林紘義氏の新著紹介
「『家族、私有財産及び国家の起源』を探る」
ブルジョア学者・モルガンに追随したエンゲルス

 エンゲルスの『家族、私有財産および国家の起源』(以下、『起源』)が書かれて百余年。以降、『起源』は人類の歴史や「家族」、「私有財産」、「国家」の起源を科学的に明らかにした著作とみなされてきた。マルクス主義を学ぼうとした者なら誰でも知っているように、『起源』は最初に読むべきマルクス主義の「基本文献」とされてきた。

 エンゲルスは『起源』の初版の序文で、この著作を書くことになった動機を次のように述べている。「以下の諸章は、ある程度まで(マルクスの)遺言の執行をなすものである。カール・マルクスその人が、モルガンの研究の成果を、彼の――ある限度内ではわれわれのと言ってもさしつかえない――唯物論的な歴史研究の結果と結びつけて叙述し、それによってはじめてその全意義をあきらかにすることを自分の仕事とすることを予定していた」、しかし、マルクスはそれを成し遂げることなく亡くなり、自分が代わりに書くことになった、と。

 かくして、これまで、『起源』はマルクスの研究成果を受け継ぎ、その思想のもとに書かれたものであり、マルクスとエンゲルスは完全に一致し、『起源で展開されている見解については基本的に疑問の余地のないものとされてきた。

 しかしこれに対して、従来の“常識”を覆す、コペルニクス的転換を迫っているのが本書である。

 エンゲルスはアメリカのブルジョア学者(共和主義者)モルガンの方法、理論に全面的に依拠し、わずか2、3か月の間に『起源』を書きあげた。エンゲルスは、モルガンが「40年前にマルクスが発見した唯物史観をアメリカで自己流にあらためて発見し」(同、序文)たと述べている。しかし、エンゲルスが称賛してやまないモルガンの歴史認識の根底は、唯物史観というより、一種のブルジョア史観であって限界あるものであると著者は指摘している。

 本書の内容は、著者の基本的な見解を総括的に述べた序章、第1章・「家族の起源」を考える、第2章・私有財産の“起源”、第3章・国家形成の「3類型」論――国家論の形而上学、第4章・古代的生産様式(「アジア的生産様式」)と人類の歴史、付録・ギリシャ・ローマ社会の位置づけ、からなっている。

 『起源』で言われているエンゲルスの“唯物史観”がどのようなものであるかを端的に示しているのが「家族」の起源の問題である。エンゲルスによれば、人間の歴史的発展を根底的に規定する要因は2種類あって、一つは生産力の発展であり、もう一つは人間そのものの生産であるという。そして人間そのものの生産は「家族」の発展段階によって規定されるのだとされる。

 人間の歴史的発展を「家族」の発展から説くエンゲルスの理論は、モルガンの方法に追随したものであった。モルガンは当時のアメリカインディアン・イロクォイ族の研究から人類の発展は、血縁家族、プナルア家族、対偶婚家族を経て、一夫一婦制家族へと発展してきたと結論した。

 これまでスターリニスト共産党をはじめブルジョア人類学者は、モルガンがハワイで見出したというプナルア家族の痕跡は事実と異なるとか様々な議論を展開したが、人類の歴史を家族の発展から説くモルガン、エンゲルスの理論そのものについてはいささかの疑問ももつこともなく、そのまま受け取ってきた。むしろ、女性が男性よりも優位であった時代――女権社会の時代――があったことを明らかにしたと、高く評価してきたのである。

 しかし、著者は、「家族」による人間の再生産だというエンゲルスの“唯物史観”について、マルクス主義の唯物史観は、基本的に階級社会が生まれた以降の歴史を対象としているのであって、それ以前の人類の歴史が家族形態によって規定されているといったこととは別のことである(そしてこのことさえも事実ではない)、そもそも、家族は階級社会の発生とともに生まれたのであり、原始共同体の段階には「家族」は共同体的関係の中に解消されているのだから、モルガンが推定で導き出したような「家族」の諸形体を云々すること自体あまり意味のないことである、と主張するのである。

 この指摘はエンゲルス及び従来の「家族」論への根本的批判である。

 従来の論者(スターリン主義者ら)はモルガン、エンゲルスが述べた「家族」及びその形態の変遷ということについては疑義を差し挟まなかった。生みの親を確認することのできる女系(女権)「家族」に、女性の優位(女権)の根拠を求めるモルガン、エンゲルスに対して、人類は初めから父系であったする人類学者の反論や女性優位の根拠を血縁関係に求めることは唯物史観に反する、女性の優位は不安定な狩猟の担い手である男性に比して、女性が農耕の主要な担い手となったためだとする第2インターのクノーらの議論はあった。しかし、「家族」及びその諸形態そのものについては前提とされ、其の枠内であれこれ議論されてきたにすぎなかったのである。

 これに対して、著者は「家族」とは歴史的に“家の族”としてのみ「家族」であって、“家”の概念の存在しないところには「家族」は存在しない、私有財産が生まれた階級社会において家族が形成されたのであると「家族」形成の意味を明確にしている。
 しかも、モルガンの言う「家族」の諸形態は、ブルジョア社会の一夫一婦制を基準としてそれに至るまでの推移を推測したものすぎない。すなわちモルガンは「家族」の形態は「野蛮」(血縁家族)、「未開」(プナルア家族、対偶婚家族)、「文明」(一夫一婦制)の段階へと進化してきたと主張する。彼においては、一夫一婦制は「文明」社会の「家族」、最高に発展した形態であり、家族形態の発展は人類の歴史的発展を規定するのである。しかし人類の歴史を「野蛮」「未開」「文明」と区分する仕方はブルジョア進化論でしかなく、私有財産制を基礎とする社会、一夫一婦制家族を人類の最高の発展段階として美化する以外のなにものでもない。

 そしてモルガンの理論に追随したエンゲルスもまた、現代では一夫一婦制は女性だけのものにすぎないが、将来は「真の一夫一婦制」を実現するだろうとこれを絶対化している。また、一方では男女平等を強調しておきながら、他方では階級のない段階において「女権制」を云々するエンゲルスの主張は矛盾している。これらはエンゲルスの「家族論」の破綻を示していると著者は主張している。

 エンゲルスによる人類の歴史の発展段階についての叙述に関しても著者の見解はその重大な欠陥を明らかにしている。

 つまり、マルクスはアジア的生産様式について『資本論』(第1巻)などで重要な指摘をし、『経済学批判序説』では、人類の歴史的発展の社会的形態として、アジア的生産様式、ギリシャ・ローマの奴隷的生産様式、封建的生産様式、資本主義的生産様式の4つを提起したが、エンゲルスは、アジア的生産様式であるオリエントやエジプトの古代社会、さらには中国や日本の古代社会は問題にもされず、同様に南米のインカ帝国やアステカ帝国も「氏族社会にすぎない」として切り捨てられている。それはエンゲルにおいては、人類の歴史はまず牧畜に始まるとされ、農業生産とそれへの移行の契機が軽視された結果である。そして、こうしたエンゲルスの歴史認識は私有財産の発生や国家の形成に関して誤った理論が展開されてきた結果であると著者は指摘する。

 私有財産の発生について、エンゲルスは牧畜種族による家畜の馴致と飼育から生まれたと説いている。そしてそれが商品交換や貨幣経済を発展させ、ギリシャ、ローマ世界が生まれた。さらにギリシャ、ローマの商品、貨幣の流通、商業の発展の中からいきなり資本主義は生まれたとされる。しかし、牧畜民が農業民――あるいは、より遅れた狩猟・採取民――から分離し、独自な存在となったのは、農業生産がおこなわれてから何千年も後のことである。牧畜民は、自然発生的で部族的な共同体的性格を強く残している遅れた狩猟・採取民から出てきている場合が多いのであって、その社会では私有財産制が発展しているとは必ずしも言えないと著者はエンゲルスを批判している。

 そして、ギリシャ、ローマで発展した商品、貨幣流通から封建制を飛び越えて資本主義が生まれたかに説くエンゲルスの理論では、なぜ封建制が生まれたのか、またどう歴史的に位置づけるかを説明することができない、したがってエンゲルスの理論によっては人類の歴史を首尾一貫するものとして合法則的に発展するものとして描くことはできない、とその理論的誤りを明らかにしている。

 国家論に移ろう。

 エンゲルスは国家の発生について次のように述べている。

 古代ギリシャのアテネこそ国家形成の「典型的な模範」である、「なぜなら、一面においてはそれは、まったく純粋に、外的ないし内的な暴力の介入なしに、行われたからであり……、他面においては、それは民主共和制という非常に高度に発達した形態の国家を氏族社会から直接に出現させているからであ」る。

 ここにエンゲルスの国家論が典型的に示されている。エンゲルスによれば、国家は暴力的な契機なしに、氏族社会の内部から生まれたのである。国家は氏族社会を維持するために、債権者によって簒奪された土地を成員のために再配分したり(ソロンの改革)、社会秩序を維持するために犯罪を取り締まったりする役割を果たすために生まれた機関であるかのようである。つまり、国家の形成は氏族社会の“改良”と“進歩”なのである。こうしてエンゲルスにおいては、国家は階級社会における支配階級のための権力組織だとする一貫した評価がなく、社会全体のために役割を担う“公的な”機関として描かれているのである。

 また著者が述べているように古代のエジプトやメソポタミア、古代中国(殷王朝)や日本の古代国家(大和朝廷)、アステカ帝国やインカ帝国などの氏族共同体を基礎とする専制国家を見ればエンゲルスのように評価することができないのは明らかである。

 ブルジョア代議制度=「民主共和制」を人類が最高の発展を遂げた「文明」社会がもたらした「国家」として美化したのはモルガンであるが、まさにエンゲルスもこれに追随しているのである。エンゲルスがブルジョア共和主義者であるモルガンに追随し、共和制を美化したのは、アジア的生産様式を切り捨てたことと密接に結びついている、と著者は指摘するのである。

 そしてエンゲルスの社会全体のための「国家」という理論は、スターリニスト共産党やかつての“構造改革”派をはじめとする改良主義者の悪用するところとなった。彼らはブルジョア議会は社会変革の「道具」となりうるといって、「議会で多数を占め、社会改革を」と議会主義、改良主義的幻想をまき散らし、労働者の階級闘争を歪め、解体してきたのである。

 本書はたんなる論争のための書ではない。著者は、『起源』が日和見主義、改良主義を助け、世界の労働者の革命運動に悪影響を与えてきたこと、そして人類の歴史について、家族や私有財産、国家についての科学的認識なしには労働者の革命運動は一歩も前進しないと訴えている。多くの労働者、青年、学生の皆さんが本書を購読されるよう心より訴える。なお著者は、アジア的生産様式について『海つばめ』紙上で10数回にわたる連載で論じてきた。この論文も合わせて読まれれば、いっそう理解が深まるだろう。
(田口騏一郎)

『海つばめ』1083号2008年11月30日


【目次】

 序 章=真実の歴史を求めて
 第一章=「家族の起源」を考える
 第二章=私有財産の”起源”
 第三章=国家形成の「三類型」論---国家論の形而上学
 第四章=古代的生産様式(「アジア的生産様式」)と人類の歴史く
 付 録=”古典・古代”のギリシア・ローマ社会の位置付け