林紘義著 『哀惜の樺美智子』――60年安保闘争獄中記


あとがき

 樺美智子は、同じ年に入学した同級生であるとともに、入学直後の最初のデモ以来、共産党でも、共産党から移ったブント (共産主義者同盟)でも、あるいほ東大の教養学部でも、本郷の文学部でも、終始、共に闘った同志であり、もっとも親しい友でした。私たちの相互的な信頼は非常に強いものがありました、それだけに、彼女の死を万世橋署の中で知らされたときのショックは強烈であり、その打撃から完全に立ち直るには一〇年、二〇年といった長い年月を必要としたほどでした。

 この本の中心をなす第一部・第二部の『獄中手記』は、一九五九年末から六〇年の七月まで、巣鴨拘置所内で書きためた、いわば“備忘録”のようなもので、三〇年もの間、私のごたごたしたものと一緒に、押し入れのすみに眠っていました。

 それがたまたま一九八八年ころ、私の生活している団地の改装のときに出てきて、社労党の中央機関紙『週刊労働者新聞』(現、『海つばめ』)に、一九八九年夏から一年にわたって連載されました。連載が終わったときは、ちょうど、六〇年安保闘争・樺美智子虐殺三〇周年記念のころでした。

 また第三部は、『哀惜の樺美智子』を連載していた当時、なつかしさから、いろいろと彼女について書いてあったものをひつぱりだして抜き書きし、それに注釈のようなものをつけ加えておいたものの一部です。したがってこれも、書かれたのはほぼ十年前ということになります。

 今この本を出すことにより、私は彼女に村して、何か彼女の死以来背負ってきた“負債”といったものをいくらかでも返せたような、何か本当の“追悼”を四十年ぶりに果たせたような、そんな気持ちになっています。

 この本が、樺美智子という人間についての真実を、さらに少しでも明らかにし、付け加えているのであれば、この本の課題は十分にはたされている、と思います。実際彼女は、そのすべてが広く知られるに足る、本当にすばらしい人間だったと思います。

 彼女のことを、単純に「安保条約に反対して死んだ」などと理解するのは、全く皮相で、ひどく間違っています。問題はもっと深く、根源的です。彼女の真実について、彼女が何のために闘い、何故に死ななくてはならなかったのかを多くの人が知ることは、まだ資本主義が克服されていない現代にあっては、決定的に重要であり、必要なことではないでしょうか。

一九九七年六月一五日

林 紘義


樺美智子の実像とともに当時の状況ほうふつ
林 紘義著『哀惜の樺美智子』を読む


 本紙の前身『週刊労働者新聞』に一九八九〜九〇年の一年余にわたって連載された林紘義氏の『哀惜の樺美智子』がこのたび単行本として三一書房から刊行された。単行本には新聞に掲載された六〇年安保闘争時の二つの獄中手記が第一部、第二部として収録されている他に、第三部としてその前後の日記からの抜粋に説明を加えたものが新たに収められている。また獄中手記には詳細な脚注が付されて、読者の理解を助けるものとなっている。

 本書は六〇年安保闘争をはさんで一九五八年の共産主義者同盟(ブント)の結成からその崩壊に至る三年間ほどの生々しい記録(ブント=全学連の“英雄”で今では著名な大学教授や評論家などに納まっている面々が次々と実名で登場してくる)であり、安保闘争や当時の学生運動の状況や雰囲気、ブント=全学連の活動家たちの姿や息吹を生き生きとリアルに描き出している。

◎安保闘争の貴重な歴史的証言

 「第一部 獄中手記(一)――厳冬の中で」は、一九五九年十一月二十七日の安保闘争史上最初の国会突入闘争で逮捕され、翌六〇年一月二十八日に保釈で出獄するまでの間に巣鴨拘置所で書かれたものである。

 この一一・二七闘争は、労働者の間に「安保は重い」といった雰囲気が漂う中で、一年ほど前に結成されたばかりのブントと彼らが主導権を握る全学連が「停滞気味の安保条約改定阻止の闘争にカツ≠入れよう」と国会突入戦術をも含めた激しい闘いを展開し、その後の安保闘争の高揚を呼び起こした歴史的な闘争であった。当時、林氏は都学連の執行委員としてこの闘争の組織と指導にあたり、当日もデモ隊の先頭に立っていた。

 手記はこの日の労働者・学生の国会突入に至る果敢な闘いの描写から始まっている。それは今や神話とさえ化した六〇年安保闘争の一コマを実に生き生きと再現しており、国会構内の騒然たる状況が目に見えるようだ。

 わけても鮮烈な印象を与えるのはこの時の社会党・共産党の指導者たちのとった卑劣な対応である。彼らは労働者・学生の自然発生的な大衆的高揚にすっかり狼狽し、「国会はこんな具合に入るところでないから出ろ」「ここは諸君らの来るところではない」(共産党の志賀義雄)等とわめき、自民党政権に抗議して座り込んだ労働者・学生を国会構内から排除するために狂奔したのであった。それは階級闘争のいくらかでも決定的な瞬間には、日和見主義者たちがいかに意気地なく動揺し、たちまちその醜悪な裏切り的本性をさらけ出すかを教える生きた見本であった。この連中(共産党)の現在の救いがたいまでのブルジョア的退廃が彼らのこうした日和見主義のなれの果てであることをわれわれは手記のこの貴重な証言から知ることができる。

◎心揺さぶる革命的気概と情熱

 さて、「第二部 獄中手記(二)――酷暑の巣鴨拘置所」は、一回目の保釈で戦線に復帰して三カ月後、五月十九〜二十日の徹夜デモの責任を問われて再び逮捕され、七月二十三日に保釈で出獄するまでの間に同じく巣鴨拘置所で書かれたものであるが、二つの獄中手記を読んで、われわれが何よりも感銘させられるのは、革命の理想に燃える青年の一途で純粋で真剣な姿であり、その火のような情熱と天をも突く気概である。

 われわれはまずその読書量と旺盛な理論的探求心に驚かされる。その後の一・一六羽田闘争などの様子が漏れ伝わってくる中で「外へ! 自由なる活動へ!」の思いをたぎらせながら、また二回目の投獄では樺さんの死という激しい衝撃と悲しみにつつまれながら、この闘争の渦中の余儀なくされた「休息」を利用して寸暇を惜しんで読書に明け暮れる毎日。『資本論』やレーニン全集などのマルクス主義の本をはじめ、ヒルファデイングの『金融資本論』、ヘーゲルの『哲学入門』などなど、さらには内外の小説など、文字通りむさぼるように読んでいる。

 また、そのかたわら革命運動や労働運動にさまざまな思索をめぐらし、ラジオなどからの切れ切れの情報をもとに現状分析を試みているが、そこには何かしらキラリと光るものがあって、それもまたこの手記を類ない非凡なものにしている。例えば、当時共産党の綱領論争の焦点となっていた「対米従属」論についてこう書いている。

 「したがって、共産党系の幻想が生まれてくる根拠は、このように世界的に発展し、切り離しがたく結びついた世界資本主義を理解しえず、経済的相互関係を『従属のあらわれ』と間違って評価するところにある。そして、その間違った観念を対米従属として固定化し、自らの民族主義を正当化するのだ。経済的結び付きを『従属』として否定するから、残るものは民族独立のユートピアだけである。これは純粋にプチブルの空想だ」。

 また、レーニンの活動に学びながら、レーニンとトロツキーを対比して「一般的であり、抽象的であり、従ってしばしば非現実的であり、それ故に、鋭く、天才的であるトロツキーと、個別的であり、具体的であり、現実的であり、それ故に真の指導者であるレーニンの対立」と書いているが、これなども両者の関係の本質的な一側面を鋭く衝いていて面白い。

 また注目されるのは「『ソ連「社会主義」の批判』(対馬忠行の主著)読了。ソ連は『完全なる国家独占資本主義である』という確信を得た。さらに、ソ連圏の実体の実証的な深い研究を行う必要があるが、この結論はこれからほとんど変わらないだろう。それはソ連社会解明の本質論だ」とあることだ。脚注には「ブントの連中はソ連を『過渡期が固定された』社会とか理解したので、対馬理論をあまり高く評価せず、『赤色帝国主義』を振りまいているとか批判していたが、私は『ソ連=国家資本主義』の主張に強く引かれる。この後十年ほどして、対馬理論の批判的な総括と共に、ソ連=国家資本主義論を明らかにする」とあるが、その出発点はここにあったのだ。

 このように後に発展させられ、仕上げられていく思想や理論の萌芽が随所に見いだされるのも、この手記の興味深いところだ。また、今後の生き方をめぐって「文学と革命運動のはざま」に揺れ動く姿なども出てきて、革命的青年のみずみずしい感性で書かれたこの手記は読む者の心を揺さぶり、洗い清めてくれる。

◎歴史的なブントの結成から崩壊まで

 第三部は当時の日記から樺さんが登場するものを中心に抜き書きし、それに説明を加える形で、共産主義者同盟(ブント)の結成の頃から安保闘争後の分裂・解体までを描いている。それは本書の中心をなす二つの獄中手記がどのような歴史の流れの中で書かれたものであるかを明らかにしている。

 第三部を読めば、われわれは、当時の学生党員を中心とした革命的な分子がどう考え、何をめざして、スターリニズム共産党と決別し、新たな革命的な政治組織=ブントに結集していったのかを、またそれが安保闘争の直後に何故あっという間に崩壊せざるをえなかったのかを、当時の学生運動の具体的な状況を踏まえてつぶさに知ることができるであろう。

 言うまでもなく、ブントの結成(一九五八年十二月十日)は日本の労働者階級の新たな闘いの出発点として大きな歴史的な意義をもつものであった。当時、林氏はブント結成の最先頭に立っていた。東大駒場細胞がブントに移行した五九年二月一日の日記には「今日、駒場に共産主義者同盟の分派結成。十一、二名。歴史的に評価されなくてはならない」とある。また、解説文はこの日の様子を次のように伝えている。

 「この時、樺さんは本郷の正門近くの旅館で行われた会議そのものには参加しなかったが、私たちが共産主義者同盟に移行することを決定した会議を終えてでてくると、会議の部屋の外のソファーに座って待っていて、青木と話してそのままブント参加を決意している。私は会議を終えて部屋から出て、そこにいる樺さんをみてうれしかった、というのは、何しろ共産党から共産主義者同盟に最初から移った駒場の女性党員は一人もおらず、この会議にも参加していなかったからである。彼女はその最初の人であり、共産党においてだけでなく、共産主義者同盟の一員としても私たちは固い絆で結ばれた“同志”になったのだ」

 「新しく生まれた共産主義者同盟の雰囲気は最高であり、高い使命感と理想にもえていた」。当時の日記にもこうある。「二月二十七日(金) 東大ブントの総会。少数なのでみんな家族のようだ。しかしなんとみんな革命的な情熱に燃えていることだろう」

 しかし、安保闘争が終わるや、ブントはその小ブルジョア急進主義のゆえに、内在的な矛盾と弱さをさらけ出し、四分五裂の解体を遂げてしまった。そして、こうした困難の中で、林氏らによって真にマルクス主義的な観点に立脚した新たなプロレタリア党をめざす闘いが開始されていくことになるのだが、ブントにあって樺さんはそうした小ブルジョア急進主義の害悪に染まることの少なかった数少ない活動家の一人であった。本書はそうした樺さんの姿を学生運動やブントにおける彼女の活動やエピソードを通じて浮き彫りにしている。

 本書は、資本の鎖からの人類の解放という理想と使命感に燃えて立ち上がった革命的な青年たちの闘いを鮮やかに再現している。労働者とりわけ若い世代の人たちにぜひ読んでもらいたい一冊だ。そして、この遠大な理想に共鳴する人が一人でも多く現れることを願ってやまない。

(町田 勝)

『海つばめ』第649号1997年10月12日