新刊案内

「核」問題の本質に迫る
「安全神話」と資本による利用を強く警告

林紘義著『「核エネルギー」はなぜいかにして「危険」か
――原発事故の責任を問う前に再稼働は認められない
(自著解説)

  今回、原発事故の中で、『「核エネルギー」はなぜいかにして「危険」か――原発事故の責任を問う前に再稼働は認められない』が刊行されたので、その意味を明らかにしたいと思う。

  我々が市民主義者、反原発主義者たちと異なった立場を取っているということで、しばしば彼らから、原発を美化し、擁護しているといった批判が浴びせかけられて来たが、しかし我々の基本的な立場は、この著書に全く明らかであって、我々はプチブル的な市民主義者、反原発主義者たちこそが、その抽象的で空虚な立場と批判によって、大資本の勢力、“原発村”の住民たちが全く無責任に、「安全神話」の陰に隠れて「安全」無視の原発利用に走ってきたのを蔽い隠し、正当化するような役割さえ果たしてきた、つまり不毛な立場に陥ってきたと非難するのである。

 我々のこれまでの立場は、本書の第一章、第二章に明らかであって、そこに収録されている諸論文は任意に、都合のいいものを選んだといったものではなく、この三十年間に、ブルジョア支配階級の核エネルギー利用――原爆、原発――について論じられて来たものを基本的にすべて再録したものであって、むしろ紙面の都合で残念ながらはぶいたものがあったほどである。

 だから何人といえども、これらが我々のこれまでの核エネルギーについての基本的な主張でも見解でもない、と言えないのである。そして我々の立場や主張の根底が今年の三月の原発事故以後も基本的に変わることがなかったことは、一、二章とともに、三章以降を読まれれば誰でも簡単に確認できるであろう。我々は民主党や共産党などのように、あるいはいい加減なマスコミ(例えば、朝日新聞などを見よ)やインテリたちのように、自分の根本思想や見解を周章狼狽して変更する必要など全くなかったのであり、またそんな安直な立場に立っては来なかったし、今もそうである。

 我々は一貫して、核エネルギーは「危険」であって、安易に「安全」などと言ってはならない、「安全神話」など振りまくことは原発事故を誘発する最も許しがたいことであると強調してきたのであって、その警告は、今年の三月の原発事故によってその基本的な正当性が、事実でもって明らかにされたのである。

 このことは、三十年前、原発が導入されて稼働し始めた、むしろ初期の段階で発表された論文――第一章――によっても、また十年、二十年ほど前に書かれた第二章の諸論稿によっても明らかであろう。

 例えば、我々は十年以上も前、東海村のウラン加工工場の事故が起こった時、「安全神話」と、それを振りまきつつ無責任な原発稼働に走るブルジョア勢力を告発して次のように論じたのであった。

「事故の原因として、このエネルギーの危険性をほとんど自覚していないとしか思えないような、全くずさんな資本の管理が槍玉に上がっている。もちろん、かの資本に弁解の余地はないだろう。

 しかしこうしたずさんさは果たして偶然であろうか、それが問題である。偶然でないとするなら、我々はこれまでの政府や国家の責任を追及しなくてはならないのだ。彼らは一貫して、原子力エネルギーは決して危険ではない、原発は安全だと言い続けてきたが、これこそ今回の事故の重大な原因である。

 原子力エネルギーがそれほどに安全だというなら、資本が安全管理をますます軽視するようになるのは、一つの論理的必然である。しかし実際には、原子力エネルギーは決して安全でないし、あり得ないのである」(本書八三頁)

「もちろんこうした現場のひどい状況は、資本主義の、すなわち現代の生産様式のほんの一部のことであって、これ以外にも、『監督すべき』科学技術庁の無責任とか無神経、あるいは原発を押しつけるために(というのは、それが中央、地方の政治家たちの利益に直結していたから)、ただ『原発は安全』としか言ってこなかった政治家たちのでたらめさをつけ加えて見よ、そうすれば
、今回の事故の原因はまさに利潤を推進力とするこの生産様式にこそある、と言って決して言い過ぎではないことが了解されるであろう」(同八九頁)

 もし我々のこうした完全に正当な警告がブルジョアたちに、あるいは社会全体のものとして受け入れられ、確認されて来たなら、今年三月の福島の原発事故は決して起こり得なかったであろう。

 そしてまた、我々がさらに強調したことは、核エネルギーの「危険性」とはまず何よりも、資本主義的生産関係、つまり資本の支配の問題であり、それこそが“技術的”危険性といったものよりはるかに決定的であり、重要な契機である、ということであった。

 市民主義者、反原発主義者たちは、原発のことでは“大騒ぎ”し、原発がまるで“人類史的な”悲劇であり、不幸のもとであるかに言いはやすが、奇妙なことに、世界の強国が保有し、それによって武装している原爆については――日本もまた、アメリカの「核の傘」という形で、“原爆帝国主義”つまり大資本の帝国主義の世界体制の中にしっかり繰りこまれているのだが――、そして原爆ほどに人類の未来にとっての――否、現在において――“危険な”存在はない、ということについては、ほとんど発言しないのであり、できないのである。

 しかし核エネルギー利用そのものの「危険性」を言うなら、なぜ原爆をまず問題にし、その一掃を謳わないのか、まず原発なのか、それではまるで後先が逆ではないのか。

 原爆という形の核エネルギー問題を取り上げるなら、核エネルギーの「危険性」が核エネルギーそのものの“原罪”というより、資本主義、帝国主義の問題である、ということが余りにはっきりしてしまうからであり、そのことを反原発主義者たちは恐れるからであろうか。

 いずれにせよ、多くのブルジョア国家が、とりわけ主要な国家が核兵器でもって歯まで武装している現実は、市民主義者、反核主義者にとって鬼門であり、避けて通るしかないのだが、まさにこの問題において、彼らは論理的ばかりでなく、それ以前に実践的に完璧に破産しているのである。

 我々の「核エネルギー」に対する基本的な立場は明らかである――それが大自然そのものの一部、その根源であって、それを「自然」でも、その本質的契機でもないかに考え、主張する反核主義者の観念論的な見解とはどんな共通点も持たない、ということである。彼らはを核分裂によるエネルギーを非自然エネルギーと呼び、太陽エネルギーを「自然エネルギー」と呼ぶことによって、最初から自己矛盾してしまっていることさえ自覚していないが、しかし両者は「核エネルギー」として共通であって、ただ核分裂によるものか、核融合によるものかで区別されるにすぎない。

 “文化的な”存在としての人類は、数千年の歴史を経て、単なる物質の、自然の化学反応(燃焼等々)からくるエネルギーだけでなく、物質そのもののエネルギー(いわゆる「核エネルギー」)を「発見」し――しかしその存在は、例えば太陽エネルギーとか星(恒星)の光とかの形で、その本質を知ることなくよく知っていたのだが――、その本性と巨大な力を確認し、その意義を明らかにし、それを人類のために利用するところまで進化してきたのである。人類はこうした自らが到達した時点から後退することは決してないであろうが、それは人類が「火」の利用を始めてから決して後退することはなかったし、あり得なかったのと同様である。

 「核の危険性」が今問題になっている。人類は「核エネルギー」の存在を確認し、その巨大な力を知るに及んで、その巨大な「危険性」――これまでの燃焼エネルギー等々と比べて、何万倍、何十万倍とも言えるような「危険性」――もまた、原爆や原発事故という形で経験することになり、第二次世界大戦後、“反核主義”――単に原爆反対にとどまらず、その「平和利用」つまり原子力発電にも反対する“反核主義”――が大きな影響力を持つようになってきている。

 しかし人類が巨大な核エネルギーの利用に進んできたのは歴史的な必然であって、その利用は単に電力としての利用だけではなく、医療をはじめ、産業と生活の多くの分野においてもきわめて有益で、大きな役割を果たすまでになっており、一般的な意味での“反核主義”といったものがどんなにナンセンスな空論であるかは余りに明らかであろう。いたずらに「核エネルギー」を恐怖し、忌避しようとするのは、まさに初期人類が「自然」や「火」を恐れ、それに恐怖した――「火」や地震や雷などの本質を知らず、それを回避したり、闘ったりする方法も分からなかったが故に――のと同様の偏狭さ、蒙昧さというものであろう。人類は文明の初期の無知や蒙昧さから徐々に抜け出し、生産力や科学技術を発展させ、社会関係、生産関係を前進させ、また自然そのもの、自然の一部、一契機としての「火」や「電気」等々がいかに人類の文明と福祉のために有益たり得るかを知り、それらを利用して自らの社会や生活や文化を作り上げ、発展させてきたのである。

 原爆を見ても分かるように、「核の危険性」の本質、その根源はブルジョア的生産様式、つまり資本の支配や国家主義・帝国主義にあるのであって、核エネルギーそのものにあるのではない、というのは、核エネルギーはその巨大な力によって人類にはかり知れない福祉をもたらし得るからであり、そしてまさにそれ故に、大きな「危険性」を有しているにすぎないのであって、それは大宇宙が、大自然がそうした“弁証法的な”存在であることの単純な帰結であるにすぎない。

 我々は原発の「危険性」について語る場合、まさにこうした意味で語るのである、つまり本当に危険なものは原発(核エネルギー)そのものではなく、資本主義的生産様式である、と。つまり現代においては、資本主義的生産様式ほどに、人類にとって「危険な」ものはないのであって、それに比べれば、核エネルギーそのものの「危険性」――物質としての、自然物としての「危険性」――は相対的であり、統御しえるものであり、また今後科学技術の発展の中でいくらでも“解決”して行き得るものである、と。

 原発事故が起こって、にわかにプチブルたちは原発の危険性について大騒ぎしている。しかし原発事故が起こったのは技術的なものによるというより、大資本の支配と体制の結果、大資本の核エネルギー利用の結果という方がはるかに真実であって、このことは原発事故の具体的な原因を究明していけばますます明らかになるであろうし、すでになってきている。

 そして労働者人民の生命や生活や健康をおびやかす「危険性」ということについていうなら、資本の搾取体制こそが決定的に重大であり、本質的であって、この「危険性」に優る「危険性」など現代においては全く存在しないであろう。この現在においてさえ、日本だけとっても、何百万、何千万の労働者が資本によってどんなに非人間的に支配され、圧迫され、搾取されて、生命や健康や生活を破壊されているかを、我々はよく知っているではないか。

 市民主義者たち、反原発主義者たちが原発の「危険性」についてわめきながら、何千万の労働者人民の生命や生活や健康をおびやかす資本の支配の「危険性」についてほとんど語っておらず、あるいは知らないふりをして、その廃絶を、一掃を訴えていない――というより、資本の支配という現実に全く無関心で、自分とは無関係であるかに振る舞っている――ことこそ特徴的であり、反原発主義者たちの本性を、彼らのブルジョア性、プチブル性を暴露して余りあるであろう。

 彼らは一九四五年の二個の原子爆弾の投下が、資本主義と帝国主義の支配や、それが引き起こした反動戦争の結果としてのみ、資本の支配がもたらした人類史的な犯罪や残虐や惨劇としてのみ現実であったことを深く反省して見るべきであろう。

 我々は核エネルギーの「危険性」に対する闘いを、労働者の資本の支配に反対する闘いと結びつけ、それと並行して、そしてまたそれに従属させて提起するのであって、それ自体を切り離して、独立したものとして、何かそれ自体“絶対的”で、無条件的なものとして提起しないし、すべきではない。

 そんな形の「反原発」の闘いは、結局はブルジョアやプチブルの空虚な闘い、“人道主義的な”おためごかしの闘い、偽善的で、空想的で、無力な闘いであり、またそこに帰着して行くし、行くしかないであろう。

 我々が、原発事故の責任を徹底的に明らかにすることなくして、また責任ある連中に実際的に責任を取らせることもなく、罪科を課すこともなくして、原発の再稼働は認められないと主張したことに対して、何か我々が基本的な立場を変えたとか言いはやす諸君がいる。

 しかし我々が再稼働は認められないというのは、原発が、核エネルギーが「人類と共存できないから」そうせよ、などと言うのでは全くなく、むしろ福島の原発事故などはいくらでも回避できしたし、すべきであったのが、実際に事故にまで至った責任を問題にするからであって、反原発主義者たちが原発に反対するのとは基本的に違った立場から発言しているのである。

 福島の原発事故は、核反応が継続し、暴走して起こったのではなく、核反応は停止したが、核燃料の出す崩壊熱を冷却することができなくなったからであり、また水素爆発を回避できなかったからであって、こうした“複合的な”事故まで招いたような、愚劣で、無責任な原発管理を行ってきたような電力資本や国(原発に関連する諸機関や関係した官僚等)や政府や政治家やインテリ等(学者やいわゆる“専門家”や評論家等々)の、自己の利潤優先や権益や権力やカネや特権等々のために「安全」を徹底して軽視し、なおざりにし、後回しにしてきたことの責任を問うのであり、彼らに社会的な罰を課し、責任を取らせるように要求するのである、というのは、こうしたことが徹底的に行われることこそ、今後の原発事故を妨げ、実害を最小にして行く上でまず第一に重要であり、必要であると確信するからである。
(林 紘義)

 「ういんぐ社」刊、定価1800円(税共)。全国の主要な書店で購入できます。また全国社研社でも取り扱います。
 
『海つばめ』1158号(2011年10月16日


【目 次】
序=我々はいかに「核エネルギー」問題を論じてきたか、そして今論じているか
第一章=原爆、そして原発と労働者階級の立場
  資本主義、帝国主義と原子力エネルギーの“危険性”
第二章=「安全神話」に抗して
  資本による“核”利用の「危険性」
第三章=原発は果たして「無理」な存在か
  “核エネルギー”は人類にとってすでに一つの現実
第四章=反“核”主義者たちの奇妙な理屈
  空虚な論理で人は説得できない
第五章=菅直人の“反原発”政治のトンチンカン
  思いつきと保身と無責任と
第六章=原発事故の責任を明らかにせよ
  “復興”や“補償”はまず東電や大企業や金持ちの負担で