『プロメテウス』25号(1997年3月発行)
反動思想を徹底批判
「『父性の復権』批判」ほか


 日本資本主義の頽廃、寄生化が深まるなかで、国家主義、民族主義など反動的な思想攻撃が強まっている。労働者は決してこうした状況を軽視することはできない。自らの階級的な立場をうち固め反撃に立ち上がって行かなくてはならない。本号では、最近の反動的思想を取り上げ、論じている。

 資本主義の頽廃は、家族の解体、青少年の非行の蔓延などブルジョア的秩序を揺るがせているが、最近出版され、テレビ、週刊誌などブルジョア・マスコミが取り上げてベストセラーになった、林道義の著書『父性の復権』は、こうしたブルジョア社会秩序の動揺に対する危機意識の反映である。

 『父性の復権』の著者は、現代社会のさまざまな困難は家庭がしっかりしていないからである、そして家庭がしっかりしていないのは、父親が「父性」の自覚を失っているからだとして、父親に「父性」の自覚、家族の統率者、指導者としての役目を果たすよう強調している。そして彼は、秩序、文化的伝統のすたれ、倫理観の混乱の危機を強調し、文化的伝統の継承、社会規則の順守、秩序の重要性を説教する。

 林紘義氏の「ゴリラは人間の理想たりうるか」は「父性の復権」論の批判である。論文は、個別家族を絶対化し、封建的な家父制を美化する女性蔑視の思想であり、また現代の頽廃していく資本主義のなかにあって権威主義や文化的伝統の伝承や社会規則の順守、秩序の重要性を説教することは、ファシズムのイデオロギー的露払いの役割を果たすであろうと述べている。

 また最近、藤岡信勝、西尾幹二らの「自由主義史観研究会」によって教科書攻撃行われている。彼らは従軍慰安婦問題や東京裁判などをとり上げて、従軍慰安婦など存在しなかった、太平洋戦争は日本の「自衛のための戦争」であり、東京裁判は「勝者による裁判」でしかなかった、今の教科書は歴史の真実から目をそむけて日本だけを悪者にした「自虐史観」「屈辱史観」に貫かれているといって、“民族としての自信”をもてなどと叫んでいる。

 斎藤好明氏の「『自由主義史観』という名の帝国主義史観」は、日本の侵略戦争を弁護し、国家主義、民族主義を唱える藤岡らの帝国主義ブルジョアジーの旗振り役としての反動的役割を暴露している。

 平岡正行氏の「池上惇の『文化経済学』批判」は、物質的な豊かさが一定程度達成された今日、「ココロの豊かさ」の追求が重要だとして、芸術や文化活動を「固有の価値」として経済学のなかに取り入れ、新しい経済学体系をつくり上げていこうという「文化経済学」を論じている。論文は、資本主義の体制のもとでの文化的豊かな社会の実現を夢見るこの理論の愚かしさを明らかにしている。

 林紘義氏の「生産的労働者のマルクス主義的概念について・下」では、今回はサーヴィス労働は生産的労働とする赤堀邦雄と飯盛信夫の理論を取り上げている。彼らはサーヴィス労働の拡大を「社会的分業の深化・拡大」として描き、あたかも社会のより高度な段階への発展あるかにいっている。論文はサーヴィス労働が不生産的労働であること、その拡大は資本主義の腐朽と寄生化を表していること、さらにサーヴィス労働を美化する赤堀、飯盛らの主張が資本主義の“民主的改革”という改良主義的立場と結び付いていることを明らかにしている(なお、この論文は次号掲載の予定であったが、他に予定した原稿が締切までに間に合わなかったために、急遽今号に掲載したことを、おことわりしておきます)。

 一方、“大競争時代”といわれるように、資本の競争はますます激烈なものとなり、リストラ合理化など労働者の犠牲強化もたらしているが、他方では、国際的規模での労働者団結と闘いの条件をもたらしている。それを象徴しているのは現代の基幹産業の一つである自動車産業であろう。自動車産業では世界的な過剰生産の圧力のもとで生残りを賭けた資本の市場争奪戦が展開されている。

 米・ビックスリーのナンバー2、フォードは、輸出の低迷と国内販売の不振で経営難にに陥ったマツダを傘下に加え、生産・流通を一体化させた国際的分業を推し進めている。

 泉安政氏の「フォードと一体化進むマツダ」は、大競争の中で進む世界的規模での生産の一体化の意味を論じている。

 最後に、淡中剛郎氏の「“弱者”を慰撫する『愛の同伴者』」は、昨年秋に亡くなった遠藤周作の文学論である。彼は、キリスト教作家として知られているが、論文は、西欧のキリスト像を日本的に“作り直す”ことによってキリスト教を広め、神による救済を説く遠藤文学の本質を浮き彫りにしている。

 多くの労働者、働く仲間の皆さんが本誌を購読されるよう訴える。