただきたい。そしてわれわれと一緒に、資本の支配を打ち破り新しい社会を建設する闘いに参加していただきたい。
(平岡正行) 〔6巻見出しに戻る〕
『海つばめ』第703号1998年11月29日
黒田・宇野・広松らの主観的観念論を撃つ
林紘義著作集第四巻
林紘義著作集の第四巻『観念的、宗教的迷妄との闘い――黒田寛一、宇野弘蔵、広松渉、林道義等批判』が、発行された。全体は六部に分かれていて、第一部が「道徳と宗教について」(共産党批判)、第二部が「黒田哲学と“主体性論”」、第三部「宇野学派、大塚学派の哲学もしくは“方法論”」、第四部「広松渉の『共同主観論』批判」、第五部「林道義の『父性の復権』批判」、第六部「フェミニズム批判」となっている。一見して明らかなように、本書はすぐれて論争の書であり、共産党をはじめ黒田、宇野、広松、林道義らの哲学や思想をマルクス主義の立場から徹底的に批判し、その階級的本質を暴露するものである。この著書の意義について語りたい。
◎はじめに
著者は「序文」において現代哲学の根底が主観主義哲学であることを指摘しつつ、次のように書いている。
「われわれが驚くのは、支配的なブルジョアジーの哲学が主観主義であるということではなくて、左翼を装うほとんどすべての哲学者達もまたどんなに深く、圧倒的に、そして安易に、ブルジョアのこうした不毛のイデオロギーに汚染され、その影響下に陥っているか――不名誉にも、あるいはだらしなく――、ということである」
十九世紀から二十世紀にかけて独占資本の段階に移行するとともに、ブルジョアジーの思想的反動化が進み、哲学の分野では主観的な観念論が主流となってきた。ブルジョアジーは、客観的・唯物論的・科学的なイデオロギーをますます嫌悪し、不合理主義や迷妄主義、主観主義に傾斜してきた。実存主義、プラグマチズム、現象学、論理実証主義等々、まさに二十世紀の哲学は主観主義哲学としてのみ存在しえたのである。
しかし、こうした反動化するブルジョアジーと闘うべき“左翼の哲学者”も、その主観主義哲学から自由ではなく、むしろそれに取り込まれてしまったのである。本書が取りあげる、黒田寛一は六〇年安保を前後して、新左翼の活動家に大きな影響を及ぼしてきた。彼は、「反帝反スタ」のイデオローグとして、スターリン主義を客観主義と批判し、“プロレタリア的主体性”について叫びたてた。
しかし、スターリン主義哲学を“客観主義”と批判することが、どんなに的外れであったかは、スターリン主義を代表するミーチン哲学が徹底して主観的哲学であったことを見れば明らかである(共産党に入れば真理がわかる、などといった恐ろしい観念論を振りまいていたのだ)。
黒田はスターリン主義批判の影に隠れて、人間主義や主観主義哲学を持ち込んだにすぎなかった。ブンドの活動家に高く評価された広松の“共同主観論”にしても、基本的に同じである。
そして、共産党の最近の哲学もまた、人間主義を説教したり、民主的な市民道徳や宗教との協調をうたうことで、マルクス主義哲学・弁証法的唯物論から遠く離れている。まさに、左翼の面々も主観主義哲学の大きな流れの中に溺れ込んでしまっているのだ。
従って、本書が共産党はもちろん黒田・宇野・広松をはじめとする(左翼)イデオローグたちの、マルクス主義の修正、逸脱、否定を激しく批判しているのは、必然である。彼らのマルクス主義への攻撃に断固として反撃することなくして、労働者の階級闘争を擁護し、発展させていくことはできないからである。
以下、具体的にみてみよう。
◎道徳・宗教と共産党
第一部は「道徳と宗教について」であり、共産党の観念論や宗教的迷妄への追随と迎合政策を暴露している。
最初の「共産党と道徳」は、ポルノ問題などをきっかけに共産党がこの社会の道徳的な退廃を嘆き、市民道徳の必要性などを叫びたてていた時期の論文である。共産党は、退廃の根拠を明らかにしないまま道徳的純正を呼びかけたが、それは第二インターの修正主義者たちの観念的立場と何ら変わるところはなかった。
かつてベルンシュタインは、マルクス主義を「経済決定論」とか「宿命論」と批判し、社会改良主義を勧めるとともに、「倫理的要素」を重視せよ、カントに帰れ、と主張した。彼が、カントの哲学や道徳論をもてはやしたのは、それが中途半端で妥協的で二元論的であった――唯物論と観念論、知識と信仰、科学と宗教の妥協等々――からである。
「カントの倫理観もその絶対的な道徳律としての定言命令に見られるように、徹底して形而上学的であった。だがまさにこの形而上学的なカントの倫理、道徳観が、修正主義者達によって、『社会主義の基礎付け』としてもてはやされたのである」。
彼らは道徳や倫理を歴史的に評価するのではなく、改良主義を補強するものとして利用しようとした。こうした志向は彼らのブルジョア追随の一つの現われでしかなかったが、それは共産党にそのままあてはまるのである。著者は言う。
「共産党は階級闘争を『国民的合意』に、すなわち階級協調にすり替えるために、道徳的お説教にふけりだした。どんなに現在の支配階級を『道徳的退廃』の罪で非難しようとも、彼らの主張の客観的な意味は、階級闘争でなく階級調和である。まさにこの目的のために、共産党が道徳的純正のための新たな戦役を開始したのである」
次の「共産党の思想の“創造的発展”」では、共産党の宗教への迎合が暴露されている。共産党は、宗教はかつては反動的であったかも知れないが、現在では何らかの進歩的役割を果たすことができ、また果たしている等々と主張する。
しかし、こうした主張は、宗教を美化し、それに迎合するものである。著者は、宗教の果たす役割は反動的である、「宗教は民衆の阿片」であったし、今もそうであると主張し、観念論や宗教的迷妄との闘いを放棄した共産党を鋭く暴露している。
こうした批判が完全に正当であったことは、現在の共産党の政治や宗教政策を見れば、自ずと明らかであろう。
◎黒田・宇野・広松の哲学・方法論批判
第二部の「黒田哲学と“主体性論”――労働者の名を持ち出し主観論を称揚」には、三つの論文が収められている。
最初の「“プロレタリア的”主観主義の哲学」は、黒田哲学批判を特集した『科学的共産主義研究二十七号』の紹介として書かれたもので、黒田哲学の全体的な位置づけを行っている(なお、著者による黒田哲学の全面的な批判は単行本『我々の闘いの軌跡』を参照されたい)。
著者はここで、スターリン主義を客観主義と批判し、人間主義に立脚した“主体性理論”を叫びたてた黒田哲学を次のように評価している。
「黒田の人間主義は、すでに十八世紀のフランス唯物論者のような合理主義、唯物論、啓蒙主義に立脚するのではなくして、むしろ反対にこうしたものを否定するところに成立している。フランス唯物論の『人間主義』は、人間をも客観的にとらえようとしたが、しかしただ人間主義=自然主義の思想の必然的結果として、人間を単に自然的産物としてとらえて社会的産物としてとらえられず、歴史と社会についての見方で観念的とならざるを得なかった。これに反して黒田ははじめから『人間』を主観の問題としてすなわち観念的に提起するのである。黒田の『人間主義』は退廃しており、反動的なものとなっている」。
「黒田“哲学”と宇野“方法論”」では、宇野学派への黒田哲学の屈服と追随が扱われている。
例えば、宇野は理論と実践の問題を機械的に切り離し、そのインテリ的俗物性をふりまいているが、黒田は何ら批判しようとしない。著者は、こうした黒田のブルジョア俗学者への追随を激しく批判する。
「意識的プロレタリアートにとっては、科学(理論)及び世界観(方法)と実践との間にはどんな本質的対立もありえない。他方、ブルジョア俗学者達は、科学(理論)とイデオロギー(立場)を、もしくは科学と実践とを対立させ、その矛盾についておしゃべりしている。……黒田はブルジョア的修正主義理論に余りに寛大すぎるのではないのか?」。
そして『資本論』の方法論や「労働者の『物化』論」「宇野三段階方法論」における黒田の追随や迎合を暴露したうえで、「黒田は唯物論的な認識論の基礎、すなわち理論、観念的なものは客観的世界の意識における反映であるという命題を放棄し、主観的観念論の底なし沼に落ち込んだ」と喝破している。
第三部は「宇野学派、大塚学派の哲学もしくは“方法論”」についてである。まず最初の二つの論文では、宇野・鈴木学派の経済学の「方法論」に焦点をあてている。
宇野の“方法論”は、原理論、段階論、現状分析という「三段階論」に代表される。宇野は「純粋な資本主義」を想定してその「原理論」を明らかにすると主張するが、こうした方法論はマルクス主義と無縁である。それは、むしろ「モデル」とか「理念型」などを持ち出すマックス・ウェーバーなどのブルジョア社会学への接近である。ブルジョア社会学は、弁証法的な思考を否定し、自然と社会はカオス(混沌)であり、認識できないとする。そこでモデルや理念型を持ち出すが、宇野の「純粋資本主義」はその一つの変種にすぎない。
こうした宇野の哲学・方法論に対して、鈴木鴻一郎は「純粋資本主義」にとらわれて現実を軽視していると批判し、現象をそのまましるし記述することを主張した。著者はここに、現代のブルジョア哲学の二大潮流の反映を見ている。
「前者がまず何らかの主観的構成によって理想的で『純粋な』対象を『想定』し、それによって混沌たる現実に接近しようという考えによって弁証法的唯物論の立場を放棄するのと同様に、後者は現実はただ現象的なあれやこれやの事実のよせ集めにすぎず、そこに何らかの必然的因果関係や運動があるなどというのは人間の思い上がりであり、従って何らかの抽象や全体的総括とかはできない、ただ事実を集めるのみだといって、対象の弁証法的性格を否定する」
また、ブルジョア大学でもてはやされてきた「大塚史学」(講座派の亜流であり、“健全な”資本主義への憧れを本質とする)も取りあげられている。
第四部の広松哲学批判も本書では重要な位置を占めている。広松は再建ブントをはじめとする急進派から高く評価されてきたが、その哲学的本質は主観的観念論であった。
彼は、フェノメノン(現象)の世界の二重性と主体の二重性、つまり「四肢的構造」なる“難解な”理論を持ち出しているが、著者はそれを一つ一つときほぐしながら、広松の観念性・主観主義を明らかにしている。
ここでは、子供が牛を犬とまちがえる(大人がそれをただす)例について触れておこう。子供が牛をワンワンとする誤解を克服するのは、大人が「あれはモーモーであって、ワンワンではないですよ」と教えるからだ、他の人々がその認識を“強制する”からだ、ここに「共同主観」が形成されるというのが、広松の見解である。
しかし、手は手であって、大人がそれを“猿”であると言っても子供は受け入れないことは明らかである。
結局、広松は人間の認識の性格と根拠の問題、つまり人間の認識と客観的存在との関係を、一人の人間と多数の人間との関係にすり替えている。言語についての主張も同様で、彼は現象に現れた世界と本当の世界を区別する事ができず(客観的存在とその意識への反映を区別できず)、マッハ主義的な主観論に行き着いている。彼のいう「主観――客観図式の克服」とは、実際には主観論の詭弁的な言い換えにすぎない。
◎林道義の『父性の復権』批判
第五部は「新たな装いに隠れて“家父長制”を説教」と題し、林道義の『父性の復権』(中公新書)を批判したものである。林道義は、著者の実兄であるが、その主張は一種の男性主義と女性蔑視の意識に貫かれ、客観的には現存秩序を維持・擁護し、ファシズムのイデオロギー的露払いの役割を果たしている。
彼のいう“父性”の働きとは、家族統合をはかる、文化を伝える、社会ルールを教える等々といった平凡なものであり、そうした“父性の欠如”が子供達の非行や社会的な退嬰現象を生み出していると説く(社会的な背景や諸関係抜きに)。
そしてこうした主張は、女性に対するひどい差別意識・蔑視と結びついている。
彼にあっては、女性は非社会的存在、つまり「家庭内の存在」「家庭を守るもの」という大前提(あの封建的な大前提)がある。ここにあるのは、古い“男女分業制”“役割分担論”の世界である。
そして、ゴリラ社会を人類の理想であるかに描き出している。彼が人間により近いチンパンジーでなくゴリラを取り出すのは、チンパンジーは乱交志向の強い父系社会を形成しているのに対し、ゴリラは人間にみられるような父性を発揮していると考えるからである。著者は、道義が現在のブルジョア家族(個別家族)を絶対化していると批判している。
「彼は現在のブルジョア社会における家族関係を絶対化し、それに基づいて歴史を『裁断する』のである。彼は個別家族制度が人類の最初から存在しており、それこそが人類の家族制度であると断言するが、これは丁度、人類が最初から現在のような人類として神によって創造されたとする神学的観念とほとんど違いがないであろう」
そして著者は、こうした父性主義(とその対極にある女性主義)を克服し、真の男女平等実現の展望を次のように語っている。
「人類の歴史的な発展は、商品価値を生産する限り(労働者なら、利潤を生む限り)、人間は――したがって男女も――すべて平等であり、対等・平等な社会の一員である、という認識――というより、現実の関係――を発展させてきたのであり、ここにこそ、人類の新しい関係の基礎があるのだということを明らかにしてきた。……男女関係の真実の解放は、近い将来、社会主義社会においてのみ最終的に勝ちとられ、現実のものと、なるのである」
最後に第六部として、“父性主義”と表裏の関係にあるフェミニズムが取りあげられ、上野千鶴子や久場嬉子の「マルクス主義フェミニズム」、六〇年代に展開された「主婦労働」についての論争、そして共産党の「主婦労働論」などが検討されている。
◎おわりに
本書は、共産党をはじめ黒田・宇野・広松・林道義などのいつわりの哲学、方法論、そして思想が徹底的に暴露されている。彼らの役割は、哲学や思想の分野においてブルジョア的影響をふりまくことであり、労働者の階級的な闘いの発展ではなく、解体を準備することであった。こうしたマルクス主義哲学の修正と闘うことは、労働者の階級闘争の不可欠の一環であり、哲学・思想といった分野での原則的な闘いの意義を改めて確認させてくれるだろう。労働者は本書から、多くのものを学びとることができる。
(山田明人) 〔6巻見出しに戻る〕
『海つばめ』第888号2002年10月6日
林著作集第五巻発刊
テーマは女性、教育、文学
遅れていた林紘義著作集第五巻がやっと発行された。これで残すところ、最後の第六巻のみである。
第五巻には、女性問題、教育問題、そして文学についての多くの評論が納められている。序文によれば、教育問題がふくれ上がったために、文学の部分が縮小されたということだが、しかし女性、教育、文学についての一貫した階級的な観点からする評論は、極めて興味あるものであり、またこれらの問題の切実な真実を根底的に明らかにするであろう。
女性問題について言えば、今「主婦の復権」などという卑俗なものがもてはやされ始めているが、林氏の鋭敏な反応は、これらの反動的傾向の本質を鋭くえぐってやまない。林氏が一貫して問題にするのは、女性の解放とは何か、またそれはいかにして勝ち取られるのか、ということである。林氏の評論は、「二重の抑圧」(資本による抑圧と、男性もしくは家族に付属するものとしての抑圧、つまりまさに“主婦”という地位にともなう疎外)のもとにある女性の歴史的位置を徹底的に考える出発点となるであろう。
また現代の教育の荒廃には目を蔽うものがあるが、林氏は、その実態やその原因を根底にさかのぼって論じている。林氏は、この教育荒廃に本当の責任を負っているのが政府自民党や文部省であること――もちろん、さらに言えば、資本の支配があるが――を鋭く、事実に即して明らかにしている。教育荒廃の原因を根本的に自覚し、それと闘うためには、この著作は重要な意義を持っている。
そして林氏は当然のことながら、芸術のための芸術の理論の擁護者ではなく、傾向芸術、傾向文学の味方である。氏は、現代の文学の衰退、その堕落の根底に、労働者の断固たる闘いの衰退、共産主義運動の堕落があることを見ており、共産党系の文学者、評論家、とりわけ宮本顕治の低俗な理論を批判してやまない。
労働者の階級的な芸術理論、文学理論が、共産党に見られるように俗流的なブルジョア評論に堕していき、真実の芸術、文学を鼓舞激励し、深める機能を喪失して行くなら、優れた世界的な文学、真実の文学――これは現代では、ただ労働者階級の立場に立つ“傾向文学”としてのみ可能だろうが――も衰退するのも、一つの必然であろう。
いずれにせよ、林氏の著作集第五巻は極めて刺激的なものであり、読む人の脳細胞を激しくゆさぶるであろう。
(M・H) 〔6巻見出しに戻る〕
『海つばめ』第726号1999年5月23日
民族主義、国家主義との闘いの書
林 紘義著作集第六巻を読む
林紘義著作集の第六巻『民族主義、国家主義に抗して』が刊行された。著作集の最後を飾るこの巻は、「ガイドライン法、日の丸・君が代、そして天皇制」のサブタイトルが示すように、日本独占資本の帝国主義的発展とそれに伴う急速な政治の反動化、これに抗して闘う労働者の政治闘争に焦点を当てて編集されている。この意味で本巻はまさに「闘いの書」(序文)であり、また似非労働者政党の日和見主義と裏切りに対する鋭い告発の書でもある。帝国主義ブルジョアジーとの本格的な闘いの段階を迎え、本書は労働者の革命的政治闘争の新たな発展に向けて明確な展望を与えるものとなっている。
◎日本の帝国主義化と労働者の政治闘争
本書は三部から構成されている。
第一部では、日本が帝国主義的自立化の第一歩を踏み出した六〇年の日米安保条約改定から沖縄返還、自衛隊の海外派兵、新ガイドライン法の成立に至るまでの日本独占資本の帝国主義的発展の軌跡をたどり、労働者階級の闘いの課題を明らかにしている。
周知のように、日本共産党は日米安保体制に日本の「対米従属国」化、「半植民地」化を見出し、日本の労働者人民の当面する闘いの目標はアメリカからの「真の独立」を勝ち取ることだとして、民族闘争を呼号して来た。
これに対して、著者はこの問題についての一連の論文で、日米安保体制がまさに日米の独占資本の帝国主義的な同盟関係であることを、日本の経済大国化や帝国主義的発展と関連させて疑問の余地なく論証している。また、日本共産党の「対米従属」論が日本の労働者階級の運動を日本の独占資本の支配に反対する階級的闘いから民族主義の間違った方向へとねじ曲げるものであることを明らかにし、その反動性と破綻を完膚無きまでに暴露している。
この日米安保体制の下で、自衛隊は日本の経済力の強化と歩調を合わせて強大化の一途をたどり、湾岸戦争を契機に憲法の制約を突破して海外派兵を行うまでに、れっきとした帝国主義軍隊へと成長を遂げた。そして、こうした中での今回の新ガイドライン法の成立である。著者はガイドライン法の成立を「日本独占資本の帝国主義的発展にとっての一歩前進であり、新たな段階を画するもの」として、次のような評価を与えている。
「ガイドライン法が教えるものは、こうした日本独占資本の帝国主義的成長という事実である。アメリカとの協調のもとであれ、日本の独占資本は今では、世界の『警察官』として姿を現しつつあるのだ。当面は、“アジア太平洋地域”における『警察官』であり、ただアメリカに協力するという形のなかでのことであるが」
戦後五十年余、今では日本は再び世界で有数の帝国主義大国にのし上がり、「世界の警察官」として立ち現れるまでになっている。ところが、こうした現実を前にしながら、共産党の諸君は今なおそこに「対米従属のいっそうの深化」を見出し、ガイドライン法を「アメリカの戦争に日本を巻き込むための戦争法案」と非難するなど、相も変わらず民族主義的金切り声をあげてやまない。「民族固有の自衛権」の擁護と相まって、彼らのこうした主張ほど日本の独占資本の帝国主義的策動の本当の狙いを覆い隠し、支配階級に奉仕するものはないであろう。
「我々は今こそ全力を挙げて、プチブル党のもとにではなく、資本の支配に反対して闘う労働者政党のもとに、労働者の階級的結集を図っていかなくてはならない。この課題はガイドライン法の時代には、まさに緊急のこととしてあらわれている」
著者はこう強調しているが、日本が経済大国からさらに政治的・軍事的な大国への発展をめざし、帝国主義的な野望をますます膨らませつつある現在、労働者が確認すべきはまさにこのことであろう。
沖縄返還や沖縄の反基地闘争に関連した論文も重要である。一見すると「基地の島」沖縄では今なお民族主義的な課題が未解決のまま残されているかに見える。しかし、著者は、沖縄が七二年に日本のブルジョアジーの支配下に“復帰”して以降、労働者の闘いはここでもまたその矛先を日本の大独占の支配にこそ向けられなければならないこと、沖縄闘争もまた帝国主義に反対する労働者の全国的な階級闘争の一環として位置づけられ、闘い抜かれなければならないことを明らかにしている。我々は一連の論文によって沖縄闘争の真実の課題と闘いの方向性を理解することができるであろう。
◎民族主義の止揚をめざして
第二部では、民族主義とその現れに対する根底的な批判が展開されている。
九〇年代に入り、ソ連の解体で米ソ二超大国による帝国主義的な世界の分割支配の体制が崩壊したのを契機に、地球上の至る所で激しい民族紛争が相次いで勃発、血で血を洗う陰惨な抗争が後を絶たない。
こうして民族主義が猖獗を極めるなかで、今では民族や民族国家への分裂は超歴史的な永遠不変の自然のものであり、民族的な対立は人類が決して乗り越えることのできない何か宿命的なものであるかの議論が横行している。
しかし、第二部を読めば、我々は、人類の民族や民族国家への分裂、それら相互の反目や対立が決して永遠不変のものではなく、人類史上の一経過点に過ぎないこと、そして人類の民族主義的ないがみあいと紛争を根本的に解決する道がどこにあるかを知ることができるであろう。
そもそも民族とは何なのか。著者は「民族の概念」を論じた諸論文のなかで、民族を言語、文化、宗教、生活慣習などの共通性から説明するスターリンやカウツキー流の外面的・形式的な概念規定を退け、「民族的結合の創出はブルジョア的結合の創出に他ならなかった」というレーニンの言葉を引いて次のように言う。
「ここには全く明白な思想が、すなわち民族とは歴史的概念であることが、非常に明確に語られている。もちろん、この歴史的というのは、歴史一般のことではなくて、資本主義の発展のことである。民族概念は資本主義的発展と関連させて説明されるときにのみ、真に科学的で合理的な概念となることができる。資本主義の発展、したがって商品生産の一般化と普遍化、そして資本が封建的な細分化、分散化を克服して統一した市場、“国内”市場を求めるようになったこと、これが民族的発展の“物質的”歴史的な原因であり、根拠である」
このように近代社会の民族を資本主義の発展とともに生み出された「ブルジョア的形成」と概念規定したうえで、著者はこう強調する。
「根本問題は『民族を区別する』あれこれの指標を(……)探し求め、それらをあげつらうことによって民族の概念を『構成』しようとする立場に立つのか――この道は必然的に民族主義へと通じている――、それとも諸民族が『ブルジョア的形成』としてすべて本質的に同一であり、問題なのは諸民族の区別だてではなくて、『階級的区別』であり、各民族、各国民の中で闘われている階級闘争であるというプロレタリア的観点に立つのか、二つに一つである。ブルジョア的民族主義か、プロレタリア国際主義か――問題はこのように厳として提出されており、この原則をいくらかでもあいまいにしたり、うすめたり、混乱させたりすることはいっさい有害であり、反動的である!」
それにしても何故かくも民族紛争が多発するのか。それは民族主義を煽り、民族的な対立を作り出すことで、労働者人民の目を外にそらし、自らの階級支配を維持・強化しようとブルジョアジーが策動するからだ。したがって、「ただ労働者階級の国際主義と社会主義のみが、資本の支配を世界中から一掃することによって、人類の“民族的”分裂や対立や殺戮を最終的に止揚できる」のである。
労働者はまさにこうした国際主義と社会主義の観点に立って、いっさいの民族主義に反対し、諸民族の接近と融合、世界的な規模での社会主義共同体の実現をめざして闘いを発展させていかなければならないのだ。
第二部にはこの他に今流行の多元文化主義、アイヌ問題、外国人の参政権や雇用問題、さらには領土問題等々の興味深い問題も論じられている。
◎天皇制、日の丸・君が代法制化との闘い
第三部では、天皇制を利用した新たな国家主義の策動を暴露し、日の丸・君が代の法制化に反撃を呼び掛けた諸論文からなっている。
冒頭には、天皇制を歴史的に総括した論文が収録されており、著者はこの中で、共産党の「絶対主義天皇制」論などによって戦前の天皇制にかけられてきた神秘のヴェールをはぎ取り、戦前の天皇制もまた基本的にはブルジョアジーの階級支配の道具であったこと、そして戦後の象徴天皇制もその点では本質的に同じであることを明らかにしている。
そして、こうした観点から、昭和天皇の在位六十年や死去を契機に強まってきた天皇利用の国家主義的な策動をブルジョアジーの支配の退廃や反動化と関連させて徹底的に暴露するとともに、こうした天皇利用の策動に対する反撃をブルジョアジーの支配に反対する労働者の階級的闘いと結びつけていく必要があることを強調している。
日の丸・君が代法制化に反撃を呼び掛けた論文は今春以降に本紙に掲載された論文なので改めて紹介するまでもないであろう。そこでは、日の丸・君が代の法制化をテコに天皇制を利用した国家主義のもとへの国民統合をいっそう強化し、自らの階級支配の安定を図ろうというブルジョアジーの策動の本当の狙いが、またこの策動の呼び水の役割を果たした共産党の反動性と裏切りが余すところなく暴露されている。そして、ブルジョアジーのこれまでの攻撃を逆手に取って、天皇制教育・国家主義教育による教育への「不当な支配」に反対する新たな闘いの戦術が提起されている。
確認すべきは、著者が「序文」で強調しているように「国旗・国歌法は成立したが、しかしこれは決然たる闘争の始まりであり、非妥協的な闘いの時代が訪れ始めていることを告げ知らせている」ということである。
だが、頼もしいことには、折から林著作集の刊行が完結し、今や我々は全六巻の力強い武器を手にしていることである。我々はこの強力な武器を徹底的に活用し、新たな闘いの発展を切り開いていくことができるし、そうしていかなければならない。
しかし、そうするためには、何よりもまず一人でも多くの労働者の手にこの武器が渡ることが必要である。読者の皆さんが著作集を労働者、とりわけ若い世代の人々の中に積極的に持ち込んで下さるようお願いしたい。
(町田 勝) 〔6巻見出しに戻る〕
『海つばめ』第741号1999年9月12日