我々にとっては、「価値移転論」は悩ましく、そして長く議論して来た論争課題であった。そしてそれはまた、社会主義における分配法則とも関連して、我々の解決しなくてはならない係争問題の一つでもあった。解決のカギはマルクスの「労働の搾取」の理論を、全体の“労働価値説”の中で、いかに評価し、位置づけるかであろう。
◆搾取理論に対するマルクスの前提
マルクスは、資本による労働の搾取の過程、つまりそのメカニズムの説明に入る前提として、労働過程の説明に次いで、「ここでは商品生産が問題なのであるから」として、「労働過程と価値形成過程」について、その「統一」について触れている。
「われわれは、各商品の価値が、その使用価値において物質化されている労働の定量によって、すなわちその生産に必要な社会的に必要な労働時間によって、規定されていることを知っている。このことは、労働過程の結果として、われわれの資本家にもたらされる生産物にもあてはまる。したがってまず、この生産物に対象化されている労働を算定してみよう」(『資本論』第1巻5章、岩波文庫2分冊23~4頁)。
そこでマルクスは次のような重要な文章を記している。
「かくして、撚糸〔綿糸〕の価値が、すなわち撚糸の生産に必要な労働時間が考察される限りでは、綿花そのもの及び消耗される紡錘量を生産するためには、最後には綿花と紡錘とで撚糸を作るために通過されなければならない、種々の特別の、時間的および場所的に分離された諸労働過程は、同一労働過程の各種の引き続いて行われる諸段階とみなすことができる。撚糸に含まれている一切の労働は、過去の労働である。撚糸の形成要素の生産に必要とされる労働時間は、より以前に過ぎ去ったものであり、過去完了形であるのにたいし、最終過程である紡績に直接に用いられた労働が、現在により近く、現在完了形であるということは、全くどうでもよい事情である。一定量の労働、たとえば30労働日のそれが、一軒の家の建築に必要であるとすれば、30日目の労働日が、最初の日の労働日よりも29日遅く生産に入り込んだということは、その家に合体された労働時間の総量を少しも変えるものではない。したがって、労働材料および労働手段に含まれた労働時間は、全く、最後に紡績の形態で付け加えられた労働の前に、紡績過程のより前の一段階で、支出されたかのように、見なされうるのである。
かくして、12シリングの価格に表現される生産手段、すなわち、綿花および紡錘の価値は、撚糸価値の、あるいは生産物の価値の構成部分をなす」(同25~6頁)。
「われわれの資本家はびっくりする。生産物の価値は、前貸しされた資本の価値に等しい。前貸しされた価値は増殖されず、何らの剰余価値も生産せず、したがって貨幣は資本に転化されなかったのである」(同30頁)。
ここで言われていることは、資本にとって、綿糸(撚糸)に含まれる労働は、単に綿糸の生産のために支出された労働だけでなく、綿花と紡錘に支出された労働も含んでいること、その3者の総計であること、そしてそうした労働として、綿糸の生産のために支出された同じ人間労働の量だけを異にする3種類の使用価値に支出された労働の和であること、それらの後先さえも――つまり「現在完了の労働」であろうと、「過去完了の労働」(つまり、やかましく問題とされている「過去の労働」)であろうと、そうでなかろうと――全く無関係である、ということである。綿糸の価値として、綿糸の生産のために支出された労働の各部分であることが重要であって、「過去の労働」とか「現在の労働(生きた労働)」とかの差別はもちろん、区別さえも一切無用であり、必要ないということである。
◆資本による搾取のメカニズムの理論――その意義と限界
価値(資本価値)の移転についての理論は、資本のもとでの労働の搾取の理論――資本家的搾取のメカニズムの理論――として展開される中で持ち出されているのだが、我々はそれをこうした理論課題の中での理論として受け取る必要があるのであって、何か価値理論の一般的な理論の問題であるかに理解するなら途方もない勘違いをすることになる。
マルクスの説明は、いわば、労働者が自分の必要とする消費手段を生産する労働を延長して労働するなら、そしてそうして形成された剰余労働を資本家が手にするなら(搾取するなら)、単純な商品生産は資本家的商品生産に転化するというものであり、それがいかなるメカニズムによって行われるかという説明であるが、それは資本家的生産の総体がいかにして行われ、再生産されていくかという問題とは自ずから別である。
問題は労働の搾取が、資本の社会ではいかにして、いかなる形態において行われるかである、そしていかなる社会においても搾取は生産手段を生産する労働に対して行われるのではなく、消費手段を生産する労働に対してのみなされるのである。
だが資本主義社会は原始的な社会、あるいは農民(小生産者)の社会ではなく、資本の、つまり機械等々の支配するブルジョア社会であり、消費手段の生産は総生産の相体的に比重の小さい一部をなしているだけであって、直接的な労働の搾取に適合する形態では現れていない。生産手段を生産する労働を搾取しても、それを食べたり、着たりして消費することはできない。
かくして賃労働の形態が必然化するのであり、直接的な強力による搾取に替わって“経済的な”形態による、そうした形態に隠された搾取が必然化するのである。資本(原初的には、貨幣つまり貨幣資本)による労働の搾取である。
そもそもマルクスは基本的に、この問題を形式的に流通の問題として論じているのである。つまり資本家と労働者の間の不等価交換として――もちろん、形式的には価値の法則つまり等価の交換という装いのもとで行われるのだが――論じているのであって、そうした根底的な問題を確認しないなら、そして何かそうした理論的課題を忘れて、価値の一般理論として理解しようとするなら、「過去の労働」の移転とか、あれこれの迷妄に陥らざるを得ないのである。
資本家の目的は剰余価値の獲得である、つまり労働者が生産する消費手段の一部を略取することだが、それはただ消費手段を生産する労働を「延長させて」、その部分を、自らの消費手段のために「対価なしで」搾取することに帰着する。
もちろんそのためには、生産手段を生産する労働も必要だが、個々の資本家にとっては、その部分の労働は搾取にとってはどうでもいいものとして、搾取の対象に入って来ない労働として、つまり「資本(不変資本)価値」として現象するのである。
資本家は消費手段を生産する労働を、労働力を商品として売買するというやり方(賃労働)を媒介して、つまり流通における等価交換に擬した不等価交換によって搾取するのだが、それはとりもなおさず、生産手段を生産する労働を「資本」として擬し、利用する限りでのことである。
そしてこうした流通を媒介にして、社会的な総生産が、本来の社会的な総生産過程の問題が現れるのだが、それはまた労働力の商品化による労働の搾取とは違った次元の問題である。もちろん、資本家的な総生産(再生産)が、労働の搾取の契機を含みつつ実現されていくのは当然のことではあるのだが。
◆労働の搾取は流通を媒介にしてのみ実現されることの意味
搾取の論理が商品の流通――交換関係――の課題として現れるのは当然である、というのは、マルクスも言うように、それはまさに流通を媒介にしてのみ、その意味では流通からのみ生ずるのであり、そうした形で現象するからである。
100万円の資本は、資本の運動の過程を経て、120万円の資本に転化するが、それは資本の流通の中でのみ、それを媒介にしてのみである。もちろん労働の搾取は生産過程においてのみ行われるのだが、それは社会の隠された秘密であって、形式的には私有財産と分業と自由競争と「等価交換」等々の麗しい調和世界の中で――つまり商品交換という“経済関係、市場関係の中で――実現されているのである、資本家はただ労働者との事実上の不等価交換によってのみ、資本家として登場し得るのである。
マルクスの搾取の論理をもう一度見てみよう。我々は綿糸を生産する資本家のもとに戻り、それがいかにして資本の流通と再生産の中で、搾取を実現するのかを見て行こう。
個別資本家である、綿糸(撚糸)を生産する資本家は、綿花と紡錘と労働力によって(つまり機械や原材料などの生産手段を前提に、賃労働によって)綿糸を生産するのだが、しかし労働者を6時間働かせて、6時間分の賃金を、つまり消費手段を与えたのでは、一円も剰余価値を、儲けを手にすることはできない。
綿糸を生産する資本家から言えば、この6時間の労働では、生産物である綿糸全体の価値(対象化されている労働時間)は、綿花(原材料)と紡錘(機械)と労賃(労働力の価値つまり労働力の再生産に必要な消費手段の価値)の総計であり、ここではどんな剰余価値(利潤、資本家の消費する消費手段の価値)は問題にならないし、また現実的に現れない。搾取は実現されないのである。
しかしあらかじめ言っておくが、こうした個別資本の論理の矛盾や不合理は明らかである。つまり生産物は綿糸であって、それ自体消費手段ではなく、生産手段であって労働者が個人的に消費できるものではないからである。だから、前述の論理は、ただ“価値関係”としてのみ、全体の総生産もしくは総労働時間との関係の中でのみ、持ち出されているにすぎない。その限界を突破するには、総資本の論理(『資本論』の第二巻で検討される総資本の流通と再生産の論理)が必要であるが、ここではそれを無視して先に進むことにする。
従って彼は労働者に12時間の労働を強制するのだが、そのとき、彼は労働者に労働力の価値に値する賃金しか与えない、つまり賃金は同じままである。労働者は6時間働こうが、12時間働こうが、労働者が生きていき、労働力を再生産するための消費手段の量は変わらないからである、労働者はこれまでの労働時間の結果の消費手段で生きて行くことができるからである。
資本家は6時間労働では剰余価値を実現することができないと知り、愕然として、いまや労働者に12時間労働を強要し、しかも労働者には6時間分(の消費手段の価値)しか払わないのであり、かくして6時間分の労働者の労働を搾取するのである。
ここでついで言っておけば、資本の搾取がなくなれば、労働者は6時間労働に戻るかどうかということには必ずしもならないということである。労働者は生きていくための最低限の労働――最近のはやりの言葉で言えば、「シビル・ミニマム」といったもの――以上の、人間として当然の文化的な生活を望むかもしれず、そのために12時間とまで言わなくても、8時間とか働くことを望むかもしれないからである(憲法の謳う、「健康で文化的な最低限度の生活」なるものが、「シビル・ミニマム」と一致するものか、違うものなのかの詮索は別として)。
そしてそんな場合には、労働者は搾取されることなく、6時間ではなく8時間でも働くことができるのである。問題は労働時間ではなく、搾取労働であるかどうか、労働者が消費手段のために働いた労働時間の全体に対して分配を受けとるかどうかの問題である。
資本の支配する社会では、労働者と資本家の関係は、労働者の与えた労働がすべて「支払われる」わけではないということ、事実上の不等価交換が行われているということであるが、これは“経済的に”いうなら流通の問題、交換関係の問題であって、それ自体、生産過程――全体的な意味での――の問題ではない。
かくして資本の秘密は暴露された。資本の手にする剰余価値=利潤とは労働者の不払い労働であり、それ以外ではないのである。
綿糸を生産する資本家の、資本の再生産と搾取を実現する過程は以下のようなものである。資本家はここでは資本の流通の出発点としての、商品資本の所有者として現れる。
彼は資本家として、手元にある商品資本としての綿糸をもってして、それだけで再び綿糸を生産する活動を始めることはできない、つまり再度搾取を実現して、剰余価値を得ることはできない。彼は綿糸の一部を市場で売って、再び綿花と紡錘を手にするしかなく、また同時に労働力を市場で買わなくてはならない、つまり賃金と引き替えに労働者を雇用しなくてはならないが、この賃金は資本の一部の可変資本である、つまり労働者が個人的に消費する消費手段(食料、衣料の日常的な消費財であり、あるいは耐久消費財等々であるかもしれない)の価値である。
彼は再生産に必要なもの、つまり紡錘(機械などの労働手段、つまり固定資本)とか綿花(原材料など、つまり流動資本)を貨幣と引き替えに交換するのだが、その貨幣は綿糸を売って手にしたカネであるにすぎない。つまり移転してきたと思われる――そんな形で現象する――綿糸や紡錘の「価値」とは、もともとは綿糸の価値であった一部分が単純に違った使用価値(生産手段)の価値として現れているにすぎないのであって、それが資本家の目には「移転して来た価値」、あるいは「資本価値」(「過去の労働」、不変資本部分)として現象するのである(そうした意味からいえば、労働力の対価として支払われ労賃、つまり消費手段の価値もまた、もとの綿糸の価値の一部であり、生産手段の価値と同じことである)。
「過去の労働」ではなく、綿糸を生産した労働であり、それが別の資本家のもとで紡錘を生産する労働と交換された(置き換えられた、あるいは相互的に関係した)ということはできるとしても、紡錘を生産する労働が「移転して来た」ということは概念的ではないし、あり得ない。綿糸を生産する資本家にとって、自分の資本価値は紡錘を手にする前と後で全く量的には変わらないし、変わるはずもないのである。
「移転してくる」のだから変わるというような人は、商品の転態によって、つまり流通過程の中で商品の価値は「移転していく」といった錯誤にとらわれているのである。
労働者の賃金についても同様であって、綿糸として存在した価値の一部(可変資本部分)が、労働者の消費手段の価値として再現しているのであって、それは資本価値がそうであるのと同様である。生産手段について「価値移転」を言うなら、消費手段についても言わなくては決して首尾一貫することはできない。
こうした過程は、それ自体、流通過程の問題であって、資本と労働力の交換つまり賃金労働の問題もまた、流通の問題である。資本の増殖が流通の中で、それを媒介して行われることの説明であり、その中で資本も――生産手段としての資本も、消費手段としての資本もともに――再生産され、搾取関係もまた再生産されるのである。つまり価値の法則は何ら侵害されていないのである。
資本の流通の中で問題になるのは、資本家と労働力(労働者)の間で不等価交換が行われるということ、つまり消費手段の生産にかかわることであって、資本と資本家的生産関係の全体の生産と再生産とは別個の問題であるということ、そして全体の再生産の問題は流通の問題が終わり、解決される、流通とは区別される生産過程が始まる時からのことであることが確認されなくてはならないのである。労働の搾取もまた、現実的には総体としての生産過程の中でのみ行われるのだが、それとは搾取の理論そのものとは区別されなくてはならないのである(その中に、資本にとって本質的契機として、搾取の過程を含むとはいえ)。
だから、「価値移転」云々の問題は、資本のこうした運動の中で現象し、資本家の目に映るということであり、それ以上ではないのである。個別資本による労働の搾取の理論は、直接には、社会主義の分配法則に関係する、「社会的総資本の流通と再生産」の問題とは全く別であり、それをいわば「越えた」ところにあるのである。
もしあえて、個別資本の総和と総資本の量的な同一性を問題にしたいなら、生産過程の結果である「商品資本としての綿糸」から出発すべきであり、そうすればそこに容易に「同一性」を見出すことができるだろう。
実際、価値の移転論者は、「価値移転」は一般的な貨幣と商品の流通においても生じるのであり、商品社会において一般的であるかに言うのだが、しかし流通における商品の転態――商品から貨幣、そしてまた貨幣から商品への転態――は価値の形態について言われているのであって、「価値の移転」といったこととは全く別である。最初の商品も、真ん中に入る貨幣も、その後の商品もみな、「価値」として前提されており、それは価値形態を違えるとしても価値としては同一のままである。価値形態の変化を「価値の移転」として理解するのは途方もないことだが、移転論者はそんなことを平気でするのである。
◆またまたロビンソン物語
関西セミナーで私はまたロビンソンの話を持ち出したが、それは次のような話であった。
彼は最初、絶海の孤島に一人生きることを余儀なくされて、生活のための8時間の労働時間を、生産手段(漁労や狩猟のための道具)を作る時間と、消費手段を獲得する時間に分割し、それぞれ4時間、4時間と決めた。彼は一人だけだから、自分の総労働時間と、道具などの生産手段と消費手段の獲得のための時間の関係は単純明快であった。
しかしロビンソンはひょんなことからフライデーという青年と共同で生活することになった。最小単位の社会であり、共同体である。二人はそれぞれ、以前にロビンソンのやっていたように、銘々4時間ずつ生産手段と消費手段を生産し、あるいは獲得することもできるだろう。
しかしまた、それぞれ分業で二人の生活のための労働を行うこともできるだろう。つまりロビンソンは8時間を道具などの生産手段の生産にもっぱら労働時間を費やし、他方若いフライデーもまた8時間、消費手段の獲得(狩猟や漁労、あるいは後には穀物の生産等々)のためにのみ働くという形である。しかし、消費手段の分配は二人とも平等であり、同等に行われるし、行われなくてはならないのは自明である。
こうした分業の形式でやることが、ロビンソンが4時間を生産手段のために支出し、残りの4時間を消費手段のために用い、他方フライデーも同様にすることと、内容は全く同じである。労働時間の関係でいえば、ロビンソンの4時間の労働の成果である生産手段(道具等々)と、フライデーの獣なり、魚なりの消費手段のための4時間労働の「交換」であり(といっても、労働時間の交換といったことはそれ自体ナンセンスだから、その労働分の生産物(使用価値)の交換である。正確にいうなら、二人の労働時間の交換ではなく、二人の労働時間の関係である)。
さてそんな牧歌的で、穏やかな孤島に、突然海賊たちが現れて二人を奴隷の地位におとしめ、その労働を搾取し始めたとしよう。
ロビンソンもフライデーも、それぞれ生産手段と消費手段を作り出す場合も、分業でやる場合も、海賊たちが搾取するのは――できるのは――消費手段のために支出された労働だけであって、道具などの生産手段に支出された労働ではない。なぜかというなら、生産手段を生産する労働を搾取しても意味がないから、不可能であるからであり、生産手段を食べたり、着たりはできないからである。
海賊は二人の労働を搾取するのだが、しかしそれは消費手段を生産する労働の搾取であって、生産手段のための労働はどうでもいいものである。もちろん、海賊は生産手段のための労働も強要するのだが、それは例えば、二人が分業ではなく、それぞれ別個に生産手段を生産し、消費手段も獲得するとするなら明らかになる。海賊は――彼の場合は直接的な暴力的強制によって――二人にそれぞれ8時間を働かせ、そのうちからそれぞれ2時間を搾取する(4時間の労働の結果である消費手段のうちの半分を手中にする)、等々であるが、これは分業によって二人が労働するとしても、合計で4時間労働を、従って消費手段の2分の1を搾取するのと同様である。
資本家にとっても同様であって、搾取対象の労働は消費手段を生産する労働だが、資本家は労働者を直接的に力によって強制するのではなく、労働者の労働能力を売買するという形で行うのである、つまり労働者を自分たちの「物化された」社会の法則に取り込むことで実現するのである。もちろん資本家たちはそれを意識して行うのではないが、彼らの本能が市場で労働力という「商品」を見出すのであり、それを搾取することによって貨幣を資本に、つまり自己増殖する貨幣に転化するのであり、できるのである。
ここでは生産手段を生産する労働は「資本」として現象するのだが、それはまた、資本家にはすでに手中にある価値として、つまり「過去の労働」として現象することでもある。資本家がそれを「資本」として利用できるのは、すでにあらかじめその労働部分が生産される商品の「資本」部分、可変資本部分――資本部分に支出された労働――として存在しているからであるにすぎない。
つまり綿花と紡錘で、労働者を働かせて綿糸(撚糸)を生産する資本家の例でいえば、綿花も紡績も商品としての綿糸と交換された商品であり、したがってすでに、綿糸の生産のために支出された労働の一部なのである。
綿糸を(商品一般を)生産する労働が、「生きた労働」であるというのは、ただ資本による搾取のメカニズムの中でのみいえるのであって、その部分は綿糸の価値(生産に必要とされる労働)の中の、消費手段部分(つまりその価値)の生産に支出された労働を占めるにすぎないのである。
そのことを反省しないなら、例えば一定期間の総労働は、消費手段を生産する労働だけであって、生産手段を生産する労働は現実に存在しないといった、純粋に観念的な迷妄の泥沼にはまり込むしかないのである。
我々は、社会主義の分配法則について考えるとき、徹底的に価値の形態から離脱した観点から、つまり人々の労働と労働時間の相互的な関係からのみ考察し、議論をすべきであって、商品生産社会の、ひいては資本家的生産社会の“物神性”――労働とその時間の関係が、モノの関係として現れる――にとらわれた観点から――さらには、労働力の商品化や賃労働、つまり搾取関係に捕われた観点からさえも――議論してはならないのである。
(林 紘義)