教育のこれから
「ゆとり」から「競争」そして「愛国教育」でいいのか
林紘義 著


自著紹介『教育のこれから』
まかり通る「偏向教育」――“教育”とは何かの反省をこそ

 原稿の大部分の校正をしてもらった町田氏に書評をお願いしたが、体調がすぐれなく、無理ということであった。他の人たちもまだ目を通してもいないということなので、自著紹介ということに、あいなってしまった。いくつかがっかりするところの残る編集になったと反省しているが、それはさておいて、この本を今急いで出すことにした思いなどをつづってみることにする。

 言うまでもなく、この本を出す最大の動機は、国会に小泉内閣によって教育基本法改定案が提出されたからである。今は、今国会で成立は見送られ、継続審議にされたが、編集している時には、まだ国会で議論が行われているころであった。

 今国会に教育基本法改定案が提出される見通しは早くからあり、「教育」本の出版は以前から予定はしていたのだが、あれこれの用事があったり、カネのこともあってグズグズしていた。

 ところが、小泉内閣が改定案を準備し、一挙に成立を狙ってきた状況のもと、わたしも性根を据えて出版を急ぐことになった。しかしもし成立していれば、この本の出版は成立とほぼ同時となり、全くの時期遅れになるところであった。

 本の名前も、当初は「教育基本法を粉砕するために」とか、「教育基本法を粉砕しよう」といった“勇ましい”ものを想定していたが、状況が変化したこともあって、「教育のこれから」と改めた。

 本の内容をなしているものは、この数年、『海つばめ』に掲載された“教育”に関する論文や記事である。情勢に応じて書かれたものだから、その点では政治的、評論的な性格の強い、批判的、攻撃的なものが多くなっている。

 実際、森内閣以来のこの数年間、教育は大きく動揺し、変動してきた。森内閣の教育政策は「ゆとり」の合言葉で始まったが、しかしそれは実行されるかされないうちに、学力低下の猛烈な批判を浴びて、たちまち転換されてしまった。そして小泉政権のもと、一貫して教育への露骨で破廉恥な「競争」原理の導入が企まれてきた。

 「ゆとり」から「競争」への“教育原理”の転換は、どんな内的な検討も総括もないままに、なし崩し的に、無責任に行われたのであって、この転換が「愛国主義」教育への傾斜と同時並行的であったのは決して偶然ではない。

 愛国主義教育の子どもたちへの強要は、自民党の結党以来の“悲願”であるととともに、森内閣の直前に成立した国旗・国歌法の延長にあり、それをさらに一歩押し進めるものであった。そしてこうした流れは、今国会における教育基本法の改定案提出によって、一つのピークにまで達したのである。

 「ゆとり」路線とは一言でいって、“受験戦争”などに象徴される、“競争”を根底におくブルジョア教育に対する反省として、その対概念として導入され、実行されたのであったが、しかしこれもまた、いくらか違った形をとった、一種のブルジョア教育であることには変わりなかったのである。

 それは教育における“競争”という原則を否定し、なくしたのではなく、ただ“ゆとり”教育という空文句に隠れてそれを貫徹させたにすぎず、むしろ現実に行われているブルジョア教育に対する幻想を拡大する役割を果たしたのである。

 そして教育に導入された“競争”原理といったものは、本来の教育にとっては非本質的な(もしくは従属的で、些末な)契機であって、ただブルジョア教育においてのみ意義があり、“効果的”に見えるにすぎない。

 もちろん、教育における“競争”原理と“愛国主義”の原理は直接に調和するものではなく、一定の矛盾を有しているかに見える(他の一面では、両者は深く結びついている、というのは国家主義は確かに国内的には個人主義、利己主義を非難し、そのに反対であるかにふるまうし、ふるまうことができるが、しかし国際的には、つまり国家としては、徹底的に“競争”原理に立脚し、個人主義、利己主義的であれ、とわめくからである)、しかし当面、両者は“ゆとり”教育などの気の抜けた自由主義的発想に対抗し、その影響を弱め、後退させるという共通の目的と利益のために事実上結託したのである。

 そして今後ブルジョアジーが一層反動化していくなら、愛国主義、国家主義が優勢になり、“ゆとり”教育はおろか、ますます“競争”主義をも圧倒し、唯一の“教育”原理として自己を押し出してくるのは目に見えている(かつてそうだったように)。

 だが、“ゆとり”や“競争”といったものは言うまでもないが、愛国主義や国家主義さえも、本来の教育の課題とは無縁である。愛国主義、国家主義はそのえせ社会的な装いによって、教育の本質的課題に沿うものであるかに自らを見せ掛けるのであるが、しかし教育に負わされている本来の社会的な意義――次世代の子供たちを立派に社会の一員として成育させるという――を獲得することは決してできないのである。

 わたしは何回となく、この愛国主義、国家主義教育がもったえせ社会性を暴露し、それが結局個人主義、利己主義の恥ずべき“教育”であり、そこに帰着することを強調したし、せざるをえなかったが、この観念は、かつて太平洋戦争を曲がりなりにも経験した――といっても国民学校の低学年生としてではあったが――我々の世代が強く実感したことであり、戦争のあと、かの戦争を内的に総括した結論でもあった。

 愛国主義、国家主義はそれがどんなに表面的は個人主義や利己主義に反対しようが、結局は国家という名において個人主義、利己主義を主張するのである、つまり組織され、集団的な形をとった個人主義、利己主義にほかならないのである。愛国主義、国家主義を教育に導入するとは、つまり子どもたちに露骨でゆがんだ個人主義、利己主義を説き勧めるのと同様である。

 わたしはこの本の中でも、徹頭徹尾、現実の諸事件や諸過程を通して議論をしており、抽象的な理屈を避けているが、それは、現実の教育諸問題、諸過程から離れて一般的な議論をしても、そんなものは空虚なおしゃべりにすぎないからである。

 教育とは何であり、いかに行われるべきかという問題自身も、現実の教育の抱える問題や矛盾と無関係に、それから独立して存在するのではなく、それとともに、それを通して現れるのであって、現実の問題の議論や検討を抜きにして論じられても無意味に堕すだけである。

 「教育」とは本質的に何であるのか、そしてそれはいかにこの階級社会において現れるのか、という問いに対する答えは、この本の全体の中にあると言えるが、しかしいくらかでもまとまった観念としては、例えば、三五八頁の「『教育』が本来、後から来る世代を、社会に適応させるために、社会によって行われた一つの現実的、実践的な課題であり、そこに源を発しているという認識は、すでに自明のものであろう」に続く、二、三頁に展開されているので、それをここに紹介して、わたしの教育思想の根底を明らかにしておきたい。

「人類がいくらかでも社会的関係を発展させるようになるや否や、その社会つまり共同体(原始共産主義的社会)は、自らを存続させて行くために、後の世代に対し、その社会の諸生活条件を明らかにし、共同体の根底的な諸原理を確認させ、社会的生活に適応させ、順応させる必要があった、そしてこの課題は、共同体がいくらかでも社会的なものとして現われるや否や、共同体自身の課題として現われたのであって、個々の共同体成員や“家族”(つまり両親等々)の自然発生的な課題から、すでにその限りでは区別され、分離されたのである。
 社会に私有財産がなく、階級も存在しない限り、『教育』はまさにその本来の性格において、単純素朴な形で現われたのであり、そのことを理解するのは何ら困難なことではない。
 しかしいったん私有財産制度が発展し、階級支配が貫徹するようになるや、『教育』の意義もその性格も根本的に変化したし、せざるを得なかった、というのは、ここでの『社会』は支配階級の『社会』、そのための『社会』となったからであり、『教育』もまた支配階級のこの『社会』や彼らの権力や特権を維持し、永遠化するためのもの以外ではなくなったからである。
 もちろんこの場合でも、『教育』が後から来る世代を社会に適応させるための社会的機能であるということは、外面的には残ったが――それさえも無くしたら、『教育』は何ものでもない――、しかしその性格は全く違ったものになり、私有財産と階級支配のための教育、それを擁護し、正当化するための教育に転落し、ゆがめられたのであり、今もってそうである(というのは、現代の社会もまた、私有財産制と資本の支配が貫徹する社会、最も発展した階級社会、そして歴史的に最後の段階に達した階級社会だからである)。
 かくして、現代社会(階級社会)においては、子供たちを社会に適応させるという教育の本来の課題は、ただ教育が支配階級とその利益、その権力を擁護し、存続させるという、歴史的に規定された課題を立派に実行し、貫徹するかぎりで、ただその陰に隠れて、副次的に保証されているにすぎない。
 だから、現代の教育は本質的に矛盾した、限定された教育、ゆがんだ教育であり、またそうしたものしてのみ現実的である。それは次世代を社会に適応した者として育てるかもしれないが、それはまさにブルジョア的階級社会に適応したという意味において、つまり露骨な個人主義者、利己主義者として、であるかもしれないのである(『カネで買えないものはない』と豪語した、かの“ホリエモン”のような人間をいくらでも育て、生み出すというわけである)。
 現代の教育は、共同体社会に適応する人間を、つまり真実の意味で社会的であり、本来的に“共同体的”である、均整のとれた――心身共に――人間を生みだすためのものではないし、そんなものに決してなりえないのである(そうした教育は共同体社会においてのみ、つまり人類の遠い過去を別とするなら、近い―― もちろん、歴史的に言って、『近い』という意味だが――未来の社会主義社会においてのみ可能であり、現実的である)」(三五九頁)。

 もちろんわたしにとって根本的に重要なことは、単に「教育の本質」についておしゃべりすることではなく、現実のブルジョア的、反動的な「教育」政策やイデオロギーや実際的な“介入”――教育をゆがめ、荒廃させる――と闘うことこそ第一義的であって、つまりそれは、小泉内閣や石原都政やつくる会の悪党たちの策動を一貫して、徹底して暴露し、それを粉砕するように呼び掛けることであった。

 わたしのこの本がその課題にいくらかでも答えているとするなら、それはわたしの本懐とするところである。

(林 紘義)

『海つばめ』第1020号2006年7月2日


【目次】

第一章 教育基本法改悪案の出発点、森の「教育改革策動」

第二章 破綻する「ゆとり」教育の幻想

第三章 “朝令暮改”の文科省、「ゆとり」から「競争原理」へ

第四章 ペテンの検定制度と「つくる会」の教科書

第五章 歴史的評価なく詭弁とすりかえ
      ――つくる会教科書(06年)の具体的検証

第六章 日の丸・君が代の強制と石原都政の悪行の数々

第七章 憲法改悪の“露払い”、教基法改悪策動