『プロメテウス』49号(2006年10月発行)
富塚の拡大再生産論を論難
――「『現代社会』教科書」、『ネオ共産主義』批判


 『プロメテウス』四十九号が発行された。掲載されている論文は、「富塚良三の『余剰生産手段』と『均衡蓄積率』の概念――それが過少消費説とケインズ主義に帰着する必然性」(林紘義氏)、「ブルジョア社会の美化――教科書『現代社会』を切る」(小幡芳久氏)、「共産主義の概念なき“共産主義”論――的場昭弘『ネオ共産主義』批判」(鈴木研一氏)の三本である。

 最初の林論文は、共産党系の学者である富塚良三の再生産論を扱っている(昨年来本紙で論じてきたものを労働者セミナーのテキスト用に整理したもの)。富塚をはじめ共産党系の学者は、従来から『資本論』第二巻とりわけ再生産表式は恐慌にとって決定的な意味を持つものであり、「恐慌の必然性」を論証するものだと叫びたててきたが、それが過少消費説的なタワゴトであり、マルクス主義とは無縁のドグマであることを論証している。

 林氏は、富塚の「余剰生産手段」及び「均衡蓄積率」なる観念を取り上げる。富塚は、蓄積が行われるためには、「余剰生産物」が存在し、他方でそれを過不足なく吸収すべき蓄積が存在しなくてはならないと主張し、マルクスが “未完成”のままに残した部分を補ったかに自慢しているが、その内実は「拡大再生産」という言葉で「貨幣を媒介とした」素材転換(売買、あるいは需要供給)のことを語っているにすぎないと喝破する。

 また、富塚は「均衡蓄積率」なるものを設定し、その比率は「生産力」によって決まると言うが、蓄積率は他の条件が同じなら資本家の蓄積欲により決まるのであって、同じ生産力のもとでも蓄積率が五〇%もあれば、二五%、七五%のこともありうる。また、違った生産力の段階でも、同じ蓄積率がありうることを具体的に明らかにしている。

 さらに林氏は、マルクスの拡大再生産の概念についても詳細に取り上げているが、一言でいうと次のようなことである。

 「問題は、拡大再生産の概念であり、その獲得である。そしてその概念はまず、単純再生産と同様に、第T部門のV+M(可変資本+剰余価値)が、第U部門のC(不変資本)と交換され、置き換えられるということであって、その点では単純再生産の場合と、原則的には何ら異なるものではないのである」

 そして氏は、拡大再生産表式について恐慌論の論証の根底になるとか、「第T部門の優先的発展を証明する」といった議論の空虚さを暴露し、今や、“スターリン主義経済学”の決まり文句あるいは固定観念と決定的に決別すべきときと呼びかけている。

 最後にケインズ主義との関連にふれる。富塚は再生産表式における価値補填と素材補填の関係をすべて「需給関係」に置き換えて説明しているが、それは富塚理論の隠された真実を、その秘密を暴露するものであるとして、次のように結論づけている。

 「表式関係は、富塚にとっては資本主義的生産の経済的諸要素の『需給均等関係』を明らかにするものなのである。彼はこうしたケインズ主義的な問題意識から、マルクスの再生産表式を理解するのであり、ケインズ主義によってマルクスを『読』み、『解釈し』ようとするのである」。

 次の小幡論文は、高校の「現代社会」の教科書を全面的に批判したものである。氏は、社会科とくに公民は、「子供たちをブルジョア社会に適応させるべく“洗脳”する役割を持った“核”の教科として、ブルジョア社会の美化と正当化に努めている」と位置づけ、次のように述べる。

 「私は教科書によるブルジョア社会の美化を批判する。だがこれは、ブルジョア的なものを単なる“誤り”として否定するためではない。封建的なものに対してはその進歩性を承認しつつ、歴史のなかに『ブルジョア的』なものを正しく位置づける必要を述べたいだけである」

 論文は、一、ブルジョア民主政治の美化、二、ブルジョア経済(学)の美化、三、「主権国家」の絶対化と「国連」の美化、四、「文化」・宗教・観念論の美化、五、科学技術への不信、等々多岐にわたる。教科書の本質が徹底してブルジョア的なものであることは明らかであるが、同時にこのことは、安倍政権の憲法や教育基本法改悪に対する闘いが、単に教基法を守れでは闘いえないことをも教えている。

 最後の鈴木論文は、的場昭弘の『ネオ共産主義』を批判したもので、本紙一〇二二号論文に大幅に加筆したものである。

 的場は共産主義の「淵源」を旧約聖書に求め(彼は新機軸と自慢しているが)、その基本的な論点をすべて旧約聖書に引きつけて論じている。例えば、エデンの園をはじめとする「創世記のエピソード」を四つにまとめる。欲望の制限、我慢強く生きること、貨幣によって共同体のために償うこと、知性によって神の意図を実現すること、と主張するが、鈴木氏はそんなものは「せいぜいのところ共産主義のパターン論」にすぎないと批判する。

 そして氏は、エンゲルスやカウツキーの原始共産主義についての分析を紹介しながら、「的場氏には、生産力の発展、階級闘争の発展を背景として共産主義思想の歴史的発展という唯物史観の観点が欠如している」ことを暴露している。

 また、的場はマルクスは共産主義の内容について曖昧だったとマルクスを攻撃をしているが、鈴木氏は『共産主義の原理』などを紹介してそんな主張がナンセンスなこと、的場こそ概念なき共産主義論をわめき散らしていると批判している。

 最後に氏は、共産主義・マルクス主義を学ぼうとするものは、的場のようなインテリに頼らず、マルクスやエンゲルスの文献を自ら学ぶよう提案している。

 一人でも多くの青年・労働者に購読願いたい。

(Y)