若い組合員の成長に期待する
『変節』の連載を終わって
増田 勇


 連載小説『変節』が終りました。筆者自身が、自分の書いたものに何かコメントしろと言われても、何も言うことはないわけです。二年近くのあいだ、私の書いた駄文を読んでいただいて、読者のみなさんに、ありがたかったと言うだけです。

 二年前の「連載にあたって」で書いたこととまったく同じことが「連載を終って」でも言えます。

 すなわち、 「今、労働者に闘う力がありません。資本家に、あるいは管理者にいいように飼いならされてしまっています。反発心はあるのですが、その力が資本家、当局に向けられないで、仕事をすること、出世する方向に行ってしまう。

 社会主義の国と言われた国の崩壊も影響は大きいのですが、組合役員のいいかげんな指導にも多くの問題があった。小説『変節』は、そうした労働現場での人間の生きざまを、何人かの人間を通じて、みていきたい。小説でなくて雑文になるかも知れない。先の見通しや結論があって書こうとしている訳ではないので、書き進めながら、私自身のこれからの生き方をも見つめていきたいと思うのです。硬い記事の多いこの新聞に、軽く読み捨てるような欄がひとつくらいあってもいいのではないかと思っています」

 これは「連載にあたって」の一部を一言一句そのまま再録したものです。今が、社会変革の激動期ではないから、二年間で情況がそんなに変るものではないのです。じゃあ二年前とまったく同じなのか。お前の二年間は何だったのだ、と言われるでしょう。

 ある面では、この二年間は激しい変化の時期だった。私の所属する全逓静岡南支部の組合事務室は十平方メートルそこそこだが、パソコンが三台にワープロが一台、全自動の印刷機に高性能のコピー機が置いてある。

 パソコンにはウィンドウズ95がセットしてあって、この新聞(『海つばめ』)の記事を、インターネットのホームページで読むことができる。昼休みには組合員がパソコンの前に座ってゲームに興じている。ある組合員は、インターネットを使って競馬の馬券を買っているのである。私は、組合事務室のパソコンを使って馬券を買っている組合員を見た時、ほんとにびっくりした。カルチャーショックを受けた。

 去年暮、私も所属する「労働者文学会議」という団体で自費出版的に『労働者文学作品集』という四百ページほどの本を出版した。私も『裏切り』という題で作品を載せている。『変節』の大庭勇の部分を少しふくらませて小説ふうにしてある。

 今年春、この本の出版記念会が東京であって私も出た。作品集全体は、その時も、その後の書きものでも好評だった。私の『裏切り』という小説については、
 「今時分、こういうものを書く人がいるのに驚いた。しかし増田さんらしい作品だ」という評が仲間からあった。

 作品も私自身も、時代に乗り遅れているということらしい。

 『変節』は八十六回連載したが、連載中、評みたいなものは私のとこにほとんど届かなかった。漏れ聞くところでは、郵政省も全逓も、注目はしているようである。しかしそれは、登場人物が生のまま舞台にあがるからで、作品の評価とは違うようだ。『変節』の舞台の様子を知っている人にとっては、興味あるのは当然のことなのである。せまい私のまわりだけでこれだけの登場人物がいるのだから、郵政省全体、あるいは働く人全体では、もっともっといろんな人たちがいて、興味のつきるとこはないのだろう。

 最近の(一九九六年八月三日)『全逓新聞』(全逓本部発行、週刊)の短歌欄に次の歌があった。

・離脱せる仲間の陰に笑みし貌(かお)思えば憎しその謀り事

・許せざる人の名赤くしるしたる古き日記は涙色せり

・職退きてなお胸にありこのバッジたたかいの日々遠く光りて

北陸嶺北退職 白木 梢

 小説にしろ映画にしろ、それを批評することは、批評対象を扱っていながら実際は、批評者自身をさらけ出すことになるのである。自分の立場を明らかにすることなくして批評はできないのである。

 全逓新聞の短歌の白木さんにとって、全逓を脱退した人間は「許せざる人」なのである。彼らの笑い顔の奥に憎い謀り事が秘められていたのである。何十年たって、職場を退職した今も彼らを許せないでいるのである。

 その深い怨念はどこからきているのか。全逓脱退者は「労働者の団結」を破ったのである。脱退の理由は色々あっただろう。それらは、私たちのまわりに日常的にあった。じゃあ「労働者の団結」とは何だったのか。団結して何を求めたのか。

 求める内容は何でもいいのだ、ただ団結することが大事なのだ、と言うことであれば、軍隊こそ究極の「団結した組織」である。

 白木さんが歌にしたのは、もちろんそうした団結ではない。では、全逓も加わっているのだが、「連合八百万の団結」はどうなのか。

 資本と闘うことをしない団結なら、八百万という組織にあまり大きな意味はない。資本と闘うために八百万人が必要であって、闘う内容が経済的課題に限られるのであれば、労働者は果てのない堂々めぐりを強いられるだけである。

 “変節”を言うのであれば、正しい道は何なのかを言う必要がある。それが小説「変節」の中で十分出せたかは疑問である。激動期でなく一定の安定を(住専問題に見られるように決して鞏固な安定ではないが)維持している今の日本において、社会主義に向けた活動は地味で単調である。それで、書くものもダイナミックにはなかなかいかないのであった。

 次の文章は、今年あたらしく全逓南支部の執行委員になった若い人の地区大会報告である。

 「八月四日、静岡ターミナルホテルで開かれた全逓静岡地区大会に、若い組合員の××君、××君、××君の三人と共に傍聴に参加した。朝九時からの会合ということもあってか、僕は大会の最中しばしば居眠りをしていた。××君、××君の両名とも僕と同様であったが、××君は終始起きていて、まじめに聞いているようだった。

 さて大会はと言うと、午前中はずっと『誰々のあいさつです』とか言って、それを二時間ほど聞いていた。単調な話し方に、眠気を益々そそられた。演壇の上に目を向けると、そこには黄色の立派なパネルがあり、四つのスローガンが掲げてあった。その中に『組織強化・拡大・組織の活性化をはかり「一産業一労働組合」を実現させよう』というものがあった。

 そこで僕は少し疑問を感じた。組合上層部の人たちは、組織の拡大とはどうすれば成せると考えているのか、自分たちが立派な演説を行ない、すばらしい会場で大会を開いて、立派なスローガンを掲げれば、組織の活性化ができると思っているのかな、というものだ。

 大会も午後になると、ようやく各支部の発言になった。最初の浜松支部の人の発言に共感した。この支部は『新昇格』について大反対の意見を東海地本大会で述べ、その時に地本執行部からボロクソに言われたらしい。

 『意見の内容は別として、支部として組合員の生の声を吸い上げ、そのありのままを発言した。この事は組合活動の本来の姿であり、誉められこそすれ否定される要素はない』 と地区本部執行部に申し出た。僕もまったく同感である。組織とは組合員一人一人の、労働条件等に対する意識を集約する所であり、少しでも労働条件を良くしていくのが労働運動である。僕もそのことを考えて、執行委員をやってみることにしたのだ。

 その他の発言ではやはり南支部の二人が目立っていた。

 増田支部長の発言は、少々退屈な会場を笑いのウズにまき、白井書記長の財政案についての斬新な意見には、会場がどよめいた。このあたりが大会が一番盛り上がっていた。ちなみに××君の感想は、会場が寒い、退屈だ、お弁当がおいしい、ということだった。

 とにかく僕としても、今後の参考になることは少しはあった。これからは、若い組合員の立場で、新しい考え方をより多く反映できるようがんばっていきたい」

 これは「全逓静岡南支部・支部情報」に載ったものをそのまま転載したもので、原文は署名いりです。これを読むとずいぶん新鮮な感覚で地区大会を見ている。しかもするどく今の労働運動を理解している。今まで運動に無感心で、もちろん役員をやるのも初めての組合員である。

 私たちのやっていることは、どこかで誰かが見ているのである。そうしたものが、今すぐ大きな力になるわけではない。しかしこうした若い組合員が、すなおに労働運動をにない、次の運動の足がかりに何かを求めていってくれれば、全逓の労働運動も見捨てたものでもない。

 『変節』は初め、三、四人の人物を扱って、回数も十五回とか二十回で終るつもりだった。余分なことを書いたりして長くなってしまった。長くなっただけであって全体を通して雑文には変りない。

 一回分が原稿用紙にして四枚半。八十六回だから合計すれば四百枚近くになる。まとめれば一冊の本になりそうだと思った。先日東京に出た時にこのことを『海つばめ』の編集部に話した。私の計画が可能なようであった。

 大げさに言えば、死ぬまでに一冊の本を出したいという思いが前からあった。このままいくと、意外に早く私の思いが実現しそうである。

 今、全体を読みなおした。字句の訂正以外、手をいれないほうがいいと思った。年内に出版します。買って読んで下さい。みんなに広めて下さい。

『海つばめ』第594号1996年8月25日


運動の中の「個」とは
小説『変節』の意図したもの


 『海つばめ』四面に連載されていた小説『変節』が単行本となり出版されました。そこで作者増田勇さんに『変節』について書いていただきました。

 小説『変節』が出版された。連載途中で、「あれは小説ではない」という声があったが、「雑文集」と言う訳にはいかないので、以下小説として扱っていく。出版されたが、この文章を書いている時点で、まだこの本を手にしていない。隔靴掻痒の気持だし、自分の本について論評する立場にもない。

 一般に、本やその他の文章は、一旦作者の手を離れたら一人歩きを始める。そういう意味で、出版されたばかりの、小説『変節』について少し書いてみる。

 『変節』は何人かの労働者に焦点をあてながら、読み切り小説的に舞台が転回していく。中で、中心的な人物は「私」と大庭、雨畑である。

 「私は、三十年間郵便局にいて、郵政省が嫌いだ、と言うふうには割り切れない。労働者とは弱いもので、搾取され収奪され続け、深夜労働で命まで縮められていても、郵便の仕事に愛着を持つようになるのだ。もちろん作業はきついし徹夜の仕事で体は疲労の極限になるのだが、それでもどこかに自分は郵便の仕事をやっているんだ、という意識がある」

 「私」はこうした意識を持った、ごく平凡な郵便労働者である。平凡な労働者である「私」は、確固とした信念を持って労働運動を指導している大庭に、あこがれと尊敬の気持ちをいだいている。

 「静岡南郵便局が開局したのは一九七四年だが、開局直後、三階の食堂のうしろ壁全面に、
 『南局を闘いの砦に!』
 と赤ペンキで大書きされた事件があった。拭いたり削ったりしたくらいでは取れないほど強力に書かれていて、長いあいだそのまま放置されていた。壁を塗り替えるしかなかった。私はただ呆れていたのだが、大庭は違った。
 『表現の自由は、こうしたことも認められるべきだ』
 と彼は言った。私はその時、この人はすごい人だと思った。尊敬の気持ちが涌いた。私のその時の気持ちは、まちがっていないと思うのだ」

 小説では、「私」の思想についてはあまり書かれていない。全体を通して読み取れるのは、「社会主義派」としての「私」より、山へ登ることを好んだり、自然あふれる環境に育った子供時代への原体験≠ゥら、自然環境を擁護する「自然派」である。アカウミガメ産卵の「私」の生まれ故郷の海岸が、今、四輪駆動車で荒らしまわされていることに、激しい怒りを持っている。

 小説では、「私」より大庭や雨畑のほうが激烈な運動を追求している。

 「いつだったか、はっきり覚えていないのだが、大庭勇が郵便分会の分会長だった時だと思う。大きな闘争でなくて、職場になにかもめごとがあった。そのいざこざの最中、大庭が労務担当主事の胸ぐらをわしづかみにしたことがある。これ以上だと当時でも懲戒免職のケースだ。今だと、労務担当の胸ぐらをわしづかみにしただけでも、懲戒免職だろう」

 「大庭勇は郵便分会長として、強行なまでに、組合員に選抜試験を受けさせなかった。全逓本部が『試験を受けるな』と指導したからどうかは、わからない。職場内に、そうした試験を受けることが、なにかとんでもなく抜け駆け的行為だとする雰囲気はあった。だから大庭の、選抜試験を受けさせない指導は、目立って酷しいとは思わなかった」

 「ずっと前だが、一度雨畑がテレビのローカルニュースに写ったことがある。年末、一般の会社や商店はいっせいに休みになる。郵便局は逆に年賀状で最繁忙期だ。それで例年、マスコミの取材の対象になる。きっと、雨畑が全逓の役員をやっていたから事前に決められていたのだろう。レポーターが雨畑に質問した。とおり一ぺんの質問だったと思う。雨畑は、私からみてもずいぶん勇ましく発言した。
 『みんなの寝ている夜なかまで、安い金で働かせやがって』
 この雨畑の言っていることは、労働者としてずいぶん健全だ」

 「雨畑武が全逓書記長として行動していた頃、ある民青(共産党系の青年組織)の活動家の組織の活動を指して、『まちがったことをまじめにやられた日にゃ、やらんより悪い』と言った。私が民青活動家のことを、『あの衆はまじめにやる』と言った言葉をとらえて、雨畑が私に反論したのである。私はその時、確かに雨畑の言うことはあるなあ、と思った」

 労働運動を、大庭や雨畑のような信念を持って指導することが、「私」にとって尊敬に値する、と思われたのである。

 ストーリーはほとんどなくて、あっても話題が前後する訳だが、小説の冒頭の全逓第四十八回定期全国大会は、こうした信念を持って、大庭や雨畑が労働運動を指導していた時より二十年が経過している。その二十年のあいだに何があったのか小説の中ではわかりにくい。一九九四年の梅雨の最中の晴れた日、「私」は第四十八回全国大会の大会代議員の選挙に立候補していて、その選挙運動のために、静岡県中部の宿場町藤枝市の藤枝郵便局へ一人で出かける。そこで運命的とも言える大庭勇と十何年ぶりに出合う。彼は藤枝郵便局の集配課長になっている(大庭はその後沼津郵便局に栄転し、さらに最近、岐阜中央郵便局に栄転している。いよいよ次は局長だ)。

 またその藤枝郵便局の通用門で雨畑とも出合う。その後雨畑も、浜松東郵便局の課長になる。

 「ビラを配り始めて二、三人入局したあと、どこかで見たことがある姿だなあ、と思える男がやってきた。ピシッと背広を着こなしている。普通、全逓組合員である郵便局員は、作業着か、ラフな服装をしている。ピシッとした背広姿はまちがいなく管理者だ。私は知らん顔をしていた。

 するとその男は、つかつかと私と前にやってきたのである。そしておはようも、こんにちはも言わず大声で言った。
 『ビラは外で配れ!しかし一枚はもらってやる』
 なにさまだこのやろう、と思ったが、とっさのことでビラは渡してしまった。そして彼が誰だかわかったのである。大庭勇だった。彼はずっと遠くから、私がビラを配っていることを知っていたのである」

 人は自分にないもの、自分が出来ないものを憧憬する。私は楽器を奏でることがまったくできない。それで楽器が弾ける人をとてもうらやましく思っている。ピアノを弾いている人をみると、魔術師であるかのごとく思う。彼らは一時間でも二時間でも、楽譜を見ずにピアノを弾いているのである。

 『変節』の「私」は、自分の能力にない労働運動での思想や行為を大庭や雨畑にみた。そして一部そのことを理想化した。彼らといっしょに活動できれば「私」の守備範囲はもっと広くなり、運動領域は広まっていく。

 「私」には、高校の時の製茶工場でのきつい労働の体験があった。

 「私が高校の頃は、コークスから重油に燃料が変った時期だった。じっとしていても暑い真夏のことである。狭い工場内でガンガン火をたくのである。お茶のほこりと汗がまじって、着ているシャツが醤油色になる。きつい仕事だった。一日十二時間労働の二交替制だった」

 「私」が郵便局を仕事として選択したのは、こうした働く人たちの苦しみを、労働運動の中から救済していこうと思ったからである。

 「労働運動をやりたかった。そういう意味では国鉄のほうがおもしろかったのだが、受験する前に視力のほうが気になった。それと、それまで郵便局でアルバイトで働いていたのだった」

 もちろん、労働運動をやろうという考えに至るまでに、社会主義の思想なども学んだのだろうが、小説の中ではそのことは触れられていない。

 「私」が、生きる道として選んだ労働運動だった。「私」のまわりには、尊敬できる労働者がいた。「私」はひたすら労働者の輝く未来を見て運動を続けてきたのである。

 ところがある時、「私」が尊敬に値すると信じていた労働者、労働組合役員が、「私」の向い側にいたのである。典型的には大庭と雨畑だった。「私」に、彼らの変ってしまった姿がどうしても理解できなかった。作者が『変節』を書いた動機は、このところの解明である。

 作者の意図したところに小説『変節』の中で到達したかどうか。答えは否、である。一人ひとりの労働者に焦点をあてて、彼の変節を追求することが、不可能だからである。しかも焦点はなかなか定まらない。

 労働運動や政治行動の中で、「全体の中の個」とは何か、を問わなければならない。作者はそのことを意図したのである。

 雨畑に対して作者は言う。

 「一人雨畑が労働者の側をぬけ出て管理者になったことによって、労働者の闘いの前進がどれほど後退させられたか」

 これは雨畑に対して言われた言葉だが、小説の中に出てくる何人かの労働者、労組役員に対して多かれ少なかれこのことは言える。運動は、一人ひとりの人間が、自分に与えられた役割を守りぬかなければ瓦解する。そのことはいいのだが、じゃあ大庭や雨畑はなぜ自分の持ち場を離脱したのか。

 いくつもの欠陥や甘さはあるが、この小説が広く労働者に読んでもらう意義はある。作者の自費出版なので、多くの人が買って、読んで、考えていただくことを勧める。

(千五百円、申し込みは全国社研社まで)

『海つばめ』第612号1997年1月1日