『プロメテウス』46・47合併号発行される
生き生きと再現される議論
昨年の労働者セミナーの議事録
昨年の労働者セミナー、「エンゲルスの『資本論』修正を問う」の報告、議論が、『プロメテウス』四六・四七合併号の一冊となった。これはきわめて意義あることで、十月に、再度、「エンゲルス再検討――はたして『第二バイオリン』であったか」のテーマで開催される、今年の労働者セミナーにも大きな関連をもつものである、というより、今年の労働者セミナーは昨年のそれの延長にあるものであり、昨年提起され、あるいは議論が深められなかったいくつかの問題に回答を与えることも、一つの重要な課題としているのである。もちろん、我々は、仮に抽象的な理論問題をテーマとし、議論するにしても、決してこのブルジョア的生産を変革するという強い実践的な問題意識から遊離して、何かどうでもいいおしゃべりにふけるべきではない――気楽な学者たちのように――、ということを最初に誓って、この労働者セミナーを開催したのである。
◆激しい論争の場となったセミナー
しかし我々の労働者セミナーの意義は明らかであり、そこでは、エンゲルスの『資本論』修正がいくつかの決定的に重要な個所において、徹底的に、深く掘り下げて検討され、議論されたのであった。
その個所とは、『資本論』第二巻の拡大再生産の問題に関するところであり(ここでは、エンゲルスがマルクスの「試行錯誤」の過程にあった草稿を大きく変えたと、報告者は非難した)、エンゲルスの恐慌の理解に関するところであり(そこでは、エンゲルスが現在の共産党の恐慌理論となっている「過少消費説」に傾いているのではないか、という疑問が提出された)、さらには第三巻五編のいわゆる『信用論』であって、最後の個所では、エンゲルスの執拗な「介入」の意味が追求されたのであった。
特集は、労働者セミナーの議論をそのまま掲載したものであり、だから、我々の議論と認識の深化、発展をそのまま追うことができる。その魅力は、発言する人々の個性が、その理論的、思想的立場とともに、そこに直接に現われていることであろう。生の言葉での意見発表や、ありのままの直裁な論争を知ることは、読者が系争中の問題の本質を理解し、それに接近する上で大きな助けになるであろう。
我々の議論は当然に、我々の外部にあるさまざまな理論的立場を反映したが――例えば、エンゲルスの『資本論』修正問題を長年、丁寧に追ってきた大谷禎之介の影響は当然大きかった――、それはある意味で不可避であった。まさにそれ故に、我々の労働者セミナーでは――大谷の理論的立場も、最初から意図されたことではないが――、検証されることになったし、ならざるをえなかったのである。
田口講師は、大谷の「試行錯誤」という見解を採用したし、また平岡講師の報告も大谷の立場を正当と前提したものであった。一つの例をあげれば、平岡講師は、最初、次のように問題を提起したが、それは労働者セミナーで、大議論を巻き起こしたのであった。
「特に大谷氏が論じているのは、エンゲルスが誤訳したということです。つまりnurというところをnieと読み違えたために、全く違う意味の訳になってしまったと。このことを、当時はまだそれほど意識されていなかったと思いますけれども、その誤訳に言及して富塚氏への反論が書かれていないということで、その点で不十分だったということを述べているにすぎないのであって、結論的な部分が違うということではないというように思います。
それで、改めて大谷氏の新しい誤訳の関連の文章を読み直してみまして、もう一度、このエンゲルスの修正を見直し、私なりの考えをまとめたのが、追加資料の四頁以降のところになります。マルクスの草稿では、ずっと自然な文章として続いている。ところがエンゲルスはそれを途中でちょん切ってしまって、注32というものにまとめてしまったということです。これは、読み違えたことに起因しているのではないかと私は考えました。読み違えたために、ここの全体で論じてきたことと、資本主義的生産様式における矛盾以下の文章とがつじつまが合わないものになるから、いったん切ってしまって脚注32という形でもうけただろうということです」(「プロメ」二七頁)
労働者セミナーでは、平岡講師の問題提起は、すんなりとは受け入れられなかった。まず、疑問として出されたのは、脚注32という形で、エンゲルスがまとめた文章が、果たして平岡氏が言うように、「自然の文章として続いている」と言えるのか、ある意味で切れていないのか、というものであり、さらにはnurをnieと読み違えたというのは本当なのか、そしてまた読み違えたために、意味が反対になったというのは真実なのか、というものであった。
労働者セミナーでは、これらの問題について、“歯にきぬ着せぬ”議論が闘わされたのであり、その中で、何が真実かが厳しく問われたのである。
また、田口報告――拡大再生産の課題におけるエンゲルス修正問題を扱った――においても、田口氏が強調した、「マルクスは単純再生産から拡大再生産への移行を、(試行錯誤的に)導きだそうとした(しかしエンゲルスの編集は、その試行錯誤の過程を塗りつぶした)」という視点が、実はマルクス的というより、エンゲルス的であること、「移行」が問題だという観念はただエンゲルスが修正した文章の中にのみあることが確認されたのであった。
そして田口氏が擁護しようとした“エンゲルス的な”観点が、これまで共産党の学者たち、つまり“講座派”の伝統をつぐ学者たち――大谷禎之介といった人々も含めて――が多かれ少なかれ擁護してきたものであることも明らかにされ、ここでも、我々の批判は“マルクス主義的な”学者たちの批判にまで進んで行かざるをえなかったのである。
その面からするなら、田口氏は、批判されるべきエンゲルスの修正部分を根拠に、自らの理論を打ち立てようとしたのであり、エンゲルス修正に依拠して、エンゲルス修正を批判しようとしたのである。
労働者セミナーでは、上記のもの以外でも多くの問題をめぐっても激しい議論が闘わされたが、議事録はその議論の過程と、こうした理論的系争点がいかに解決されたかを――また、あるときには解決されず、保留されたをも――そのまま写しだしている。ただこうした点だけ取っても、議事録は読者の尽きせぬ興味を引くだろうし、また理論的な関心を満足させてくれるだろう。
◆拒否された学者たちの立場
結果として、我々の労働者セミナーは、学者たち――大谷禎之介とか、富塚良三とか――の理屈を退けた。というのは、多かれ少なかれ、学者たちの立場をよりどころとした人々は、労働者セミナー参加者から反撃を受けたからである。
むしろ、大谷らの見解は、労働者セミナーによってはっきりと拒否されたといえよう、つまり我々は学者たちの見解に不信と懐疑でもって接したのである。
講師たちが学者たちの議論に依拠したのはある意味でやむをえないことであった、というのは、エンゲルス修正問題は、これまでただ学者たちだけが問題にしてきたのであり、既成の政党、例えば共産党はほとんどまじめに、正面から、この問題を取り上げようともして来なかったからである。
またマルクスの草稿を直接取り扱うような条件は我々になく、学者たちが扱ったものから出発する以外なかったからである。
したがって、我々は出発点として、大谷禎之介や富塚良三等に――ある場合には、宇野学派的な観点にさえ――依拠したのであり、彼らの影響を受けざるをえなったのである。
しかし我々は健全であって、学者たちの卑俗でドグマ的な観点――そしてそれは多かれ少なかれ、共産党などの日和見主義的な政治的立場、例えば、過少消費説等々と結び付いていたのだが(特に、富塚らの場合)――に留まることができず、そこから遥か前方にまで進んで行かざるをえなかったのである。
◆問題はまだ多く残っている
もちろん、我々はこうした議論の中で、多くのばかげたこと、未消化のこと、間違ったことさえも口にしているし、むだで内容のない論争にもふけっている。枝葉のどうでもいい、退屈な議論もくり返されてもいるし、見当はずれの、認識の発展にとって無意味なひとりよがりの発言もあろうし、焦点のずれているおしゃべりもいくらでも見出されるであろう。それらは、『プロメテウス』を一読していただければ、たちまち明らかであろう。しかし我々は、それらをほとんどそのまま掲載することにし、読者の良識に期待し、またさらなる議論の深化を今後に委ねたのである。
我々がある程度手さぐりで進まざるをえなかったのは(つまり一定の「試行錯誤」が避けられなかったのは)、エンゲルスの『資本論』修正という問題自身、我々にとって全く新しい問題であり、我々の内部でも研究はまだ緒に着いたばかりであって、なかなかしっかりした認識と知識と権威をもって発言できなかったからである。
それほどに、議論の対象自身が新規であり、広範であり、複雑であり、難解であった。こうしたときには、多くの間違いもまた、やむをえない面もある、というのは、我々はこの問題を初めて扱い、しかも“即席で”議論しなくてはならない場合も、多々あったからである。
こうしたさまざまな限界にもかかわらず、我々の議論は驚嘆すべきものであり、多くの重要な批判的な、しかも全く斬新な観点が提出され、議論されており、“学界の”無味乾燥で、内容のないものとは全く別のものであろう。そこでは、真実のみが問題であり、すべてが真実に照らし合わせてのみ意義をもち、正当と認められるという、健全にして明白な精神が脈々と波打っていたと言えるだろう。
◆特集の遅れた理由
最後に、この重要な特集の遅れたわけを述べて、読者の諸君に謝っておかなくてはならない。
昨年の労働者セミナーの特集は、その重要性や意義からいっても、もっと早く出版されてしかるべきであった。
しかしそれが遅れたのは、昨年来、『プロメテウス』の計画として、別のテーマ(「現代資本主義と金融・財政」といったもの)を追求していて、その出版が渋滞していたからである。その出版の後の計画として、今回のものが浮上したかもしれないが、しかし前の計画がとどこおっている段階で、新しい企画はなかなか出て来なかった。そして、前の計画が挫折して初めて、今回のものが浮上してきたのである。
後知恵からするなら、労働者セミナーの特集から始めればよかったということになるが、最初の特集は、昨年の労働者セミナー以前からの課題として残されていたのだ。
セミナーの録音テープは全国の会員の協力をえて原稿に起こし、それを報告者、発言者にチェックしてもらい、さらに面倒な編集、校正を経て、ようやく出版にこぎつけることができた。
一部、テープに録音がうまく入っていないところもあって、割愛せざるをえなかったが、しかし報告、議論のほぼすべてを網羅することができた。もちろん、その中には空虚で無意味な議論、間違った、“軽率な”発言や意見も多く含まれているであろうし、また議論が途中で切れてしまったり、未解決のままにされたものもいくつもあるであろう。それらは、今後の検討にゆだねられ、持ち越されているのであって、労働者セミナーでは、ただ問題を提起しただけであり、あるいは生半可な議論に終わったということである。
(林)