「移転論」は社会主義の分配法則に無用

「喜びをもって自由に働き、必要に応じて取る」社会のために

 首都圏セミナーでは私の報告に対していくつかの異議や疑問や批判的な見解が示されました。そのうちでも首都圏セミナーでは余り議論されなかった問題について紹介し、また論じて、関西セミナーにおける議論が一層深化されることを期待します。 (林 紘義)

◆資本価値(過去の労働)移転論では社会主義の分配法則は解明できない

 この問題については、一貫してその観念と重要性を主張して来た森さんからは、文書も出され議論になりました。

 この概念は必ずしも社会主義における分配法則とは直接に関係するものではないかもしれませんが、しかしその根底となる価値法則もしくは価値規定の概念とは関係して来るのであって、その意味で「過去の労働」とその移転という概念をめぐる議論は、セミナーにおいて決してどうでもいいものではなかったと思います。

 社会主義における分配法則は『資本論』冒頭における商品論(価値の理論)と、第2巻における再生産表式つまり資本の総流通と再生産の理論によって説明され得るのであって、「過去の労働」やその移転の理論によって媒介される必要はありません。

 従って問題は、社会主義における分配法則の解明や説明のためには、その理論が何ら意味を持たないばかりか、いくつかの点で矛盾と解き難い混乱をもたらすだけであり、むしろ有害だということにあるのです。

 その理論の第一の矛盾は、資本の総流通と再生産の表式が示すように、使用価値の生産の面ではともかく、価値の生産の面での計算の二重性という困難をもたらすことです。つまり年々の全体の労働者の労働に、生産手段部分に「移転されて来た」過去の労働が加わるために、生産手段部分の価値が2倍の価値として表わされてしまいます。

 つまり、「生きた労働」は消費手段(生活手段)とその価値を生産する労働ですが、同時に生産手段の使用価値も生産するが、その「価値」の方は生産しないという、奇妙な労働として現象することになります。

 しかし現実の労働は使用価値を生産すると共に、価値もまた生産することによってのみ人間の労働として実在的ですから――また価値理論もそうしたものとして、労働価値の理論ですから――、こうした仮定は商品価値や資本の総流通と再生産の理論では荒唐無稽のものとして現れ、従って理論的、実際的に退けられるしかありません。

 もし消費手段を生産する労働を「生きた労働」とし、他方生産手段を生産する労働を「過去の労働」つまり「死んだ労働」だとするなら、過半を占める、生産手段を生産する労働者が現実社会から一掃されることになるしかありません。

 セミナーでは、「過去の労働」とは昨年の労働だと説明されましたが、その昨年の労働も次々と移転してきたのだというのですから、昨年の労働だなどというのは矛盾であって、永遠の昔からの労働、延々と「移転」されてきた労働、首都圏セミナーでも誰か――市民主義系の諸君? 共産党系の諸君?――が言っていたように、「資本の原始的な蓄積」以来の労働、つまり資本の永遠の原罪といった、おかしな問題になるしかありません。

 昨年に商品価値として対象化された労働だ、そして今年の同じ労働が来年の総生産の中で「過去の労働」として現れるということだというなら、それは我々が言ってきたように、問題は「過去の労働」とか「生きた労働」とかではなくて、今年の総労働の分割の問題、つまり分業の問題であるということに帰着します。「過去の労働」に固執することによって、我々は総資本の流通と再生産についてどんなまともな観念に到達することはできず、単に袋小路に陥るだけです。

 そもそもマルクスの搾取の説明は、個別資本の1回(1日)の回転によって成されているのですから、仮に「過去の労働」やその「移転」について語り得るとしても、昨年の労働であると言うことはできません。せいぜい、「前回の」資本の回転による「過去の労働」について語り得るだけですが、しかし前回の資本の回転時の「過去の労働」と、前年の「過去の労働」とはすでにちがった概念ではないですか。

 つまり「過去の労働」の、つまり資本価値の移転論に立って総生産を考えると、抜き差しならない論理的な矛盾と困難に直面せざるを得ないということです。

 例えば、第Ⅰ部門(生産手段生産部門)では、そこで働く労働者は交換価値のすべてを年々生産しますが、価値としては消費手段部分だけを生み出すというのです、あるいは仮に使用価値のすべてとともに価値も生み出すというなら、過去の労働(移転されてきた価値)との二重計算になるしかありません。こうした理論的な困難は、第Ⅱ部門においても同様でしょう。

 あるいは、第Ⅰ部門の消費手段部分の労働(労働生産物)――表式では40――と、第Ⅱ部門の生産手段分の労働(生産物)――次頁の表式ではやはり40――は交換されなくてはなりませんが――社会主義では、第Ⅰ部門の労働者が、第Ⅱ部門の労働者の生産した消費手段の40に対して分配の権利を持つ、ということです――、しかし第Ⅰ部門と第Ⅱ部門の労働の関係は奇妙なものになります、つまり第Ⅱ部門の「死んだ労働」と第Ⅰ部門の「生きた労働」の関係ということになります。

 社会主義における分配法則では、第Ⅰ部門の「消費手段分」の40は、第Ⅱ部門の「生産手段分」40と“素材的に”交換され、置き換えられなくてはなりません――つまり、第Ⅰ部門と第Ⅱ部門において支出された労働における社会的な相互関係です――が、その場合、移転論者によれば、第Ⅱ部門の40は「過去の労働」であり、第Ⅰ部門の40は「現在の労働」ということになります、つまり過去の死んだ労働と、現在の生きた労働の相互関係ということになりますが、それでいいのでしょうか、これはまさに小説や怪奇物語の領域に属することであって、社会科学にかかわることでありません。

 最近、日本経済新聞紙上で、宮部みゆきの小説が連載されましたが、そこで、冥界つまり死んだ人の世界と、俗界つまり生きている人の世界に「通路」が開けて、生きている人たちの死んだ人たちへの想いと、死んだ人たちの生きている人たちへの想いが、魂が、交叉し、交わるという物語が語られましたが――この連載自体は、まだ終わっていません――、怪奇小説ならともかく、現実の世界で、「過去の労働」と「生きた労働」が関係するという話はどうかと思います。そんな非合理な話は小説の中だけにした方がいいのです。

 森さんは、価値移転論をなおも擁護しつつ、林の分配法則はこれでいいといった発言をしました。森さんの社会主義における分配法則はいいと思うという発言は大変うれしく、心強いものがありますが、しかし私は価値移転論に立ちながら、資本の総流通と再生産について、従ってまた社会主義における分配法則について語ることはできないと思います。

 セミナーでは、森さんは林に対して、マルクスのいう「生産物価値」と、「価値生産物」の概念の違いを問いただしました。林はそれが何のためか理解できないままに、「生産物価値」とは年々の総生産物の価値であり、「価値生産物」とは消費手段の価値である――つまり前者は年々の生産手段と消費手段のために支出された総労働の量であり、後者はただ消費手段のために支出された労働の量である――と答えると、森さんはそれ以上、追及するのを止めましたが、おそらく、前者は「過去の労働」(移転された価値、資本価値)と「生きた労働」の和であり、後者はただ「生きた労働」だけの概念であり、だからこそそれはスミス批判のための概念として重要であり、マルクスが大いに強調したのだと言いたかったのかもしれません。

 私はかつて「価値移転論者」から、「過去の労働」を無視して議論しており、スミスと同じ間違いに陥っていると批判されましたが、しかし生産手段の「価値」を無視しているのではなく、私は、それは「移転された」価値ではなく、年々の新たな使用価値とともに、新たな「価値」として再生産されたものだと主張したのですから、これはそれを「無視している」ということとは全く別です。

 むしろ森さんこそ、生産手段とその価値を生産する労働を現実的な労働から追放することによって、つまり「生きた労働」の成果として、消費手段の価値だけを、つまり「生産物価値」をではなく「価値生産物」だけを問題にする限りでは、スミスと同じ間違いに陥っているともいえます。

 移転論者こそ、生産手段を生産する現実の労働――有用的であるとともに、抽象的な人間労働――を「無視する」ことによって、労働価値説を意味不明の無概念におとしめるとともに、生産手段の価値を「移転された」価値だと主張することによって、総資本の――従って社会全体の――再生産に解決不能の理論的な混沌をもたらすだけではなく、社会主義の分配法則の解明を混沌とさせ、迷路に迷いこませるような、途方もない不合理を口にしているように見えます。

◆生産手段がなければ消費手段もないというのは正しいか

 議論の中で、「時系列的に見れば、生産手段がなければ消費手段もない(作られない)」と主張し、生産手段の“優越性”を認める見解を提出する人もありました。

 確かにブルジョア経済学は同じ観念を、「資本主義とは“迂回生産”である」という理論として提出しています。

 しかし生産手段がなくては消費手段がないというなら、同じ意味で、消費手段がなければ生産手段もないといえます、というのは、生産物を生産するのは労働者ですが、労働者がそうするためにはまず労働力が再生産されていることが前提されなくてはならないのであり、そのためには消費手段が生産されていなくてはなりません。実際に資本は生産を継続するためには、その前提としては、常に不変資本(生産手段)だけでなく、可変資本(消費手段)もまた保有していなくてはなりません。

 ブルジョア的生産では、何か生産手段が優先的であり、そんな権利を持つかに表象されるのは、ブルジョアにとっては生産手段こそが――その中でも固定資本こそが――最も特徴的な資本、資本の概念に最も適応した資本として現象するからであって、生産手段優先の思想、「迂回生産」の理屈は、そんなブルジョアの矮小な俗流意識の一つなのです。

 そしてそうした意識は、「過去の労働」の、つまり資本価値の移転論理として現象するのです。

 しかし我々が現実で見ていることは、生産手段と消費手段は分業によって、“同時並行的に”(つまり“時系列的に”ではなく)実際に行われていて、どちらが先行するとか、優位にあるとか――理論的、実際的――いったことではありません。労働者にとっては、このことは自明です、というのは生産手段を生産する労働も、消費手段を生産する労働も、みな自分の労働が社会的総労働の一環として、抽象的な人間労働として、同質であり、平等であり、対等だということを容易に自覚しているから、自覚せざるを得ないからです(社会的な総労働の一環としての、個々人の労働に、差別はないし、あるはずもないのです。違いはただ労働時間に、その長さにあるだけです)。

◆斉藤さんの理屈と産業連関表

 また斉藤さんの提起した問題についても、何の議論も行われなかったのですが、その理論も問題でした、というのは、それがいくらか内容のある問題を提出したのではなく、「価値規定の内容」について語りながら、問題を何一つ理解していなかったばかりか、ブルジョア的な観点――産業連関表といった、まさに物神性にとらわれたえせ理論――によって、社会主義の分配法則が明らかになるといった妄想に取りつかれ、無意味で無内容なおしゃべりと空論の泥沼に落ち込んで行くものだったからです。我々はこのことを、2012年のセミナーにおいてすでに共通の認識として確認しています。

 産業連関表の観念は、スターリン主義体制――国家資本主義体制――のイデオロギーとして生まれ、アメリカに渡って国家独占資本主義の公認のイデオロギーとして採用され、現在の国内総所得(国内総生産)概念の根底をなす俗論として世界的な権威を持っていますが、ブルジョア社会の経済の総体を疎外された形で、つまり物神性のままでとらえ、それで国民経済の総生産と総消費を理解したと思い込んでいるだけのものです。

 結局それは、価格もしくは費用価格を、価格もしくは費用価格によって規定するという、永遠の循環論証になるしかなく、商品の「価値」について、したがってまた「価値規定」や社会主義における分配法則についても、何ものをも明らかにするものでもなく、またできるものでもありません。

 だから斉藤さんの複雑怪奇で、理解不能な代数方程式も、それを支える観念も全く恣意的なものであって、概念も概念的思考も何もありません。無概念の数字と計算があるだけです。斉藤さんは、問題は計算ではなく、それ以前に概念であることを反省すべきです。概念のないところで、どんな計算をしても無意味な数の行列と空論が続くだけです。斉藤さんが提起されている課題――社会主義における分配法則――について、いくらかでも結論と呼べるようなものを何一つ示すことができなかったのは特徴的です。

 産業連関表によって、それを「利用する」ことで、社会主義の分配法則を明らかにすることなどできるはずもないのです。産業連関表では、対象が最初から物神性のままで扱われているのであって、ブルジョア社会の生産や消費や「産業連関」についての形式的で、物神的な形における関係を示すだけだからです。問題の根底が生産的総労働の相互的関係である、という本質的なことが全く理解されていないのです。斉藤さんは根本から間違っています。

 そもそも「産業連関表」とは、1920年代、スターリン主義時代の初期、ソ連でレオンチェフが発案したものですが、ネップの時代を背景に、産業部門間の「投入産出額」の関係を一覧表にしたものであり、その後、彼がアメリカに亡命し、“経済学的な”粉飾を施して“体系的な”理論に仕上げたものです。

 そんなものが、第二次世界大戦後、ケインズ主義の流行と結びつき、アメリカの“官許経済学の”根底的なイデオロギーとして、現代資本主義を“管理”する――できる――という幻想や、「国民経済計算」とか、「国内総所得」や「国内総生産」等のイデオロギーと結びついた理論として取り入れられ、現代のブルジョアたちの流行の観念となり、流布し、もてはやされてきたものです(いまも安倍らが、「GDP」(国内総生産)を500兆円から600兆円に増やす云々として、国民全体をペテンにかけ、幻想で釣ろうとして愛好している観念、その根底にある理論の一つです)。

 産業連関表はそのものとしては、資本主義的流通に現れた限りでの総商品(総商品資本)を、その物質代謝を、モノ(使用価値としての商品)と、価値の形態、つまり物神化された形態で表示し、関係づけようというものですが、その場合でも、個別資本の単純な総計として示すことしかできず、つまり総資本の再生産と流通というケネー的、マルクス主義的視点さえ欠いており、その結果、「投入産出」といった無概念的な関係として示すことしかできていません。

 一方では、素材(使用価値としての商品)の流通(相互関係)があり、他方で、価値の形態における商品の関係があるのですが、後者は、モノの形を取った、人間労働の関係ですが、それを価値の形態(つまり、もう一つの、やはりモノの関係)としたのでは、何のことか、問題はまるでわけの分からないものに、つまらない同義反復に行き着くしかありません。

 ここでは、社会的に支出される労働者の労働や労働時間の関係(価値関係等)は問題にもされていないのです。モノとしての表面的、現象的な関係としての、資本の総生産と総流通(産業連関表等々)といったものは無概念と混沌そのものであるばかりではありません、そんなものによって、資本主義社会の真実はもちろん、社会主義の分配法則など明らかにされるはずもないのです。

 しかも、そうしたケインズ主義的なブルジョア観念は、年々の総生産物の価値(「生産物価値」)は、結局は国内総所得(「価値生産物」)に帰着し、還元されるというあのスミスの幻想にとらわれているのですから――ある商品の価値は、そのものとしては、生産手段の価値と、消費手段の価値の合計として示されるとしても、その生産手段の価値はまたそれを生産した生産手段と消費手段の価値に分解され、かくして結局はすべてが消費手段の価値に、つまり「所得」に帰着し、解消されるといった観念――、ブルジョア的に見ても支離滅裂で、その結果、現代ブルジョアの国内総生産や国内総所得などの観念は混乱そのものです。

 我々がすでに、ブルジョアのGDPの観念の批判的検討で明らかにしてきたように、国内総所得と言いながら、こっそり資本部分(生産手段部分)を所得の一部に繰り入れたり(例えば、総生産から「固定資本」を除外しておいて、それを「所得」として、「減価償却」といった名称で密導入する等々)、概念的にめちゃくちゃで、とうていまともな経済観念や指標とはいえないのです。ケインズ主義に代表され、象徴される現代のブルジョア経済学がどんなに頽廃し、空虚なものに堕しているかの根底的な批判的観点を欠いて、そんなものに追随するのは決して許されることではありません(例えば、ケインズ主義の最低の俗悪理論である「乗数理論」と、産業連関表がどんなに深い親近性を持っているかは一目瞭然です)。

◆共産主義の合言葉を魅力的で、共産主義の内容をすっきり表わすものにしたらどうでしょうか

 最後にもう一つ、私はセミナーで、共産主義を象徴するスローガンについても発言しました。

 共産主義のスローガンとして、マルクスもレーニンも、「能力に応じて働き、必要に応じて取る」を掲げてます。

 しかしある人と話していたとき、彼はこのスローガンはいいと言うのですが、しかしその理由は私が思っていたこととはだいぶ違っていました。私が社会主義(最初の段階の共産主義)と高度の共産主義との間に「万里の長城はない」と書いたことと関連してか、彼は一般的に――従って今のブルジョア社会でも――そんなことはあり得るといった理屈を述べ始めました。そんなことがあって、私はこのスローガンは共産主義のイメージを表し、象徴するスローガとして分かりにくく、ぴったりしていないと感じました。

 それで、「喜びをもって自由に働き、必要に応じて取る」といったものにしたらどうかと思い、首都圏セミナーでも、社会主義における分配法則と関連して、そんな発言しました(議論は何もありませんでしたが)。

 確かに「能力に応じて働く」とマルクスも言っていますが、しかし元の発言は19世紀中頃の社会民主主義的活動家で日和見主義者のルイ・ブランのものだということですから、この合い言葉を変えても「マルクス主義に反している」と非難されることは少ないと思います。

 「能力に応じて」というのでは、生産的労働やその時間的継続という問題との関係ははっきりしません。高度共産主義社会では、生産的労働は不要だと誤解される――やりたい人が勝手に、趣味や遊び、スポーツのようなものとしてやる?――かもしれないので、そしてまた、各人が30分なり、あるいは10分なり生産的労働に従事するとも考えられるので――生産力の高度な発展の結果、取得はもちろん「必要に応じて取る」でいいとしても――、「能力に応じて」というイメージとはちょっと違うと思います。「能力に応じて働く」のではなく、搾取者も権力者も抑圧者も差別主義者も、利己主義者はもちろん個人主義者もすでに存在しない共産主義社会では、我々は「喜びを持って、自由に働く」のであり、そこにこそ共産主義の本質が、真髄があると考えた方が楽しくありませんか。

●「分配法則」の説明(セミナーの文書から)●

※表式、図表はテキスト版では省略※

 まず、いくつかの前提について語ります。

1、「資本(過去の労働)移転説」と決別し、社会的な分業(とりわけ、第Ⅰ部門=生産手段を生産する部門と、第Ⅱ部門=消費手段を生産する部門の分業)という見地から出発します。

2、社会(共同体)の総生産は180とし、第Ⅰ部門は120、第Ⅱ部門は60とします、つまり自然的、技術的有機的構成は一様に――つまり部門間でも産業間でも――2対1とします。ここでいう、180とか120とか60とかの単位は労働時間であり、またそれに対応する労働生産物(使用価値)の量でもあります。単位は共同体の大小に応じて、適宜に想定され得ます。この関係を式で示せば、表のようになります。

 なお、「生産手段分」とは、それぞれ生産手段と費手段の生産に支出されているが、消費手段に対する権利を有する部分の労働のことであり、またc、v、mとは、資本のもとでは、それぞれ不変資本(ブルジョアの生産手段)、可変資本(労働力の価値=労賃部分=労働者の生活手段)、剰余価値=利潤(ブルジョアの生活手段)の部分です。

3、消費手段は10のAと、20のBと、30のCの3種類が生産され、消費されるとします。

4、共同体(生産者=消費者)の構成員はW、X、Y、Zの4名とします。したがって、4名で120の生産手段と60の消費手段を生産し、また消費することになります。

 かくして消費手段の分配法則の一例は、図表のようになります。

 我々のこの表式では、我々が問題にしてきたすべての難点は克服されており、また社会主義の分配法則の前提としてきたすべての条件はクリアされています(と思います)。価値の理論(“価値法則”)が明らかにした、「価値規定の内容」は、すべて満たされています。

 この表式では、共同体社会(社会主義社会)の総生産(のための労働時間)は180であり、そのうち120は生産手のために、60は消費手段のために支出されています。そしてこの60(時間分の消費手段)が、社会のすべての成員に、彼らの労働時間に従って分配されます(この表式では、簡単のために、成員は4人――W、X、Y、Z――と仮定されています)。

 他方、消費手段は3種類(A、B、C)で、各10、20、30が生産されたとします。Aを生鮮食料品などの基礎的必需品、Bを衣料など日常的必需品や、基礎的なインフラ――電気、ガス、水道等々――などの生活必需品、Cを住宅とか自動車とか冷蔵庫などの耐久消費財等々と想定することもできるでしょう。

 社会の総労働は、生産手段部門と消費手段に、それぞれ2対1の比率で配分されていますが、個々の成員の労働は、45時間であり、その内の30時間は生産手段のために、15時間が消費手段の生産のために支出されています。従って、各人は消費手段のために支出した15時間分に相当する消費手段を、自らの欲求と必要に従って手にすることができます。

 したがって、4人の成員は、各々3種類の消費手段から15の範囲内で、自分の必要と欲望にしがって消費手段を自由に手にすることができます。(林 紘義)
『海つばめ1263号』より転載