29.ヒルファーディング 『ベーム・バヴェルクのマルクス批判』
――主観価値説に反対し、労働価値説を擁護

 ルドルフ・ヒルファーディング(1877年〜1941年)は、カウツキーやローザと並ぶドイツ社会民主党の理論家の一人である。27歳の時(1904年)、「ベーム・バヴェルクのマルクス批判」という論文を発表して理論家としての地位を確立した彼は、1909年には有名な『金融資本論』を公刊し、「資本主義的発展の最新の局面」についての貴重な分析を提供した。彼の理論には、後年の“組織資本主義論”という純然たる資本主義弁護論に行きつく欠陥、あいまいさがあるが、そうした点を考慮して研究するなら、学ぶべき点も少くない。ここではまず「ベーム・バヴェルクのマルクス批判」をとりあげ次に『金融資本論』を二回(ないし三回)に分けて検討する。
 ベーム・バヴェルクは『資本論』第三巻公刊当時の代表的な(ブルジョア経済学の立場からするマルクス批判家の一人であった。ヒルファーディングのこの論文は、バヴェルクのマルクス批判論文、「マルクスとその体系の終結」の主観価値説に真に真向から反論し、労働価値説を擁護したものとして古典的な意義を持っている(引用は、スウィージー編玉野井芳郎他訳『論争・マルクス経済学』――法政大学出版局――から。邦訳はこの他戦前に改造文庫からも出ている)
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 バヴェルクのマルクス批判の要点は次のようにまとめることができよう。
(1)マルクスは使用価値を異にする二商品の交換関係から「共通物」として労働を「蒸留」するが、彼は交換価値をもつ物の中から彼が共通物として引き出そうとしている属性を持つ物だけ、つまり労働生産物だけを選び出し、土地、樹木などの自然物を除外している。これは同義反復的なレトリックだ。
(2)マルクスは、使用価値を捨象して商品になお残るものは労働生産物という属性だけだと言うが、商品にはなお、需要に比較して稀少であるとか需要及び供給の対象であるとか、占有されているとか自然の産物であるとかの共通の属性がある。マルクスは一連の他の諸属性を無視し、使用価値を不当に捨象することによってのみ希望する結論に達したのであり、労働が価値の原理であるという命題の論証に失敗した。
(3)マルクスは『資本論』第一巻では価値通りの交換を前提しているが、第三巻では価値から背離した生産価格によって交換が支配されていると説く。こうした説明は矛盾しており、労働価値説の破産を証明している。
 これらはいずれもブルジョア経済学の側からする労働価値説への“古典的”な批判であるがヒルファーディングがこれらにどう反論しているか見てみよう((3)についてはここでは省略する)。
 マルクスの行っている使用価値の捨象は何ら不当ではない。
 「使用価値から、したがって物の属性から――たとえそれが有用物としての完成した姿勢からであるにせよ、あるいはそれの機能すなわち有用物の欲望充足からであるにせよ――出発する価値論は、いずれも人間相互の社会的関係から出発するものではなくて、ある物とある人との個人的関係から出発するものである。このような価値論は、こうした主観的・個人的な関係から、ある客観的・社会的な尺度をみちぴき出そうとする誤謬におちいる。だがその場合、こうした個人的関係はあらゆる社会状態においていちように存在するが故に、また、それはそれ自身のうちに変化の原動をふくまないが故に【というのは、欲望の発達とそれの充足の可能性とはそれ自身また制約されるものだからである】、われわれがもしこのような価値論を採用するなら、われわれは、社会の運動法則と発展傾向とを発見することを放棄せざるをえない。このような価値論の考察方法は非歴史的であり、非社会的である。その範疇は自然的範疇であり、永久的範疇である」(一六二〜三頁)。
 これに対してマルクスは、労働から――人間社会を構成する要素としての、および社会の発展が終局においてそれの発展によって規定される要素としての意義をもつ労働から出発する。 「……労働が価値の原理であり、そして価値法則が現実性をもつのは、労働が原子にまで分解されている社会をむすびつける社会的紐帯にほかならないからであって、労働が技術的に最も重要なる事柄であるからではない。マルクスはかくして、社会的必要労働を出発点とすることによって、私有制と分業とを基礎とする社会の内面的機構を暴露することができた。交換のうちに彼が見い出すものは、個人的な価値評価の差異ということではなくして、歴史的に規定された生産関係の同等性である。この生産関係においてのみ人格的関係の象徴として、それの物的表現として、社会的労働の担い手として財貨は商品となる。また労働生産物でない物は派生的生産諸関係の表現としてのみ、商品性格をうけとることができるのである」(一六三〜四頁)。
 かくしてヒルファーディングはバヴエルクらの主観価値説の誤りを論破し、労働価値説の意義を擁護したのである。
 しかし、ヒルファーディングは価値の実態(抽象的人間労働)と価値の大いさ(労働時間)とを厳密に区別していない。だから最後の引用にあるように抽象的人間労働というべきところを「社会的必要労働」――その分量が価値の大いさを規定するが、社会的必要労働が問題になる以前に抽象的人間労働という概念が析出されなければならない――と言ってみたり、「労働一般が一つの客観的大いさをもちそれの時間継続によって度量される……この客観的大いさこそマルクスが問題にしようとするものである」といった表現が出てくるのである。こうした欠陥は、『金融資本論』ではもっとはっきりした形をとって表われる。


30.ヒルファーディング 『金融資本論』

(1)「社会的流通価値説」――価値論なき貨幣論――

 1910年、つまりヒルファーディングが“まだ”マルクス主義者だった頃に刊行された本書は、様々な欠陥を含むとはいえ一九世紀の末期から二十世紀にかけて成立した帝国主義を理解する上で欠かせない文献の一つである。
 ヒルファーディングは、序文の冒頭に「本書は最近の資本主義的発展の経済的諸現象を科学的につかもうとするものである」(国民文庫版(1)四九頁。以下引用は同書により頁数のみ示す)と記しているが、信用の発展と株式会社の分析、証券取引所の役割の変化、銀行資本と産業資本の関係、金融資本の形成とカルテル、トラストの恐慌に及ぼす影響、金融資本の政策と諸階級へのその影響等、帝国義的独占資本義の諸現象にマルクス主義の立場から光をあてようと試みた点に本書の意義がある。
 レーニンも『帝国主義論』の中で本書からしばしば引用しているが、序文の中で本書を次のように評価している。
 「この著者は貨幣理論の問題で誤りをおかしているし、またマルクス主義を日和見主義と和解させようとするある程度の傾向をもっているが、それにもかかわらず、この著者は、「資本主義の発展における最新の局面』――ヒルファーディングの本の副題はこういっている――のいちじるしく貴重な理論的分析の書である」(国民文庫、十九〜二十頁)。
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 ここではまずレーニンも指摘したヒルファーディングの「貨幣理論の問題での誤り」がどこにあったかを見ておこう。
 ヒルファーディングは、まず第一編「貨幣と信用」で「貨幣の必然性」を説くことから始める。
 彼は、生産物が商品に転化する(価値形態を持つ)のは「私有と分業」の下でのみであるというが、商品の価値とは何かをとり上げながら、それが抽象的人間労働の対象化であることを明確に規定していない。
 ヒルファーディングによる価値の規定は次のようなものである――
 「交換における商品たちの共同行為は、個々人の私的な、個人的な、具体的な労働時間を変じて、価値をつくる一般的な、社会的に必要な、抽象的な労働時間とする」(六六頁)、「どんな商品も社会的に必要な労働時間の体化として価値をもつ」(六八頁)。
 こうした表現は、ヒルファーディングがマルクスの価値論を正しく理解していないことを暴露している。商品は価値としては抽象的人間労働の体化物であり、そうしたものとして相互に連関しあうのであり、その価値の大いさを規定するものが「社会的に必要な労働時間」なのだ。だがヒルファーデイングは「抽象的な労働時間」といった珍奇な規定から分るように、価値の実体と価値の大いさについてのマルクスの規定を混同し価値論に混乱をもち込んでいるのである。
 価値論におけるヒルファーディングの誤りは、貨幣論の誤りりとして拡大生産される。
 ヒルファーディングによれば「それ(=貨幣)は第一に流通手段なのだ。それが価値の一般的尺度および商品の一般的等価物となったのち、はじめて、それは一般的支払手段となる」(七四頁)。
 こうした主張が全く逆立ちしていることは明らかであろう。マルクスが明らかにしたように「独自な等価商品たる金がさしあたり貨幣となるのは価値の一般的な社屋度としての機能によってにほかならない」(「資本論」角川文庫1、一四九)。
 ヒルファーディングのように言えば、貨幣は価値をもたずに流通に入り、流通手段として機能するということになる。レーニンも言うように、「ヒルファーディングにあっては、貨幣は価値をもたずに流通にはいりこむ」(帝国主義論ノート、全集三九巻三○四頁)。
 さらに、ヒルファーディングは国家の強制通用力を持つ純紙幣本位制を想定し、そのような本位制下では紙幣は「金の価値とはまったく独立して商品の価値をじかに反映する」(八○頁)といい、「社会的に必要な流通価値」なる規定を唱える。
 「現実の価値尺度は貨幣ではなく、かえって貨幣の『相場』が社会的に必要な流通価値とわたしの呼ぼうとするものによって決定される」(九四〜五頁)。
 ヒルファーディングは、マルクスがやったように「まず鋳貨量の価値を決定しておいて、それからこの価値によって紙幣の価値を決定するというような回り道は不用」だとして「紙幣の価値を繁Eかじかに社会的流通価値からみちびき出す」方がより明確だという。彼はこうして、紙幣はそれが流通必要金量を代表する限りで流通手段として機能するにすぎないというマルクスの規定を無視し「社会的流通価値」なるあいまいな規定を持ち込み、結局は貨幣論から価値論を追放してしまったのである。彼がリカードの貨幣数量説を批判しながら、紙幣本位制ではそれが妥当するとして擁護しているのは決して偶然ではないのである。

(2)一面的な金融資本概念――“組織資本主義”論の萠芽――

 ヒルファーディングは第二篇で株式会社を分析する。そこで彼は、「創業者利得」という概念を析出する。
 株式会社においては、「『株式資本』の総額すなわち資本還元された収益権の価格総額は、はじめ産業資本に転化された貨幣資本と一致する必要はない」(上、二一三頁)し、現実に一致しない。この先を説明するのが「創業者利得」である。それはいかにして形成されるか。
 一〇〇万マルクの資本をもつ産業企業の場合、平均利潤率が一五%、支配的利子率が五%とすると、この企業は一五万マルクの利用をあげることになる。この利潤から管理費用や役員報酬として二万マルクを差し引く。また五%の利子率に二%の危険プレミアムをつけると、この一三万マルクは株主にとっては七%の配当になる。そうすると株の価格(つまり一三万マルクを年収入として七%で資本還元した額)は一八五万七一四三マルク、切上げて一九〇万マルクとなる。だが一五万マルクの利潤を生むには一〇〇万マルクの資本で足り、九〇万マルクは自由である。
 「この九〇万マルクは利潤うみ資本を利子うみ資本(配当うみ資本)に転化することから出てくる。この九〇万マルクは、もし株式会社形態にともなう高い管理費用が利潤をへらすことを考慮しないとすれば、一五%で資本還元した額との差、すなわち平均利潤をうむ資本と平均利子をうむ資本との差に等しい。この差が『創業者利得』(“Gr?ndergewinn”)としてあらわれるのであって、この利得の泉は利潤うみ資本を利子うみ資本の形態に転化することからのみ湧き出る」(同二一三〜四頁)。
 このように、「創業利得は詐欺でもなければ補償や報酬でもなくて、独自の経済的範疇である」(二一四頁)を明かにしたことは、ヒルファーディングの理論的功績のひとつである。これによって創業者(主に銀行)の巨額の利得の源泉が科学的に解明されたのである。
 第三篇でヒルファーディングはカルテルやトラストなど独占の諸形態を分析し、金融資本の概念を定式化する。独占的結合の諸形態――カルテル、トラストの他、上昇的、下降的、混合的等の企業連合の諸形態、同部面的結合や異部面的結合などー―を分析したことは彼の業績のひとつであるが、それは形態の分析にとどまっていて、生産の集中・集積の発展――独占の形成との内的関連の追及はほとんどなされていない。
 こうした欠陥は、彼の金融資本の概念にも反映せざるをえない。ヒルファーディングは、金融資本を次のように規定する――「現実に産業資本に転化されている銀行資本、したがって貨幣形態の資本を金融資本と、わたしは名づける」(下、八九頁)、あるいは金融資本、「つまり銀行が処理し産業資本家が充用する資本」(同)。
 レーニンはこのようなヒルファーデイングの規定について「この定義は、そのなかに最も重要な契機の一つ――すなわち、生産と資本との集積は、それが独占にみちびきつつあり、またすでにみちびいたほどいちじるしく進展したということ――の指摘がないかぎりで、不完全である(『帝国主義論』、前掲六一頁)と述べている。
 こうしたヒルファーディングの金融資本概念の一面性は決して偶然ではない。彼は、専ら貨幣・信用の分野から(銀行資本の側から)金融資本に接近する(こうした傾向は、既に、彼が金融資本の分析を貨幣論の叙述から始めたことの内に現れている)。生産過程における変化――生産の集中・集積の発展と独占の形成――は彼の視野にはなく、これらについて述べるとしてもことのついでに触れるにすぎない。
 こうしたヒルファーディングの“方法論”は、レーニンが帝国主義の分析を「生産の集積と独占体」から始めて、金融資本について「生産の集積、それから成長してくる独占体、銀行と産業との融合あるいは癒着――これが金融資本の発生史であり、金融資本の概念の内容である」(前掲六一〜二頁)と規定したのとは対照的である。ヒルファーディングのような生産過程の分析を欠いた金融資本概念の把握によっては、レーニンが明かにしたように帝国主義が資本主義の独占段階であり、生産の社会化を発展させ、社会主義の物質的諸条件を成熟させるという結論はでてこないし、実際にない。
 さらにヒルファーディングの研究には、帝国主義段階における資本主義の寄生性と腐朽性についての分析はなく(レーニンはこの点でヒルファーディングは自由主義者のホプソンより「一歩後退したと言っている)、またカルテル化がすすむにつれてやがて「一般的カルテル」が生まれ、「資本主義的生産全体は、すべての部面における生産量を決定する一つの審判所によって意識的に調整される」(下一〇四頁)とか「社会経済の組級化の問題は、金融資本そのものの発展によって、ますますヨリよく解決されることになる」(同一〇六頁)と述べているように、後年の「組織された資本主義」論に通じる欠陥が含まれている。
 しかし、彼は、カルテルが恐慌をなくすとかいった弁護論には断固として反撃し、金融資本主義のもとでブルジョア国家の反動化、他民族の支配、軍拡主義の強化が進まざるをえないことを明らかにし、「ついに敵対的利害関係の激突において、資本貴族の独裁はプロレタリアートの独裁に一変する」(下三四一頁)と結論づけ、マルクス主義者としての名誉を保ったのである。