『プロメテウス』48号(2005年10月発行)
「インフレーション」を特集――その本質を理論的、歴史的に検討


 『プロメテウス』48号がようやく発行された。まさに「ようやく」といった感じで、昨年九月に「エンゲルス『資本論』修正を問う」を出して以来、一年余である。こんなにも長く間隔を開けてしまったことをお詫びするとともに、今回の特集『インフレーション――その歴史と理論』の意義を明らかにしたい。

 特集の六つの論文は、いずれも代表委員会主催の研究会で報告されたテーマであって、インフレの意義や歴史的経験を取り扱ったものである。

 特集は、一、「インフレとは何か――マルクスの理論に学ぶ」(田口騏一郎)、二、「フランス革命と『アッシニア』」(林紘義)、三、「いわゆる原始的蓄積とインフレ――明治前期の日本の場合」(町田勝)、四、「猪俣の『為替インフレ』論とドイツ・インフレの経験」(林紘義)、五、「公債の日銀引き受けとインフレ――高橋財政をいかに評価するか」(山田明人)、六、「現代資本主義とインフレ――岡橋保の『預金通貨インフレ』論批判」(林紘義)のテーマを取り上げて、それぞれ論じている。

 インフレと言っても、それが持つ役割や意義は、その歴史的、社会的な状況にしたがって違っている。

 資本主義の初期にあっては、あるいは同じことだが、後進的な国家においては、インフレは必ずしも「悪」としてだけ機能するとは限らず、旧体制、旧支配階級の解体と資本の原始的蓄積のために、一つの積極的な意義を持ち得るであろう。二と三の論文は、フランスと日本の場合を扱って、この問題に接近している。もちろん、一八世紀末の大革命当時のフランスと一九世紀末の明治維新後の日本は歴史的な背景や状況を異にしているが、しかしにもかかわらず、それぞれ、資本主義的変革の時期や資本主義の初期におけるインフレの経験とその意義を明らかにし、インフレに対して単に道徳的に非難するのではなく、歴史的な批判を貫徹するマルクス主義の立場を明らかにしている。

 他方では、資本主義が爛熟し、その矛盾が激化してくるとともに、インフレの持つ性格も変化し、ますます反動的な性格を持つようになってくる。インフレはこの時期には、資本の支配を何とか防衛し、独占資本の体制的な危機を乗り越えようという、大資本や政府の策動と結び付いてくるのである。

 一九三〇年代の日本国家の財政と国家信用の膨張政策は、まさにそうしたものであり、太平洋戦争を経て、戦後の経済的崩壊の時期における大インフレへとつながったのであった。高橋は、日銀引き受けによる国債発行というやり方に道を開き、ブルジョアや反動たちが、自由に国家財政や国家信用を膨張させ得る方法を教えたが、それは高橋の個人的な思惑はどうあれ、ブルジョアや天皇制ファシストの軍部の連中に、反動戦争遂行のための財政的手段を与えてやったも同然であり、軍国主義とファシズムがはびこり、戦争に突き進む一つの原因を作ったとも言えるのである。

 また第一次世界大戦後のドイツインフレも同様であって、それは一方から言えば、国家と経済の崩壊の結果であるとともに、他方では、一切の困難を労働者人民に転嫁して、大資本の勢力が破滅的な危機を克服し、何とか生き延びるための手段でもあった。ドイツブルジョアジーは生き延びるために全くはれんちな財政、信用政策を強行しながら、ドイツの大インフレは「外国の支配、搾取のため」と宣伝し、「為替インフレ」論を持ち出したりしたのであった、つまりインフレの原因はドイツ大資本の支配や国家にはなく、ヴェルサイユ体制によるイギリスやフランスの収奪のために為替が崩壊して行った結果である、と言いはやしたのである。

 また今回の特集は、その入り口(最初の論文)でインフレの概念を、そして最後の論文で、インフレと現代資本主義の問題を理論的に扱っている。

 田口氏の論文については、学習会のときにも、編集段階でもいろいろと議論を呼ぶこととなった。それは田口氏が、「インフレとは価格の度量標準の事実上の切り下げによる物価上昇」という概念を持ち出し、強調したからであった。これはある意味でよく言われるものだったが、しかしなかなか分かりにくい概念であり、議論の出発点となったのである。

 論争になったのは、仮に、インフレとともに「価格の度量標準の事実上の切り下げ」があると言えるにしても、それはインフレの結果であって、原因であるかに概念規定するのは正しいのか、ということであった。要するに、インフレと「価格の度量標準の切り下げ」は別のことではないか、という疑問である。

 もし別のことだとするなら、「事実上」のということだ、と限定をつけても、それをもってインフレの概念規定とすることはできないのではないか、という批判である。例えば、インフレにおいては、貸借関係はもとの“貨幣価値”で行われるのであって、だから貸している方は大損をし、借りている方は事実上の借金の棒引きになるのである。この場合、いかにして「価格の度量標準の切り下げ」と言えるのか。

 「価格の度量標準の切り下げ」と言うのは、貨幣の価値尺度機能にかかわることだが、それは貨幣の現実的な存在を前提する。

 金が貨幣になるとともに、金のある確定された重量を一定の標準で表す必要が生じて来る。そして国家はそれを、例えば、二分(ふん)=七五〇ミリグラムをもって「円」と称するという具合に決めるのである。その十倍の重量を持つ貨幣は十円の名称を受け取る、等々。

 「価格の度量標準の切り下げ」とは、金二分を一円と呼ぶのではなく、一分を一円と呼ぶという具合に国家が修正すれば、二分の一に切り下げられたのであり、かくして物価は一様に二倍になる、というのは、いままで二分の金と交換される商品は一円の価格表示だったのが、これからは二円で示されることになるからである。

 見られるように、「価格の度量標準」の設定は――したがって、その「切り下げ」等々も――もっぱら国家の意思として行われるのである。

 そしてこの場合、訂正は計算貨幣としての貨幣の機能にも及ぶのであって、だから貸借関係も新しい「価格の度量標準」に従って同様に修正されるのである、つまり実質的に以前と変わらないのである。

 しかしインフレの場合には、貸借関係は大きな実際的な変化を受け取るであろう。二倍の物価上昇があっても、貸借関係はそれに対応して名目変化をするわけではない、したがって、借りている方は事実上、債務が半減するのであり、他方貸し手の方は債権の半分を実際には失うのである。

 ただこのことだけとっても、インフレを「価格の度量標準の切り下げ」と同一視することの間違いが明らかであるように思われる。またインフレの場合は、物価上昇は産業により、あるいは個々の商品によりアンバランスに進むかもしれないが、「価格の度量標準の切り下げ」の場合はすべて一様であり、どんな差別もアンバランスもないし、あり得ないだろう。

 もちろん、紙幣が二倍流通に投げ込まれれば、円の代表する金量は二分の一になる、そしてそれはそのかぎりでは、結果として、国が価格の度量標準を二分の一に切り下げた場合と同じである。しかしここで重要なことは、結果として、ということである。

 価格の度量標準が切り下げられたのは、紙券のおのおのが減価し、これまでの半分の金量を代表するようになったからであるにすぎない。価格の度量標準が切り下げられたために、貨幣の(したがって、紙幣の)代表する金量が半分になったのではない。これは二つの違ったことなのであるが、田口氏は混同し、あるいは同一視しているのである。後者なら、紙幣の代表する金量が半分になったから、紙幣の流通が二倍になった、と言わなくては首尾一貫しないのではないか(そして田口氏は、事実上、そう主張するのである、というのは、価格の度量標準の切り下げの結果がインフレだ、価格の度量標準の切り下げがインフレの概念だ、と言うのだから)。

 田口氏は、紙券の代表する金量が半減するということと、価格の度量標準の切り下げということを区別しない、だから、代表金量が半減するということを直接に価格の度量標準を半分に切り下げることだと結論するのである。

 しかし、インフレにおいて出発点は、紙幣が流通に過度に押し込まれることによって、紙幣の「価値」が、つまり個々の紙幣の代表する金量がまず流通において減ったことである。だからこそ、以前に一円で表された価値が二円等々になるのである。

 要するに、インフレは基本的に流通手段としての貨幣にかかわる現象であることをまず確認することが重要であろう。貨幣の価値尺度機能から論じることは不適切であるように思われる。

 そもそもインフレとは、貨幣が流通手段の機能において自立化し、ついには紙券化し、その結果として流通において減価する現象である。金本位制の廃絶を必ずしも前提はしないが――というのは、金本位制が一時的に停止されていた時代にもあり得たから――、しかし現代のように金本位制が廃絶されている時代に特有なものであり、現代の「管理通貨制度」のもとにおいて一般的に発展するのである。つまり、貨幣が廃絶され、一般的に紙券に取って代わられている時代を前提とするのである。

 そんな貨幣が実際上存在しない社会において、貨幣の価値尺度機能や「価格の度量標準」機能を問題にすること自体、奇妙な試みに見える。一体、インフレとは、「価格の度量標準」の切り下げである、などと言うことにどんな積極的な意味があるのか。通貨の減価(代表する金量の減少)を語るに、価格の度量標準の切り下げといった観念がなぜ、いかにして必要なのか。

 通貨とはつまりは金貨幣のことである、紙幣は実質貨幣である金の代理である、と言うためか。しかし歴史的には貨幣は別に金だけではなく、銀であったときもあるし、またもっと原始的な貨幣形態もあったのだ。

 要するに、貨幣の「価格の度量標準」の機能とは、商品の価値が金(一般的等価形態としての)によって(相対的に)表現される、ということ自体ではなくて(このことのためなら、別に価格表現は必要ではなく、例えば、商品の価値は金量いくばくに等しい、等々と表せば済む)、その表現のメカニズムにかかわる理論であって、貨幣が“正常に”機能することを前提している、しかるに、インフレとは貨幣がまさに“正常に”機能しないということでしかない。

 二十世紀も後半、資本主義の矛盾が異常に深化してきた結果として、貨幣はすでに流通から姿を消したのであり、そのかぎり“正常に”機能する条件を失っているのである。だからこそ、インフレといった“非正常な”事態がしばしば――あるいはほとんど恒常的に――生まれ、発展するのである。

 現代資本主義とは、この限り、“非正常”が正常とも常態ともなった資本主義、まさに崩壊し、死滅しつつある資本主義であり、そのことはいわゆる世界中に腐敗をまき散らす“ドル支配”にも、諸国家の通貨の絶えざる減価の中にも、あるいは国家の無政府的な財政・信用政策も――したがって、財政や国家信用の解体状況にも――余りにはっきり現われているのである。

 そんな時に、商品の価格表現に関するいわば“技術的な”理屈を持ち出すのは、いずれにせよ、ひどく矮小で、ピントはずれにしか見えないのである(もちろん、「価格」の科学的な意味を説明し、しかも現代資本主義にあっては、商品価値の貨幣による価格表現も正常的には行われない、ということを言う意味でなら、貨幣に価値尺度機能や度量標準機能について語るなら、それなりの意義もないことはない。しかしそれは、積極的にインフレを規定し、説明することとは別の課題としてなされるべきであろう)。

 それに、いま一体、円が金の何グラムを表し、それが何グラムになったからインフレが何%進んだ、などと言えるのか、いかにしてそれを確定できるのか。

 もちろん、金市場から逆算すれば、円は金のいくばくに値すると言うことはできるかもしれない、しかしそんなことをして、どんな意味があるというのであろうか。そんなことをしてインフレを説くなら、“金価格”ではなく、他の任意の商品の価格を持ち出しても全く同じことであろう。

 いずれにせよ、田口氏の提起した「インフレとは何か」という論文については、大きな疑問が提出されたということを報告し、今後の議論にゆだねたい。もちろん、田口氏は議論を経て、かなりの部分を書き替えたと言うのだが。

(林)