セミナー報告者から一言
最高に楽しく、
最高に興味深いセミナーのために

 

 セミナーの講師として、セミナーの意味や焦点などについて書いてほしいと依頼されました。

 そんなわけで、講義で予定しているテーマの中から、中心的な2つの問題を、紙面の許す限り、語らせてもらいます。

 その一つには、何と言っても「商品」の矛盾の根底を暴露する、商品の「物神的」(「呪物的」)性格についてと、またもう一つは、商品価値の研究は、最終的には、社会主義における分配法則――もちろん消費手段の、です――の解明につながらなくてはならないという、私の長年にわたる思いと関連したものです、つまりそれはいかなる形でなされるか、その法則はどんなものかという、大変な問題です。

 ◆商品の“物神性”とは?

 まず1番目の問題ですが、私も出席している、阿佐ヶ谷の「資本論を読む会」で経験した論争から始めたいと思います。

 問題になったのは、『資本論』の冒頭の冒頭とも言える、商品の「交換価値」とは何であり、またそれをいかに考えるかということでした。たったこれだけのことなのに、議論をしていると、何と1、2時間はすぐに過ぎ去り、時間が足りないくらいでした。

 交換価値とは何かという問いに対しては、「価値の本質である」といった、公式通り、教科書通りの解答もありましたが、もちろんそれでは満点は取れません。“正しい”答は、『資本論』にあるように、x量の商品A=y量の商品Bというものです、つまり具体的にいえば、上衣1着=10キロの鉄に値する関係です(まさに、「そのまんま」です)。別の言葉でいえば、2つの商品(使用価値)の量的関係である、ということです。

 阿佐ヶ谷学習会で激しい議論となったのは、こうした「交換価値」は、そうした形で「現れる」のか、それともそのように「見える」のかというものでした。定年後、苦労して英文から『資本論』1部(1巻)を日本語に訳した、大変な努力家のMさんは、ここは「見える」と訳すしかないと力説し、私などは、意味からいっても「現れる」であり、ドイツ語は「エアシャイデン」であって、「現れる」となっていると主張して譲りませんでした。英語はプレゼント・イットセルフであるということでしたが、これはやはり「現れる」という訳がふさわしいのではないでしょうか。

 Mさんは、「現れる」と訳すから問題はややこしくなり、理解しがたくなる、「見える」とすれば非常に分かりやすいと強調し、頑張りました。Mさんの理解によれば、交換価値の本質は「労働」であり、交換価値の等値関係は、両項が労働時間として等しいということを示しているのであり、交換価値は単にそう見えているだけの仮象だ、「見える」と訳せば、非常に分かりやすい話になる、という論理でした。

 確かに交換価値の関係は、両辺が等しい限り、「対象化された」労働が等しいということを表しており、交換価値――使用価値の交換比率――は「見えているだけ」というのは、その通りで、だからMさんのように答を知っている人は、単に見えているだけだと簡単に結論を下すのですが、しかし結論をまだ知らない人が見たら、奇妙きてれつで、理解しがたい現象なのです、というのは、モノとしての上衣と鉄には、等しいと置かれる、どんな共通点もないからです。

 重さがあるではないかといわれても、この等式は重さが等しいとはなっていませんし、仮に両商品の重さがたまたま等しくなったとしても、そんな等式には重さがたまたま等しいということ以外、何の意味もないからです。

 だからこの2つの商品の等式関係を見た人には、「見える」も何も、それ以前に、等式関係自体が奇妙で、理解しがたいものとして「現れている」のです。

 そして重要なことは、この二つの商品と等値の関係は、商品の本質的関係として、常に、一般的に見られる、現実の“実在的な”関係であって、単に「見える」だけの関係ではないのです。

 同じことではないのかといわれますが、商品の交換関係で「見える関係」と、ただ「見える」だけの関係の違いをどう説明するかを懸命に考えていて、私は一つの川柳を思い出しました。

 「幽霊の正体“見たり”枯れ尾花」

 これは臆病者が、あるいは夜びくびくして歩いている人が、枯れ尾花(枯れススキのこと)を見ると、幽霊に見えたという意味ですが、交換価値が奇妙な関係として「見える」ということと違うのは一目瞭然です。交換価値にあっては、2商品の交換価値がモノの交換関係という、奇妙な関係として現実に現象しているからこそ、そんな奇妙な関係に「見える」のですが、ススキが幽霊として「見える」というのは単なる勘違いであって、そこにはどんな不可思議なこともないのです。

 ススキの場合はススキと分かれば、単なる幻影であったということで解決するのですが、商品の交換価値は、モノの交換比率として「見える」ことによっては、その奇妙さは解消しないのです、むしろ反対にますます深まるのです、というのは、この関係の奇妙さは現存している、モノの現実的関係で、その関係自体が奇妙な関係として「現れている」からです。

 だから、我々が仮に交換価値の真実を理解したとしても、ススキの場合の幽霊と違って、交換価値の関係は不可解な現実として、依然として存在し続けるのです。

 そしてこのことは、商品と商品生産社会の――その限りでの「市場経済」の――深い矛盾を、「労働の疎外」の根底を、その歴史的な限界を表し、それと関係しているのです。

 私たちは、商品の交換価値を研究し、そのモノの関係として現れている背後にある、本当の関係とその内容を知ることによってのみ、初めて、この奇妙な関係の意味と真実に到達できるのですが、このモノの関係を、モノの関係としてしか見られない人は、その現象にとらわれ、この関係をモノの関係としてのみ受け取り、あれこれの観念に、つまり妄想ともいえる観念にとらわれるのです、例えば、商品の使用価値こそが、この等式を規定するのである、等々といった妄想、全くの不合理な妄想です。

 そしてマルクスは、こうした妄想――ブルジョアたちが、普通にとらわれる妄想――を物神崇拝意識と名付けたのです。

 だから、交換価値は「現れる」のか「見える」のかという対立は、些細な、どうでもいいことに見えるかもしれませんが、商品とその価値を検討し、その真実に接近するには極めて重要なことであり、その理解において正反対の結論にさえ到達しかねないのです。

 ◆社会主義の「分配法則」とは?

 そしてもう一つの「商品」価値と関係し、非常に興味を引き、重大でもある問題は、商品価値の検討とその真実への到達は、社会主義社会における分配法則の解明にまで至らなくては決して終わらないし、またそこに至って初めて完結するということです。

 私は二十歳前後に、「労働価値説」の真実にとらわれて以来ずっと、もし商品の価値が労働であり、従って社会主義における分配も価値の規定によって行われるとするなら、それはいかにして、直接的な労働相互の関係として行われるのか、あるいは、そもそも商品の価値(価格)が労働だとするなら、価格表現で表されている労働時間はいかにして直接に労働(時間)として表現されるのか、ということを疑問に思い、考えてきましたが、全く答を見出すことができませんでした。

 マルクスは色々なところで――『資本論』冒頭の「商品」論においてさえ――、社会主義の分配は、「価値法則」そのものではないとしても、その一部でもある、商品の「価値規定(の内容)」によってなされる――少なくとも、それが重要な意義を持つ――と強調しています。

 そして我々は、ソ連邦とソ連共産党の解体の時期、つまり丁度25年前の1990年頃、共産党(スターリン主義者たち)が、社会主義における消費手段の分配は労働時間によって行われることはできないのであって、「市場経済の法則」(需給の“法則”といったようなこと)によってなされ得るだけだと強調するのに反対して、それはできるし、それを実現しないなら、社会主義は決して社会主義の名に値しないと反撃しましたが、しかし実際に、社会主義おける「分配法則」を発見し、その概念を示すことがずっとできませんでした。

 そしてそれ以来、私たちは、それを見つけ出し、定式化するために、議論を重ね、一歩一歩前進してきました。

 例えばこの間、我々は、「有用的労働による過去の労働(資本価値、と言っても同様ですが)の移転」という観念について、その賛否をめぐって“激しく”論争してきました。この理論もまた解決しない限り、社会主義における分配法則の解明、発見に近づくことは決してできなかったからです。

 『プロメテウス』55・56合併号にまとめられた、我々の議論は大きな前進であり、偉大な成果でしたが、それでもこの問題に最終的な決着をつけ、合理的な解決に到達することができませんでした。

 これ以上を言うと、せっかくのセミナーの議論が台無しになるので、せめて近く発表される、セミナー文書まで“種明かし”は譲らせていただくことにしますが、我々は今や、この問題に決着を付けるべき時が来たと思います。

 ブルジョアやプチブルの理論的代表たちは当然としても、マルクスもこの課題については、抽象的な一般論を言っているだけであり、また共産党はスターリン以来、社会主義は労働の解放とともにあるという観念から無縁で、社会主義もまた商品経済=市場経済の法則(需給の“法則”等々)によって支配され、運動する以外ないという観点に立ってきたのであって、広い世界の中でも、ただ我々だけが社会主義における分配法則という理論問題の解決を執拗に、長年にわたって追い求めてきました。我々だけが、この法則の発見に至ったとするなら、それは当然の結果にすぎません。

 さて読者の皆さん、これは途方もない大ぼらか、はったりか、誇大妄想狂か、はたまた、我々のみがなし得る、「価値の理論」(「商品」の“価値”とは、その実体(内容)とは「労働」であり、その大きさとは労働時間である等々)にのっとった、その延長線上にのみ可能な、真実の「社会主義の分配法則」の提示か、ただそのことを確認するためだけでも、今回のセミナーは、こぞって出席し、議論に参加してみる価値のある、興味尽きないものではないでしょうか。

 (林 紘義)