『プロメテウス』第33号(1999年3月発行)
「再建される」のは生産者の自己所有
「個人的所有の再建」問題を特集


 社労党理論機関誌『プロメテウス』三三号(一九九九年春季号)が発行されたが、そこでは、二つの重要な問題が論じられている。

 一つは、日の丸・君が代の法制化の問題であり、共産党がこれを事実上容認する立場に移ったことの意味である。

 しかしもちろん、共産党の裏切りについては今さら大げさに論ずる必要さえないのであって、この党の労働者階級に対する背教は決して昨今に始まったことではないのだ。ただ、共産党の政治的特徴の現段階は、安保条約の容認、天皇制の暗黙の承認、そして日の丸・君が代の受容等々、最近においては歯止めを失って、露骨にブルジョア政党として振る舞うようになった、つまり最終段階に到達した、ということであろう。

 彼らはすでに日和見主義者でさえない、というのは、彼らは完全に“バリケードの向う側”に立とうとしており、すでに立っているからである。

 我々は国歌、国旗の法制化を正当化する共産党のありとあらゆるへ理屈――本質的に、汚い詭弁――の一切をとことん暴露することによって、この党の反動的な本質を明らかにし、彼らを糾弾するのである。

 さて、もう一つの重要な“柱”は、マルクスの「個人的所有の再建」という言葉に対する、エンゲルスの解釈にかかわる特集である。

 我々は昨年の大会で、マルクスが「個人的所有の再建」という言葉で示しているものは生産手段であって、エンゲルスが解釈しているように(そして共産党などが強調しているように)、消費手段と理解することは決してできないという確認を行ったが、『プロメテウス』今号の特集は、我々のこの立場をさらに明確にし、深めるためのものである。

 三三号の特集には、平岡正行氏の「否定の否定としての『個人的所有の再建』論」、林紘義氏の「『個人的所有』を強調する大谷理論」、亀崎勘治氏の「『個人的所有の再建』問題を論ず」の三つが収められている。

 平岡氏の論文は、再建されるものが消費手段だと主張する共産党系のインテリと、他方、生産手段としながらも、それを「個人的所有」という言葉に引き付けて、プチブル的に解釈する自由主義的学者の双方に対する批判であり、林氏のは、資本主義の枠内で労働の社会化と労働者による生産手段の「個人的所有」が形成され、それが社会主義で「ありのままに」に現れるという大谷氏の理論の批判であり、亀崎氏のは、「個人的所有」という言葉で言われていることの内容は何かを考察したものである。

 問題になっているマルクスの理論を、もう一度ここで確認しておくことにする。

「資本主義的生産様式から生ずる資本主義的領有様式は、したがって資本主義的私有は、自己の労働に基づく個別的な〔個人的な〕私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一種の自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を産み出す。それは否定の否定である。この否定は、私有を再興するのではないが、しかしたしかに、資本主義時代の成果を基礎とする、すなわち、協同と土地および労働そのものによって生産された生産手段の共有とを基礎とする、個別的所有を作り出す」(『資本論』第一巻第二十四章、岩波文庫第三分冊四一五〜六頁)

 マルクスがここで用いている「個人的所有」という言葉は、その内容から言えば、「自己所有」ということである。

 小所有においては、生産者は生産手段を所有している、そしてそれは私有財産である。他方、社会主義では労働者もまた生産手段を所有している、しかしそれはただ共同所有、社会的所有としてであって、決して私的所有としてではない。

 この両者に共通しているのは、生産者が生産手段を自己所有しているということである。もちろん最初は私的所有として、そして最後は社会的、共同的所有として、の違いはあるのだが。

 この場合、「個人的所有」という言葉にこだわることは無意味であるばかりか、混乱のもとであろう、というのは、生産手段の個人的所有とは、その私的所有ということとほぼ同じ意味で理解されるからである。普通の観念からしても、個人的所有とは私的所有である、あるいはそれと関連して言われるのであって、社会的共有との関連からではない。

 実際、ありとあらゆる自由主義的、プチブル的理論家たちは、さっそくこの「個人的所有」という言葉に、ただ言葉だけに“飛びつき”、労働者の生産手段の自己所有の概念を、何か言葉の本当の意味での「個人的所有」であるかに騒ぎ立ててきた。

 社会主義においては、個人主義者や自由主義者が言うような意味での「個人的所有」といったものはありえない。他方、資本主義に先行する小生産においては、個人的所有は私的所有であり、私的所有以外を意味しなかった。

 まさにそれゆえに、この言葉は誤解を招くのであり、また事実、共産党系の理論家(スターリン主義者一般)を見ても分かるように、招いてきたのである。

 彼らは、「個人的所有」というからには、それは生産手段であるはずはなく(というのは、社会主義においては、生産手段は共同的に所有されるのであって、“個人的に”所有されるのではないから)、それは消費手段と理解する以外ないと主張してきたし、今もしている。

 単に主張するだけでなく、こうした用語上の混乱に乗じて、社会主義の概念を混沌とさせ、そのことによって、自らのマルクス主義の修正と日和見主義――社会主義においても私的所有が存続する等々――を正当化してきたのである。

 しかし問題が生産者(労働者)と生産手段の関係であり、「否定の否定」によって「再建される」ものが、生産手段に対する生産者の自己所有の関係であるとするなら、「個人的所有」という言葉にこだわることがどんなにナンセンスであるかが分かるであろう。

 むしろここでは「個人的所有」という言葉を、「自己所有」という概念に置き換えるべきである、そしてそうしてこそ、マルクスの主張の本当の意味と意義を理解することができる、と主張するのである。

(H・H)