『プロメテウス』第42号(2001年11月発行)
「つくる会」教科書批判を特集
巻頭論文に「『同時テロ』と小泉政権」


 イスラム急進主義による「同時テロ」に対する米ブッシュ政権による“報復戦争”は、空爆に加えて地上戦闘部隊の投入などますます激しさを増している。一方、小泉政権は、米国の“報復戦争”に「全面的支持」を表明、戦争支援のためにテロ対策法を制定、自衛隊の海外派兵を合法化するなど、反動的策動を強めている。

 しかし、民主党をはじめとする野党は、「卑劣なテロは許さない」と「テロ撲滅」を唱え、肝心のテロが起こった原因については問題にしようともしないのである。そして彼らは、自衛隊の行動については国会の事前承認を必要とする(民主党)とか、テロ組織への対応は国連が行うべきだ(共産党)等々「テロ撲滅」の方法について小泉政権に異議を唱えているにすぎない。こうした野党の態度は、ブッシュの報復戦争に加担し、自衛隊の行動を拡大、強化しようとする小泉の策動を助けるものでしかない。

 今号の巻頭論文、林紘義氏の「『同時テロ』と小泉内閣の新法案」は、米国を中心とする帝国主義の支配が発展途上国の人民の貧困や抑圧をもたらしてきたこと、こうした中から米帝国主義への反発としてイスラム急進主義が生まれてきたことを明らかにしている。そして、ブッシュの“報復戦争”は米国の覇権のためであり、また小泉の「テロ撲滅」を口実とした自衛隊の海外派兵は、日本独占資本が帝国主義的な秩序を維持するための世界の“憲兵”としての一翼を積極的に担おうとするものであることを暴露し、反動的な策動に断固反対し、帝国主義の支配一掃に向けた労働者の階級的闘いを訴えている。

 今号では「偽りの歴史――『つくる会』批判」を特集し、その歴史教科書をとりあげている。

 「歴史は科学ではない。歴史は言葉によって語られて初めて成立する世界である」と、歴史の客観的な法則性を否定する「つくる会」の描く歴史は自国中心の歴史であり、日本民族の優秀性を示すために史実を捩じ曲げる国家主義、愛国主義によって貫かれている。そしてそれは、「万系一世の天皇」を絶対化し、国民の統合をはかろうとする皇国主義史観の復活を狙うものである。

 「つくる会」は文科省の後押しで全国の市町村の教育委員会に圧力をかけ、彼らの教科書の採用を迫ったが、わずか〇・四%にとどまった。あまりにも内容がお粗末だったからである。しかし、「つくる会」は、「四年後にリベンジする。その時は勝利する」と巻き返しを狙っており、特集は反動派と闘い、その策動を粉砕していくうえで大きな意義をもっている。

 特集の諸論文は近・現代史の問題を取り上げている。

 鈴木研一氏の「俗悪な優越感と史実の歪曲による愛国心の鼓吹」は、「つくる会」の「日清・日露戦争」論の批判である。

 彼らは日清戦争を日本が朝鮮の清国からの独立を助けるための戦争であったとし、日露戦争については「二十世紀の『人種戦争』の幕開け、有色人種の意識に革命をもたらした」などと、帝国主義戦争を美化しているが、鈴木氏は、戦争に到る歴史的な過程を追いながら「つくる会」の史実の歪曲を暴露し、日本の朝鮮侵略を、そしてまた日露戦争における帝国主義戦争としての本質を明らかにしている。

 田口騏一郎氏の「日本の帝国主義戦争を弁護する『つくる会』」は、日米戦争論を取り上げている。「つくる会」は、日米戦争をアジア・太平洋における覇権を巡る帝国主義戦争ではなく、アジアの植民地を欧米の帝国主義から「解放する」ための戦争であったかに偽り、美化しているが、論文は日本の占領地における軍政の実態などに触れつつ、彼らの欺瞞を暴いている。

 坂井康夫氏の「歴史を偽造・捏造する『つくる会』」は、従軍慰安婦問題を論じている。「つくる会」は、日本軍が朝鮮、中国をはじめ占領地域の女性を強制的に従軍慰安婦にしたというのは事実無根のでっち上げだ、と否定してきた。日本民族の優秀性を誇示し、日米戦争を「アジアの解放」のための戦争と偽る彼らにとって、従軍慰安婦はあってはならないのである。坂井氏は従軍慰安婦は他民族の抑圧、搾取という野蛮な帝国主義戦争のもたらしたものであることを明らかにしている。

 山田明人氏の「『日の丸・君が代』の由来とその役割」では、日の丸・君が代の歴史をたどり、その果たしてきた役割を明らかにするとともに、「日の丸・君が代」が日本古来の独特な伝統に基づいているとか、日の丸は日本の主権を表す「神聖なシンボル」、君が代は日本の「独立性と国柄」を表しているという「つくる会」主張のでたらめを暴露している。そして、頽廃し寄生化した独占資本の支配を擁護するために日の丸・君が代を神聖化し、それを国民に押しつけようとする国家主義、民族主義の策動を糾弾している。

 亀崎勘治氏の「研究ノート・歴史の法則をさぐるために」は、歴史の法則を否定する「つくる会」を批判するという問題意識の下に、マルクスの『資本主義的生産に先行する諸形態』を取り上げている。マルクスはここで「所有の本源的形態」の派生形態として、アジア的形態、古典古代的形態、ゲルマン的形態の三つの形態をあげているが、論文はそれぞれの内容について論じている。とりわけアジア的形態をどのようにとらえるかについては、日本の古代史にかかわる問題でもあり、これまでも論争されてきたが、この問題は今後さらに追究され、深められていくべきであろう。

 いずれも現在の政治闘争の重要テーマが論じられており、闘いの武器として読者の皆さんが是非購読されるよう訴える。

(田口)