無力な“立憲主義”派
――「憲法は国を縛るもの」か――強まる安倍の“憲法秩序”破壊策動

1 憲法の概念と立憲主義
2 反動派、国家主義者の憲法認識
3 立憲主義と個人主義
4 立憲主義派の急所、天皇制
5 現行憲法の現実――「権利」と「義務」  

 1、憲法の概念と立憲主義
 ◆「法の支配」の必然性

 共産党やインテリたちが憲法を持ち上げ、その擁護に夢中になり、現行憲法を守ることによって日本を救うかの大騒ぎ――日本の何を救うのかははっきりしないままに――にふけっているとき、我々は憲法とは何か、そしてまた日本の現行憲法とは何かという根本的な問いを発しなくてはならない。

 憲法は法律であり、国家が法律によって“統治”され、秩序づけられ、社会的生活と国民全体の生活を律するものである、つまり“法治主義”を代表するもの、その法律の最高位に位するもの、法律の中の法律、法律の王である。だから国家なくして憲法はなく、またその国家もいわゆる“近代”の国家、一般的にいうなら――概念的に考えるなら――ブルジョア国家、“国民”国家である。

 歴史的に見るなら、憲法に基づく国家、法治国家の観念は、封建勢力や国家(絶対主義国家、王権国家)と闘うブルジョア階級の立場を反映するスローガン、その闘いの合い言葉として現れてきたものであり、その最初の現れが“立憲主義”であった。だから立憲主義を今さら大げさに謳うのは立憲主義者の歴史感覚の欠如、否、むしろ無知を教えるだけであって、彼らは最初からアナクロニストでしかないのである。

 封建的勢力とブルジョア階級の闘いにおいて、ブルジョアのスローガンは「立憲主義」であった、つまり議会によって、法律によって絶対主義的専制君主の権力、つまり「国家の力を縛り」、弱め、制約することが彼らの闘いの課題であったのである。だからこそ、立憲主義は初期ブルジョアのスローガンとなり、彼らの闘いを導いたし、導くことができたのである。

 例えば、ドイツのブルジョアもまた1848年の革命のスローガンとして、「憲法制定会議」招集の要求を掲げたが、これは必ずしもドイツ王政の打倒でも一掃でもなく、議会によって王政を、王政の“絶対主義的”権力を「縛り」、制約しようと欲したからであった。それはロシアのカデット党が、同様なスローガンで闘ったのと同様であり、また日本のブルジョア勢力(この場合、藩閥政府)が明治憲法でめざし、勝ち取ろうとしたものであった――もっとも日本の場合は特殊的であって、別個に論じられるべきであろうが。

 こうした立場は一般に「立憲主義」政体と呼ばれた、つまりそれは、一方に旧勢力を代表する絶対主義的王権があり、他方に立憲主義、法治主義によって王権と闘い、自らの利益と立場を擁護し、拡大し、貫徹しようとするブルジョア勢力が対峙し、お互いにせめぎ合っているという、歴史的段階と現実によって規定された“政体”を表す概念であった。

 立憲主義にせよ、法治主義にせよ、だからそれらは歴史的、現実的な観念であって、永久不変の真理とか理想といったものではない。現代の憲法に謳われている「基本的人権」の概念さえも、“近代の”産物、商品生産と資本主義的生産(市場経済と資本主義経済)の誕生や発展と不可分に結びついた、歴史的観念にすぎない。

 法治主義とは、まさに一般的な形で表現された規範である“法”によって国家を組織だて、統制し、あるいは支配して、国家を国家として存在させ、また存続させよういうものであって、それはブルジョア階級の、王の専制や恣意や横暴や収奪(重税)に対する反発や抵抗や階級的な闘いのスローガンとして、アンチテーゼとして、歴史的に登場してきたものであった。ブルジョアの要求は経済的自由であり、ブルジョア階級の社会的な勢力としての、従ってその諸権利の容認であり、また古い勢力との対等の立場の要求であった限りで、「自由、平等、博愛」等々が合い言葉となった。

 商品生産とその交換関係は、自立し、人格的に独立した商品生産者、商品所有者の相互的な関係、平等・対等で自由な関係、“経済的な”交換価値による関係(“契約”関係)等々であって、ここでは人格的な支配、被支配の関係はすでに止揚され、過去のものとなっているのである。

 「友愛」もまた謳われたのは、ブルジョアが自らの階級的な要求が絶対主義勢力を除く、全ての“国民”(本当の国民、というのは王権の勢力、貴族階級は“国民”の外の存在、社会の寄生的な部分と見なされたから――シェイエス)の要求と見なしたからである、つまりまだブルジョアと労働者の階級対立はあからさまなものとして表面化していなかったから、国民全体は「友愛」によって結びついていると思われたからであった。

 資本の支配が直接的な人格的な支配ではなく、“経済関係”に覆われた支配として、搾取もまた対等の諸個人による自由な経済関係、“契約関係”に隠れて貫徹する限り、ブルジョアの階級支配は、法による支配、法治主義国家として現れる(現れ得る)のであり、またその必然性を持ったのである。

 ◆ブルジョア社会の「人間関係」(国家関係)

 市場経済(商品交換の世界)もしくは資本主義経済の人間関係は一方で相互依存的な関係であり、他方では相互に切り離され、ただ商品の交換を通してのみ社会的な関係を織りなしていく――しかもただ事後的にのみ――、“疎外された”関係であり、従ってまたそこに利害関係の不一致や隔絶や対立さえも一つの必然性として内包する関係である。従って個人の相互関係には常に対立と闘争の契機さえ存在し、顕在化する。

 反動派あるいは国家主義者たちは、他人を見たら、隣人を見たら悪人だと思えといった、哀れで“非人間的な”観念や思想にこりかたまっている、つまりニヒリストであり、徹底した個人主義者もしくは利己主義者である、他人嫌いである。国家のレベルで言えば、他国(他国民)を見たら悪党国家(国民)だと思え、ということであり、事実彼等は日本は悪党国家(国民)、犯罪国家(国民)に囲まれており、一日と言えども強大な軍備なくしては枕を高くして寝られないと“偏執病的に”思い込んでいる。

 事実、彼等は「一切の戦力の放棄」を謳う憲法9条は、“国防”を危うくすることで「国民を不幸にする」と信じて疑わない。『国民の憲法』は叫んでいる(産経新聞は自民党の改憲草案に大いに不満で、その不徹底さを克服した、反動派の真意を盛り込んだ草案を提出したが、その立場を全面的に擁護した『国民の憲法』を出版している。それで我々は反動派の憲法理念を批判するのに、この小論でも重宝させて貰うことにする)。

 「周辺国はどこも自国の国益のために狡猾に振る舞うのが常だ。日本がその〔近隣諸国の〕『公正と信義に信頼して』『安全と生存を保持しようと決意』できる状況では決してない。日本に何の落ち度がなくても一方的に国際紛争に巻き込まれることも起こり得る」(88頁)。

 しかし他国が常に「狡猾」に振る舞うとするなら、つまり国家がその本性として「狡猾」だとするなら、反動派はいかにして日本の国家を美化したり、公正や信義や正義の固まりであるかに持ち上げ、言いはやすことができるのか、日本の国家もまた国家ではないのか、とするなら他国に対して「狡猾」に振る舞わないとどうして言えるのか。実際には、敗戦後の日本国家はさておくとして、1945年までの天皇制軍国主義国家の日本ほどに、アジアにおいて「狡猾」に振る舞い、災厄の原因となり、アジアの、否、世界の諸国民から蛇蝎のように嫌われた国家はなかった(ヒトラーの国家とともに)ということさえ、彼等はもう忘れたのか。彼等の立場は最初から、かくも矛盾しているのであり、何らの合理性も普遍性も持ちえないのである。

 しかし徹底したご都合主義者であり、国家主義の原則より自らの権力を愛好する安倍は、つい先日も、習近平にへつらってか、自らの利益のためか、それとも他国とも「狡猾」でなく関係し得ると突然悟ったのかは知らないが、「日中は互いに互いを必要としている」、だから今のようにお互いに角ばかり突き合わせているような“不正常な”状態を改めよう、といみじくもおっしゃったのである、あるいはそうした真理を、むしろ現実をお認めになったのである。

 実際市場経済、資本主義経済においては、ブルジョアとブルジョア、個人と個人の関係は、直接的な社会的関係としてでなく、私有財産に規定されて、独立に生産し、生産物を商品として交換する諸個人間の関係として現れ、商品の交換を通して個々人の社会的な関係が生まれ、織りなされ、形成されていく、つまり個々人の社会性すなわち個々人の労働の社会的な性格はただ事後的にのみ現れ、形成されていく。ここで直接的なものは、個々人相互が自分の生産物を商品として互いに交換し、関係するということであり、したがって個々人間の社会的な関係は商品の交換関係として、独立した私人としての個人間の契約関係として表象する。そしてブルジョア法規はこの関係を社会の一般的規範として表現するのである。法律関係とは、ブルジョア的な社会的人間関係(経済的諸関係)の一般的な表現として、法的関係である。

 個々人の関係は相互依存的であると共に、対立的であり、敵対的でさえある、というのは、各人は私有財産者であり(もちろん労働者は私有財産者ではないが、労働力の所有者として、その限り形式的には独立対等の人格として、労働市場でブルジョアと相まみえることができる)、相互に独立した個人であって、直接的に社会的な存在ではないからである、市場では自らの商品を少しでも高く売り、安く買おうと努めるからであり、相手もそうするからである。安倍一派や反動のニヒリストたちはこうした市場経済の一面だけを見るのであり、そんな狭小な認識から出発するのであり、それが全てだと妄想するのである。

 個々人の関係は国家間の関係においても同様である、だからこそ安倍もまたいくらかでも“現実的に”語らなくてはならなくなると、憎(にっく)き中国に対しても「互いが互いを必要としている関係」だと、習近平に語りかけなくてはならないのであり、またそうするのである。国家主義者ではなく、平凡なブルジョアとして“常識的に”語りかけなくてはならないのであるが、だがこのことは国家主義者としての安倍の破産であることは明らかである、というのは、安倍一派は、習近平は「国益のために狡猾に振る舞う」悪党以外ではないし、あってはならないと言いはやし、習近平の中国と対決し、徹底的に闘う(戦争さえも辞さず)などと叫んできたからである。安倍にとっては、中国は最初から「狡猾に振る舞う」危険な国家以外ではなかったはずである。そして習近平がそんな悪党であるとするなら、どうして安倍は「互いが互いを必要としている」などと言うのか、言えるのか、安倍もまた習近平と同様な「狡猾な」悪党になることによって歩調を合わせ、うまくやろうというのか。

 市場経済における人間相互の関係は、一方で相互依存的であり、他方では対立的である、そして矛盾が表面に出ないときはいくらでも双方は相手とうまくやることができ、というのは双方の良好な関係双方の利益として現れるからである。しかしいったん資本主義の矛盾が激化してくるなら、そしてお互いが利益を得られなくなり、ただ相手の犠牲や損失において利益を追求するしかなくなるなら――そんな状況が訪れるなら――、相互依存の関係は容易に相互的敵対の関係に転化するのであり、それは国家間の関係として現れるなら、武力的対立や戦争にまでいくらでも発展し得るのである。ブルジョアたちのイデオロギーはブルジョア国際主義(コスモポリタニズム=世界市民主義)からたちまち民族主義、国家主義、“好戦主義”等々に転換していくのである。

 ◆憲法の概念について

 憲法について、反動派は「国の形」を表したものだ、単なる「制度」の問題ではない、国の「国柄」であるなどと言いはやしいる。彼らは「コンスチチューション」(constitution)には、そんな意味も含まれているといった、無学者特有の生半可な“知識”まで振りまいている。コンスチチューションの元来の意味は「制度」であり、組織、構成体等々であって、人間の身体についての組織的な構造と関連する幾らかの概念は出てきても、「国柄」などといった意味が出てくるはずもないのである。

 他方では、市民主義者や共産党は、憲法とは、「国民(市民)が国家を縛る」ために生まれ、存在している、それこそが憲法の概念だといった幼稚な空文句を持ち出し、そんなもので安倍一派の政治と闘い得るといった幻想にふけっている。

 しかし憲法もまた、ブルジョアの支配に適応した形式、つまり法の支配の象徴として、従ってまた国家の最高法規としてのみ憲法であるのであって、まず“法”として存在しているのである。

 そこで「法律」とは何かということが問題になるのだが、法の支配を要求し、勝ち取ってきたブルジョアたちは――ロック等々の、そのイデオローグたちは――、それは国家を形成する国民の「契約」によるものであり、契約によって国民全体が社会生活を混乱したり、争ったりしなくて済むようにした約束事であると説明したり、あるいは社会の「一般意志」が表現され、体現されているもの、従って国民がそれを遵守し、日々の社会生活においても、個人生活においても基本的に従うべきもの、規範であり、憲法はその頂点に立つものである、といった説明が歴史的になされて来た。

 法の支配が、国家が要求し、ある意味では国民の全体に普遍的に、あるいは一般的に強制する規範であり、決まりであり、約束事であるのはいいとして、それはまた国民が自覚した国民として存在していることが前提である。ここで言う「国民」とは、個々人が自立した人格として存在すると言うことであり、ブルジョア社会以前の社会体制、多かれ少なかれ共同体社会の枠に閉じ込められた、人格的な独立を意識しない人々ではない。

 幾らかでも発展した人間社会が、一般にどんな規範――それが意識されていようと、されていないであろうと――もなくして存在し得ないのは明らかである。将来の共同体社会も、土地や機械や工場等々(生産手段)を他人の労働を搾取するために私有してはならない、つまり「資本」として利用してはならないとか、「働かざる者食うべからず」とか、労働時間による分配を実現する等々の最低の“規範”は存在するだろうし、その他の普通の倫理的規範も、約束事の、法という形式を取ることもあり得るだろう(しかし人殺しは許されない等々の“規範”も、人殺しをなさなくてはならない社会的な条件や事情がなくなって行くなら、どんな規範や強制の形を取らなくて済むように人間自体が変化し、人間の社会も急速に進化し、自由になって行くであろうが)。

 問題は「法の支配」の形を取った「契約」とか「一般意志」とか「強制」とか言ったものの――あるいはその前提となる国民国家、「近代的国家」とかいったものの――歴史的、階級的な意味である。

 ここまで来れば、我々の結論は容易である。“近代”とはブルジョアの時代のことであり、従ってまた法の支配とはブルジョアの支配のことであり、その支配の貫徹の一つの形式、ブルジョアの支配に適合した特徴的な形式である。

 ここでは、労働者、勤労者もまた独立した人格として登場し、形式的にはブルジョアと同等の権利を持つ、対等の国民(「市民」と言いたければ言っていいが、しかしこの場合、労働者、勤労者もまた、一人の「ブルジョア」として、つまりブルジョア的な「個」として抽象されているという反省が必要である、さもないとろくでもないインテリ流の「市民主義」に絡め取られるのが落ちだから)である、つまり「法の前では万人が平等」ということになるのである、もちろんこれは大部分、形式的なこと、建て前にすぎないのであるが(こうしたことは労働者なら日々の生活の中で、社会生活の中でいやというほど認識させられている)。

 こうした関係は、一般に(政治的概念としては)「民主主義」という概念として総括され、また呼ばれている。民主主義とは法の支配であり、労働者、勤労者もまたブルジョアと対等の人格であり、人々の経済的、社会的な関係は「契約」によってのみ実現し、また支配され、律されるのである。当然ブルジョアと労働者の関係もまた「契約」関係として存在するのだが――むしろそうした利害関係によって支配される、“無機質で、冷たい”人間関係としてのみ現実的である――、こうした“経済的な”関係によって、それに覆い隠されて資本による労働の搾取が実現され、貫徹されるのである。しかし、そのことについて語るのはここでの課題ではない。

 

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2、反動派、国家主義派の憲法認識

 ◆「国柄」は憲法とは無関係

 彼等の憲法認識の根底は、憲法は何よりも「国柄」を謳わなくてはならないといったものである、つまり彼は法体系の憲法に対して、法体系以外の契機や内容こそが本質的であり、最も重要だというのだが、すでにこのことによって、まともに(つまり合理的に、科学的に)憲法を扱い、論じることができないこと、その資格を有しないことを自ら明らかにしている。

 しかし彼らのいう「国柄」とは何か。それは彼等に言わせると「固有の意味での憲法」の概念であり、“世俗的な”、普通にいわれる意味での憲法と区別される概念である。高乗正臣――平成国際大学教授の「憲法学者」で、産経新聞の常連執筆者――のご説明によると、憲法には二つの意味があるそうである(産経新聞7月12日)。

 「一つは、憲法を表す constitution、Verfassung という語は、構造と構成、組織、体質という意味があり、その国固有の統治のあり方(国柄)やそれが形成されてきた政治的伝統、文化を反映した言葉です。ここでは、『歴史的な国民共同体』が前提になります」。

 「これと同時に、現代民主主義諸国の憲法は例外なく、立憲主義に基づく権力制限規範としての憲法、すなわち近代的意味での憲法を持っています。ここでは『統治権力機構としての政府』の権力制限が問題になります」。

 こうした説明が反動派の満腔の支持と賛同を得られるかどうかは知らないが、とにかく高乗は、憲法は国の「国柄」をまず盛り込み、謳わなくてはならないというのだ。だが、それ自体、抽象的で、どのようにも理解できる、“情緒的”なものであって、“明文憲法”に記せばたちまち紛糾のタネになるようなしろものでしかない。

 彼は「国柄」とは、「歴史的な国民共同体」を前提とするあるものだというが、そんな「国民共同体」については、それは「政府」や権力機構(「ステイト」)としての国家ではなく、「共通の歴史、宗教、伝統、文化を持つ人々」の共同体を意味し、またこうした「ネイションとしての国は、共通の祖先、文化、言語などを持つと信じている人々が作り出した集団」で、「過去、現在、未来にわたる永続的な生命の共同体」であるというのである。まさに戦前、戦中、ナチスヒトラーの、あるいは日本の天皇制軍国主義の時代に流行し、国民をファシズムに絡め取るために悪用された、“民族”や“国家”についての、古色蒼然たる神秘的イデオロギーをまたぞろ歴史の腐った掃きだめから拾い上げられてくるというわけである。

 反動派は「国柄」について勝手気ままなことを言いはやしているが、結局突き詰めていくと、それは1945年までの天皇制軍国主義者たちの決まり文句だった、「国体」つまり天皇制である、という結論に行き着くのである。天皇制こそ、日本が世界中の全ての国家と異なる、日本固有の、日本が世界に優越するところの「国柄」であり、日本を日本たらしめる特殊性である。日本独自の「歴史」とか「文化」とかいわれるが、それはすなわち天皇家の、あるいは天皇家を軸として綿々と織りなされて来た歴史であり、従ってまた天皇を中心として発展した来た文化である。

 高乗はさらに言う。

 「日本国憲法には、本来(固有)の意味の憲法の側面は全面的に否定されました。憲法の起草にあたっては、わが国の政治的伝統、日本文化を反映した固有の統治のあり方(国柄)は無視されました。

 わが国が他国と異なるのは、長い歴史を通して皇室が精神的統合の中心として存在し、皇室と国民との間に対立、抗争の歴史がなく、天皇が常に国民の幸せと社会の安寧を祈り、国民が皇室を慕う姿勢を持ち続けてきたという点にあります。……

 西洋中世の君主・国王たちは、人民を私有財産と同じに考え、それを相続したり、分割したりしてきました。今日でも論争の対象となる多義的な主権という概念は、まさにそのような政治的土壌の中から出てきたものです」。

 「これに対して、幕府政治確立後の天皇のありようは、西洋諸国に見られる君主制と似ても似つかないものでした。政治権力は幕府(政府)に、文化的機能と権威は朝廷(皇室)に保持されるという二元主義に立つ君主制は、わが国柄に特徴といえるでしょう。将来の憲法改正に際しては、単なる西洋諸国の模倣に終わらず、わが国の国柄を大切に考えることが求められます」。

 こうした連中の屁理屈を、いくらかでもまともな、いくらかでも合理的な理屈として考えることは至難のわざである。彼らは歴史をただ自分たちのドグマにそって恣意的に書き改めるのであり、そんな一面的で歪んだ歴史を“真実の”歴史として安売りするのであり、できると考えるのだが、それは丁度、1945年の彼らの敗戦のときまで、彼らが日本の本当の歴史として国民全体に押しつけ、強要してきたものと同じような歴史、つまり偽造された、作り物の歴史にすぎない。

 一体、「わが国の政治的伝統、日本文化を反映した固有の統治のあり方(=国柄)」とはどんなものであろうか。明治憲法のことを言っているのか、そこへ憲法を戻せとでもいうのであろうか、天皇制条項を改めて主権は天皇にあると主張せよということか、あるいは現行憲法から民主主義的内容を一掃せよとでも叫ぶのか。もし「皇室が精神的な統合の中心」として謳われることが必要だと言うなら、現行憲法もまた、立派にそれを謳っており(“象徴”天皇制として)、彼らの求める「国柄」を憲法に盛り込んでいるのだから、彼らは文句を言ういわれは、この点では全くないのである(むしろ文句を言うなら、憲法は“法”として、内容でも形式でも徹底させられなくてはならず、「国柄」に関するような条文は余計なものであって、憲法から一掃されるべき――“象徴天皇制”等々――なのである)。

 彼らはコンスチチューションには、「構造とか構成、組織、体質」という意味があるが、他方それぞれの「国固有の統治のあり方」つまり「国柄」という意味もあるかに言うのだが、もちろんそんな理屈はこじつけであり、でたらめにすぎない。憲法とは国家の「構造」や国民の法的関係、法的規定に関するものであって、国家の「あり方」といった観念的、心理的な問題とは無関係である。そもそも「国の統治のあり方」がなぜ「国柄」なのか、「統治のあり方」とは、統治の「構造」や統治の方法、つまり法の支配か人格的な支配(“人治”)かといった問題であり、それは「国柄」といったものとは別個の問題である。もっとも、彼らが「日本の国柄」とは法の支配ではなく、天皇の支配であると、自分の意図を明確に述べるなら、その「国柄」の意味も理解できないこともない、しかしそうなったら、彼らはいかにして民主主義について、民主主義的憲法についておしゃべりできるのであろうか。彼らは“近代”以前の“人治”の時代に――あるいは現代の専制体制の諸国家に――さまよい戻っていくしかない。彼らは専制体制の国家を非難し、日本の国家は民主主義だと言いはやす、しかし彼の主張は彼らの口先の民主主義擁護とは正反対であり、むしろ専制体制――たとえば、「大和民族」について、その優秀性や特別の歴史的な役割(「八紘一宇」の世界の建設等々)についてさんざんに世迷い言葉を繰り返した、1945年までの日本のような――に行き着くし、行かざるを得ないのである。ヒトラーもまた、ドイツ民族の固有の優越性について、そしてナチス国家の特別の「国柄」(純血のゲルマン国家)について、さんざんに語らなかったであろうか。

 反動派のインテリが実際の世界の、日本の歴史について何も知っていないのは、たとえば、「政治権力は幕府(政府)に、文化的機能と権威は朝廷(皇室)に保持されるという二元主義に立つ君主制は、わが国柄に特徴」などと知ったかぶりで書いているのを見れば一目瞭然である。「政治権力は幕府」つまり天皇や貴族――古代の支配階級――から新興の武士階級に移ったというのはその通りだが、しかしその時代、天皇は権力から阻害され、武士階級の添え物として、武士階級の権力を飾り、正当化する日陰者として辛うじて命脈を保っていたにすぎず、「文化的機能と権威」がそんな哀れな存在に逼塞していた天皇や貴族たちにあったなどと言うのは、「日本の文化」等々を極度に一面化し、矮小化し――つまり古代の文化の水準や内容に留めおいて――、その内的な歴史的発展進化や新しい展開を否定する限りで言えることにすぎない。余りにばかげていて、偏狭で、本気でそんなドグマや思い込みを持ち出すなら、日本中の歴史学者から――否、国民全体からさえ――愚か者扱いされ、敬遠され、相手にされなくなるだけであろう。

 「わが国が他国と異なるのは、長い歴史を通して皇室が精神的統合の中心として存在し、皇室と国民との間に対立、抗争の歴史がなく、天皇が常に国民の幸せと社会の安寧を祈り、国民が皇室を慕う姿勢を持ち続けてきたという点にあります」といった、事実無根の天皇神聖化の神話は、天皇が国民全体の「幸せと安寧」を根底から損なう戦争、ブルジョアや軍部が自分たちの利益や権力のために始めた、15年間にも及ぶ帝国主義戦争の先頭に立ち、そんな反動戦争に国民を駆り立て、何百万の国民の命を奪い、また国土を灰燼と化した後では、誰一人信じなくなったものにすぎないが、高乗らは破廉恥にもまた、そんなウソっぱちを持ち出すのである。

 天皇が「道徳的な」人間であり、国民と共にいつも歩み、国民全体の「安寧や幸せや平安」を常に思い、祈ってきたといったことが、神話もしくは虚偽にすぎないことは、まさに「不道徳」そのものであった、あの15年戦争において「国民」とともにではなく、ブルジョアや軍国主義たちと「ともに歩み」、彼等の戦争を美化し、扇動し、その先頭にさえ立ったということで、そして何百万の国民の不幸で、無意味な死に責任を負い、事実上「戦犯」でしかなかったと言うことによって、完璧に暴露されてしまったのである。そんな昭和天皇と天皇制の責任でもある、何百万の日本人の死や、またアジアを始めとする何千万の世界中の無辜の民の死――という経験をへた後、なお天皇についてこんなインチキや恥知らずなでたらめを公然とまだ語る勇気のある、おぞましい人間がいるとはただただ驚き呆れるしかない。

 天皇と国民の間に「対立、抗争」がなかったなどというのも偽りであって、たとえばすでに明治の最も優れた国民の精華たち――それ以前のことはさておくとしても――、「平民社」に結集した幸徳秋水や多くの革命家たちは天皇制の反動性や有害性を暴露し、それを告発して生命を賭して闘ったのであって、その伝統は現在に至るまで脈々として受け継がれ、途絶えることは決してなかったのである。

 ◆「国柄」とは結局天皇制のこと

 反動派の憲法問題の権威の一人、百地章(日大教授)も「憲法」について盛んに語っている。

 「護憲派は『国民を縛るのが法律で、憲法は国家を縛るものである』と喧伝している。しかし法律の中にも、国会法のように権力(国会)を縛るものがあるし、憲法の中にも、憲法に対して教育や納税の義務のように、国民を縛る規定が存在する。また憲法順守の義務は、当然国民にもある(宮沢俊義『日本国憲法』)。

 確かに、『立憲主義』の立場からすれば、憲法が国家権力の行使を制限するものであることは間違いない。その意味で、憲法は『規範規定』と呼ばれる。しかし国(権力)が国民から税金を強制的に徴収できるのは、憲法によって政府(権力)に課税徴収権が授けられたからだ。この場合、憲法は『授権規範』である。

 さらに、憲法は『国の形』を示すものである。従って『憲法は権力を縛るもの』などといった独断は誤りであり、護憲派が自分たちに都合がいいように考え出したレトリックにすぎない」(『国民の憲法』167頁)。

 3権分立で「権力」を代表するものは国会ではなく、執行権力つまり政府や内閣であり、従ってまた省庁である。国会や議員たちが権力を持たないというわけではないが、国会は基本的にはただ立法活動を通して権力を行使するのであって、執行権力としての権力、つまり権力そのものを代表するものではない。百地は政府や国家権力を「縛る」ものとしての法律を問題にすべきであって、「国会法」など持ち出すのはピント外れも甚だしいと言うことが分かっていない。また「立憲主義の立場」などを持ち出して、立憲主義派、護憲派に追随しているが、立憲主義が正しい憲法観だとでも言うのであろうか。それとも憲法は国民の権利を擁護し、保護するから、その面を評価せよと言うのであろうか。彼は憲法がどんなに労働者、勤労者の「権利」の擁護を謳っても、現実は全く反対であるということ、労働者、勤労者の「権利」や「自由」を謳った憲法のもとで、その「権利」や「自由」がいくらでも侵されていること、それらが実際には軽視され、損なわれていることを決して見ないのである。

 立憲主義についておしゃべりする点では護憲派に決してと劣らない国家主義の連中は、憲法の最も重要な契機は、個々の条文にあるのではなく、憲法が国の「かたち」を明らかにし、語っているところにあると強調して止まないのである。彼らが言う国家の「かたち」とはまた「国柄」と彼らが今言いはやしているものであり、1945年の敗戦の時までは「国体」と呼ばれていたものである。『国民の憲法』は、「日本の国柄」について“ガラ悪く”解説している。

 「わが国は歴史的に、天皇を戴く国家だった。貴族や武士による統治など政治形態はさまざまに変わったが、天皇が権威として君臨することだけは変わらなかった。天皇は、欧州の国王や中国の皇帝と決定的に異なる点がある。それは歴代の天皇は国家と国民の安寧や繁栄を祈り続ける、世界に類のない存在で敬慕の対象でもあったということだ。時は流れ、人は代わり、政治形態は変わっても、日本が日本である限り、こうした国柄はいつまでも変わらないと私たちは信じる。今に生きる国民の責任は、先人から受け継いだ歴史ある国柄を子孫に引き継いでいくことである」(同114頁)。

 国家主義者という連中はどこの国でも視野と了見が狭く、愚昧な存在だが、日本の連中はとりわけそうである。自ら自信も誇りも持てない諸君、欧米に対する、そして最近ではこれまで蔑視して自らのつまらない優越感を満足させてきた中国や朝鮮に対する、あわれな劣等感に苦しむ諸君は、“天皇制”国家主義といった、歴史の中でその反動性をさらけ出し、国民から見捨てられてきた歴史の骨董品を持ち出す以外、自らの現実社会や歴史や文化の中で誇れるものを見出すことができなかったのである。

 しかし国民にとって計り知れない不合理であり悲劇であり、惨禍であり、地獄の経験であった15年戦争に反対するどころか、その先頭に立って何百万もの同胞を死に追いやった天皇と天皇制は、そのことによってすでに、1945年、敗戦と共に、国民にとって無用の長物――否、むしろ有害で反動的な存在――に転化したことを暴露し、歴史的に一掃されるべき制度であることを明らかにしたのである。それが敗戦にもかかわらず存続できたのは、アメリカ占領軍が、マッカーサーが天皇を利用すれば占領政策をより抵抗なく、効率的に行い得ると勘違いし、幻想を抱いたからであり、そんなマッカーサーの愚かさに助けられて、天皇と天皇制は辛うじて生き長らえ、恥をさらし続けてきたのである。

 こともあろうに、そんな人間――事実上“戦争犯罪人”として有罪を宣告され、死刑になっても当然であったような人間、つまり悪党だった東条英機にまさるとも劣らないような人間――を大した聖人であるかに祭り上げるような腐敗制度が、日本の「国柄」だというのである。今どきそんな人間を「現人神(あらひとがみ)」であるかに理想化し、国民がみなその前にひれ伏し、拝跪し、頭をたれるべき存在であるかに言いはやすような人々がいるとはとうてい考えられないのである。もし何百万の無辜の国民を無為に死に追いやったような“戦争犯罪人”が国家のトップ(憲法では、「象徴」だとか何だとか、わけの分からないものに祭り上げているが、労働者、勤労者はそんな不合理な存在を認めたことは決してないのである)だというなら、そんな国は世界中で最も愚かしくも破廉恥な国の一つと言われても決して反論できないであろう。

 1945年まで、日本は天皇を神と規定し、そんな神の支配する日本は世界でも特別に優れた国家であり、アジアを、そして世界さえも支配し、神である天皇の威光を輝かす使命を持つ国家であるなどと言いはやし、アジアを、世界を支配する帝国主義政策を正当化し、遂行したが、安倍一派や反動たちは、今また「日本の国柄」つまり「国体」である天皇制を先頭に立てて再び帝国主義政策に乗り出そうというのであろうか。

 天皇制について、彼らが言っていることはすべて無意味で、つまらないよた話でしかない。日本の君主制もしくは王政は他国の君主制や王政とは違うと言うが、君主制は君主制であり、王政は王政であって、本質的にはどんな違いもない。それぞれ特殊性はあり、君主制を支える階級的、歴史的な条件も異なるとはいえ、世襲的な絶対権力を保持する唯一の人物が権力を壟断し、支配するなら、天皇制であろうと、絶対主義の専制君主であろうと、君主は君主である。そして彼らはしばしば自らの権力は神から授かったと言い張り、権力の“絶体性”を権威づけようとするところまでも共通である。日本だけが異なった、特殊な君主制だなどというのは、単なる彼らの思い込みであって、客観的にはどんな意味も持っていない。

 また天皇は単なる王ではなくて、「祭祀王」だとも盛んに言いはやされている。しかし王が「祭祀王」である場合はいくらでもあるし、古代の王はさかのぼればさかのぼるほど、一般に「祭祀王」である。そして時代が進化するに比例して、古代の王は世俗的、実際的な王へと転化するのであって、日本の天皇が「祭祀王」に留まっているとするなら、そんなことは天皇制(日本の王政、君主制)の後進性を、原始性や“古代性”をむしろ暴露しているのである、つまり古代の王政の生き残りにすぎないと言うことを教えているのだが、無学な国家主義者たちは、そんなものを日本の王政の卓越性としてありがたがっているのである。

 しかも日本の王政が世俗的な王として存在した時期がいくらでもあったこと、奈良時代はもちろん、それ以前から大和朝廷の王はすでに世俗的な王として現れていたことは明らかだが、国家主義の愚者たちはそんなことも知らないのである。歴史に無知な彼らは、だからこそ後醍醐天皇は自らの権力の簒奪を「天皇親政」として、武士階級(鎌倉幕府)からの現実的権力の回復として考えたという事実とその意味を理解することができないのである。

 彼らは天皇が武士の時代に(平安時代はさておくとしても、鎌倉時代から江戸時代までの全てを通して)、あるいはひょっとして、明治維新後の時代にさえも、権力を――あるいは少なくとも「権威」を――保ち続けて来たと強弁するのだが、一体どんな権力や権威について語っているのだろうか。現実の歴史を、歴史的な事実を恣意的に、自分のドグマや思い込みに従ってねじまげて理解し、勝手に解釈するのは彼らの悪しき習癖であり、常道である。

 我々は前号で、国家主義者の憲法の理念を取り上げ、検討したので、今回は立憲主義者、護憲主義者たち――リベラルや共産党など――の観念について論じなくてはならない。そしてそうすることによってのみ、労働者階級は安倍政権のもとで現実化する“憲法戦役”を階級的な立場に立って、断固として、最後まで闘い抜き、この戦役に勝利して、労働者の未来を切り開いて行くことができるのである。

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 3、立憲主義と個人主義

 ◆「個人」か「人」か

 立憲主義とは、「憲法によって、国家を“抑制”するための」制度である、「憲法によって国家や権力を“縛る”」という概念である、といった妄想が、自由主義派や市民主義者、さらにはこうした連中に追随し、そんなレベルにまで堕落した共産党によって叫ばれている。

 そして立憲主義の根本観念とは、「個人」(の尊厳)であるとか、「人権」、「自由」の観念であるとか、似たような観念、歴史上、ブルジョアが登場した時代に、彼らのイデオロギーとして生まれ、もてはやされた観念が後生大事にもって回られ、アナクロニズムの大騒ぎが、茶番が演じられている。

 しかし資本の支配する社会において、一体誰が、どんな「個人」が、「人権」や「自由」や「生活」等々を一番確実かつ堅固に保障され、擁護され、守られているというのであろうか。カネも権力も知識も手にするブルジョたちであって、何百万、何千万の労働者、勤労者でないことほどに確かで、明白なことがあろうか。立憲主義のインテリやプチプルや政治家たちは、そんな現実も知らないのであり、また見ようともしないのである。そして憲法が、法秩序が、現実とは反対に、ブルジョアたちの「人権」や「自由」を抑制し、あるいはそれを抑制するためにのみ存在するなどと言うのであり、言いはやすことができるのである。

 ブルジョアにとっては、「個人の尊重」は大歓迎である、というのは、それらは労働者、勤労者の「尊厳」である前に、彼らの「尊厳」だからである。もちろん「自由」も何ら否定されるべきではない、というのは、憲法そのものが資本が自由に振る舞い、自由に労働者、勤労者を搾取することを認め、保障してくれているも同然だからである。

 立憲主義者たちは、“ア・プリオリの”、つまり“無規定の”(これは哲学的には“絶対的”、“超越的”すなわち神にのみその存在の根拠を持つという意味であり、またそこに帰着する)「個人」から出発し、それを彼らの立憲主義の大前提であると叫ぶのである、つまり最初から空虚な観念論者として登場するのだが、それは丁度、市民主義者が「市民」を、民族主義者たちが「民族」を、国家主義者たちが「国民」や「国家」を、そうしたものに祭り上げるのと何ら変わらない。彼らは「個人」もまた――そして「市民」も、「民族」も、「国民」もまた同様だが――歴史的、社会的な存在としてのみ「個人」であるということ、従って現実的には彼らはみな階級的、社会的な規定性においてのみ「個人」であることを容易に忘れるのである。

 立憲主義者は基本的に個人主義者である、すなわち現行憲法を絶対化する、自らの実践的、イデオロギー的根底を、憲法の13条、「すべての国民は、個人として尊重される」という文言に求めるのである。この文言こそ戦後憲法が立憲主義憲法であることの何よりもの証拠であり、無条件に擁護されなくてはならない理由である。この一句さえあれば、他の天皇制を美化し、神聖化し、擁護する条項であろうと、私有財産を社会関係の基礎であり、根底であると宣言する――従って、労働の搾取さえも正当であるとする――条項であろうと、すべて目をつむるのであり、つむることができるのである。

 9条もまた、この文脈で「解釈」され、抽象的な戦争反対、「戦力」反対という立場が――戦争は「個人の尊厳」を損なうからである、そしてこのことはかつての「15年戦争」を見ても真実ではなかったか、云々――至上視される。

 憲法の個人主義的解釈は、立憲主義の大御所の1人とも言える、樋口陽一らによって唱えられ、愚昧な憲法学者や共産党系のくされインテリたちによって唱和され、流布させられている。そしてそんな憲法解釈は、市民主義者や「9条の会」などに集まる「個人」や「市民」たち、つまり自分の矮小な存在や観念や安全や平穏が何よりも大切と考えるプチブルたち、とりわけインテリたちの決まり文句である。今では堕落した共産党の連中が、こうした観点に完全に移行し、プチブルたちに追随し、歩調を合わせている。普段は犬猿の仲でもある?両者の事実上の“共闘”は、余りに醜悪な風景というしかない。

 彼らは、「個人」は「個人」として絶対化される存在ではなく、まさに社会関係の中においてのみ存在する「個人」つまり社会的な存在であるということを自覚しないのであり、できないのである。「市民」であり、個人主義者であり、「ブルジョア」であるという反省がないのである。「個人」といっても色々な社会的な規定の「個人」があり、全ての「個人」が正当化されるわけではない、他人の労働を搾取し、他人の労働によって生きる「個人」は決してまともな「個人」として認められないことは、人間にとってごく普通の観念、初歩的な倫理観念ではないのか。我々は社会の成員――「個人」という用語がここではふさわしくないことを我々は確認するが――は、自ら労働することで、自らの生活と社会の生活を可能にするのであり、しかもこの場合、成員の労働は社会的な労働の一環としてのみ存在し得るのであって、絶海の孤島に生きた、かのロビンソン・クルーソーのように「個人」としての「個人」として存在しているのではない。

 社会的分業によって、社会の成員の労働は社会的な形態で存在するしかなく、共同体の中での「労働による分配」といっても、成員は自分が生産した生産物(生活手段)を直接に手にするわけではない。そんなことになれば、生産手段(機械などの労働手段や原材料などの労働対象)を生産する労働者は、立派に社会的な必要労働の一環を担っていながら飢えて死ぬしかないだろう。

 賃労働――こうした労働の形態こそ、ブルジョアによる労働者の搾取という社会関係を秘め、隠蔽しているのだが――を通しての労働者への「分配」というブルジョア的関係はともかく、我々がさらに、搾取関係も止揚した共同体社会つまり社会主義社会における「分配関係」について、「価値規定」による分配について議論し、検討して、その真実を明らかにしなくてはならなかった理由である。

 自覚した労働者は他人の労働を搾取する「個人」、他人の労働に寄生して優雅な生活を送る「個人」――ブルジョアや寄生者たち――を否定するが、しかしそこには道徳的非難に終わらない、それを超えていくあるものがある、つまり労働者が目指すものは社会関係の改革であって、ブルジョアたちもまた歴史的な生産関係の担い手として、根本的には位置づけるのである。彼らは資本主義が止揚されれば、存在する余地が全くなくなるから、その歴史的な役割を終えるからこそ、存在しなくなるだけのことである。もちろん、彼らが平和的にいなくなるかどうかは、労働者の側の選択によるのではなく、ブルジョアたちの意思と選好に関わることであるのは言うまでもないことではあるが。

 ブルジョアも寄生者たちも労働者、勤労者たちも一緒くたにして、「個人の尊厳」とやらについておしゃべりする立憲主義者や個人主義者は偽善者たちであって、本当の意味で「個人」をも、その「尊厳」をも擁護するものではない、というのは、搾取されている何百万、何千万人の――人類全体で言うなら、数十億人もの――労働者や勤労者の「個人的尊厳」について何も分かっていないし、考えてもいないからである。

 彼等はまた、自民党の改憲草案が、13条の「すべての国民は、個人として尊重される」という文言を「人として尊重される」と書き改めたことを非難しているが、一体どれだけの違いがあるのか、そしてここが「個人」となっているところが、「人」となったら何かまずいことでもあるというのか。13条は、他にも立憲主義派(原理主義憲法派)と国体主義憲法派(国家主義憲法派)との係争問題があるので、全文を確認しておこう。

 「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。

 市場経済と資本主義経済においては、人々とはまず孤立した個人であって、共同体の一員としての個人ではない、まさにそれ故に、ブルジョア社会の“自然の”、必然的なイデオロギーの一つは「個人主義」である(従ってまたそれは利己主義つまり自分本位でもある、あるいは個人主義は利己主義と表裏一体であり、容易に利己主義に転化する。個人主義者は個人主義と利己主義は別であると強弁するのが常だが、それら二つがこのブルジョア社会では内的に関係し、不可分に結びついていることを見ないし、知らないのである、あるいは知らない振りを装うのである。自らの利己主義を隠し、口先だけでごまかそうとする諸君は、卑怯で、下劣なやからたちである、漱石が「個人主義」を擁護しようがしまいが、個人主義はブルジョア社会の“市民”たちの自然の生活信条であって、労働者のそれでないことだけは確かである)。

 そしてそんなところに、舛添要一がお節介に乗り出し、立憲主義のインテリらを弁護して、「個人」に対立する概念には「国家」があるが、「人」に対立する概念とは「動物」ではないか、「人」など持ち出すのはピント外れも甚だしいとか論じるのだが、もちろんピント外れで愚昧さをさらけ出しているのは舛添の方にすぎない。「人」つまり人類に対立する概念が「動物」であるとするなら、人間の社会が、人間の人間としての権利を、つまり文字通り「人権」を保障する憲法を、社会の最高の法規を持って何が問題なのか。そもそも18世紀のフランス革命やアメリカ革命で謳われた「人権」とは、「人間の人間としての」権利でなくて、「個人の権利」であった、などと本気で考えたり、発言したりすることが、歴史について、その根底について何も理解しないことを、単なる無学の徒でしかないことを暴露していることを、舛添や立憲主義者たちは知らないのであろうか(ついでに言っておけば、憲法で用いられている、英語の「man」やフランス語の「homme」には、人間や人類という意味はあるとしても、「個人」という意味やニュアンスはそれ自体にはない)。

 舛添は期せずして、立憲主義者たちの階級的な基盤を暴露したのである、つまり個人主義者は、国家の歴史的、階級的な意味も知らず、ただ自己の個人主義を満足させるか妨げるかの基準によってのみ、「国家」や権力を評価し、自己の個人主義者としての自由や権利を保障する限りで国家を正当化し、それらを妨げる限りで国家を拒否するのだが、彼等は現行の憲法、つまり憲法によって規定されると考える日本の国家は良い国家であり、反対の場合は悪い国家であると断じるのである。そしてそんなドグマを社会全体の良識であり、正しい観念であるかに思い込むことができるのだが、どんなに自分が矮小で、独善的な立場に陥っているかに気がつかないだけである。今や政治闘争の場から逃走して都知事という大きな、そして居心地もいい権力を「個人として」手にした舛添は、自らが公権力を、つまり国家を代表する立場に立ったことも忘れて、個人主義の味方として登場するのである、その方が“世間受けがいい”し、大都会の“市民”諸君にも持てるとソロバンをはじくのである。

 しかし「個人」よりも「人」(個々人としての人ではなく、あるいは単に国民や“民族”や家族さえもの一人としての人ではなく、人類の一人としての人、さらには寄生的な階級の人ではなく、自ら労働し、生き、生活している労働者、勤労者の一人としての人)とする方が正当であるとなぜ言えないのか、個人としての個人をまず問題にするのはまさにブルジョアのイデオロギーである個人主義そのものではないのか。憲法の「個人として尊重される」といった表現は、憲法がブルジョア憲法である証拠の一つとさえいえるのであって、そんなものを夢中になって弁護し、正当化する立憲主義派の階級的本性は余りに明白である。

 ◆「国家」の規範か「国民」全体の規範か

 実際、護憲主義者、立憲主義者たちの優雅なインテリや、共産党のプチブルたちは、憲法は「国家を縛る」ためのものだとは言うが、国民(寄食者たち、金持ちたち)をも「縛る」必要性については何一つ語らないのであり、またそうすることによって、自らの階級的本性を自ら語っていないのか。

 立憲主義者たちは、搾取者たち、寄食者たちに対する「縛り」をどう考えるのか、賛成なのか、反対なのか。憲法にはいい「縛り」と、悪い「縛り」がある、と言うのか。

 あるいは、18条の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない、……その意に反する苦役に服させられない」という規定やさらに言えば、19条の「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という条文は「国を縛る」ものであると共に、国民全体を「縛る」もの、つまり国民相互の関係における、国民の規範としても言われているということもできる。29条では、「財産権は、これを侵してはならない」とはっきり語っているのだが、こうした規定が「国家(やブルジョアたち)を縛る」どころか、私有財産制に反対し、ブルジョアの財産つまり「資本」の収奪を目指す労働者、勤労者をこそ根底から「縛っている」のは余りに自明である。

 そんな余りに明瞭で、単純な真実――真実と言うには余りに大仰な、単なる事実――を見ようともしない護憲主義者や、立憲主義者たちは何というとんまな目明きめくらであることか。

 立憲主義派、憲法“原理主義”擁護派は、国民は憲法を「守らなくていい」といったことまで叫んでいる。その意味は、労働者、勤労者の憲法ではないから「守らなくていい」と言っているのか、現行憲法はそうしたものとして制定されていると言いたいのかはっきりしないが、どうやら後者のようである。根拠は、憲法を「尊重し、擁護する義務」を記した99条を根拠にしての話である、つまり99条は、憲法順守義務について規定しているが、そこで「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」だけを上げて、「国民」については語っていないから、というのである。

 しかしこうした立憲主義派の見解は余りに軽薄で、ばかげている。納税の「義務」一つとっても――ところで「納税の義務」はどうでもいいものではなく、国家にとって本質的であって、古来、大きな革命はしばしばその問題と深く関係して勃発しているのである、どんな国家も財政が確かなものとならなければ、一日といえども安定して存続することはできないのだ――、憲法が国民全体の「義務」について言及していることは自明である。

 仮に国家がブルジョアや金持ちだけに「納税の義務」を課している場合があり得るとしても――とりわけ、歴史的にしばしば――、それは、「法の支配」がブルジョアを「縛る」ためにのみ存在することを意味しないのである。それはただブルジョアの支配のための費用をブルジョアたちが全体で共同して負担するということを意味するだけであって、何か国民の意思として憲法があり、その意思をブルジョアに押しつけたものだなどと「解釈」するとしたら、そんな「解釈」はただ立憲主義派の愚かしさを一層際だたせる意味しか持っていない。

 立憲主義派は「法の支配」について、その本質について何も分かっていないのである。「法の支配」は単にブルジョアたちに対してのみならず、国家の構成員全体、つまり国民の全体に対して及ぶからこそ「法の支配」である。立憲主義派は「法の支配」が支配階級にも及ぶことを見つけて大騒ぎするのだが、法の支配が根本的には労働者、勤労者を資本の体制に包摂し、資本の支配を貫徹させるためであること、つまり本質的には資本の支配体制であり、それを規定するものであることを知らないのである、あるいは見ようとしないのである。まるで幼稚な観念論者であり、俗に言えば“世間知らず”である。

 立憲主義者たちは、「国家は憲法によって縛られなくてはならない」と叫ぶ、しかし当時の国家や権力は、絶対主義の王政、世襲の王政であって、そもそも「国民」――寄食者であって、フランス革命当時は「国民」の一部とは見なされなかった国王や貴族たちを除いた労働者、勤労者たち――によって“民主的に”選ばれた代表によって組織され、担われていたものではなかった。そんな国家や政府が相手であって、「憲法によって縛られるべき」と言うなら一応は筋道が立っており、理解できないこともない。

 しかし現代の“近代的な”国家は国民国家と呼ばれ、国民の全体によって“民主的に”――この“民主的に”というやつの内容がくせ者だが、今はそれを問わないとして――選出された、国民の代表であって、どうしてそんな国家や政府を「憲法が縛らなくてはならない」のか、混乱や筋違いも甚だしいということに、なぜならないのか。民主的に選ばれたからといって、いつも国民の国家や権力となるわけではない、時には国民の利益に反する悪事などを働く場合があると言ってもやはり話はおかしなものである、というのは、選挙があるのだから、いくらでも別の、清廉潔白な代表を選出し、そんな悪党たちを一掃することが可能なはずだからである。また立憲主義者たちは、憲法は原理的に「国家を縛るものだ」と主張しているのであって、たまたまの問題であるとは決して言わないのである。

 だから立憲主義といったものは最初から破綻しており、論理的に矛盾したものである。もし現代のブルジョア社会を基盤とした国家や政府を「縛ろう」と考えるなら、その必要があると認めるなら、憲法を云々する以前に、そんな権力や政府を“民主的な”選挙等々で一掃すれば済むことであって、なぜ「憲法で縛る」必要があるなどと叫ばなくてはならないのか、そしてまた、そもそも憲法の本質が、憲法によって選ばれ、成立した権力や政府を「縛る」ところにある、などと本気で叫ぶ諸君は何を考えているのか。

 憲法体制が少しも“民主的で”なく、民主主義を実現していない、するものではないと言うならいくらか一貫することができるが、しかし今度は彼等は憲法体制を絶対化することができなくなり、その根本的な限界について語らなくてはならなくなるのである。いずれにしても、立憲主義者といった連中が自己矛盾し、理論的、実践的に破綻して行くことほどに確かなことはない。

 歴史についても無知である立憲主義派は、台頭してきたブルジョア階級の立憲主義イデオロギーをそのまま現代に移し替え、そんなイデオロギーでもって現代のブルジョアジーと闘えると考えるのだが、しかし封建勢力や絶対主義王朝と闘うために、その権力を抑制し、「縛る」ために掲げた「立憲主義」と、ブルジョアたちが封建勢力に代わって支配階級にのし上がったときに掲げた「立憲主義」とはすでに違っており、後者――普通、法による“普遍的な”支配あるいは法治主義と言われている――は、ブルジョアジーの支配する体制の憲法理念であって、つまり彼等の階級支配のためのものであって、本質的に、そして内容においても基本的に、彼等の「国家や権力を縛るための」ものではないし、あり得ないのである。

 こんなたわいもない幻想にとらわれ、ブルジョア憲法に対する信仰心で盲目になっている、プチブル諸君が、そしてこともあろうに、そんな憲法に依拠して、ブルジョアたちと、その政治、政策と、いくらかでもまともに、一貫して闘うことなど絶対に不可能であろう。

 立憲主義派のたわ言の一つに、「憲法は国家や政府を縛るものだが、一般の法律は個人を縛るものである」といったものがある。しかも彼は本気になって、大まじめにこんな見解を持ってまわるのだから、彼等のとんまさや愚劣さには限度がないと言うしかない。

 憲法と他の法律をこんな形で区別するのは余りにばかげており、法の支配もしくは法治主義の意味を、概念を全く理解していないというしかない。憲法も他の法律も法として同一であって、ただより上位の法と下位の法ということで、あるいは社会生活の諸部分、諸部面でそれぞれ適用され、それぞれ固有の意義や役割を持つということで、区別されるにすぎない。

 憲法を絶対化し、現代の聖典であるかに扱う、立憲主義派は、憲法の以下の文章をどう評価するのであろうか。憲法の98条で、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と厳かに規定されている。従って、憲法が国家や政府を縛るなら、他の一切の法律も同様であり、また他の法律が国民を縛るためのものであるなら、憲法もまた同様でなくては決して首尾一貫できないのである。

 ◆「立憲主義」の歴史的規定もなく

 要するに、彼等は「立憲主義」という新宗教をでっち上げたいのであり――国家主義者や安倍一派が、「国体主義」といった新宗教を、改悪憲法といった、もう一つの聖典、反動派の聖典を国民に強要しようと策動するのといいコンビをなして――、憲法という新聖典の信奉者であり、国家や政府と闘うに、そんなものに期待し、そんなものによってなそうとするのであり、かくして憲法と他の法律を区別し、対立させるのだが、まさに笑止千万である。

 共産党などが“正しい”立憲主義を持って回るのは――いつものように、自由主義者や市民主義者の後を追い、その驥尾(きび)に付して――、現在の“立憲主義”に、つまり“民主主義的な”支配を装う資本の権力に追随し、それと融合して資本に奉仕するためであって、この党の堕落がどの程度にまで達し、深まっているかを教えるだけである。

 「個人の尊厳」とか、「生まれながらの権利」とかを根底に置き、そこから出発する“真の”立憲主義に対置される、“えせ”立憲主義とは、歴史的には「立憲君主制」であり、あるいは「君主主権」の国家、日本的に言うなら「天皇(君主)国体」であり、国の名で言うなら、17、8世紀の偉大な革命を出発点とする英仏やアメリカのものではなく、かつてのドイツや日本(ドイツなら第一次世界大戦まで、日本なら第二次世界大戦まで)のものである。内容的に言うなら、形だけの憲法を戴く、「形式的な」あるいは見せかけの、「外見的な」立憲主義であって、これに対しては「真正の」立憲主義が対置されるというわけである。もちろん、“真実の”とは、「民主政体」であり、「国民主権」であり、実質的に民主主義を実現する国である。現実ではなく、“理念”が重要であるというわけである。

 笑うべきことは、共産党の論客らは封建主義を一掃する段階までは、「政体」の問題について、曲がりなりに歴史的に議論する、しかしブルジョア社会を論じるとなると途端にそうした立場を、“弁証法的な”歴史観を投げ捨てて、観念史観に転落し、ブルジョア革命を“理念”の問題として、まるでヘーゲル史観と同様に論じるのであり、かくしてブルジョアたちの史観にまで後退するのである。

 彼らは時には、17、8世紀の英仏米の革命を「近代市民」革命とか呼び、あるいはそれらの革命が高らかに謳いあげた宣言や憲法を「近代資本主義」の理念であり、憲法であるなどと言う、だが彼らはすぐにそんなことを忘れ去り、“古典的な”ブルジョア革命のイデオロギーを超歴史的なものに祭り上げ、称えて止まないのだが、それはそんなものが現在のプチブル的、ブルジョア的に堕落した彼らの立場に、観念的で、非実践的、日和見主義的立場にぴったりと一致し、適合しているからであるにすぎない。

 憲法には「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、……最大の尊重を必要とする」(13条)とか、「すべての国民は、法の下に平等であつて、……差別されない」(14条)とか、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(19条)とか、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(21条)とか、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」(31条)とか、美しい、心強い条文が並んでいる、しかし実際にはこれらの条文はしばしば、あるいは根本的に無力である。

 というのは、資本の支配する社会のもとでの、資本の国家や政府のもとでの法文であるからであり――つまり彼等によっていくらでも“自由に”斟酌され、彼等の利害関係によって勝手に「解釈」され得る――、また憲法の下位の多くの法律によって骨抜きにされ得るからである。さらには憲法自身の中に、これらの言葉を自ら否定する、多くの条項もまた存在しているからである。たとえは私有財産こそ社会の根底とする条文はブルジョアや金持ちに大きな「権利(人権)」や「自由」を保障するのであって、労働者、勤労者にはそんなもののおこぼれ程度が「保障」されているにすぎない。労働者、勤労者の多くが、資本の支配する社会において、「権利」も「自由」もほとんど実際上持ちえないのは、多くの“無産の”若者たちが、弱い立場にある人々が、非正規労働者として、どんなに貧しく、無権利の労働者の地位に追い詰められているかを見れば、憲法――法の支配――といったものの限界を容易に確認することができるだろう。だが、立憲主義のインテリたちは、しばしば――あるいは資本のもとでは一般的に――そんな形式的な内容しか持たない憲法を、至上の聖典として持ち上げ、美化するのであり、それしか能がないのである。

 立憲主義派は勘違いしているが、憲法の「人権」とか「自由」の保障といったものは、労働者、勤労者以上に、ブルジョアたちの「人権」や「自由」を保障しているのである。法の支配は形式的には、全ての国民の平等な「人権」を謳うのだが、階級社会では、ブルジョアたちが権力を握っている体制では、法のもとでの「平等」が、実際上の「不平等」であり、そうなる以外ないのである。

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 4、立憲主義派の急所、天皇制

 ◆「天皇制」は誰を「縛る」ためのものか

 そしてまた、一つの重要な争点として、「天皇制」がある。これは現行憲法を美化し、擁護し、絶対視さえする立憲主義派たちが“逃げて”いて、貝のように黙して語らないテーマである。

 そもそも憲法が国民への、労働者、勤労者への「縛り」ではなく、国家への「縛り」だというなら、立憲主義者、護憲主義者たちは第一章の「天皇」の部分を、どう評価し、説明するのか、それは果たして天皇制を労働者、勤労者におしつけ、そうした架空の権威のもとに労働者、勤労者を「縛る」ためのもの、つまりそれを無条件の、批判を許さない権威として強要し、畏怖させ、ブルジョア階級に従属させるための一つの道具でないとしたら、一体いかなるものなのか、何のために存在しなくてはならないのか。

 まさか彼らは、天皇制は国民を縛るためのものではなくて、「国家を縛るためのもの」であると強弁しないだろうし、また強弁できないであろう。かくして憲法の第一章は立憲主義者たち、護憲主義者たちにとって最大の鬼門、アキレスの腱であり、ただこの第一章を持ち出すだけでも彼等の実践的、イデオロギー的破綻を語ることができるほどである。

 誰でも知っているように、憲法第14条の立派な条文、「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」もまた、政府の「義務」もしくは規範であると共に、国民全ての「義務」もしくは規範を述べたものと理解して悪いわけはない、あるいはむしろそうすべきであろう。

 そうだとするなら、第14条は事実上「社会的身分又は門地」そのものである天皇制を否定せよと言っているも同然であって、国民は、現実として国民を――人間を――差別する天皇制を断固として一掃するのは、現行憲法の精神にそった、国民の当然の「義務」であるということになるし、ならざるを得ないのである。それなのに、なぜ護憲主義者たち、立憲主義者たちは、第14条に反する、天皇制について沈黙するのか。

 彼等は日本国憲法を一つの立憲主義憲法の典型として、世界でも最も進んだ憲法として持ち上げている、しかし天皇制憲法が一体いかにして、支配階級を、つまりブルジョアやその政府や国家を「縛る」役割を演じているのか、演じられ得るのかについて何ごとも語っていないし、語ることができない。彼らは天皇制――もちろんここで問題になっているのは、1945年までの軍部ファシズム勢力と結びつき、その看板になっていた天皇制にとどまらず、戦後の“象徴天皇制”も同様であるが――が、ブルジョア勢力を「縛っている」のであって、労働者、勤労者を「縛っている」のではないと主張するのだろうか、本気でそんなことを思ったり、言い張ったりしようと考えているのだろうか。

 しかし彼らは、現行憲法は「国家や権力を縛るためにこそ存在する」、そこに現行憲法の本質があると断言したのである、とするなら、彼らは憲法の天皇制条項は国家を「縛って」、労働者、勤労者を「縛る」のではないと論証し、あるいは主張すべきであるが、そんなことが果たして可能なのか、可能だというなら是非とも、早急にやってもらいたいものである。

 もちろんここで、「旧憲法に比べれば、“はるかに”(あるいは“より”)国家権力を縛っている」といったその場限りの説明ではダメである、というのは、問題は「縛る」程度が重いか軽いかとか、軽くなったとかいうことではなく、国民を「縛る」ためのものか、権力を「縛る」ためのものかという、“象徴”天皇制の本質にかかわる問題だからである。市民主義者や共産党のプチブルたちは、天皇制までもがブルジョアやその権力を「縛る」ためのものであって、労働者、勤労者を「縛る」ためのものではないと事実上主張することによって、ブルジョアのイデオロギー的下僕にまで堕落したことを分かっているのか。現行憲法の天皇制を規定した部分を反省するだけで、共産党や市民主義者たちが憲法を“絶対化”し、叫んでいるイデオロギー(「憲法は国家を縛るためにのみ(こそ)存在する」、それが憲法の本質だ云々)がいかに愚劣で、闘いの旗印になるどころか、ブルジョアや安倍一派や国家主義の反動たちを助けているものであるかが簡単に確認できるのである。

 ◆「天皇制」は「人権」を否定しないのか

 憲法は国や権力を「縛るためにある」という人たちは、憲法そのものが、国民は「法の下で平等」だと謳っていることさえ“忘れる”、あるいは故意に“無視される”のである(まさか立憲主義者である、憲法学者や弁護士先生らが、憲法を知らないと言うことなどあり得ないから)。憲法14条は、「すべて国民は法の下で平等であって、……差別されない」と謳っている、つまりそれが適用されるのは政府や支配階級や権力者らだけでなく、国民全体であることを明言している。格調高い、美しい文章とさえいえるが、18世紀後半のフランスやアメリカの大革命が断固として宣言した理念であり、人々の“人格的な”独立を確認したものである。これは歴史的には巨大な意義を持つ人類の前進ではあったが、しかし「法の下での」形式的な平等の宣言であって、社会的、“経済的な”、つまり生産関係における平等でも、本当の人格的解放を謳ったものでもなく、労働者は依然として、生産現場においては資本の専制下に従属し、搾取される存在のままであった、つまり真実の解放とはほど遠い、抑圧され、疎外された社会的存在に留まるしかなかった。

 学者や弁護士らご立派なエリートたちは、現行憲法を超歴史的な絶対物(一種の神?ご神託?)として崇め(あがめ)奉りたいらしいが、その歴史的な意味も、その意義も限界も何も理解できないのであり、「憲法は国や権力を縛るためにある、『個人』を守るためにある」と言ったたわ言に、独善にふけることしかできないのである。情けない、矮小な諸君ではある。

 憲法は「どんな差別も許さない」と高らかに謳う、そしてまさにその弁や良し、である。ところがその同じ憲法が、その冒頭で、まるで明治憲法と同様に天皇制を美化し、擁護するような、つまり「差別」制度そのものの天皇制を正当化し、国民に押しつけるような条文を持ってくるのである、つまりこの憲法の限界を、それが“絶対的な”善や真理であるどころか自ら矛盾し、破綻していることを暴露してしまっているのである。「国民主権」を強調しながら、天皇制はその原理と矛盾しないかに装うのであるが、しかし権力を王政と分け合い、王政の神聖さや「象徴性」などを謳う憲法がいい加減で、中途半端なもの、真実の「国民主権」をもたらすものでないことは彼らの理念からしても自明ではないのか。立憲主義派は「国民主権」を謳うなら、せめてその原則を最後まで徹底させてから、つまり世界でもすでに時代遅れとなっている、珍妙な“日本型王政”の残骸を一掃して実際的な“共和制”(“国民主権”の国家)を実現してから、現行憲法の絶対化やその擁護に乗り出すべきであろう。

 立憲主義者は憲法を称して「国家を縛る」ものだと言うが、天皇制が国家をでなく、「国民を縛る」ものであり、まさにそうした効用によって、明治維新以来、藩閥政府からこれまでの全ての政府(安倍政権に至るまでの藩閥的、反動的、ブルジョア的政府)は労働者、勤労者を押さえつけ、その闘いを抑圧し、自らの権力を強化し、それを支える格好の道具として、「天皇制」なる歴史の骨董品を悪用してきたのではないか、一体天皇制まで頭に戴いている現行憲法のどこに、もっぱら「国家を縛る」といった内容があるというのか。

 天皇といった“差別的”人間を、「国民の象徴」か何か知らないが、そんなわけの分からない人間を神聖化し、国民はその前にひれ伏せといった策動にふけりながら、憲法が「人権」を保障しているなどと言う諸君は破廉恥な連中である。すでに天皇は国民とは違って、生まれながらにその上に立つべき人間だと憲法で謳うこと自体、国民全体の「人権」を侮辱し、傷つけるものであることを理解しないとは、立憲主義者たちは何という愚鈍で、無神経な愚か者たちであることか。天皇制のために、どんなに多くの人々が犠牲になり、命を落としたかも知らないのか、天皇制の陰謀のために死を甘受しなくてはならなかった、明治の社会主義革命家たち(幸徳秋水ら)の無念さを忘れたのか、そしてまたアジア・太平洋戦争では何百万の労働者、勤労者が、「天皇陛下万歳」と叫んで死んでいったのである、つまり彼らは天皇のために闘って死んだというわけだが、それは、何百万の労働者、勤労者の「人権」を天皇のために犠牲にし、踏みにじったということにならないのか。そうだとするなら、立憲主義派の立場からさえも、天皇制など敗戦後ただちに廃止すべきだったということであり、又マッカーサーがいらんお節介をしなければ、そして労働者、勤労者の本当の闘いが発展することができたなら、すでにそのときに、それは実現していたかも知れないのである。国体派や反動たち、安倍一派は口を開くとマッカーサーに毒づくが、本当は“共和制”を阻止して天皇制(「国体」)を救ってくれた大恩人として感謝すべきなのである。

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 5、現行憲法の現実――「権利」と「義務」

 ◆財産権不可侵は国やブルジョアを「縛る」というのか

 戦後憲法の歴史的、実際的性格を規定する条文もしくは内容は、憲法のどこに盛り込まれているのであろうか。立憲主義者、市民主義者あるいはプチブルら(共産党など)は、9条であると勘違いし、「9条の会」なるものをでっちあげて、現行憲法の「擁護」と「防衛」に血道を上げている。

 しかし実際には、憲法の根底が29条の、「財産権は、これを侵してはならない」という短い条文にこそあるということを、彼らは考えても見ないのである。これこそ“近代的”憲法が“近代的”憲法であるゆえんであって、それが資本の支配する時代と社会の根底的な「基本法」として出現してきた理由である。こうした条文はまさに全ての“近代的”憲法の共通の根底であり、その本質である。18世紀後半のフランス大革命期のほとんど全ての「宣言」は、1789年の「人及び市民の権利宣言」の以下の文章を受け継ぎ、「所有権」の、つまり私的所有の「不可侵性」を強調しているのである。

 「所有権は、一の神聖で不可侵の権利であるから、何人も適法に確認された公の必要性が明白にそれを要求する場合で、かつ事前に正当な補償の条件の下でなければ、これを奪われることはない」(17条。「人権宣言集」岩波文庫133頁)。米国の憲法も1791年の「修正5条」で「自由および財産を奪われない」(同岩波文庫121頁)とある。(参考のために紹介すれば、第二次世界大戦後のドイツ「基本法」は14条で、「所有権及び相続権は、保障される」と簡明に記している(「世界憲法集」142頁)が、これは世界の現在の諸国家の基本法の一般的特徴である)。

 ブルジョア革命期、新しく生まれたこれらの“近代”諸国家の「基本法」が私有財産の「神聖」や「不可侵性」を謳ったのは偶然ではなく、まさに“近代”諸社会の、従ってその「基本法」(憲法)の歴史的、社会的な内容を、その本質を語ったのであって、それは現代にあってもまさに“普遍的な”ものとして日本の憲法にも貫徹されているのである。だから日本国憲法9条をもって憲法の本性だなどと理解するのはまるでトンチンカンで、歴史についても現実の社会的、政治的諸関係についても何も知ってもおらず、理解していないことを自ら暴露しているだけである。

 試みに、憲法の29条を、私有財産を止揚して、生産手段は社会の共有に移すとしてみよ、そうすれば憲法の全体が全く異なったものになるし、ならざるを得ないのである。そして立憲主義者やプチブルが「神聖」視する9条や、11条以下の「権利」条文も全く無用のものとなるか、意味を持たなくなるであろう。そもそも「労働」の権利とか、義務といった規定が、いかにナンセンスであり、愚劣であるかは自覚した労働者にとっては余りに明からである。

 ◆国民の「権利」と「義務」について

 我々はここで、憲法に規定されている、いわゆる国民の「権利」と「義務」の規定について論じないわけにはいかない。といのは、それが現代のブルジョア憲法を特徴づける契機であると共に、当今の大きな係争問題の一つとなっているからである。

 2012年の春に発表された、自民党の「日本国憲法改正草案」には、「基本的人権」についての言及の代わりであるかに、12条で「国民の責務」について触れられ、「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」と謳われている。「憲法とは国家を縛るためのもの」といったドグマにとらわれる護憲主義者つまり立憲主義者たちはこれを目の敵(かたき)にして攻撃しているが、しかし現行の憲法もまた、いくらでも同様の観念を述べているのだから、彼等の自己矛盾は甚だしいのである。

 立憲主義者が理想化する現行憲法は例えば国民の義務として、30条で「納税の義務」を謳っているが、立憲主義者たちは、「国民を縛る」この条文をいかに評価するのか。「国家」を否定するのだから、当然「納税の義務」も否定すると言うのか、しかし我々は立憲主義者たちが、そんな“過激な”無政府主義を信奉しているということを寡聞にしていまだ知らない。また憲法は26条では、教育を受ける「権利」と共に、自らの子供たち(「保護する子女」)に「普通教育を受けさせる義務」についても述べているし、27条では、「すべての国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」と言った、ブルジョアたちにとってはどう理解していいのかもはっきりしない、混乱した規定も盛り込まれている。

 さてこうした労働の「権利、義務」の規定は、いかに理解すべきであろうか、これはたまたまブルジョアたちの意思としてではなく、敗戦後の特殊な状況の中でたまたまブルジョア憲法の中に“紛れ込んだ”ものであろうか。

 実際、似たような憲法の条文は旧ソ連の憲法の中などに見出されるが、日本のブルジョア憲法がそんなものを謳っていいのだろうか。ブルジョアの所得は本質的に労働者の剰余価値であり、その一部である。彼らはだから膨大な寄生階級を抱えている。ブルジョア的な職業に高給で従事する連中――おべっかのために詭弁やたわ言を繰って高収入を得るインテリや文化人たちも含めて――、働くことなく優雅に暮らす、利子や配当、賃料や遺産等々の寄食者、膨大な主婦層、年金生活者、等々、このブルジョア社会には“現役の”労働者にひどい重荷を背負わせる階級、階層にこと欠かない、そして日本国憲法は「勤労する権利」と共に、その「義務」をも余りに明白に謳っているのである。とするなら、寄生階級は一切存在してはならないのではないか、「働く義務」があるということは、他人の労働に寄生して生活を送ることは許されないということではないのか。

 「労働する権利」ということなら分からないこともない、つまり労働者は不安定な、動揺する社会的な立場に置かれており、しばしば資本の都合によって首を切られ、生きていく手段さえ奪われるのである。だから、「勤労する権利」、つまり仕事を持って、いくらかでもまともに生きていく「権利」が保証されなくてはならないというなら、それはまともで、正当な社会的規範と言えなくもない(ブルジョア社会は多くの労働者にそんな「権利」を、ほとんど保障しないのであるが)。

 しかし「労働する義務」とは何であろうか、はたして「働かざる者食うべからず」という、一貫した労働者的な観点を謳っているのだろうか、一切の他人の労働に寄食する連中を一掃せよと言うのだろうか、そうだとするなら、憲法は、日本の国家は、国民に「勤労の義務」をしっかり「強制」し、一切の寄食者を一掃しているだろうか、そのために小指一本でも動かしているだろうか。

 しかし資本の国家が失業のない社会のために、どんな真剣な努力もしていないばかりではない、そんな意思さえ全く持っていないかである。反動派は、憲法はさまざまな「義務」をも規定している、それは国民にとって強制的条項でもある、と叫んでいる、そしてその意図はよしとしよう。しかし彼らは自分たちに都合の悪い「義務」を全て無視し、そこから逃げるのである(ここで「強制」という言葉をあえて使ったのは、反動派が憲法とは国民を縛る「規範」であり、「強制力」を持つものだ、たとえば納税の義務を見ても分かるように、国民の回避できない「義務」、つまり「強制力」だと言っているからである。憲法の謳う「納税の義務」が強制力だというなら、憲法の謳う「勤労の義務」もまた強制力ではなくては、反動派の言う理屈は一貫することは決してできない。我々は労働者、勤労者の党派として、「勤労の義務」もまた、納税の義務と同様に厳しく実行に移し、社会の寄食者を一掃するように要求する、というのは、寄食者が多ければ多いほど、ただでさえ耐えられないほどに過重となっている、“現役の”労働者、勤労者の負担がさらにその分大きくなるからである)。

 憲法27条の「勤労(労働)の権利と義務」の規定ほどに奇妙であり、一見して、こうした条文は何であろうかとつぶやくしかない。資本主義は常に多くの労働者の首を切り、労働から疎外している、つまり労働の義務か権利かは知らないが、恒常的にこの憲法の条文を無視し、なおざりにしている。国家もまた、「定年制」や「年金制」によって、自らこの条文を否定している。27条に「社会主義」の影を見たからだろうか、においを嗅いだからだろうか。

 しかし27条には社会主義のどんな影も香りさえもないのである、というのは、共同体社会においては、人々の労働は自然の社会的な行為として、自分と社会の生活を支えるものとしてのみ存在するのであって、「義務」とか「権利」とかいったものとは全く別のものとして現れ、また意識されるからである。

 労働者、勤労者にとって、生産的労働は個人的であると共に社会的であり(本質的に社会的である)、自分と社会の生活を支え、保障するものである。それは人間と自然との、人間相互の自然な関係であって、個々人にとって「権利」とか「義務」とかいったものではない。こうした関係を――全ての人間関係を――「権利」とか「義務」として表象し、還元する――しなくてはならない――、資本の支配する社会に特徴的であって、そんなものを“天賦のもの”などと言って美化する諸君は、まさに自らが“ブルジョア”であり、ファシストでさえありうる――というのは、労働は自然で自発的な行為ではなく、「義務」である、つまり何らかの強制の契機があると規定されるから――ことを、そして現実に他人の労働を搾取している、いないに関わりなく、意識としては完璧にそうであることを暴露するのである。ブルジョアにとっては、生産的労働は「義務」でなくてはならないのである、というのは労働者が勤勉でなくては、それをしっかり搾取することができないからである。

 (林 紘義)

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『海つばめ』第1239号・1240号掲載
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