フォーナー編■『カール・マルクスが死んだ』
……米国で感動的な追悼集会……
マルクスは、1883年3月14日に死亡した。その葬儀は肉親やエンゲルスなど十数人によって行われたが、マルクスの死にたいする報道は世界的に驚くほど少なかったようだ。
世界のほとんどのマスコミはマルクスの死に沈黙で応え、労働運動や社会主義の陣営でもその業績を特集した新聞・雑誌は余りなかった。こうした中で本書は、死後数週間の間の故人に関する報道や記事を集めたものである。
本書の中で注目されるのは、アメリカの大衆的な追悼集会であるクーパー集会の記録である。
マルクスとアメリカの関わりは、ニューヨーク『トリビューン』にマルクスが1851年から62年にかけて寄稿したことにはじまる。64年に創立されたばかりの第一インターが、当時闘われていた南北戦争に対し奴隷解放を宣言した北軍・リンカーンへ祝辞(マルクスが起草)を寄せたこともあって、マルクスの名はアメリカでも次第に知られるようになっていた。もちろん、当時においてはマルクスと無政府主義、またラッサール主義との違いは余り明確ではなく、その対立がようやく労働運動の中でも議論され始めていた時代であった。
さて、当時アメリカの労働運動で大きな影響力をもっていたニューヨーク圏中央労働組合の呼びかけで、3月19日追悼集会が開かれた。六千人の労働者が詰めかけたが、五千人の労働者が入場をあきらめたという。
会場では、移民の国アメリカらしく、あらゆる国、あらゆる国籍の顔が集まった。フランス語、ボヘミア語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、スカンジナビア語、スペイン語等々――およそあらゆる外国語が会場で溶け合っていた。
「インタナショナル万歳」「万国の労働者団結せよ」の横断幕、「神父、国王、資本家や怠け者とは縁のない社会改造こそわれらの目的」「組織労働者の力で戦争をなくせ」のスローガンがかかげられた。
こうした大衆的な集会は世界で唯一のものであった。ドイツではビスマルクの社会主義取締法によって活動は封じられていた。イギリスやフランスでは、労働運動指導部のブルジョア的後退や対立によって集会は企画されなかった。そうした中で、アメリカの労働者階級が、「他界してまもないマルクスに最大の弔鐘を響かせたという歴史的な栄誉」を担ったのである。
集会は、様々な傾向の演説がなされている。プルードン派のドリューリ、革命的民主主義者のスウィントン、奴隷廃止論者ドゥアイ、無政府主義者モストなどである。モストの演説などはどうしようもないが、スウィントンの演説はなかなか面白い。少し紹介しよう。
「ベルリンが生んだ学究、ヘーゲル哲学の鋭い批判者にして新聞の編集者、民主的革命家、『資本論』の著者、かつて畏怖の的だったインターナショナルの創設者、いくたびか国外追放の迫害を受けた亡命者。40年の長きにわたり、世界の革命的な政治的舞台で計り知れないほどの恐るべき役割を演じてきた男、諸国家を震撼させ、地震以上の影響力を持って王権の座をゆるがした男、そしていまにしてなおヨーロッパの地のいかなる人物よりも――ジュゼッペ・マッツィーニとてもその例外ではない――王冠にしがみつく君主と成り上がりの詐欺師どもを脅かし、震え上がらせている男」
「人気取りと名声欲はひとかけらもなく、世間のこけおどしや権勢の誇示などは気にもかけず、急がず休まず、強く、広い、高邁な精神と遠大な構想、論理的な方法と実践的な目標に充ち満ちた人物、それがカール・マルクスであった」
スウィントン自身は、社会主義者ではなかったが(マルクスはゾルゲへの手紙で「悪意のないブルジョアジー」と評している)、追悼演説としては優れたものであろう。
またこの集会で集まった基金をもとに『共産党宣言』の英語版が出版されたが、その翻訳の悪さにエンゲルスが落胆したというエピソードも付け加えられている。
次にヨーロッパのマルクス追悼の記事であるが、ドイツ・フランス・イタリア・オランダなどから集められているが、ロシアのものが多くなっている。
当時のロシアはツァーリの専制支配のもとにあったが、他の諸国と違って無視されるということはなかった。その中で、マルクスの墓に花輪を供える運動を呼びかけるペテルブルグの『ストウジェンストヴォ(学生部隊)』の非合法機関紙が注目される。
同記事は、『共産党宣言』や第一インターでのマルクスの活動を紹介した後、『資本論』を不朽の名著として剰余価値の問題にも言及し、「当地にあってもマルクスの精神は脈々と受け継がれている」と述べ、次のように呼びかける。
「抑圧されたものの友、意気盛んな同胞、高貴なる教師よ、あなたの栄光が永遠に生きながらえることを! カール・マルクスの名が永遠に生きながらえんことを!」「心ある諸君、カール・マルクスに掲げる花輪のために募金に協力を!」
このグループは、政治的には「人民の意思派」に近いが、『共産党宣言』や『フランスの内乱』を地下出版しており、マルクスの著作がかなり広く当時のロシアで読まれていたことをうかがわせる。ロシアにおける革命運動の人民主義からマルクス主義への過渡的な時代を代表する文書であろう(83年は「労働解放団」が結成された年でもある)。
こうした事情が、ヨーロッパの中でロシアでこそ、マルクスの死に最も関心が払われた理由であろう。
本書の性格からして、つまらない記事もいくつかあるが、一読してみる価値はあろう。(未来社刊、2000円)
(山田)
「海つばめ」第810号(2001年2月18日)