『プロメテウス』55・56合併号(2012年8月発行)
特集・「労働時間による分配」とは何か


「労働時間による分配」とは何か
社会主義の本質に迫る
『プロメテウス』合併号・労働者セミナーの報告

 三月から四月にかけて、マルクス主義同志会の主催により、「社会主義の根底的意義を問う――『価値規定による分配』の内容と意味は何か」のテーマのもと、関西と首都圏の二個所で労働者セミナーが開催されましたが、『プロメテウス』55・56合併号は、その特集号になりました。ここでは、その内容と意義を簡単に報告し、読者の皆さんに、『プロメテウス』の真剣な、そして徹底的な検討を呼び掛けます。我々の特集は、それに値する内容と価値をもっていると信じます。社会主義についての一層具体的で、生き生きとした概念やイメージを持つことは、資本の支配と搾取に苦しみながらも、自らの社会的、階級的な存在と歴史的任務を自覚した労働者、そして自覚し始めた労働者が、強固な信念と確信をもって、社会主義に向けての闘いを貫徹して行く、大きな原動力とエネルギーの一つになるでしょう。

 「社会主義」の名は今では、資本の支配と搾取に苦しむ労働者にとって、解放と希望の象徴としてのかつての輝かしいイメージや魅力をなくしてしまい、色あせたものになってしまいました。ソ連や中国の「社会主義」の経験や実態、労働者を裏切ってきた社会党や共産党(スターリン主義の党)などの歴史的経験や現実の姿などが、積み重なってきた結果です。もちろん、ブルジョア陣営や反動等の中傷や悪宣伝にもこと欠きませんでした。
 
 しかし資本主義は歴史的にすでに矛盾と限界をさらけ出し、その生命力も存在意義も失い、頽廃し、腐りきっています。労働者にとって敵対的な本性をますます明らかにし、今や単なる「打倒の対象」でしかありません。
 
 しかし資本の支配を一掃した後に、労働者はどんな社会を建設し、作り出して行ったらいいのでしょうか。それをどんな名で呼ぶにせよ、労働者は自らの新しい社会を――もし資本主義の社会に安住することをよしとしないなら――組織して行かなくてはならないのです。
 
 我々は、社会主義の内容が単なる「生産手段の国有化」とか「共同生産」とか「計画経済」とかに留まるのではなく、労働者にとって非常に重要であり、また切実で、身近な「分配」や消費の問題で、どんな関係になるのか、という、これまで具体的にほとんど語られることも、明らかにされることもなかった――単に搾取がなくなるとかいった、一般的な話を超えては――問題を実際的に、そして“科学的に”明らかにしなくてはならないと考えたのです。

 そして、今回我々がセミナーでさんざんに、そして真剣に、時には「色をなして」までして議論し、まがりなりにも結論に到達したのは、賃金制度を、資本の支配を廃絶したあとの社会、つまり社会主義という言葉で言い継がれてきた社会――これはかつてのソ連とか、今の中国とかのこと、つまり共産党などが言っている社会のことではありません――、搾取も支配権力(国家権力、地方権力等々)もなくなった、解放された社会において、働く人々への「分配」は、したがってその「消費」はどうなるのか、どんな「法則」によって決まり、行われるのか、ということです。

 社会主義では労働者に対する搾取は一掃され、資本主義のもとでのように、八時間働いても四時間も六時間も搾取されるといったことはなくなり、八時間の全部が――もちろん、いくらかは社会の共同費用のための労働は控除されるのですが――労働者の生活のための労働として現われるのは具体的にどういうことか、ということです。

 簡単にいえば、八時間の労働分の消費手段――食料とか衣服とか電気製品とかの消費財――を、八時間労働した労働者は手にすることができるということですが、そんな「分配」がいかなる基準や方法によって行われるのか、行われ得るのか、ということでした。

 答えは簡単のように見えて決してそうではないのです。だから共産党などは、そんなことは賃金制度でなくてはできるはずもない――つまり資本の支配のもとに安住するしかない――、「市場経済」に任せるしかないと言うのです。我々が“ブルジョア共産党”と非難するゆえんです。

 実際、搾取のない社会になった、労働も解放された、だから労働者は八時間の労働に従事したのだから、四時間ではなく、八時間の労働全体が支払われるのだ、と告げられても、一方では、賃金制度も止揚され(賃金など支払われないということです)、他方では、「店頭に並べられた」――これはたとえとして言っているので、社会主義では「商店」などすでに存在するはずもないのですが――労働生産物(ここで問題になるのは、消費手段つまり消費財です)にも価格など付けられていないのですから、途方にくれるしかありません。

 労働者が生産したものを、他の労働者や直接生産者(農漁民)の生産したものと直接交換(つまり物々交換)すればいい、あるいは自分の労働時間と、他の労働者や小生産者の労働時間と直接に交換することで解決すると言っても、この分業の極度に発展した、複雑で、生産的労働(労働者)が世界的な広がりの中で関係している社会――「グローバル社会」と呼ばれるようになった、人類の到達した現代の歴史的な段階を想起してください――において、そんなことができるはずもないことは余りに明らかです。

 そもそも、自動車を生産する労働者が自動車を、あるいは米を生産する生産者が米を手に入れられる――自分が生産したものとしてそこにあるから――といっても、どんな基準で、どれだけ手にできるのかも不明のままです。また、それらがすべて自分のものだといっても、それは他の消費手段を手にすることができないということを意味するだけですから、そんな概念が通用しないことも自明です。

 こうして我々の内部で喧々がくがくの議論が何ヵ月も行われてきたのであり、その決着が今回の労働者セミナーに持ち越されたというわけです。

 そしてその回答を我々は得ることができ、かくして社会主義の本質に一層接近することができたのです。

 手がかりは、マルクスの「価値規定(労働時間)による分配」という示唆でした。つまり労働者――生産手段を生産する労働者も消費手段を生産する労働者も等しく――は、自分の労働した長さに応じて、それに匹敵する消費手段を獲得できる、という概念でした。

 解決のカギは、すべての消費手段が、その生産のためにどれだけの労働が、つまり労働時間が必要であったかということが明示されるなら、社会主義における「分配」の問題はたちどころに解決され得るという点にありました。

 このことは一見簡単なように見えて――というのは、労働者が自分で生産したものを、自分の物にすればいいのですから――、実際にやろうとすると、非常に困難なことがすぐに確認されるでしょう。

 例えば、生産手段(機械や原材料)を生産する労働者――現在の高度な工業化された産業社会では、こうした労働者の比重は非常に大きいのですが――は、自らの生産物を「分配」されても生きていくことはできません、というのは、機械や鉄を食べて生きて行くことはできないからです。

 また自動車を生産する労働者は、自分の労働分の自動車を手に入れることはできますが――といっても、このこと自体も困難です、というのは、どれくらいの自分の労働で、一台の自動車を手にすることができるかがはっきりしないからです――しかし米などの食料品を生産していないのですから、それをどうするのか、自動車と交換して手に入れるということになるのでしょうか。しかしそんな物々交換でやれるはずもないことも余りに明らかです。

 だからこそ解決は、個々の消費手段の「価値規定」がいかにして行われ得るか、つまりそれがどれくらいの長さの総労働――労働時間でも労働日でもいいのですが――によって生産されたかを明らかにし、規定するのか、できるのか、ということに帰着したのです。この場合の総労働時間とは、ただ自動車生産のために直接に支出された労働の長さだけでなく、それに自動車を作るために必要な生産手段、つまり機械や鉄鋼のための労働の長さを加えたものでなくてはなりません。

 我々は一つの図式によって、この課題の解決を提出しました(38頁参照)。我々の図表は例証として、自動車を取り上げ、自動車一台はどれだけの労働(日)によって生産されているかを概念的に確定しようとしました。

 我々はさしあたり「労働対象」の鉄鋼を取り上げ、それを生産するに必要な労働日を、図表の第一部門を利用して明らかにすることができました。もちろん、自動車生産に必要なもう一つ必要な契機である生産手段(機械等々)のための労働日も、鉄鋼と同様のやり方で規定することができます。

 そして自動車なら自動車が一台、一五〇労働日によって生産されたということが確定され、明示されれば、年間二〇〇日、生産的労働に従事した労働者は、生産物の集積所に行って、「自分は二〇〇日働いたから、自動車一台手に入れたい、そしてその資格も権利も持っている、というのは、二〇〇日のうち、一五〇日は自動車のために働いたことにしたいから」と言えば、その自動車はその労働者のものとなる、つまり「分配」され得るわけです。

 もちろん、労働者はあと五〇労働日分の消費手段しか手にすることができません、つまり食料とか光熱費とか衣類とか住むところなどが、一〇〇労働日なくてはいかんともしがたく――生活がなりたたず――、生きていくことができないとするなら、彼は自動車を手にすることができないか、あるいは二年とか三年をかけて自分のものにできるということになります(“分割払い”のようなやり方があるなら、それを利用できる等々)。

 こうした算定にはもちろん実際的には多くの困難がありますが、しかしその困難は技術的なものであって、概念的なものではありません、ですから概念がはっきりしていれば、コンピューターなどを利用して簡単に克服できるたぐいの「困難」にすぎません。
 ここで言われている、「価値規定」ということは、労働が価値の形態を取らず、また生産や分配がその形態によって行われないが、ただ労働の長さによって、ただそれだけによって規定され、表現され、それが社会主義での「分配」の法則の根底をなす、という意味であって、その点の理解には困難な面があったのです、というのは、我々は資本主義のもとで、労働が“実体化”して、つまり「価値」として現れる現実に余りに慣れ親しみ、深く影響されて“物神崇拝的”現象にとらわれてしまっているからです。

 そして我々は多くの議論を積み重ね、問題点を一つ一つ解決して、ようやくにして合理的で、正しい回答に――といっても、まだ色々明らかにし、さらに解決しなくてはならない問題もあるのですが――たどりつくことができたのです。

 我々はこの経過と、この間の議論を『プロメテウス』合併号で全面的に報告しようと決めました、というのは、この問題は世界の労働者全体にとって極めて重要であるからです。資本の支配を一掃し、資本の制度を克服した段階の社会関係の根底にかかわる問題であり、しかもこれまで人類はこれまで全くといっていいほど検討して来なかった課題だからです。

 そんなわけで、我々がこの課題を正しく、またいかにして解決したかを、そのためにどんな検討と議論を重ねて来たかを、『プロメテウス』を手に取って検討し、検証してみるというのはいかがでしょうか。それは非常に魅力的なことであるとともに、我々の生きているこの資本主義社会の本質を、そして来たるべき人類の解放された社会の最も重要で、また興味ある内容と意味を考え、反省して見る最良の経験になることは確かです。
(全国社研社刊・二百七十頁、千五百円)
(林)
(『海つばめ』1178号(2012年7月22日)掲載)