新刊案内

林紘義著 『「資本」の基礎としての「商品」とは何か』

著者から一言/我々の理論探求の一里塚

 「『資本』の基礎としての商品」は、丁度30年前の1885年に、東京三鷹の地区の学習会、「たけぞう会」の『資本論』学習会に講師として招かれ、9回にわたって報告した時の報告文書と、口頭での報告と、各回ごとに「資料」として提出された、マルクスなどからの引用文をまとめたもので、元となった本は簡単な素人作りのもので、「たけぞう会」の主催者の杉村正衛氏が、講演のテープを起こすなど苦労してまとめてくれたものでした。

 それを今回、「たけぞう会」の全面的な了解も受け、30年ぶりにいわば正式の出版物して、全国社研社から出版することになり、責任担当者の渡辺宜信氏が新しい、そして親しみやすく、読みやすい形に整理、再編集してくれました。

 学習会は、三鷹市の公的な建物で2月から6月にかけて行われ、2、3週間に一回くらいのペースでした。参加者はけっこう多く、2、30人にも達したときもありました。しかし今反省してみると、私も未熟であって理屈っぽい話が多く、もっと丁寧に、分かりやすくやれたのではないかと思います。

 「たけぞう会」のこの『資本論』学習会がもたれた、1985年の春の頃は、我々は社労党の名のもと、国政選挙に――場合によっては地方選挙にも――活発に参加していた時代、当時社労党中執だった町田勝氏が大田区から都議選に立候補して闘っていた時代とぴったり重なっており、また翌年の参議院選には確認団体として全国で10名の候補者をたてて闘った時代、機関紙として『変革』がタブロイド版8頁で毎週だされていた時代、そして郵政の仲間が深夜勤反対で、国鉄の仲間が分割・民営化反対等々で果敢な闘いを展開していた時代、我々の闘いが一つのピークを迎えていた時代でもありました。そんなときにも、我々は理論的な闘いも決しておろそかにはしていなかったということです。

 もちろん、今の我々の主体的な条件や客観的条件の下では、理論的な活動や組織的な活動の意味はさらに大きく、重要になっているといえます。そしてそんな時代だからこそ、『資本論』の意義と内容について語った、「『資本』の基礎としての商品」と銘打った本の出版もあり得たのでしょう。

 テーマとしては、『資本論』の冒頭の部分、つまり商品とその「価値」について論じた部分――『資本論』の箇所でいいますと、第1巻(第1部)第1章を中心に、2、3章までを含む範囲――で、基本的に「労働価値説」の名で呼ばれている、マルクスの理論の核心とも、基礎ともいえる部分です。

 しかし冒頭の商品の性格や、商品生産と資本主義的生産との関係など、全体の中での『資本論』の冒頭部分の位置づけなどを明らかにしており、『資本論』への入門書としても大きな意味を持っていると思います。冒頭の商品論の意義と内容を理解するためには、全体の中で、その部分がどんな意義と意味を持っているのかを――そしてそのかぎりでの限界も持っていることを――確認することは、その部分の理解を深めるために決定的に重要です。『資本論』冒頭の価値の理論は『資本論』の全体を貫くものであって、そのことの確認によってこそ、冒頭の商品論の位置付けや意義もまた全面的に明らかになるからです。

 私は1958年、19才で共産党に入党し、社会主義運動に参加して以来、60年近くを実践的な活動に一貫して携わりながらも、しかし他方では、『資本論』の研究も深めてきました。そしてその研究の中心となったのは、何といっても商品の「価値」の理論でした。そんな前半生の理論的探究の、「労働価値説」検討の一つの集大成として、この本があるといえるかもしれません。

 この本でも、しばしば宇野弘蔵の「経済学」に対する批判が行われていますが、それは私が当時の急進派学生が自らの聖典であるかに信奉していた宇野理論と対決するなかで、『資本論』の理解を深めてきた――来ざるを得なかった――ということと関係しています。青木昌彦(姫岡)も服部信司(水沢)も、いくらかでもブントの理論家を自認する連中は、みな宇野「経済学」の信徒でした。我々がプチブル急進主義を克服するということは、宇野経済学や黒田哲学といった、まやかしもののインチキ理論を克服することと不可分に結びついていたのです。いまさら宇野理論を「学ぶ」必要――仮に「反面教師」としてでも――はさらさらありませんが、ブルジョア的な(あるいはプチブル的な)典型的俗見の一種として、物神崇拝意識の最たるものの一つとして参考にして下さい。

 もちろんその後の30年も、我々は、多くの理論問題でも議論を重ね、エンゲルスの『資本論』修正問題や再生産表式の議論や資本の蓄積問題(“均衡した”資本の蓄積はあり得るのか、ないのか等々)について、あるいは生産的労働とは何か、具体的には介護労働(もしくは介護機器を作る労働)は生産的労働かどうか等々について、さらには資本価値(過去の労働)の(「具体的有用労働」による)移転問題について、そしてその到達点として、社会主義における分配法則はいかんの問題など、“スターリン主義者”たちが長い間、振りまき、流布させてきた俗流観念を批判的に克服するために、一歩一歩前進してきたといえます。

 私などは、その過程で、しばしば――とりわけ、価値移転問題などでは――、ほとんど孤軍奮闘で、林はマルクス主義を捨てようとしている
、マルクスの言うことに異議を唱え、マルクス主義に反しているとまで非難されることもあったほどです。

 私の言いたかったことは、ただ、マルクスの文章も言葉も、それが展開されている場所――マルクスが、そこで理論的に解決しようとしている課題――に即して理解されなくてはならないのであって、そのことを考慮しないで、文章や言葉をそれ自体、切り離して取り上げるととんでもない誤解やドグマ――物神崇拝意識そのもの――に堕し、つながるということです。

 ここ数年、我々が解決されるべき理論問題として議論してきた、社会主義における分配法則の課題も、“労働価値説”をどう理解するかと深く関係しており、その独善的理解を一掃しなくては、その正しい理解なくしては、一歩も前進し得なかったのです。ただこの一つのことをとっても、マルクス主義理論の核心の理解において、『資本論』冒頭の「商品」論が、つまり「価値」の理論が持つ、途方もない重要性と意義が確認され得ると思います。その意味でも、「『資本』の基礎としての商品」がいま出版されたのは時宜にマッチしており、よかったと思います。

 そんな時に、30年前の『資本論』学習会の講義をまとめた本が出たのも偶然ではありません。我々の闘いの有効な武器の一つになることを願っています。

《定価1600円+税・注文は書店又は全国社研社まで》