『プロメテウス』第40号(2001年2月発行)
特集/希代の理論的詐欺師=不破哲三
国家論の歪曲など徹底告発
今号は特集「希代の理論的詐欺師・不破哲三批判」と銘打って、いずれも力作揃いの四つの論文から成っている。
周知のように、日本共産党は昨年暮れの党大会で、党規約を改定して「前衛政党」の概念を否定し、また「自衛隊の活用」を打ち出すなど、いっそう決定的なブルジョア的転落をなし遂げた。
一九六一年の第八回大会で現綱領を採択して宮本路線が成立してから四十年、共産党は当初のスターリニズム丸出しの民族主義政党から次第にブルジョア社会に順応、融合し、今では俗悪極まる体制内の改良主義政党に成り下がってしまった。
この共産党の“ブル転”に、宮本顕治の忠実な茶坊主として理論的粉飾を施して来たのが不破哲三に他ならない。彼はこの四十年余、共産党の日和見主義とマルクス主義との折り合いをつけ、それをもっともらしく弁護し、正当化するために苦心惨憺、ただそのためだけに駄文の山を築いてきた。
その汚らしい手口はまさに「理論的詐欺師」と呼ぶほかにないものであり、本号執筆の四人の論者はそれぞれのテーマにそってこの不破の理論的ペテン師ぶりを完膚無きまでに暴き出すとともに、不破によって歪められ、ねじ曲げられたマルクス主義理論をよみがえらせ、その本当の姿を対置している。
このため、読者はこの四つの論文から、単に不破の詐欺・瞞着ぶりを知るにとどまらず、不破への批判を通して、マルクス主義の理論とその革命的な神髄をより生き生きと、具体的に、明瞭に理解することができるであろう。これが本号の特質である。
以下、四つの論文を簡単に紹介してみよう。
森雅一氏の「不破の国家論・革命論批判」は、不破がマルクスやエンゲルスの理論を曲解し、あるいは全体の文脈から切り離してその片言隻語を抜き出すなど、その権威を隠れ蓑にしてレーニン批判を展開しつつ、「プロレタリア独裁」の理論や、「労働者は出来合いの国家機構をそのまま利用できない。この機構を粉砕しなければならない」という命題など、マルクス主義の国家論、革命論の根幹にかかわる理論をいかに歪め、換骨奪胎し、否定し去っているか、その卑劣な手口を徹底的に暴露している。「その手法は、マルクス、エンゲルスの権威を借りてレーニンを批判するというもので、あのカウツキーが採用した方法とそっくりである」と森氏は指摘する。その目的は言うまでもなく、「議会での多数を通じた革命」という共産党のブルジョア議会主義・合法主義の路線の擁護に務めことにある。
田口弥一氏の「観念史観と御都合主義」は、不破が雑誌『経済』に連載中の「レーニンと『資本論』」で展開した一九二〇〜二一年のネップ導入に至る時期のレーニンの立場や見解についての論評を取り上げ、「九割の真実に一割の嘘」という詐欺師の常套手段を駆使して、いかにレーニンをご都合主義的に利用して「帝国主義との共存」や「商品経済の存続」を「希求」する自らの日和見主義を弁護しているかを丹念に跡づけている。また田口氏は、不破がネップを「資本主義から社会主義への移行過程での法則的な裏付けをもった措置」と賛美し、「市場経済を通じての社会主義の建設」という流行の理論に仕立て上げようとしているのを批判し、「この時期のロシアの条件のなかで採らざるを得なかった政策」としてのネップの歴史的な必然性と意義について、レーニンの見解を引きつつ明らかにしており、ネップの理解をより深めるものとなっている。
鈴木研一氏の「資本主義の温存に帰着」は、不破の著書『社会主義入門――「空想から科学へ」百年』を中心に、不破の“社会主義”論を批判したものである。第三章の「私有財産を容認する“社会主義”」および第四章の「小生産者に私的所有を“保証”する不破」では、「共産主義とは一言で言えば私有財産の否定である」(『共産党宣言』)というマルクス主義の根本命題を否定し、社会主義社会においても私有財産や私的所有や商品生産も存続するという不破の小ブルジョア的社会主義のたわごとを論破し、第五章ではソ連の崩壊で決定的に破綻の暴露された「生成期社会主義論」にも言及、不破の立場が「不可知論」に帰着することを明らかにしている。このほか、空想的社会主義について自分の身の丈に合わせた矮小で陳腐な不破の「解説」への批判も展開されており、本論文は『空想から科学へ』を読む上での一助ともなるであろう。
林紘義氏の『唯物史観と不破哲三』は、我々がこれまで本格的には論じてこなかった「経済的社会構成体」及び「アジア的生産様式」に関するものであり、両方とも唯物史観の根本概念に関するものである。そして、この問題は戦後スターリン批判と関連して日本を含め国際的な論争を呼んだものの、明確な決着を見ることなく未解決のままに残されているという事情からしても、きわめて興味深いテーマである。
林氏は、この問題でも知ったかぶりの衒学者を気取る不破のインチキ理論を徹底的に追及し、まず下部構造による上部構造の究極的な規定性という唯物史観の最も本質的な観点をあいまいにする不破の「経済的社会構成体」論を退け、それが「経済的な体制を重点に置いて理解された社会もしくは経済的関係によって根底的に規定された社会の概念である」ことを明らかにしている。
次いで、氏は「アジア的生産様式」の問題の検討に移り、ここでもまたそれを「原始共産主義社会」と同一視する不破の荒唐無稽の理論を排し、次のように批判する。
「確かに、アジア的生産様式の本質的な概念は、私有――主として、土地の――を欠いているということであり、その限り、原始共産主義の社会と同一であると言える。しかし、ここにはすぐに本質的な区別が現れるのだが、不破はこの区別を何一つ理解していないのである。その本質的な区別とは、つまり最初の階級社会としての規定である」
この点についての著者の詳しい論証は直接本文に当たっていただくとして、ともあれ、このようにアジア的生産様式を「原始共産主義から直接に生じてきた、最初の経済的社会構成体」、人類が最初に到達した階級社会として、地域的に特有のものではなく、人類史の継起的な発展段階の普遍的な一段階として明確な位置づけを与えたことは画期的であり、マルクスの『経済学批判序説』のいわゆる唯物史観の公式もまたこれによってはじめて合理的に理解されうるのである。
もちろん、林氏のこのアジア的生産様式の概念はその本質的な規定において与えられたものであって、具体的な歴史的研究を深めることでより豊かなものにされなければならない。しかし、この本質規定を「導きの糸」とすることなくしては実証的な歴史研究も横道にそれるか、迷路にはまりこんでしまいかねないであろう。
最近、単なる奴隷労働であの巨大なピラミッドが建設できたかという疑問が提出されているが、未だ多くの謎に満ちた古代エジプト文明や、古代ギリシャに先立つミケーネ文明などの謎を解くカギがアジア的生産様式には潜んでいるのであろう。思っただけでも、夢とロマンがかき立てられると言うものだ。
かくして本号は似非労働者党に引導を渡し、新しい世紀を迎えて革命的社会主義の運動を大いに発展させる闘いの武器としてはもとよりのこと、どの論文も我々に知的刺激を与えてくれることを重ねて強調したい。ご一読を乞う!
(WM)