レーニンをめぐる人びと
栗木伸一(林紘義)著『レーニンの言葉』(1969年芳賀書店刊)より

1.レーニンとプレハーノフ――革命の利益が第一
2.レーニンとマルトフ――おしゃべりに閉口
3.ゴーリキーのみたレーニン――磨かれた真実の姿
4.レーニンとローザ・ルクセンブルグ――彼女はやはり鷲であった
5.レーニンとトロツキー――唯物史観とロマン主義
6.レーニンとスターリン――謙譲と高慢
7.レーニンとイネッサ・アルマンド――秘められたロマンス
8.レーニンとマリノフスキー――レーニン、世紀の大スパイをかばう
9.レーニンとクルプスカヤ――忠実な同志、親しい友
10.レーニンとフリードリツヒ・アドラー――暗殺は無益なロマンチシズム
11.レーニンと家族――肉親も能力で評価
12.レーニンと急進主義者――レーニンの説得の仕方


1.レーニンとプレハーノフ
――革命の利益が第一――

 レーニンのプレハーノフにたいする心酔は、彼の初期の論文の内容が、プレハーノフの見解の展開であり、具体的分析への適用であることからもはっきりしている。二〇代のレーニンがどれほどプレハーノフにほれこんでいたかは彼自身のあまり彼らしからぬ覚え書き『いかにしてイスクラは消えようとしたか』で「まるで恋人にたいするような気持ち」を抱いており、こんな気持ちをもった人はあとにもさきにもー人もいないと告白しているところからも明らかである。クルプスカヤは言う、
 「レーニンは情熱的に人々に愛着した。――その典型は、彼があれほど多くのものをうけたプレハーノフにたいする愛着であるが、一旦プレハーノフが正しくなく、彼の見解は事業に有害だと見るや、凡てをあげて彼と戦い、彼が防衛派(プレハーノフは、第一次大戦で国際主義を放棄して祖国防衛主義者、排外主義者になった――引用者注)になった時は、決定的に彼と手を切ることを妨げることはなかった」。
 プレハーノフとレーニンは、ロシアにおけるプロレタリア革命運動を協力して開始した。「旧イスクラ」時代、二人は必ずしもしっくりといくわけではなかったが協力して働いた。位一九〇三年の第二回大会では、レーニンは「プレハーノフととくに近いことを感じ」ており(クルプスカヤ)、基本的な民主主義の原則は「革命の利益を最高の法則とする」ということであり、普通選挙権の原則すらこの基本的な原則の見地からみなければならないというプレハーノフの演説に、レーニンは「深い感銘をうけた」(同)。しかし第二回大会ののち、プレハーノフは動揺し、メンシェヴィキになり、ポリシエヴィキの「ブルジョアなしでブルジョア革命を行なおう」という見解を嘲笑した。ところが、一九〇五年の革命ののち、党を清算せよという説教がメンシュヴィキの中に台頭すると、彼のなかの革命家が頭をもたげ、この解党主義との闘争でレーニンと統一戦線を結んだ。一四年にプレハーノフが、祖国防衛派の民族主義者になるに及んで、レーニンとの決裂は最終的なものになった。
 レーニンとプレハーノフは、人間としても大いにちがっていた。
 ゴーリキーは、プレハーノフと「心から話したいという希望をもてなかった」と白状している。クルプスカヤは、はるばるロシアから亡命中のプレハーノフをたずねて来た労助者たちが、プレハーノフに会っても、何か「釈然としない気持で彼のところを去った。労働者は、彼の輝かしい知力、知識、機知に打たれても、プレハーノフのところを去ると、自分と、この輝やかしい理論家とのあいだには、大きなへだたりが感じられ、自分の心に秘めたこと、話したいと思ったこと、相談したいと思ったことは、口にだすことができなかった」と書いている。
 労働者ショットマンは、レーニンとプレハーノフについて次のように書いている。
 「レーニンが最初演説した直後、私は忽ち彼の味方になったことを非常にはっきり覚えている。彼の演説の仕方はそれほど単純で、明快で、確信に満ちていた」「プレハーノフの演説をきいたとき、私は美しい口調、驚くべき鋭利な言葉に打たれた。しかしレーニンが立ってこれを反駁すると、私はいつもレーニンの方に賛成した。何故そうなのか、自分でも説明ができない。だがこれは私だけではなく、私と同じ労働者たちも皆そうだった」。
 これはレーニンの特徴でもあるが、のちに政治的にプレハーノフと決定的に手を切っても、彼はロシア革命運動史上にもったプレハーノフの大きな役割を公平に評価していた。レーニンはプレハーノフの哲学の欠陥を知っていた、それにもかかわらず、彼は革命ののち、青年たちにたいして、第一級の哲学者としてプレハーノフを研究することをすすめたのであった!

2.レーニンとマルトフ
――おしゃべりに閉口――

 レーニンは、ペテルスブルグにおいて、マルトフと協力してその政治生活をはじめ、終生マルトフに個人的な愛着をいだきつづけた。第二回大会ののち、レーニンとマルトフは絶交したが、これはレーニンにとって「非常に苦痛」であった。「ピーテルにおける活動の時期、旧『イスクラ』における活動の時期が、二人を密接に結び付けた。当時、マルトフはイリイチの考えを敏感にとらえ、それを見事に発展させることができた。その後、イリイチはメンシェヴィキと激しく闘争することになったが、しかしマルトフの路線が、ほんのすこしでも近づいてくる度に、マルトフに対するふるい関係が目ざめて来た。例えば、一九一〇年パリーにおいて、マルトフとイリイチが一緒に『社会民主主義者』の編集部で働いていた時、編集部から出てきたイリイチが、何度となく、満足そうな口調で、マルトフが正しい路線をとっていて、ダン(メンシエヴィキの首領の一人――引用者注)に対してさえ攻撃していると語ったことがあった。そして、それからずっとあと、ロシアにあってイリイチは(一九一七年の)六月事件当時におけるマルトフの立場を是認した」(クルブスカヤ)。
 レーニン自身も、第一次大戦がはじまった直後、マルトフが愛国主義者と袂を分かって国際主義者の戦列に加わったのをよろこんで、次のようにほめたたえた。
 「私はより頻繁に、より強くマルトフと袂を分かつに至れば至るほど、より決定的に、マルトフは、社会民主党員が現在しなければならないことを行なっている、ということをいわなければならない。彼は自国の政府を批判しており、彼は自国のブルジョアジーを暴露しており、彼は自国の大臣どもを非難している」。
 当時レーニンは、マルトフが完全に自分たちの方に移って来たらどんなにすばらしいかとしばしば語ったが、これをレーニン自身が信じていないのは明らかであった。レーニンは、すでにマルトフが他人の勢力に動かされやすいこと、意志の弱いことを知っていたからである。旧「イスクラ」時代に、すでに、レーニンは、マルトフを次のように評している。
 「マルトフは典型的なジャーナリストだ。彼は非常に才能がある。物わかりがよく、おそろしく感受性が強いが、万事軽率だ」。
 マルトフは、当時、そのひっきりなしのおしゃべりでレーニンを苦しめ、レーニンはとうとうクルプスカヤをつかわせて、もう話しに来ないでくれと伝えたほどであった。しかしこれも無駄であった、というのはクルプスカヤによれば、「マルトフは、おしゃべりなしには生きて行けなかったからである」。
 労働者ショットマンは、マルトフを次のように評している。「マルトフは貧相なロシア知識階級を思わせた。彼の顔色は蒼く、頬は落ち込んで、薄い頬鬚はだらしなかった。彼の眼鏡は今にも鼻から落ちそうだった。彼の衣服は衣服というよりはむしろ布だった。原稿やパンフレットがどのポケットからもはみ出していた。彼は前屈みになっていたが、一方の肩は他の肩よりも高かった。彼が物を言うとき吃った。ところが彼が熱弁をふるいだすと、このみすぼらしい外観は忽ち消え去って、その驚くべき知識、鋭い精神、労働者階級の事業にたいする狂熱的な献身的意志が大きく浮び上った」。マルトフは、初めて会った頃のレーニンを「あの頃、彼はまだ自信をもっておらず、後年歴史が彼に負わせた役割を意識していなかった」と評している。マルトフはまた、レーニンを最大級の言葉でほめている。「ロシアには二人の共産主義者がいる。レーニンとコロンタインである。」

 注 マルトフはメンシェヴィキの指導者。ユダヤ人でペテルスブルグ大学在学中からマルクス主義運動にはいり、レーニンの最も信頼する同志として(闘争同盟)に参加、一八九六年シベリア流刑となる。「イスクラ」紙を編集。第二回党大会でレーニンと対立し、党分裂の端緒をつくった。著書『社会民主主義者の覚え書』『ロシア社会民主労働党史』がある。

3.ゴーリキーのみたレーニン
――磨かれた、真実の姿――

 レーニンのゴーリキーへの評価は本文中で紹介したので、ここでは、ゴーリキーの見たレーニン像をみてみよう。ゴーリキーは書いている。
 「私たちが知り合いになったとき、かれは私の手を固く握って、鋭い眼で私を見ながら、旧知のように、冗談を言った。
 『あなたが来られてよかった。なんでも、あなたは馬鹿を好まれるそうですネ、ここに、その大馬鹿がいますよ。』
 私は、レーニンを、こんな人とは思っていなかった。なにか、こう、不足したものがあるように思われた。口ごもりしながら、両手を腰に当てて突っ立っている。総じて、すべてが、なにか余りにも平凡で、かれのうちには『首領』らしい何ものも感ぜられない」。
 レーニンの演説も、はじめは全く平凡にきこえた。
 「急ぎ足で、演壇にウラジミール、イリイチが登り、『同志諸君』と、口ごもるように言った。かれは、演説が下手なように思われた。ところが、一秒のうちにはもう、私は、他の凡ての人びとと同じように、彼の演説にのまれてしまった。複雑な政治問題を、このように簡明に話すのを聞くのは、はじめてであった。かれは、美辞麗句を並べ立てようとはせずに、それぞれの言葉を、その正確な意味において見事に表明するのであった。彼の呼びおこした異常な印象を伝えることは、非常に困難である。
 壇上にあるかれの凡てが、正しく、古典美術の製作品であり、すべてを備えながら、余分なものは一つもなく、一切の装飾がなかった、もしそれがあったとしても、それはみえなかった。」
 「彼の中に明瞭に体現されている生活意欲、卑劣さに対するその積極的な憎悪が私を感嘆させ、彼がなすことすべてに満ち溢れていた青年の情熱を私は嘆賞した。彼の超人的な仕事の能力が私を驚かせた。彼の動きは軽く、抜け目なく、簡潔だが、しかし強力な身振りは、同様に簡素な言葉を用いるが思想を一杯盛りこんでいる彼の演説とよく調和を保っていた。そして蒙古人型の彼の顔にある、虚偽と生活の悲しみに対する、疲れを知らぬ闘志をあらわしたその鋭い眼は、燃え、戯れ、或は眼を細め、時には目配りし、皮肉な微笑をうかべ、或は怒りの光を放った。これらの眼の輝きは、彼の演説を一層燃え立たせ、明瞭なものとした。
 時には、彼の魂の手に負えないエネルギーが眠から火花や言葉となってほとばしり、空気中に閃くとも見えた。彼の演説は常に避くべからざる真実を肉体的に感得させる力を持っていた。
 レーニンがゴルキ公園を散歩しているのを見ると異常で奇妙でさえあった――それ程に彼の人間像は、長い机の端に座り、哄笑し、舵手のように鋭い眼をきらきら輝かせ、巧みに同志たちの討論を指導し、或は演壇に立ち、頭を前に突き出し、静まった群衆の、真実に飢えた、貧欲な眼に、わかり易い明瞭な言葉をなげつける彼の映像と密着して離れないのである。
 その言葉は常に私には鉄屑の冷たい光を連想させた。これらの言葉の驚くべき簡素さの中に、芸術的に研ぎすまされた真実の姿が浮かび上がった。」
 またレーニンは「滑稽なことが好きで、体中で笑い、実際、時には涙が出るまで『笑いこけた』。短い、特徴的な感嘆詞『フム、フム』に、毒を含んだ皮肉から、用心深い懐疑までの一切の、巾広い暗示を彼は与えることが出来た。しばしばこの『フム、フム』には鋭いユーモアの響きがあったが、それは烱眼な、生活の悪魔的な不条理をよく心得ている人にのみ理解されるものであった」。

4.レーニンとローザ・ルクセンブルグ
――彼女はやはり鷲であった――

 ローザとレーニンは、いくつかの原則的な問題で鋭く見解を対立させたが、しかしまた第二インタナショナルのなかにおける左派として、いくつかの問題で協力し、ともに闘った。例えば、一九〇七年の第二インタナショナルのシュトゥットガルトの大会で、二人は戦争問題について一致した行動をとったので非常に親しかった。二人はこの大会ですでに、戦争反対の闘争は、平和のための闘争を目的とするだけではなく、資本主義打倒を目的とすべきで、戦争によってもたらされる危機をその目的のために利用すべきであるとした。レーニンは一九二二年にローザを評して次のように書いた。
 「パウル・レヴィは、いまローザ・ルクセンプルグが間違いをおかしている、まさにその著作を再版することによって――ブルジョアジーに、したがってその手先である第二および第二半インタナショナルにとくに奉仕しようと望んでいる。われわれはそれにたいして、ロシアのある適切な寓話の一句でこたえておこう、それは、鷲は牝鶏よりひくくおりることもあるが、しかし牝鶏はけっして鷲のようには飛びあがれない、ということである。ローザはポーランド独立の問題で誤りをおかし、一九〇三年にはメンシェヴィズムの評価で誤りをおかし、資本蓄積の理論で誤りをおかし、一九一四年七月には、プレハーノフ、ヴァンデルヴェルデ、カウツキーらとともに、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの統合を擁護するという誤りをおかし、一九一八年に獄中の著作で誤りをおかした(ただし、彼女自身、出獄後、一九一八年の終りから一九一九年の初めにかけて自分の誤りの大半を訂正した)。しかしそうした自分の誤りにもかかわらず、彼女はやはり鷲であったし、いまでも鷲である。そして彼女についての記憶が、つねに全世界の共産主義者にとって貴重であるだけではなく、彼女の伝記と、彼女の著作の全集は、全世界の共産主義者の多くの世代を教育するうえに、もっとも有益な教訓となるであろう。『一九一四年八月四日以降、ドイツ社会民主党は悪臭紛々たる屍である』――ローザ・ルクセンブルグのこの名文句とともに、彼女の名は、世界労働運動の歴史にのこるであろう。だが労働運動の裏庭では、積肥のあいだで、パウル・レヴィ、シャイデマン、カウツキーの一味全体といった牝鶏どもが、偉大な共産主義者の誤りに有頂天になるであろうということは言うまでもない。十人十色である。」(「政論家の覚え書」)
 しかし一般に言ってローザは、ボリシェヴィキの活動を一種の懐疑でもってながめていた。彼女は一九〇五年の革命にあらわれたロシアの労働者の革命的闘争精神や、革命的理想主義をドイツの官僚的保守的な党に吹きこみたいと思ったが、しかしトロツキーと同じようにロシアの運動が「ヨーロッパ化」されることを望み、レーニン主義をロシアの後進性の一つのあらわれとみた。ローザもトロツキーも、メンシュヴィキを理論上では斥けたが、実践上ではしばしばメンシェヴィキと一致し融合した。ロマンチックな「労働者主義」、抽象的な原理への愛着(これはレーニンの現実的な能力と鋭く対立した)、「民主主義」への信仰(しかしこれは彼らが実際に民主主義的であったということではない。実際にはトロツキーよりもレーニンの方がはるかに民主的であったことは明らかである)、個人主義的性向や芸術家的な才気煥発など、トロツキーとローザは、誰よりもよく似ており、共通点をもっていた。ローザを批判した「ユニウスの小冊子について」の中でレーニンが書いた「マルクスの弁証法は、それぞれの特別な歴史的情勢の具体的な分析を要求している」という一句はローザの本質的欠陥をついていた。

 注 彼女はポーランドに生まれ、のちドイツ国籍を得て、主としてドイツで社会革命運動のために献身。一九一九年政府軍によって捕えられ虐殺された。

5.レーニンとトロツキー
――唯物史観とロマン主義――

 ロシア革命運動におけるレーニンとトロツキーの関係ほど、劇的で数奇なものはないであろう。二人は一九〇二年の一〇月、初めてロンドンで会っている。国内で活動していたまだ非常に若かったトロツキーを、レーニンが「イスクラ」の国外本部へ来て活動するように呼んだのである。レーニンはトロツキーの文才を高く員い、ヨー口ッパにひっばり出した。トロツキーは一九〇三年の第二回大会では、はじめは「経済主義者」に誰よりも激しくかみついたので、「レーニンの棍棒」とあだ名されたが、レーニンとマルトフが規約第一条をめぐって対立すると、大方の予想に反してマルトフの側につき、こんどは誰よりも激烈に、ほとんどデマゴギー直前まで行くほどにレーニンを攻撃した。レーニンもこれにこたえて、「トロツキーには原則というものがない」「トゥーシノの渡り者」(無節操に諸分派をわたり歩く)、「無内容でがなりたてるパラライキン」と書いている。
 第二回大会から一九一七年までの十数年間、レーニンとトロツキーはそれぞれ別の道を歩むことになる。
 とくにレーニンが来るべきロシア革命を、ブルジョア民主主義革命とした点で、トロツキーはその「永久革命」の見解から批判を展開した。トロツキーから見れば、ポリシェヴィキもメンシュヴィキもともに「反革命的」であるとされ、この両者の本質的原則的な対立はぬぐい去られていた。この両派は、ロシア革命がブルジョア的であることで一致した上で、この革命でブルジョアジーと労働者階級のどちらが指導的役割を演ずるかということで争っているにすぎない。ところが問題は、ロシアの革命はプロレタリア革命であり、この革命はブルジョア的段階から社会主義的段階に進まざるをえないということなのだ。そしてロシアだけでは、プロレタリア権力は社会主義的任務をはたしえないから、ヨーロッパのプロレタリア革命にもっぱら期待し、革命を広げなければならない……。これに対してレーニンはロシア革命は生産力の発展段階からして基本的にブルジョア的内容を越えることはできないと信じていたから、トロツキーの見解を社会革命党(エス・エル)の見解と同じ準無政府主義的なものとしてしりぞけた。
 このような対立にもかかわらず、一九一七年の革命では、両者は密接に協力して闘ったのである。トロツキーのはたした役割も決して小さくはなかったが、それはもちろんポリシェヴィキ党あってのことであった。レーニンとトロツキーの政治的見解の相異は、革命ののちも、一九一八年のブレスト・リトヴスク条約締結の場合にも、一九二一年の労働組合論争の場合に
も、鋭くあらわれた。レーニンはトロツキーのロマンチシズムや官僚主義をきびしく排撃した。
 レーニンのトロツキーに対する一種の不信は、その『遺書』(十二回党大会への手紙)の中ではっきり示された。レーニンはトロツキーの「非ポリシェヴィズム」をわざわざ強調し、トロツキーは「能力が卓抜しているだけではない。彼個人は多分、中央委の中で最も有能である。しかし余りにも自信過剰だし、文事を余りにも行政的に処理しすぎる」と指摘している.レーニンのこのトロツキーへの批判は、単なる思いつきや気まぐれではなくて、二〇年に及ぶトロツキーの政治生活を総括した結論であった。トロツキーの「非ポリシェヴイズム」は、のちの彼の「統一戦線」論や「過渡的綱領」や「加入戦術」などにはっきりとあらわれた。しかし同時に、彼はスターリンの人民戦線という日和見主義的戦術までは後退することができず、これを「プロレタリアートとブルジョアジーの連合」として非難する勇気を持っていた。この一句によって、トロツキーの革命家としての面目は保たれている。

6.レーニンとスターリン
――謙譲と高慢――

 スターリンのレーニン評はきわめてスターリン的であり、レーニンについてよりもむしろスターリンについて多くを語っている。
 「私は、一九〇五年十二月にタンメルフォルス (フィンランド――引用者注)のポリシェヴィキ協議会で、はじめてレーニンに会った。私はわが党の山鷲にあうのに、政治的にばかりでなく、必要とあらば肉体的にも偉大な人間に会うように期待していた。
 だが、中背よりも低く、文字どおりなに一つとして普通の人間とちがっていない、ごくありふれた人間をみたとき、私の幻滅はどんなだったであろう……。
 『大人物』はふつう集会に遅刻しなければならないとされている。それは集会出席者が心臓の鼓動をとめて彼の出現を待ち、そして『大人物』の現れる前に集会の出席者が『しっ……しずかに……彼がやってくる』と予言するようにするためである。この儀式は、私には無用なものではないように思われた。なぜならそれは、畏敬の念をおこさせ、尊敬の念をよびおこすからである。しかし、レーニンが代議員たちよりもさきに会議にあらわれ、どこかの隅にもぐりこんで、普通の代議員たちと談話を、それもありふれた談話を気どらずにやっているのを知ったとき、私の幻滅はどんなだったろう。……あとになってやっと、私はレーニンのこの質朴さと謙譲さ、目だたないようにあろうとする努力、いずれにせよ、目につかず、自分の高い地位を強調しまいとするこの努力――この特徴が、新しい大衆の、すなわち人類のもっとも深い下層の素朴なごく普通の大衆の、新しい指導者としてのレーニンのもっともすぐれた一面をあらわしていることを理解したのである」
 一方、一九二二年にスターリンを「一人のすばらしいグルジア人」と評価したレーニンも、革命後スターリンが党書記長になって、はかりしれない権力を手にし、その官僚主義的権力主義的体質を顕わにしてくるにつれ、スターリンに対する容赦ない批判をあびせるようになった。
一九二二年一二月二四日に書かれた『遺書』には、スターリンについて、「同志スターリンは書記長になって、尨大な権力を手中におさめたが、この種カの使用に彼が常に慎重であり得るかどうか、私には自信がない」と記されたが、さらに翌二三年一月四日補足を口述し、「スターリンは余りにも粗暴であり、この欠点もわれわれ共産主義者の仲間としてはまだ我慢もできるが、書記長という職にあっては、我慢がならなくなる」とし、さらに、スターリンをこの職から外し、書記長の椅子には誰か他の「同志に対してより忍耐強く、より忠実で、より親切であり、より注意深く、そしてより気分屋でない」人物を選ぶ方法を考えることを提案した。しかし『遺書』は結局、一九五六年の第二〇回党大会まで、一般党員には知らされないままであった。
 レーニンがスターリンに腹を立てたのは、スターリンが少数民族に対して「民族主義的精神を赤熱の鉄で焼き払う」というような強圧的な態度をとったからである。レーニンにいわせれば、これは大口シア愛国主義のあらわれであり、大国主義的習癖であり、地方的民族主義を挑発し、真のインタナショナリズムとは緑もゆかりもないやり方であった。レーニンは大会への手紙で、真に大口シア民族主義的なこの突撃の全政治的責任はスターリンらが負わなければならないと指示したが、レーニンのこの手紙は、スターリンの時代に隠匿されたままであった。この手紙は、チェコに恥ずべき「大国主義的」介入を行なった、現代のソ連共産党指導者にとっても、真に頭の痛い存在であろう。

7.レーニンとイネッサ・アルマンド
――秘められたロマンス――

 レーニンとイネッサ・アルマンドとのロマンスは、亡命中の控え目なロマンスであったため、また革命家レーニンにとって、ちょっとその行動の軌跡からはずれているようにみえるため、ほとんど関心をひいていない。イネッサは教養のある、外国語に堪能な、「女性らしい」(とレーニンは評した)美しい女性であった。若くしてモスクワの大ブルジョアと結婚したが、その生活に耐えられず、五人の子供がありながらも合意の上夫と別れ、一九一〇年ごろから国外のポリシェヴィキ派の活動に加わった。彼女は語学にすぐれていたため、様々な国際会議にポリシェヴィキ派の代表として出席した。また、レーニンが書いたラファルグの葬式の演説草稿をイネッサがフランス語に翻訳し、それをレーニンが読んだ。クルプスカヤは、イネッサについて書いている。
 「私たちクラカウ・グループ全員は、イネッサをたいへん慕っていました。彼女はいつも、快活でエネルギーに満ちあふれているようにみえました。……イネッサがあらわれると、急に楽しい、勝気な雰囲気になったようでした。……彼女のからだから暖かさと熱情とが放射されているようでした。イリイチとイネッサと私は、よく散歩をしました。……イネッサは音楽が好きで、よく彼女のベートーヴェン音楽会に私たちを招待してくれました。彼女自身たいへんな音楽家で、たいそう上手にべートーヴエンの数々の作品を演奏したのです。イリイチは、とりわけ『ピアノ・ソナタ悲愴』が好きで、いつも彼女に頼んでそれを弾いてもらっていました。」
 レーニンはイネッサにひどく思いを寄せていた、ということである。コロンタインに言わせると、クルプスカヤはそのことを知っており、しばしばレーニンに別れ話をもち出したが、レーニンが「どうか踏みとどまってほしい」と頼んだので、自分を犠牲にした、ということである。
 イネッサは、革命ののち、一九二〇年九月北コーカサスでチブスでなくなった。イネッサの葬式のときについて、コロンタインは書いている。
 「それは一九二一年のことです。彼女の死体がコーカサス地方から運ばれて、私たちがその葬式の行列の中を進んでいる時、レーニンは別人のようになっていました。彼は目を閉じたまま歩いていました。私たちはいつ彼が倒れるかと、びくびくしていました。」 当時第三インターナショナルの書記官をしていたアンゲリカ・バラバノフも、この時のレーニンを描いている。
 「彼は、その顔だけでなく、身体全体に、深い悲しみの色を表わしていました。彼は一人でその悲しみの中にいることを望んでいたようでした。彼は、これまでよりもひとまわり小さくなったように見えました。帽子をまぶかにかぶり、その日はとめどもなくあふれる涙でかき曇っているように見えました。」
 コロンタインは、ある人の、なぜレーニンはあれほど若くしてなくなったかという質問にたいし、「彼はイネッサの死後生きながらえることができなかったのですよ。……イネッサの死は彼の病気の進行を早め、そしてそれが命取りになったのです」と、いかにも彼女らしい説明をしている。
 イネッサの死後、「レーニンはツュルパの音楽会に行き、ある有名な音楽家が、『悲愴』をどのように演奏するかをきいたものである」とクルプスカヤは書いている。クルプスカヤの書きぶりのピューリタン的な控え目のかげにロマンスを読みとることはまずできない。しかしもしこのロマンスが実在したのであれば、このとき、レーニンの心の中に、どれほどの感情があふれていたかは、誰もおしはかることはできまい。

8.レーニンとマリノフスキー
――レーニン、世紀の大スパイをかばう――

 スパイ王マリノフスキーとレーニンの関係も一種独特のものがある。一九〇六年ペトロダラードの金属労働組合の書記長に、マリノフスキーという男が選ばれた。頭がよく、熱心で、弁舌が達者だったため、仲間からたちまち信望をえた。一九一〇年にマリノフスキーとその同志「メンシュヴィキ」が逮捕されたが、彼だけは釈放され、間もなくポリシェヴィキに加わった。それからしばらくして、ブハーリンをはじめとするモスクワのボリシェヴィキが相次いで逮捕され、マリノフスキーは疑惑をもたれたが、確証はなかった。ポリシェヴィキの幹部が次々と逮捕されたので、彼はどんどん党内で昇進した。彼は、一九一二年にあらわれた「プラウダ」の発行人であり、第四国会の五人のポリシェヴィキ議員の指導者であり、社会民主党議員団の副議長であった。彼は事実上、ロシアにおけるポリシェヴィキ派の代表とみなされていた。
 多くの党員が――スターリンやスヴェルドロフのような最高幹部も含めて――彼のために逮捕され、シペリヤへ流された。ブハーリンはマリノフスキーを党裁判にかけることを要求したが、レーニンに「裏切り以上に意質なもの」「除名」でおどかされて沈黙した。ところが、一九一四年五月になると、マリノフスキーは突如議員を辞任し、国外へ逃れた。
 メンシュヴィキはマリノフスキーが秘密警察のスパイであるという証拠をつかみ、彼の裁判を新聞で声高く要求し始めた。これにたいし、レーニンは、全く信じられないことだと考えた。レーニンはマリノフスキーをかばい、ポリシェヴィキとの闘争で、手段をえらばないメンシェヴィキをくそみそにけなし、攻撃した。ポリシェヴィキの調査委員会がひらかれた。スパイ摘発王のブルッェフが、マリノフスキーが挑発者であるとは信じられない、と声明したことが大きく影響し、ブハーリンの疑惑はしりぞけられた。調査委員会の判定は一日のばされ、ブハーリンはレーニンの家に泊った。レーニンは眠れない夜を過ごした。ブハーリンは書いている。
 「イリイチが階下の室をあちこち歩いているのがはっきり聞き取れた。彼も眠れなかったのだ。……とうとう夜が明けた。私は下へ降りて行った。……彼の両眼のまわりには黄色い輪がついていた。しかし彼は快活に笑った。まるで何事もなかったかのように。いや、イリイチはただ彼の鉄の意志で抑えつけているだけだ。何物もこの意志を破ることができない。」
 マリノフスキーは、レーニンから、人々に忘れられるために、姿を隠すことを勧められた。一九一五年のレーニンの新聞は、マリノフスキーが戦争で死んだという報道をかかげ、「この偉大なるプロレタリア指導者」の不意の死を悼む追悼文が掲げられた。しかし彼は、実際には、ドイツ軍の捕虜になっていたのである。
 二月革命は、彼が秘密警察のスパイであったことを暴露した。彼はポリシェヴィキの弾圧のために、警察にあらゆる奉仕を行なっていたことが明らかになった。レーニンもこれを認めざるをえなかったが、彼は次のように書いた。「マリノフスキーは多くの人々を破滅させることができ、また実際に破滅させた。しかし党はその重要性を増大し、幾十万の人民にたいする影響を増大したという意味において、偉大な成長をとげた。彼はこの成長を停止することも、支配することも、指導することもできなかった。」
 十月革命後、マリノフスキーはロシアに帰り、革命裁判にかけられた。レーニンは終始この裁判に出席していた。彼は精神的な苦痛をなめていたといわれる。
 マリノフスキーは判決の翌日射殺された。レーニンですら、この大スパイをかばいきることはできなかったのである。彼はかってこの大スパイを愛しており、革命的能力を高く買っていたのだった。

9.レーニンとクルプスカヤ
――忠実な同志、親しい友――

 彼女は一八九〇年、二一歳のとき、ペテルスブルグで学生のマルクス主義研究会に入り、一八九六年まで日曜夜間学校で教鞭をとって労働者を教えていた。一八九四年にレーニンにめぐり会って以来、レーニンの死まで、彼女はレーニンの忠実な同志として、もっとも親しい友として、レーニンと共に生活した。彼女は九六年に逮捕されてシベリアへ流されることになったが、当時レーニンが流刑になっていたミヌシンスク郡シュシエンスコエ村へ、「いいなづけ」として行くことが許され、その村で二人は結婚した。クララ・ツェトキンは一九二〇年のクルプスカヤを次のように描いている。
 「一九一五年三月のベルンにおける国際社会主義婦人大会以来、私はレーニンの妻の同志クルプスカヤを見ていなかった。やわらかい善艮な眼の可愛いい顔は、いまいましい病気の痕跡を帯び尖っていた。しかしそれを除いてはいつもの、強情さ、素朴さ、そしてピューリタン的な控え目のままだった。髪は後に簡単に束ねられ、着物は普通の物で、何としても遅れまい、時間を無駄にしまいという考えでいつも一杯な、労働者の疲れた妻の印象を与えた。ブルジョアの概念と用語では『偉大なソヴィエト国家のファースト・レディ』であるクルプスカヤは、論ずるまでもなく、被圧迫者、苦しんでいる人たちの事業へはかり知れない深い忠誠をいだいている。彼女をレーニンと結びつけたのは、生活の目的と意味にたいする、見解の一致である。彼女はレーニンの右腕で、彼の主な、そして最良の秘書であり、最も信頼できる理想的な同志であり、彼の見解の練達した解説者で、利口に友人や信奉者を選び、彼の思想を飽くことなく労働者の中に宣伝した。それと共に、彼女は特別の行動領域をもっていたが、それは国民教育と養育であった」
 のちに、レーニンが病床に伏すようになってから、スターリンがクルプスカヤに乱暴な口をきき、彼女を侮辱したことがあった。病床にあったレーニンは烈火のごとく怒り、自分の妻に対する侮辱は自分に対する侮辱とみなすと宣言した。まだレーニンをおそれていたスターリンはふるえ上がった、ということである。
 クルブスカヤは子どもの頃から教師になるのが夢であり、だからこそ一八九〇年代、ペテルスプルグの日曜夜間学校で教えていたのである。だがこの夢は、彼女が革命家としての人生を選んだために結局はあきらめざるをえなかった。だが、彼女は生涯、教育に大きな関心をもち、その分野で働くことを好んだ。彼女は革命ロシアで、教育人民委員部の校外教育の政府委員に任命された。彼女はレーニン死後も、まだ文盲の水準にあったロシアの何千万という大衆を文化的に向上させるために、教育という分野で闘いつづけた。ルナチャルスキーは書いている。「彼女は、教育活動にいつも最大の愛着をもっていたが、このことは、大衆のもっとも広汎な共産主義的啓蒙に奉仕するという意味においてであった」。彼女は、「教育人民委員部の魂」になったのである。

10.レーニンとフリードリツヒ・アドラー
――暗殺は無益なロマンチシズム――

 オーストリアの社会主義者の長老ヴィクトル・アドラーの息子、フリードリッヒは、第一次大戦のとき、外相ステュルグを暗殺した。世界中の社会主義者はこれを信じられず、クルプスカヤも、アドラーは襲撃者ではなくて、反対に犠牲者であると信じていた。これに対するレーニンの態度は、非常にレーニン的であった。彼は、アドラーが、社会革命党員であるロシア人の妻にそそのかされたのだと想像した。その妻が、テロを信奉する社会革命党員でなく、テロに反対する社会民主党員だと分ったとき、レーニンは叫んだ。
 「アドラーはオーストリア社会民主党の書記ではありませんか? 彼は党員の名簿をすっかりもっていた筈でしょう。檄文を印刷して数百人の党員に秘密で発送した方がずっと賢明で、有効だったのに。」
 これに対して、アンゲリカ・バラバノフは書いている。「私は自分の眼と耳が信じられないで、じつと彼を見つめ、彼の言い終るのを待った。暴力行為を信じなかった一社会主義者を追いやって、今まで労働者階級に説いていたすべてのことと矛盾する行動に出でさせ、一発の銃弾で一時代もかかって造りあげたもの、彼自身の父がそれによって生き呼吸していたものをブチ壊させた悲劇は、イリイチにとってはまるで存在しないように見えた。アドラーを駆って自分自身の主義を放棄せしめた彼の内心の苦悩も衝撃も、また彼の行為の結果も、レーニンを動かさなかった。アドラーがもし兇行前に一大臣の死か、それとも秘密に数百の文書を発送するか、そのいずれが有効であるかを冷静に考慮し判断したとすれば、彼はどれだけ多数の文書を発送しえただろうか、――レーニンはそれを正確に計算していた」
 バラバノフは、高い声を出して笑って言った、「あなたが羨ましい」と。「こういう事件にそんなに単純に、直接的に、まるで子供のように反応することのできるあなたの能力が羨しいのです。これは大きな悲劇です、一人の人間の中で争う二つの魂の衝突です、父と子に具現された二つの時代の争いです」
 レーニンはバラバノフの言葉を理解したようには見えなかった。彼にとっては、アドラーの行動は「馬鹿なこと」であった。それは無益なロマンチシズムであり、無意味であった。個人の英雄的なゼスチュアで闘いに勝てるはずはない――この徹底した現実主義こそレーニンの本質であった。

11.レーニンと家族
――肉親も能力で評価――

 レーニンは、母に対して特別の愛惜を抱いていた。クルプスカヤは書いている。
 「ウラジーミル・イリイチはお母さんが非常に好きだった。彼はいつか私にこんな語をした。『母は非常に意志が強いのだ。もし父が生きているときに、兄があんなことになったら、どんなことになったかわからない。』
 イリイチの意志の致さは、母から受けついだものであり、彼の同情の深さと、人々に対する親切な態度も母から受けついだものである。……流刑地や外国にいたころ、私は、彼女に少しでも自分の息子の近くにいるような気持ちをもたせるように、私たちの生活のことをできるだけいきいきと手紙に書いた。一八九七年、イリイチの流刑中、私がまだ行かないうちに、モ
スクワで死んだマリア・アレクサンドロヴナ・ウリヤノヴァの死亡広告が、新聞にのった。オスカルは『イリイチのところへ行ったところが彼は麻布のように蒼白い顔をして<母が死んだ>っていうんだ』と話していた。しかしそれは別の人の死亡広告であることが分った。マリア・アレクサンドロヴナは、長男の死刑、娘オリガの死、その他の子供たちの次から次への逮捕、と多くの不幸がふりかかって来た。」この母は、兄の逮捕された時、その命を救うために、また子供たちが次から次へと逮捕されると、子供たちのためにできる限りのことをした。
 レーニンはこの母に、一九一〇年、ストックホルムで会った。レーニンは、コペンハーゲンでひらかれた第二インタナショナルの第八回大会に出席していたのである。それが、彼が母と会った最後の機会となった。それは静かな愛にみちた一〇日
間であり、闘争にあけくれた人生のおだやかな間奏曲であった。母は革命の一年前、息子がそのためにすべてをささげて闘った労働者階級の勝利を見ることなくして死んだ。一九一七年の二月革命ののち、外国から帰国したレーニンは、極度に急を要する仕事が山ほどあったにもかかわず、翌日一人で、まず母の墓をおとずれたのであった……。
 レーニンが肉身にたいする場合、肉身だからといって、その能力以上に評価するということはなかった。ダヴイッド・シューヴは書いている。「レーニンは情の厚い子供であり、兄であったが、肉身を取扱う場合は、友人や同志の場合と少しもちがわなかった。ただ非業の死をとげた兄のアレクサンドルと妹アンナにたいしてだけは、愛とともに尊敬をいだいていた。アンナについては彼はよく言った、『肩の上に頭がちゃんとある女だ。百姓が言うように<彼女はしっかりした人物だ>。しかし彼女があの頓馬なマークと結婚したのは千慮の一失だった。もちろん彼女は、彼に頭をあげさせはしない。』『マーニャ(マリア)はどうかというと、彼女はめざましいことはできない』と彼は告白している。弟のドミトリーについて、レーニンはかつて一人の友人に語ったことがある。『君はエルショフのお伽話で三男がどんな風に形容されているか、おぼえているかね?』<長男は賢い子供だった>。<次男はまあまあというところだった>。<三男ときたら、からっきし馬鹿だった>。
 ドミトリーがレーニンの知らぬうちに、クリミアで高官に任命されたとき、彼は非常に困惑して、クラッシンに語った。『馬鹿共は、ミーチャ(ドミトリー)を任命して、てっきり僕の機嫌をとるつもりでいるのだ。僕らは同じ姓を名乗っているが、奴はただあたり前の馬鹿で、甘い文学をかじる位が関の山だということを、彼らは知らないのだ。』」

12.レーニンと急進主義者
――レーニンの説得の仕方――

 レーニンは相手を説得する、たぐいまれな能力をもっていた。革命ののち、一九二〇年にイギリスの急進主義者がコミンテルン代表としてロシアにやって来た。レーニンは、議会ボイコット主義者のこの代表を、次のように説得した。急進主義者は回想する。
 『――貴方は、誰でも英国議会にはいると堕落すると言いましたね。同志、とレーニンを続けた……一つの眼を手で匿して、片方の眼で私をじっと見ながら……もし労働者が自分たちの代表として、貴方を議会に送ったとしたら、貴方もやはり堕落しますか?』
 私はたじたじせざるをえなかった。そして言った。
 『――貴方はルールを無視して攻撃される』
 レーニンは言い張った。
 『――これは重要な問題です。答えて欲しいのです』
 私はしばらく口ごもった後に答えた。
 『――いや私は断じてブルジョアジーに堕落されるようなことはないと信じます』
 レーニンは暖かい微笑を浮かべて言った。
 『――同志、貴方は議会に選出されるように頑張って下さい。そして労働者たちに、革命家はどのように議会を利用できるかを示して下さい』