『プロメテウス』44号(2002年9月発行)
岩井「貨幣論」を批判
他に「破綻した小泉“改革”」など


 今号に掲載されている論文は、田口騏一郎氏の「破綻する小泉“改革”」、林紘義氏の「貨幣は『モノ』を商品に転ずることはできない――岩井克人批判」、及び「亀崎氏は『歴史法則』を明らかにしているか」の三つである。

 田口氏の論文は、特に、小泉の「構造改革」路線の一つの中心でもある「郵政改革」を取り上げ、その実際の内容はどうであったかを検証したものであり、小泉改革の看板だけのインチキを明らかにしている。

 林氏の岩井批判は、現在東京大学の経済学部の学部長であり、講壇“経済学”の雄でもある岩井の『貨幣論』――これは数年前に出版されたものであり、かなり売れた本であったが――がどんなに荒唐無稽なものであるかを暴露したものである。

 また亀崎氏批判の論文は、『プロメテウス』四二号に掲載された、亀崎氏の「歴史の法則をさぐるために」を検討したものである。亀崎氏は、塩沢君夫らに依拠して(またマルクスの『資本主義に先行する諸形態』に独特の解釈を加えて)、「本源的所有の三つの形態(アジア的、古代的、ゲルマン的)」と、それに対応する「二次的形態(アジア的、奴隷制的、封建的な階級関係)」といったことを論じたが、林氏は、それに感心せず、こうした理論はほとんど実際的な意味のないもので、マルクス主義の「悪しき一面化」であると主張している。

 『プロメテウス』今号の過半は、林氏の岩井批判で占められているのだが、岩井とか宇野学派といった観念的な寄生インテリの理屈は、単に彼らのドグマが展開されているにすぎないため、その理屈が晦渋で何を言っているのか分からず、したがってまたその批判も容易でない。

 岩井の『貨幣論』の中心概念は、「貨幣の宙吊り」理論である、つまり貨幣がまずあって、それが「モノ」でしかない生産物を、商品交換の関係に変えるのであり、かくしてこのブルジョア社会を成り立たせている、貨幣は、モノによって「交換可能性」を与えられて貨幣になり、また今度は反対に、モノに「交換可能性」を付与してモノを商品に変えるのであり(そして、岩井は、こうした理屈を展開するにあたって、マルクスの「価値形態論」や「貨幣の価値尺度」論を悪用する)、しかもそれをモノの交換を媒介するなかで行うから(現実として、貨幣はそうした存在ではないのか)、貨幣は流通の中で「宙吊り」になっており、かくして貨幣は流通の媒介物として貨幣である、といった理屈であろうか。

 実際、こんな紹介をしても、岩井が一体何を言っているのか、言おうとしているのかを伝えることは、ほとんど不可能であろう。要するに、彼は全くの無概念の中で、何かもっともらしい理屈を作り上げようと悪戦苦闘し、荒唐無稽な、全くの空論をでっちあげるのだが、もちろん、彼の理屈の根底にあるのは「貨幣物神崇拝」(貨幣があってこそ商品があり、売買があり、この資本主義社会が成り立っている、等々)であり、その限り、岩井の理屈の根底には、全くのブルジョア的観念が、俗流意識が横たわっているのである。岩井批判は、その意味で、我々の日常の意識にまで浸透して来る、貨幣の「物神崇拝」意識を改めて検討し、克服する一契機として意義を持つであろう。

(H)