『プロメテウス』第36号(2000年1月発行)
教育基本法を総括
社労党大会決議も掲載


 主な内容は、社労党大会決議(経済と国家財政の解体を準備する自自公政権を暴露し、それとの闘いを呼びかけたもの)の他に、戦後教育と教育基本法の本質を探ったもの(林紘義)、石原慎太郎の野望を暴露したもの(森雅一)、産業再編を分析したもの(田口騏一郎)、イギリスの新労働党とその「第三の道」路線を批判したもの(鈴木研一)、そして石原慎太郎の文学の反動性を彼の小説に即してあばいたもの(淡中剛郎)である(括弧内は執筆者)。

 まず我々は社労党大会決議の持つ意義を強調したい。決議は自自公政権が強行している財政膨張政策の意味と、それがどこに行き着くか、そしてそれは階級闘争の発展にどんな意義を持ってくるかを深刻に分析し、展開しており、今後の労働者の闘いの方向を差し示すものとなっている。その意味で、この決議は深く検討する価値を持っている。

 また五つの論文や評論はいずれも時宜にかなったもので、それぞれ興味ある内容のものであるが、とりわけ林氏の論文は力作で、教育基本法が成立した時代に焦点をあて、戦後教育の本質を徹底的に追及している。現在、小渕政権が「教育立国」などをぎまん的に謳い、教育改革をわめき、あるいは教育基本法の改定を言い始めているとき、この論文はとりわけ重要な意義を持つものになっている。

 戦後、教育基本法は自由主義者やインテリにとってばかりでなく、社共にとっても“聖典”として絶対化され、持ち上げられてきたが、実際にはそれは、その誕生からして本質的に限界のある、空論的なもので、ある意味では反動的でさえあった。そのことが、当時の背景や諸条件とともに、簡明に究明され、批判的に分析されている。

 アメリカの差し金によって成立し、原案までがアメリカのおしきせであった憲法と違って、教育基本法は日本が“主体的に”作ったものであって、その意味では特別の意義をもっている、またそこには、教育の永遠普遍の原理が盛り込まれているとかの観念が、戦後はびこってきたが(主として自由主義的インテリの中で、そしてその影響下に陥った社共の中で)、しかし実際には憲法と同様にアメリカからの“押しつけ”であり、そしてまた“アメリカ流の”(すなわち典型的に資本主義的な)自由主義、民主主義、個人主義の教育観に支配されていたのであり、日本側の“修正”とか“独自性”といったものは、それに一層道徳主義的、観念的な内容を盛り込んだといったことにすぎない。

 その意味では、理想の教育を謳った教育基本法という観念は一つの幻想であり、その幻想によって資本の支配、資本のための教育という本質を蔽い隠すものであったばかりか、現在の教育荒廃を一面では準備してきたのである。

 教育基本法を作成した知識人たちは、“進歩的な”自由主義的立場に立っていたと言われてきたが、実際には、教育勅語もまた必要であるなどと主張するような、観念論的で、道徳主義的な“文化人”たち(信奉する思想はカントや西田幾多郎等々の哲学、倫理主義や宗教であった)、“頭でっかちの”反動的知識人たちであった。

 もちろん教育の荒廃、その解体、反動化を積極的に規定しているのは、日本独占資本の帝国主義的資本への成長であって、教育基本法そのものではない、しかし教育基本法がこの反動化に対して全く無力であるばかりか、ある意味ではそれを促進するものであることこそが明らかにされなくてはならないが、それは戦後民主主義もしくは憲法がそうであったのと同様である。

 今、小渕政権が教育基本法の改悪を謳い始めているのに対して、教育基本法を守れ、と共産党などは叫んでいる。もちろん反動的な自自公連立政権の攻撃に対して断固として闘い、反撃していくことは必要であり、この闘いは毅然として闘いぬかれなくてはならない、しかしそれは教育基本法を美化し、擁護することとは別であろう。

 自覚した労働者は、小渕政権の反動的な攻撃と断固として闘うであろうが、しかしそのためには、教育基本法を美化し、それを擁護するのではなく、反対に、そのプチブル的、自由主義的本質、つまりその限りで空虚な本質、矛盾した本質を暴露していかなくてはならないのである。