『海つばめ』第1025〜1029号連載
【翼賛メディアを斬る――時代に迎合する「第四の権力」】
坂井 康夫
『海つばめ』第1025号●2006年9月10日
1.右にシフトする商業新聞
読売の変節と国益持ち出す朝日
反動化の勢いが一つの頂点に達し、改憲を公然と掲げる首相が誕生しようとしている。世論形成に大きな影響力を持つ新聞やテレビなどの情報メディアは、国家の基盤をなす立法・行政・司法を監視する使命をもつ第四の権力と呼ばれるが、この時代をどう伝えようとしているのだろうか。危険な動向に歯止めをかけるような気骨が、果たしてあるのだろうか。
戦後、商業新聞各社は、「戦争をあおった責任」を謝罪し、「新聞倫理綱領」を制定した(一九四六年)。「日本を民主的平和国家として再建するに当たり、新聞に課せられた使命はまことに重大である。……全国の民主主義的日刊新聞社は経営の大小に論なく、親しくあい集って日本新聞協会を設立し、その指導精神として『新聞倫理綱領』を定め、これを実践するために誠意をもって努力する」と、民主主義と平和主義に立脚した“自由、公正”な報道を誓ったのだ。朝日新聞は、「あくまでも国民の機関たること」も宣言した。
読売新聞も「今日以後読売新聞は真に民衆の友になり、永久に人民の機関紙たること」を誓約したが、第二次読売争議、朝鮮戦争、レッドパージを経る中で、“民主化”の道からそれ、新聞各社の主張の差も徐々に鮮明になっていく。
だが、「国論を二分」した六〇年安保闘争時、「暴力を廃し、議会主義を守れ」とする在京七社声明が出されるなど、商業新聞としての限界も明らかとなる。体制迎合の姿勢は、皇室報道ではとりわけ顕著となる。
それでも、靖国参拝や戦争責任をめぐる産経と朝日の“右から左”の差は、ジャーナリズムの健全性をかろうじて示すかである。だが、主張の差を見る座標軸は、確実に右に動いている。
同志社大学・浅野健一ゼミの大学院生は、日本マス・コミュニケーション学会で「日本のジャーナリズムを検証する」調査結果を発表した。
「中曽根元首相の公式参拝(一九八五年)と小泉首相による参拝の新聞報道を@憲法問題(政教分離問題)A外交問題B歴史認識問題という枠組みで比較分析……。対象とした新聞は、朝日・毎日・読売・日経・産経。対象期間は一九八五〜八六年と二〇〇一〜〇四年。……(調査結果は)中曽根時は憲法問題が記事総数の八〇〜九〇%を占めていたにもかかわらず、八六年九月の中国における反日デモ〔一連の民主化運動の中で日本の経済侵略に反対するデモも行われた〕以来、徐々に外交問題にシフトして、小泉時には外交問題が八〇%以上を占めた……。
また、論調においては、特に読売が劇的に変わった……中曽根時には『違憲の疑い』『中国・韓国の感情を考えよ』『A級戦犯合祀に反対』と主張していたが、小泉時には『私人・公人は問題でない』『他国からとやかく言われる筋合いはない』『A級戦犯は問題にならない』と主張。論調を一八〇度変化させている。
朝日も、中曽根時には『靖国問題=外交問題』と認識されることを警戒し、憲法問題に重きをおいていたが、小泉時には靖国問題を外交問題として論じている。また、違憲の主張も消極的に……。
以上の分析から@憲法問題への言及が減少し、ジャーナリズムが国家権力を監視していないことが明らか。とりわけ、読売新聞が政府を擁護するようになったのは、ジャーナリズムの役割を放棄した極めて分かりやすい例。A靖国問題を、ほぼ外交問題のみを主な論点としていることは、健全な議論を促すための……ジャーナリズムとして適切な態度とは言えない」(浅野著『戦争報道の犯罪』社会評論社刊より)
憲法改定私案でも明らな読売の変節は、今さら驚くにあたらないが、朝日もまた、軸足を右にシフトしているのだ。
朝日新聞論説主幹の若宮啓文は、しばしば「日本の国益」の立場から発言する。「アジアの平和と安定、そして真の国益のためには、各国とも大局的な判断が必要であり、政治リーダーには大きな決断が求められる」(日中韓3シンクタンク・合同シンポで)。
だが、小泉らの傲慢で反動的な言動が外交問題となるのは、何よりもまず、日本において国家主義・愛国主義が台頭しているからだ。ここで「国益」を持ち出せば、「政治関係の冷却化が、両国間の経済・貿易面にも負の影響を及ぼす」として参拝自粛を求める財界の立場と、どんな違いもなくなってしまう。
朝日は、従来の有事法制反対の主張を変えているが、若宮は「僕は自衛隊の存在を認めて、有事のときに出動されるというのならば、きちんとした法律があったほうが自然だ」と説明する。体制迎合の姿勢は明白だ。
二〇〇〇年六月、「新聞倫理綱領」は改定された。そこでは、「国民の『知る権利』は民主主義社会をささえる普遍の原理」であり、新聞はその担い手として、「正確で公正な記事と責任ある論評」を行うとしている。明らかに旧綱領と比べ政治性が薄められ、「平和国家」建設を目指す「人民の機関紙」ではなく、資本の支配する体制を「ささえる」と誓うのだ。
「正確で公正」など単なるお題目でしかないことは、小泉、石原、イラク報道などで次々と明らかとなる。
『海つばめ』第1026号●2006年9月24日
2.情報を伝えないメディア
虚像で安倍政権誕生を後押し
朝日新聞が行った世論調査結果(九月十日付『朝日』掲載)は、メディアがいかに世論形成に大きな影響力を持つかを示している。
調査は、自民党総裁選に関するもので、「次期首相にふさわしい人」に安倍は五四%もの支持を集めたのに、安倍の公約の「内容を知っている」はわずか一一%だった。安倍は「憲法改正」を公約の中心に置くのに、それを期待する人はわずか二%、期待する政策のトップは年金・福祉の四八%、次いで財政再建の一七%。つまり世論は、安倍の政策に関心も期待も持たないのに、次期総裁にふさわしいと答えたのだ。こうしたギャップは、近い将来大きな禍根とならざるを得ないだろう。
安倍支持者の四四%は、支持理由を「人柄やイメージ」とした。政権の座を狙う人物の思想や理念に関する情報を欠き、公約さえきちんと伝達しないメディアが作りあげたイメージ、虚像が安倍政権誕生を後押ししたのだ。
メディアの影響力を意識し、利用しようとした政治家は多い。佐藤栄作は、首相辞任の記者会見で、「テレビはどこだ」と叫び、新聞記者を追い出した。非自民政権の細川護煕も、記者会見を立って行い、メモを見ないですむプロンプターを初めて使用、質問する記者をペンで指名して「パフォーマンス宰相」と呼ばれた。そして何と言っても主役は小泉だ。
史上最低の内閣支持率八・四%(共同通信調査)で森喜朗が政権を降りた後、小泉は真紀子と一緒になって「自民党をぶっ壊す」と吼え、メディアは面白おかしく伝えた。「純ちゃんフィーバー」は、自民党の支持率を急回復させ、党内基盤の弱い小泉を政権の座につかせた。先の衆院選で小泉自民党は、巨額の資金を電通、博報堂といったPR会社に注ぎ込み、劇場型政治を演出し、メディアも無批判に飛びつき、大勝利の一因となった。
小泉は「ワンフレーズ」で自らの主張を済ませたと言われるが、それを垂れ流して来たのはテレビだった。「メディア先進国アメリカでは、半世紀近く前にすでにテレビは政治をショー劇場と変え、人々は複雑でやっかいな思考よりも単純で刺激的なサウンドバイト(ニュース番組に挿入される録音・録画されたスピーチ・インタビューからの短い抜粋)を好むようになっていた。真面目な思考は停止し、その代わりに娯楽映画を観るような面白さを求めるようになっていた」(『報道不信の構造』岩波書店)。在任中の平均支持率五〇%(朝日)という脅威的数字は、マスメディアの世論誘導抜きには考えられない。
そして今、小泉に続いて安倍も、メディアの助けを受けて政権の座につこうとしている。
メディアは、安倍が次期首相有力候補とされるようになってから、安倍の公の発言は伝えるが、周辺情報で安倍に不利なものは隠してきた。
今年一月、耐震偽装事件の証人喚問でヒューザーの小嶋社長は、安倍の秘書・飯塚洋の名前を出し、公的支援を陳情したと証言。翌日の朝日と読売、日経は「秘書」とするだけで匿名扱いした。飯塚は安倍晋太郎時代からの秘書で、拉致問題では外務省を通さない「裏」外交を策した人物で、匿名にする理由などない。
また、この五月、統一協会の集団結婚式に安倍が祝電を送っていたが、『赤旗』を除いて一切報道しなかった。「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の幹部である安倍は、歴とした右翼政治家、反共主義者であるが、新聞、テレビはそうは呼ばない。
マスメディアにとって、政権トップとの“良好な”関係は、情報源の確保と同義である。小泉訪朝時、日本テレビは北朝鮮に見返りとして二十五万トンの援助米が渡ると報じ、それが外交交渉を妨げたとされ、日本テレビだけが政府専用機への同乗を認められなかった。自民党政権の情報操作としてこうした取材拒否はしばしば行われてきたが、他社は見て見ぬふりを通し、容認してきたのだ。
日本の新聞社は、再販制度で守られ、税法上の特典(損金計上、償却費等の)を与えられ、社屋用に国有地の払い下げを受け、政治権力から特別に保護されてきた。広告料収入を大きな柱とする新聞社は、権力や企業と癒着し、事実を歪め、隠してきたのだ。
それでも新聞は、購読料を払う“読者の目”があるが、大企業の広告料を収入源とするテレビは惨憺たるものだ。「国の免許事業であるという制約が前提にあるうえ、ジャーナリズムより娯楽機関としての存在にウェートを置かれがちであり、権力に対する抵抗心が弱い」(『メディアの権力性』岩波書店)。どんなくだらないものでも視聴率がとれれば良いのだ。権力への鋭い告発は陰をひそめ、権力にすり寄るか、せいぜい茶化す程度の内容でしかない。
予算と経営委員任命権を国に握られているNHKも同様だ。森喜朗が「神の国」発言で問題になった時、NHK政治部の記者が釈明の指南をしたことや、「問われる戦時性暴力」の番組改ざん事件は、NHKが政権側の広報機関化していることを如実に語っている。
新聞・テレビは、「国民の知る権利」の担い手として「正確で公正な」報道を行うとするが、実態は大きくかけ離れている。必要な情報を伝えず、隠すメディアは、かつての翼賛報道に対する反省を忘れてしまったのだ。
『海つばめ』第1027号●2006年10月8日
3.石原、安倍は「極右」ではないのか
ルペンらには警鐘を発するが
政権の座についた安倍晋三は、今のところ自らの反動的政治信条をオブラートに包み、慎重さを装っている。メディアも様子見なのか、安倍のこれまでの言動を追及する気配がなく、『週刊プレイボーイ』などが改憲問題などで安倍の政治姿勢を追及する特集を組んでいる程度だ。
しかし、安倍の本性は隠しようもない。一九九三年の衆院初当選以来、歴史教科書攻撃の先頭に立ち、九七年二月には「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を事務局長として誕生させたが、「つくる会」もまたこの年の一月に誕生している。二つの会が連動して歴史の偽造を策してきたことは明白だ。
「従軍慰安婦に軍部関与を示す公文書はない」「侵略戦争をどう定義づけるか学問的に確定していない」「さきの大戦が侵略かどうかは歴史家の判断に待つべき」等の安倍の発言は、露骨な歴史修正主義として断罪されてしかるべきである。
欧米のメディアは、反ユダヤを叫び、ナチによるホロコーストはなかった、『アンネの日記』は捏造だと主張するような連中を、正当にも歴史修正主義者、人種差別主義者と呼んでいる。安倍をその同列と評価できる言動が山ほど積まれているのに、日本のメディアは及び腰だ。
安倍以上に露骨な石原慎太郎に対しても、日本のメディアは腰がひけている。
オリンピック誘致で福岡市への応援演説を行った姜尚中東大教授氏に対し、石原は、「怪しげな外国人が出てきてね。生意気だ、あいつは」と公言したが、その人種差別主義は露骨だ。
〇〇年四月、「不法入国した多くの三国人」(陸上自衛隊記念式典で)という発言が物議を醸した。石原は三省堂の大辞林を持ち出し、「当事国以外の国の人という意味で、蔑称とはされていない」と開き直った。しかし、「大きな災害が起きた時には、大きな騒じょう事件すら想定される」という話の中での「三国人」発言であったことを追及され、「今後は、誤解を招きやすい不適切な言葉は使わない」と謝罪した。
しかしこの九月十五日、「不法入国の三国人、特に中国人ですよ。そういったものに対する対処が、入国管理も何にもできていない」と発言したことが、『朝日』都内版に小さく報じられた。しかし、石原の二枚舌、人種差別発言を告発するような論調では全くない。
『ご臨終メディア』(集英社新書、森達也・森巣博著)は、「なぜ石原慎太郎を『極右』と呼ばないのか?」として、大要次のように告発している。
《石原は、その著書『日本よ』(扶桑社文庫、〇四年三月)の中で、中国人による犯罪が増えたことに触れ、「こうした民族的DNAを表示するような犯罪がまん延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく」「将来の日本社会に禍根を残さぬためにも、我々は今こそ自力で迫りくるものの排除に努める以外ありはしまい」と書いている。
日本のメディアは、フランス国民戦線党首のルペンや、オーストリアのハイダーを「極右」と紹介するが、彼らと石原にどれほどの違いがあるというのか。「極右」のルペンやハイダーでさえ、「民族的DNAを表示するような犯罪」とは主張しない。そんなことを言ったら、一発で「人種差別煽動・助長行為」として起訴され、檻の中でしゃがまなければならない。》
石原が、DNAまで持ち出す最悪の人種差別主義者であることは、もはや疑いもない事実だ。だがメディアは、そうした問題発言を伝えることはあっても、彼を決してそうは呼ばないし、「極右」とさえ呼ばない。
この本には、メディアが石原を正しく「極右」と呼んできたなら、都知事選で三百八万票(二期目、青島辞任後の一期目は百六十六万票)を獲得することはなかったであろうとも書かれている。石原の本性を暴くことも、批判することもできないうちに、権力の座に君臨されてしまい、手も足も出なくなってしまったのだ。まさに“ご臨終メディア”だ。
戦前の新聞は、最初から戦意高揚を謳う翼賛報道をしたわけではなかった。「日本が戦争へと突き進んだ昭和初期、……当時のマスメディアといえば、朝日と東京日日(現在の毎日)でした。最初は二紙とも、日中戦争に対しては極めて抑制的でした。ところがある時期から、在郷軍人会の不買運動などを契機に、日日が微妙に論調を変えた。要するに戦争容認の気配を打ち出したんです。途端に部数が跳ね上がった。そこで朝日も、少しずつであるけれど、路線を変えて、それによって日日がまた少しだけ過激になって、ということを繰り返して、気がついたときは『肉弾三勇士』や『百人斬り』など、両紙とも翼賛報道一色になっていました」(同書)
日本の現在のメディアも、石原や安倍の本性を語ることなく見過ごし、「極右」とも「人種差別主義者」とも呼べないとするなら、右へと大きくカジを切り始めた日本の政治情況に流されていくしかないだろう。
カエルを熱湯に入れるとすぐ飛び出すが、水に入れて徐々に加熱すると気持ちよくゆで上がるという話があるが、メディアもその危険性を自覚できないほど鈍感になってしまったのだろうか。
『海つばめ』第1028号●2006年10月22日
4.イラク戦争とメディア
報道規制に屈服、自衛隊の広報係に
小泉内閣は、自衛隊イラク派遣を「非戦闘地域へ人道復興支援活動のため」と強弁してきた。しかし、部隊のわずか二割が給水・医療・施設補修にあたるだけで、その活動も、地元部族に大金を払うだけだったり、イラクでは維持・管理が困難な高額の医療機器を置いてくるだけの、形だけのものだった。残り八割の部隊は、要塞化されたサマワ宿営地で、「人的被害がない」ことだけを目標に、タコ壷生活を送ってきた。こうした実態をメディアが伝えたのは、派遣終了となってからのことである。“時すでに遅し”ではないか。
十月九日付『朝日新聞』は、新聞週間特集として、自衛隊イラク派遣部隊の取材活動について報じている。「『部隊の安全確保』を理由に公開する情報を制限しようとする政府・防衛庁と、『国民の知る権利』を掲げるメディアが対立する場面もあった」
朝日の書き方は、いかにも「知る権利」を貫くために奮闘したかのようだが、「安全確保などに悪影響を与えるおそれのある情報については、報道に先立ってその取り扱いにつき、防衛庁または現地部隊による公表または同意を得てから報道する」等の同意事項を定めた取材ルールに、他のメディアとともに同意、社印を押した誓約書を防衛庁に提出しているのだ。
憲法第二一条には、「一、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。二、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」とあるが、この同意事項は、検閲そのものではないか。
『戦争報道の犯罪』(社会評論社刊)の著者浅野健一氏は、「メディアが行政権力に対して報道規制に応じると約束した文書を出したのは新憲法下では初めてではないか」と、その危険性を指摘する。
浅野氏は、「陸幕が示した条件は、イラクを侵略した際に、米英軍にエンベッド(embed=埋め込み)した従軍記者に米軍が誓約させた十九項目の『従軍取材指針』を参考にした」というが、米軍の指針にない項目までが加わっており、「安全なはずの『非戦闘地域』での復興支援活動を実施する自衛隊の取材・報道がなぜ『戦場』での指針よりも制約が厳しいのか」とも指摘する。結局、この規制は、小泉のイラク自衛隊派遣の虚偽説明と、憲法違反によって成り立っているのだ。
メディアの自殺行為にも匹敵する誓約書提出の背景には、メディアが取材源、情報源を安易に行政権力に求め、その広報機関に成り下がっている癒着構造がある。
記者クラブ制度は、その典型だ。かつて東京新聞は、「新聞記事の九〇%はどの新聞も変わらないのだから、朝夕刊3250円(『読売』『朝日』は3950円)の安い『東京新聞』の購読を」と宣伝していた。これを問題視したのは、当の東京新聞労組であったが、「変わらない」理由は、行政権力ごとにある記者クラブが、行政側の広報内容をそのまま記事にしているからである。事件・事故に関する情報は、ほぼ全てが警察発表通り、経済関係では、財務省や経済産業省、日銀などが発表する資料や統計、景況判断が垂れ流される。外交・防衛問題も同様で、権力の意図する世論誘導が、メディアの権力との癒着と広報機関化とで、なんなく行われるのだ。
イラク取材ルール問題でも、防衛記者会と陸海空幕広報室との積年の癒着、なれ合いがこうした規制を可能にした。
「空幕広報室の赤峰二等空佐の説明によると、“(イラク現地の広報官と)記者クラブのみなさんとの勉強会”を週一回は開いており、そこで誓約書を書いてもらったということだった。赤峰氏は『現地だけでなく東京市ヶ谷の防衛庁でも勉強会を行っている。情報交換もする。我々は防衛記者会とは信頼関係が常にありますから』と何度か強調した」(前掲『戦争報道の犯罪』)
朝日は、「取材活動が制限されるように解釈できる」と、当初こそ留保したようだが、最終的に規制を認め、記者クラブ制度の恩恵を手放さない代わりに、「国民の知る権利」をないがしろにし、憲法違反の検閲を受け入れたのだ。準戦時下での取材という弁解も、ここでは許されない。小泉は非戦闘地域への派遣と断言したのだから、メディアはその虚偽を徹底的に糾弾すべきであって、「部隊の安全確保」を理由にする規制など拒否すべきだったのだ。
日本のメディアだけの問題ではない。欧米のメディアも米英軍側の情報操作に与し、精密誘導爆弾が命中する映像を垂れ流し、戦車部隊に同行する記者が、砂嵐の中をいかに苦労して進撃したかをレポートする。フセイン像が倒される場面も含め、それが仕組まれた情報であるにもかかわらず、イラク戦争の全てであるかのように報道し、“正義の戦争”という演出に加担したのだ。そこには空爆で傷つくイラクの民衆は、全く登場しない。
イラクの国内情勢についての新聞報道を気をつけて読むと、記事のほとんどがイラク現地ではなく、アンマンやクウェートからのものである。現地にはイラク人スタッフしかいないのだ。「国民の知る権利」云々が虚しく響く。戦時ほど、メディアの真価が問われる時はないのだ。
現在、朝日など新聞各紙は、福島県知事が関与した談合事件を、行政と企業との癒着と報道しているが、自らの権力との癒着については、鈍感だ。
『海つばめ』第1029号●2006年11月5日
5.差別容認する皇室報道
『朝日』の敬語廃止も欺瞞的
小泉内閣時、『朝日新聞』(〇六年五月十五日)の皇室報道が、国会で取りあげられた。天皇皇后が皇居近くの北の丸公園を散策したことを伝えた記事を、保利耕輔(無所属)が読み上げ、「敬語が使われていない、政府の見解は」と質問した。原文は、「両陛下は出かける際に同公園そばを通ることが多く、以前から公園内での散策を希望していたという」ものだった。
官房長官だった安倍は、「ここで敬語を使わなければ、いったい誰に対して敬語を使うのか」と述べ、小坂文科相(同)も、「敬語の使い方が乱れているということで、敬語をしっかり学ばせるということ、それは日本語の美しさを伝えることにつながります。さらにそれは、愛国心にもつながっていく」と答弁した。
「戦後、天皇制はGHQによって存続することになった。一九四七年八月、宮内当局と報道機関との間で、天皇・皇室報道は普通の言葉の範囲内で最上級の敬語を使うことが取り決められた。戦前のような用語による報道はなくなったが敬語は残されることになった」(『皇室報道と「敬語」』中奥宏著・三一新書、以下引用は全て同書より)
これは、四七年五月の憲法施行に伴う取り決めで、「玉体、聖体」といった宮廷用語は使わないが、「おからだ」といった他の誰にも(政治家にも外国首脳にも)使わない敬語を、皇室報道に限っては使おうという内容だ。民主主義と国民主権、法の下での平等が唱えられる一方で、天皇制という人間を生まれながらに差別する制度を残すという、欺瞞の産物である憲法への、天皇の戦争責任を徹底的に追及できなかったメディア側の適応の産物であった。
だが、九三年六月の皇太子結婚を機に『朝日』、続いて『毎日』が、皇室報道の敬語を廃止する“改革”を行った(「陛下」「さま」「〇〇宮」といった敬称は残されたが)。『琉球新報』や『沖縄タイムス』も同様に廃止したが、『産経』や『読売』等、多くの新聞メディアはそのままである。
『朝日』の「敬語廃止」から十三年にもなるのに、安倍や小坂は、ことあらたに“皇室に敬語を使え”と言い出したことになる。その反動的な意図は明確だが、他方、朝日や毎日の“改革”も一貫しておらず、それは、「陛下」等の敬称使用にとどまらない。
「(朝日は)湾岸戦争での掃海艇派遣などをめぐって社説に明確な社論がかすんで(いるが)……、しかし、こと天皇・皇室報道については大健闘が目立っている。それは、昭和天皇の病気、川嶋紀子さんのスクープはもちろん、天皇・皇室関係の単行本をもっとも多く出しているのも朝日新聞社だ。毎日新聞社が創刊一二〇年記念出版として『皇室の至宝/御物』を刊行しているが、同月に高松宮宣仁親王伝記刊行記念展を主催したのは朝日新聞社だった」
皇室の慶事や裕仁の死去時に、自社の週刊誌の増刊号や写真集を出し、大いに利益を上げていることには、一切口をつぐんでいる。特に朝日は、雅子の妊娠(結局、流産だったが)をスクープするなど、他のメディアに引けを取らない取材体制をとっていることに、どんな反省もない。朝日は「公人中の公人」だと弁解するが、それが民主主義、主権在民と両立するわけがないのだ。
女性週刊誌や、テレビの朝と午後のワイドショーでの皇室報道はもっとひどい。皇室賛美やファッションチェック、ゴシップなど何でもありで、女性皇族やその子供は「輝く華のある芸能人と同じスター的存在」となっている。
“専業主婦”や、社会的経験に乏しく批判精神に欠ける“遅れた大衆”を主な対象とするこれらのメディアは、販売部数や視聴率に示される数値だけが、何をどう報道するかの判断基準となっているのだ。生まれて間もない赤ん坊を「新宮さま」と呼び、どうでもいい皇室の私事をさも重大事であるかに伝える。「結論はズバリ『売れるから掲載する』に尽き」、皇室報道ほど「高視聴率と制作費が安くつく」ネタはないのだ。
こうした過剰なまでの皇室賛美は、その対極にある部落差別や、ホームレス、ワーキングプアと呼ばれる生活苦にあえぐ人々への同情や共感をではなく、いわれなき貴賤意識を“遅れた大衆”の中に育て、「差別の温床」にもなっている。
マスメディアが流す害悪は、これにとどまらない。他愛もないことだが、朝の情報番組には、必ず血液型や星座による占いコーナーがあるが、これほどの非科学はない。血液型はABO式だけでなくRh式、MN式など約三百種類あるが、それが人格や能力に直接関係するわけがない。星座占いにいたっては、地動説時代の産物であり、どんな科学的根拠もないのだ。
かつてのスプーン曲げやUFO、霊能力といったものも含め、大衆の愚昧化を助長し、オウムなどの荒唐無稽な宗教集団の跋扈と犯罪行為にも荷担したと言わなければならない。マスメディアは大きな責任を負っているのだ。
メディアの惨状は、日本の資本主義が健全性を失い、衰退と退廃の時代を迎えていることの反映であろう。利益優先の商業メディアが権力と癒着し、時代に迎合するのをただ嘆いているわけにはいかない。確かに、我々が入手できる情報には限界があるが、しかし、それを階級的科学的に分析し、この社会の本質に迫り、労働者の中に健全な批判精神と階級的な自覚を育むことは十分可能である。本紙も、そうした課題に応えていかなければならない。
(終わり)