『プロメテウス』第31号(1998年9月発行)
『共産党宣言』百五十周年記念
「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている――共産主義の妖怪が」という有名な書き出しで始まる『共産党宣言』が出版されてから、今年で百五十周年を迎える。フランスのギゾー、オーストリアのメッテルニッヒをはじめとする当時の反動政治家、フランスのブルジョア的急進派やドイツの官憲、ローマ法王やツァーリ専制政府など、旧ヨーロッパのあらゆる権力と支配階級は「共産主義」を悪魔のごとく忌み嫌い、弾圧を続けていた。
その中で、あえてマルクスは「共産主義という妖怪」が、ヨーロッパに現れていると宣言したのである。反動派の共産主義についての「妖怪談」に対抗して、共産主義者の見解、その目的、その傾向を共産主義者同盟の「綱領」として全世界に公表したのが『共産党宣言』であった。
したがって、本書には青年ヘーゲル派の一員として革命的民主主義者として出発したマルクスやエンゲルスが唯物史観を確立し、革命的共産主義者に成長していく過程で獲得してきたマルクス主義のあらゆる基本的命題が凝縮されている。百五十年経過した現在においても、この『党宣言』から労働者は多くのことを学ぶことが出来るし、学ばなければならない。
ところがそれから百五十年、ブルジョアジーはもちろん様々なインテリや改良主義者によって、マルクス主義=共産主義は古くさくなった、『党宣言』は歴史的な文献にすぎないと繰り返されてきた。今日においても、石塚正英や加藤哲朗といったインテリから、『党宣言』についての様々な「解釈」がふりまかれている。我々は、プチブルインテリのもっともらしい『党宣言』への攻撃に反撃し、『党宣言』の革命的意義と内容を擁護しなければならない。
今回のプロメテウスは、こうした立場から三つの論文を掲載している。「マルクス主義の発展における『党宣言』の位置」(伊藤比佐男)は、マルクスの主要な著作をたどりつつ青年マルクスから『党宣言』までの発展を跡づけ、マルクス主義における『党宣言』の位置を明らかにしている。「『党言』は『主義者宣言』か」(八鍬匠)は、「『党宣言』は共産主義者宣言である(あらねばならない)」という「フォーラム98s」の石塚正英の「解釈」が市民主義的なおしゃべりであり、労働者政党の意義や役割を否定するものであることを暴露している。「『民衆の地球宣言』は『共産党宣言』を超えるのか」(小島保雄)は、“エルゴロジー”を掲げる加藤哲朗の『党宣言』についての批判(攻撃)のナンセンスを糾弾している(他に『党宣言』についての随想二本)。
それにしても不可思議なのは、マルクス・レーニン主義を受け継ぎ、「科学的社会主義」を掲げる日本共産党が『前衛』でも『経済』でも何一つまじめな「特集」を組んでいないことである。わずかに『経済』二月号で、服部文男と橋本直樹が『党宣言』について述べているが、その内容たるや資料や文献にかかわる学術的な議論のみ。『宣言』が現在の労働者階級にとってどんな意義をもっているかといった現実的で実践的な課題とはおよそ無縁の学術論文にすぎない。
しかし、これは偶然ではあるまい。共産党の現在の政治を見れば――民主的改良だ、資本主義のルールづくりだ、無党派との共同だ、安保棚上げの保守との共同だ等々――『宣言』の革命的内容や精神など欠片(カケラ)も見られないからだ。夏の参議院選挙で“躍進”したかにはしゃぎまわっているが、その実践の一つ一つが『党宣言』を踏みにじっている。今回の特集論文では、直接に共産党には言及されていないが、市民主義者への批判はそのまま日本共産党への批判にも通じている。
他に、改革・開放路線を掲げて急速な経済発展をかちとってきた中国が、どのように世界経済の中に組み込まれてきたかを具体的に分析した「対外開放と中国の市場経済化」(鈴木研一)、今年二月に韓国大統領に就任した金大中――「民主化闘争の闘士」といわれてきた――を韓国の歴史の中で位置づけた「金大中論」(増田加代子)がのっている。
また、前号に掲載した「商品の“物神性”の確認を」という論文を契機に「価値形態」をめぐる議論が党内で進められてきたが、“資料”として代表的な論文(里見・林・田口・西村・仁田の各氏)を掲載した。
多くの労働者・青年の皆さんの購読を呼びかける。
(Y)