林紘義氏の新著紹介
崩れゆく資本主義、「賃金奴隷制」の廃絶を
資本の無政府主義の横行闊歩  そして蔓延する国家の無政府主義

時宜に適した林氏の新著(『崩れゆく資本主義、「賃金奴隷制」の廃絶を』)
人類を破滅に導く危機
資本と国家の無政府主義を暴露

  林紘義氏の新しい著書『崩れゆく資本主義、「賃金奴隷制」の廃絶を――資本の無政府主義の横行闊歩、そして、蔓延する国家の無政府主義』が発刊された。

  世界恐慌という嵐が吹き荒れ、資本主義の矛盾がとうとう行き着くところまで行き着いて爆発せざるを得ない状態にまでなった今、この本が発刊されたことの意義は非常に大きいものがある。

  多くの人々がこの激動の時代に直面し、自分たちはどう生きなければならないのか、さらにはどこへ向かわねばならないのかを真剣に考え始めている。

  そうした人たちに、ぜひ本書を読んでいただきたい。

  恐慌とは何なのか、それは資本主義のもとではなぜ、いかにして必然なのか、今、世界中の国家が経済危機克服と称してありとあらゆる手段を講じて、まさになりふり構わない援助に乗り出しているが、これがどういった問題をはらんでいるのか、さらに労働者階級の、そして全人類の未来社会とはいかなるものなのか、等々の緊急で非常に重要な問題がこの本では論じられているのである。

  私は、以上の三つのテーマにそって論じ、林氏の本の意義を明らかにしてみたい。

◆林氏の恐慌の論じ方

  政府やブルジョア学者は「百年に一度の経済危機だ」とか「世界金融危機だ」と言って、なかなか恐慌が起こっていることを認めようとしない。

  1930年代以降恐慌は起こっておらず、すでに資本主義社会はその問題を克服したはずであり、起こってはならない、というのが多くのブルジョア達の考えなのであろう。
 
  しかし彼らにはお気の毒だが、現実に恐慌は起こっており、だからこそ、彼らブルジョア達も必死で、経済回復に向けてありとあらゆる手段を講じざるを得ないのである。
 
  また、一部のブルジョア学者の中には、もはやそんなことを言っている段階ではなく現状は恐慌と呼ぶ以外ないという者(例えば、浜矩子・同志社大学大学院教授)も現れ始めている。

  もちろん共産党も恐慌だとは言う。
 
  だが、問題は恐慌とはいったい何なのか、その原因は何かということである。
 
  今回の世界恐慌に対し、巷では、そもそも米国において、返済能力のない人にまでカネを貸すようなことをしたから破綻したのだとか、格付け会社が適切な格付けを行わなかったのでリスクを正確に把握することができなかったとか、そんなリスクの高い貸付を隠すような証券化商品を作り出したことが間違いだった等々、まさに目の前で破綻が起こってくるとその現象だけをみてあれこれ瑣末なことが語られている。
 
  確かに今回の恐慌の引き金となったのは、米国におけるサブプライム問題である。それ故に、これは、金融自由化をリードし、株主第一主義を追求してきた米国の経済運営の問題であり、米国さえ、行きすぎを止める“良識”を持っておればこうまではならなかったという声が聞かれる。

  G20においては、世界を代表する国の指導者たちからさえ同じようなことが公然と言われたのである。
 
  しかし問題は米国にだけあるわけでないことは明らかである。

  恐慌が起こる以前の世界経済を見ればわかるように、むしろ米国の“繁栄”――もちろんこれが虚構の繁栄であり、膨張した信用によって支えられた張りぼての繁栄に過ぎなかったことは今では誰もが認めるのだが――によって、日本や中国をはじめとする国々は大量な輸出が可能だったのであり、それによる好景気を享受してきたのである。

  もし米国が“良識”を持って縮小経済をやっていたなら、世界経済の繁栄もなかったし、それは別の形で世界経済を深刻な状況に追いやっていたか、あるいはそれから逃れるために別の形でのバブルを準備せずにはおられなかったであろう。
 
  当該の米国ですらこの繁栄が強固な岩盤の上に築かれているものでないことを十分知っていた。

  林氏の本でも紹介されているように、米国連邦準備理事会(FRB)議長であったグリーンスパンは96年当時から「根拠なき熱狂」を警告していた。

  つまり米国の経済の指導者も十分に“良識”は持っていたのであるが、その良識を生かしてこの虚構の“繁栄”を止めることはできなかったのである。
 
  02年11月6日、米連邦公開市場委員会(FOMC)が開かれ、ここでもグリーンスパンは「米国の異例の住宅ブームが、将来にわたって無限に続くことはあり得ない」と米国の住宅バブルに警告を発していたが、00年のITバブル崩壊に伴う世界的なデフレの影に脅え、政策金利をさらに0・5%引き下げて年率1・25%にすることを提案し、「過ちになるかもしれない。しかし動かないことで間違いを犯せば、かなり高い代償を払うことになる」と、実際にはバブルを拡大させる政策を取ったのである。

  この日のFOMCには、もうひとつ我々の関心を引く出来事が起こっている。当時、プリストン大学の経済学部長からFRB理事に抜擢されたばかりのバーナンキ(現FRB議長)は、若干のためらいを見せるグリーンスパンの背中を押すように、「FOMCはかれこれ一年間も忍耐強さを示してきた」と追加利下げを迫ったのである。
 
  バーナンキは大恐慌やデフレ研究の第一人者として名を知られており、その彼から、利下げを行わなかったために不況になってもいいのかと迫られると、グリーンスパンもまた、バブルを引き起こすという「過ちになるかもしれない」が、しかし世界的な不況を招くかもしれないという「高い代償を払うこと」よりも良いだろうと、バブル推進の道を選択し、より一層深刻な事態を準備したのである。

  バーナンキがいままたFRB議長として巨額な金をつぎ込んで恐慌対策に乗り出しているのを見ると、懲りない連中が、またもや傷を広げることを覚悟で「過ち」を繰り返していることを知るのである。
 
  一つのバブルが崩壊すると、次のバブルを準備しなければ経済が崩壊する。

  現代資本主義はそうしたジレンマの中で矛盾を拡大させていった。

  そしてついに、一国の経済だけでなく、全世界を巻き込んだ世界恐慌としてその姿を現さずにはいられないほどにまで深化させてきたのである。

  そしていまなお、何の反省もなく、同じ道を歩もうとしているのである。
 
  恐慌がなぜ起こるのかという理論的な問題については、これまでも多くの人がいろいろなことを論じてきた。その中で一番支配的な論調となっているのは、生産と消費の矛盾から恐慌を説くものである。
 
  共産党を代表する経済学者である林直道氏は、雑誌『経済』4月号で次のように述べている。
 
  「現在の日本の不況の大きな原因は、国内需要・国民の消費力を極度に押し下げておいて(非正規雇用の拡大、社会保障の切り下げ、減反などによる農業生産の圧縮、『三位一体改革』による地方財政の困窮化など)、アメリカのバブル経済的消費をあてに輸出拡大に依存するという、誤った経済基本戦略にあった。その結果、アメリカの輸入量が激減すれば、ストレートに自動車・電機など日本の基幹産業が強烈な打撃をくらったわけである。/したがって、この恐慌との闘いの根本は、内需抑制・強度輸出依存の基本構造をあらため、輸出の減少に耐えることができるように、国内需要育成、国民消費力増大の政策に全力を挙げることが根本となる」「《ルールある資本主義》が実現できれば、必ず恐慌の規模・震度をうんと小さくすることが可能となるにちがいない」
 
  つまり、今回の世界恐慌は米国のバブル経済に依存したことが問題であって、そうしたバブル依存の外需に頼らず、内需を拡大させれば問題は起こらないというのである。
 
  彼は『恐慌・不況の経済学』(2000年刊)という本でも同様のことを述べており、そこでは@行きすぎた設備投資に制限を加え、A投機をあおるような過大融資を規制し、B雇用拡大や賃上げによって社会の消費力を維持・上昇させることで、恐慌を完全に防ぐことはできないにしても、恐慌の勃発を遅らせ、恐慌の激しさを緩和し、恐慌からの脱却を早めることが可能となると主張している。
 
  (大資本の)生産を抑制し、(国民の)諸費を拡大すれば、「生産と消費の矛盾」は解消され、事実上、恐慌は起こらないと言っているのであり、ルールある資本主義よ永遠なれということでしかない。
 
  一方、ブルジョア達はバブルがはじけて需要が落ち込んだから不況になるのだとして、新たな需要を国家の財政支出のもとに創設しようとしている。

  ここでも恐慌の原因は需要不足であり、需要の拡大こそが唯一の解決策というわけである。
 
  しかし国家財政のばらまきによる“救済”は新たな、そして以前よりも大きなバブルを生みだしてきたことは、これまでの歴史が証明するところである。

  もしそれがバブルを形成できないとなれば、それはインフレとして現われ出ざるを得ず、ドルの暴落、世界インフレ、ブルジョア国家の崩壊ということに繋がらざるを得ないのである。
 
  浜矩子氏も『グローバル恐慌』の中で、恐慌について次のように述べている。
 

  「それは要するにひたすら利益最大化を求めて生産を拡大する供給側と、そうして造りだされたモノを吸収する能力におのずと限界がある需要側との間に生じるミスマッチである。このミスマッチが耐えがたいところまで来て『爆発』し、価格や雇用という経済活動の基盤部分に破壊的な力が襲いかかり、『最悪の経済状態』が現出するわけである」
 
  「生産と消費の矛盾」が恐慌の原因であるということは、今や自民党から共産党まで、ブルジョア経済学者からマルクス経済学者まで、皆がそろって承認するまでになっている(もちろん、ブルジョア側は「供給と需要のミスマッチ」という言い方をするのであるが)。

  この立場に立つ限り、恐慌の克服は消費の拡大、需要の拡大でしかありえない。

  なぜなら生産の縮小、供給の縮小はまさに恐慌を拡大することでしかないからである。

  だから彼はこぞって消費の拡大、需要の拡大を求めるのであり、消費者(国民)や企業がそれをできないというなら、国家が借金でも何でもして需要を作り出す事こそ第一に取り組まなければならない課題だ、となってくるのである。
 
  しかし恐慌の原因は、生産に対して消費つまり需要が少ないから起こるのではない(マルクスはこうした諸説を過少消費説として批判してきた)。
 
  この社会が必要とする生産物が意識的、計画的に生産されることなく、それぞれ独立した資本が自分たちの利益を求め、ただそのことだけを目的として無政府的な生産を行うため、そうした生産しかと行えない社会であるために過剰生産が生じるのである。この過剰生産こそが恐慌を引き起こすのである。
 
  林紘義氏はこの点について序章冒頭の論文で、「国民経済を構成するすべての『経済主体』――まさに何千万の――が自らの判断で、自らの利益獲得と拡大を動機に、“自己責任”で(つまり個人主義的、利己主義的に)行動するとき、いったい、ブルジョア社会はいかにして、過剰生産を、バブルを、恐慌を回避することができるのか。彼らがみな、心を入れかえて、自分自身のためにではなく、社会全体の利益や調和のことを考えて行動するなら、恐慌はあり得ないであろう、しかし実際には、資本主義のもとでは、そうしたことは決して起こり得ないのだから、バブルも恐慌も避けられないのである」と喝破している。
 
  したがって恐慌を克服しようとするなら、この社会が必要とする生産物をあらかじめ計画し、その計画にしたがった合目的的な生産が行える体制(社会主義社会)に作りかえる以外ないのである。
 
  生産力が発展し、社会に物があふれるほど作ることが可能だというのなら、必要な生産物をつくる労働時間は以前より短縮され、その残った時間を他の活動に移せるはずであるが、資本主義社会では繁栄のもとでは長時間労働(1、2年前の休日出勤や残業の過酷さを思い出せ)を強いられ、過剰生産が表面化すると今度は単なる労働時間の短縮ではなく、賃金カットや首切りといった自らの生存を脅かされる事態にまで追いやられるのである。
 
  林氏は抽象的、観念的なあれこれの「恐慌論」への批判をふまえ、しかしそれを直接に論じるのではなく、具体的、実際的に、説得的に恐慌を、その「必然性」を説いているのだが、それはまた、恐慌の本質は何か、それはなぜ、いかにして起ってくるのかをも語っているのである。

◆国家の無政府主義の危険
  
  この本で林氏が強調していることの一つは、資本の無政府主義に代って、あるいはそれとともに、いまや世界中のブルジョア国家による無政府主義がはびこってきたこと、それが人類の近い将来に大きな災いをもたらそうとしていること、である。

  資本の無政府的な生産が過剰生産を招き、やがてその矛盾は恐慌として爆発し、過剰な生産手段を淘汰するという形で再出発を図ってきた。資本主義社会はこうしたことを繰り返してきた。

  しかし他方では、ブルジョア達は何とかして恐慌の深化を食い止めようと、財政支出による救済を幾度となくやってきた。

  それにもかかわらず(本当はそうした財政のバラまきによっていっそう大きな爆発の可能性が膨らんでいたからであるが)、ついに世界恐慌は勃発した。

  そしてその恐慌に恐れをなしたブルジョア達は、不良債権を買え、下落した株を買い支えろ、株や社債を買って資本注入しろ、そのために国債はいくら発行してもかまわない、買い手が見つからないなら中央銀行に引き受けさせろ、いっそのこと直接政府紙幣を発行したらどうか、等々、将来のことなどまったくお構いなしの何でもありの救済を求めるまでになっている。
 
  林氏はこの現状を「タガのはずれた国家の“救済策”」として次のように述べている。
 
  「国家が無責任に、無秩序に、『できること』をやれというのだが、その根底は、勝手に『通貨』をつくりだし――まるで貨幣悪鋳にせいを出した西洋の絶対主義国家や江戸幕府のように――、それを無秩序に、無制限に経済と流通の中に投げ込めというのだから、こんなものは、バブルや恐慌をもたらした個々の企業の無政府主義に代わるに、国家の無政府主義を持ってくることでしかない」
 
  まさに今、世界中のブルジョア国家で行われていることはこうした資本の無政府主義的な生産がもたらした恐慌に対して、それを取り繕おうと国家の無政府主義が蔓延していることなのである。
 
  また、林氏は、「諸企業の(資本の)無政府主義がバブルであり、恐慌だったとするなら、国家の無政府主義は国民に、労働者に何をもたらすのであろうか、それが問題である!」と警告を発している。
 
  新興国が野放図な経済運営に行き詰まり破綻したのとは違い、曲がりなりにも“基軸通貨国”と言われる米国――まさに自制こそが求められる――が、そして先進国である日本が、欧州各国が、さらには経済発展を誇る中国さえもが、つまり世界中の国という国が無政府主義に奔走し、それが蔓延しているということは、世界資本主義が救いがたいところまで来ていることの現れであるが、そのことは同時に、第二次大戦以降今日まで続いてきた世界の資本主義体制の再編(もう、すでにソ連圏は崩壊し、変化してきてはいるのだが)、そしてそれをめぐる国家間の争いが激化する時代を迎えたということであろう。

  ドル体制の崩壊、世界的なインフレ、国家間の対立,そうしたものが労働者階級にこれまでにない災いをもたらすのか、それともその前に、労働者階級が立ち上がり、新しい社会を勝ち取るのか、そうした激動の時代はすでに始まっている。

◆労働者の勝ち取るべき未来

  本書の最後に論じられている問題も極めて重要であり、注目されるべきものである。問題は資本主義社会の次に来るべき社会主義社会とはどのような社会なのであろうか、ということである。
 
  社会主義と言えば、かつてのソ連・東欧や中国を思い浮かべる方が多いかもしれない。しかしこうした社会は、資本主義国と同じように商品生産を行っていたし、今も中国においてはそうである。

  ただこうした国々が自由主義的な資本主義国とちがうのは、資本を国家に集中し、国家官僚らが資本家の役割を果たして生産活動を行っているということである(最近の中国では民営化が進み、自由主義的な資本主義国により近づいているが)。
 
  したがって、計画経済といっても、それは社会の全成員が参加して決めているのではなく、官僚や企業長たちが国家を維持していくために計画を立てるのであり、商品生産社会である以上、商品が市場に出回って初めてそれが社会的に必要なものであるかが事後的に確認される社会である。

  だから、実際に国民が必要としているものではないのに、どんどん生産され、廃棄されるまで山のように放置されるとか、実際に必要なものが不足しているとかいったことが生じるのである。
 
  こうした社会は正確には国家資本主義の社会と呼ばれるべきものであったのだが、スターリン主義者である共産党などによって何十年もの間、社会主義社会だとごまかされて来たのである。
 
  あらかじめ社会に必要な物資が計画的に合目的的に生産されるなら、生産物は商品という形態をとる必要はないのであり、社会主義社会は商品社会といったものとはまったく違う社会なのである。
 
  林紘義氏の著書では、第八章「階級的闘いを貫徹し資本の支配の一掃を――『賃労働』を廃絶し、『全成員労働制』を実行せよ」において、労働者が目指し、勝ち取るべき近未来の社会、社会主義社会について、そのイメージを明示している。
 
  それは、労働可能な社会の成員は、全成員が労働に従事する「全成員労働制」の社会であり、「一日、社会の成員が六時間労働に従事するとするなら、そのうちの三時間は必ず生産的労働にたずさわらなくてはならない社会である。残りの三時間の仕事もまた“義務的”であるが、しかし、この『仕事』は生産的な労働ではなく、社会の管理とか教育とか医療、介護等々である。場合によっては、ここに“研究的”活動、技術開発的な活動も含まれ得るだろう。/もちろんこの六時間というのは、一例としてあげているにすぎないのであって、労働の生産力が高まり、また社会的な労働が合理的に、そして効率的に再組織されるなら――どうして、そうされないわけがあろうか――そして一切の寄生的人口が一掃されるなら、この労働時間は五時間にも、四時間にも容易に短縮されていくであろう」というものである。
 
  最初から計画的に必要な量だけを生産するなら、労働時間は大幅に短縮され、もちろん過剰生産など存在しない。無駄な資源の浪費も無くなり、資本のもとでエコが言われていることが笑い話に見えてくる。

  労働者は不況や失業の不安から解放され、生活を送るのに必要な物資は確実に確保されるのである。

  労働時間が短くなれば、残りの時間をスポーツや芸術などにもあてることができ、今まで以上に新しい文化が開花することは間違いない。
 
  こうした夢を、しかも実現可能な夢を我々は思い描くことができるのである。

  そしてこの夢を実現するために闘うことが必然であることを自覚できるのである。
 
  私はこの章を読んで、かつてレーニンが日和見主義では資本の支配と最後まで闘うことができないと言ったことを思い出した。

  共産党はルールある資本主義を求めて闘っているのであるが、どうして労働者が搾取と抑圧の資本主義体制の延命を求められるであろうか。

  こんな闘いに夢も何もないことは歴然ではないのか。

  また、共産党は将来的には社会主義社会だというのであるが、それはどのような社会主義なのか。

  彼らはソ連が崩壊するまではソ連が社会主義だといい、それが崩壊してからも、中国が社会主義だと公言している。そして彼らは中国を見習ってか、市場経済を生かした社会主義といったものを主張している。
 
  市場経済とは商品生産社会であり、その商品が市場に出て初めて事後的に社会的に必要なものであるかどうかが判断されるような社会である。

  当然それは恐慌も避けられない社会であり、共産党が目指す社会主義とはこうしたインチキな代物――社会主義に似て、実は全く非なるもの、実際にはその反対の、ブルジョア的社会、ブルジョア的生産関係――でしかないのである。
 
  林氏の示す「社会主義」像は、ある意味ではその最も本質的な側面であるにすぎない。

  しかしそこには、例えば一部のプチブル左翼の中で流行している「アソシエーション論」などとは本質的にちがった、まさにマルクス主義の「労働価値説」と深い関連のある、“科学的な”社会主義の、その根底的な人間関係のイメージが示されているのである。

(平岡正行)

『海つばめ』1093号2009年4月19日


【目 次】
  始めに
  序 章 世界恐慌の勃発とその必然性
           いかにそれは準備されて来たか、またいかに展開されたか
  第一章“株式”資本主義の横行とその「論理」
         虚妄性を暴露する「資本主義の最高の発展段階」
  第二章“株式”資本主義の“暴走”と堀江、村上“現象”
         現代のブルジョアの“典型”か、それともピエロ的あだ花か
  第三章 日本版“新”自由主義とその結末
       “竜頭”さえなかった小泉の「構造改革」路線
  第四章“金融重視”政策のとどのつまり
       「ゼロ金利」や「金融の量的緩和」は“過剰信用”を助長し、世界的な金融恐慌を準備した
  第五章 銀行救済と「公的資金の投入」
         国家と日銀の政策は「何でもあり」に
  第六章 歯止めなき財政膨張と近づく国家破産
         破綻した小泉の「財政再建」と“バラまき”政治への回帰
  第七章“グローバリズム”と労働者階級
       “文明社会”の中で“奴隷化”と窮乏化
   第八章 階級的闘いを貫徹し資本の支配の一掃を
       「賃労働」を廃絶し、「全成員労働制」を実行せよ