40.横山源之助 『日本の下層社会』
――資本の支配の告発と勤労者の状態の記録

 本書は日本の産業資本確立期(明治二十年代後半)における労働者・農民(小作農)、職人および俊下層階級の実態の調査記録である。
 明治維新をへて日本は資本主義的発展の道を歩みはじめるが、日清戦争前後を通じ綿織物、紡績等軽工業を中心として近代的工場が飛躍的に増加し、日本資本主義はようやく産業資本の確立期を迎える。当時の日本は機械制工業の発達によって労働者群が形成される一方では、都市には日雇等ルンペンプロレタリアートが沈殿し、農村においては“半封建”的小作農が広汎に存在していた。著者横山源之助は、新たに勃興した資本によって搾取され圧迫され、悲惨な状態におかれている労働者、当時の日本の主要な輸出産業であった生糸やマッチ工業等の手工業労働者、農村からはじきだされ都市に沈殿した日雇いをはじめとする半失業者および農村の小作人に焦点をあて、かれらを日本の「下層社会」を構成する者としてその生活をつぶさに調査し、報告している。著者はこのために実際に職人社会に入り、生活を共にし、また職工の列に加わるなどしてかれらの労働・生活のあり様、習慣・風俗にいたるまで克明に記録し、資本の支配・圧迫を暴露し、告発している。
 当時の代表的産業である繊維産業は、主として女子、幼少の労働者によって担われていた。「職工特に工女の年齢は十五歳以上二十歳以下なるは最も多く、而して年齢の長ぜるは粗紡機若しくは紐機に属し、幼なるは精紡機に属する通例なるが、長ぜるも十六、七歳、大抵十二歳乃至十四、五歳、甚だしきは七、八歳の児女を精紡に見ることあり」(一五九頁)といった状態であった。また生糸、茶、織物、米に次ぐ代表的輸出産業であったマッチ工業についても「細民の児女多く、而して職工に幼年者を見るは燐寸向上なりとす、職工の過半は十歳より十四、五歳の児童なり、中には八歳なるもあり、甚だしきは、六、七歳なるも見ること多し、特に軸並職工の如きその七、八分までは十歳未満、世間の児童は学校に入り、いろはを習ふに苦しめるを燐寸工場の児童は軸並枠の間に狭まり、左右をきょろきょろ眺めながら軸木を並べつつあるなり。蓋し日本の各種工業の中、幼年職工を使役すること多きは燐寸工場と段通(綿等の厚い敷物のこと――引用者)工場の二者か」(一三九頁)と資本が利潤追求のために低賃金労働者として幼年児童を酷使している実態を暴露している。
 繊維産業その他に動因されて賃金労働者のの圧倒的部分を占めていた女子労働者は男子労働者に比べても一段と低い労働条件におかれ、悲惨を極めた。例えば製糸女工については「労働時間の如き、忙しき時は朝床を出でて直ちに業に服し、夜業十二時に及ぶこと稀ならず、食物はワリ麦六分に米四分、寝床は豚小屋に類して醜陋見るべからず、特に驚くばきは、某地方の如き業務の閑なる時は復た期を定め賢定めて奉公に出し、収得は雇主之を取る、而して一ケ年支払ふ賃金は多きも二十円を出でざるなり」(一五○頁)といわれている。また近代的機会工場においても同様であり、労働時間は十二時間の二交替制で、その間わずかに三回計一時間の休憩があるだけ、こうして働きづめに働いても彼らの賃金は、「十七銭以下十五銭以下何れにせよ比の賃金高より食料八銭を除き、募集当時の前金を除かれば残る所幾何もあらざるなり」(一七○頁)という状態であった。
 しかも資本は、低賃金、長時間労働をおしつけたうえでさらに労働者を搾りとるための狡猾な制度をもうけた。労働者の移動をはばみ工場にしばりつけておくための「義務貯金」制度、労働者の「怠慢を防ぎ並びに労働を多量に得る」ための請負賃金制、様々な賞与制度について「賃金を低廉にして特に賞与の陥穽を設け、徒らに労働を貪らんとするが如きは、あまりに人間をオモチャにする者、斯くの如きは須らく排斥させるべからざるなり」(一七四頁)と糾弾している。
 著書の立場は、資本による労働者の圧迫、支配に対する深い憤りと、労働者への同情で貫かれている。著者は、労働は神聖なりとする“常識”について言う。「生活は人生の第一義なりと、若し単に生活の意味を以って見れば、日本の労働の如き生計も支へ得ざる廉価にして品位なき労働は、決して形而上の意を含める神聖といふ文字入るべき余地あらざるなり、而して工業の発達を望み、社会の進歩を求めんとす、余輩は世人の言ふところに疑惑を置くと共に、労働者自身も学者の空言に甘んじて得々たる竊に怪しむなり。余を以て卑近なりとする莫れ、是れ寔に日本の實情也。知らす労働者諸氏は今日の状況に対し何等の覚悟やある」(二三二頁)と労働者の自覚と団結を促している。
 ここに明らかなように本書は単に労働者、勤労大衆の生活の実態を掘りさげ明らかにしたにとどまらず、働く側からの利潤追求のために狂奔する資本に対する鋭い告発の書である。そしてこれは、時期を同じくして出された、良質の労働力確保という総資本の立場からする政府機関による労働者の調査「職工事情」に比べ本書を一段と意義あるものにしている点である。
(岩波文庫)


41.細井和喜蔵 『女工哀史』
――労働者の命を賭けた書物――資本の残虐非道をあばいて余りなし

 「女工哀史」は、著者自身が言うように、工場争議がきっかけで工場をやめ、「生活に追われながら石にかじりついてもまとめ」ようとしたが妻も首を切られて書けず、再び兵庫県の山中の小工場で一日十二時間労働しながら後半を書き、次の年に帰京してやっと完成したという、労働者自身の手による、労働者が命をかけた書物である。作者は、大正十四年(1925年)七月にこの書が出版されたあと一ヵ月して、「哀史が出たから、死んでもいい」と言いつつ亡くなっている。
 著者は、労働者の本当の姿を明らかにしたい、というやむにやまれぬ衝動と情熱から書いている。彼はいう、この書は「十三の春機家の小僧になって自活生終に入ったのを振り出しに大正十二年まで約十五年間、紡績工場の下級な職工をしていた自分を中心として、虐げられ蔑しまれながらも日々『愛の衣』を織りなして人類をあたたかく育くんでいる日本三百万の女工の生活記録」なのだ、と(序文)。
 彼は自らの体験をふまえつつ日本の繊維産業の簡単な歴史からはじめて、資本のあくことのない女子労働者への圧迫、虐待、卑劣な行為、非人間的な取り扱いを、あらゆる面にわたり具体的に暴露する。女工募集がどんなに嘘と悪業でかためられつつなされるか、雇傭契約でどんなに不当に労働者しばりつけているか、ひどい労働条件、懲罰、罰金、競争等を手段とする酷使、個人的生活への陰険な干渉、劣悪な住居や食物、偽善的な福利増進設備、惨たんたる病人の運命、その他、資本の残虐非道ぶりをあばいて余りない。まさに、資本は、「女工の不幸と逆比例に黄金を生み出す」(二○四頁)のである!資本は、高い利潤率こそすべてであって、あとはどんなことでも許されると思っているのだ。
 「実際いそがしくて便所へ行く時間さえままならぬと誰が想像できよう――。
 たまにする運動の競争ならいいが、年百年中こんな仕事の競争をやらせられてはたまらない。某医学博士の研究によれば、このようにして五年間ぐらい劇甚な工場労働に服役した女は他の社会的労働において一種の活動不能者になっているということだ」(一三五頁)。
 著者の暴露している労働者の惨状は、はたして変ったか?今は、昔とちがうというのか?たしかに資本は表面は“近代化”され、かつてのような野蛮でひどい圧迫はなくなったかである。しかしこの書をひもといてみる読者は、数十年たったにもかかわらず、どんなに多くの共通点が労働者の労働や生活や運命にあるかに驚かざるをえないだろう! 彼は書く、「我等が身をまとう衣服を作るために年々一万人の生命――うら若い女が亡び行く、何という驚くべき事実だろう」(三一九頁)と。
 著者は満腔の同情を女工たちに注いで書きながらも、一人の労働者として、女工たちを特別に美化したり“物神崇拝”することなく、そのありのままの姿を、そのせまさ、恋愛観、貞操観念、孝心、怯懦性、宿命観、愁郷病、嫉妬心、そしてまた環状過多と理性の欠如、おくれた階級意識や保守性、さらには自然発生的な反抗心等々を実に生き生きと描いている。
 そして著者は、女子労働者の現状を見れば見るほど、資本主義社会を、現下の工場制度をはげしく憎まざるを得ないのだ。
 「かくして彼女は観る者聞くもの触れるものを疑い、嫉妬を有たねばならないのである。これは、常に人から誑(たぷら)かされ、虐げらるる者の歪んだ感情である。彼女の少女時代にはたしてこんな僻(ひが)み根性が宿っていたものであろうか? 私はノーと答えなければならないのである。みな工場へ来てからの悪い環境が彼女をそうしたのだ」(二九八頁)。
 彼は一割位いの、全く無感動でただ働き、国元への送金とか貯金とか以外の欲望のない労働者について言う、「彼女達はこれからの環境次第で、どんな色にも染まる白紙の少女時代はるばる伴れて来られ、そのまま牢獄へぶち込まれ直ちに機械につけられる。……工場とは一個の大きな蜂の巣である。そして女王資本家と少数の家臣等のために、性欲や生活欲望を感じない処の働き蜂が多数雲散して孜々(しし)として働いている。鳴呼! 憎むべき資本主義は遂に人間を昆虫へまで引き下げた」(三一六頁)と。
 著者の解決策は次のようだ。
 「それにはただ一つの道として『義務労働』があるのみだ。即ち健康な一人前の人間として『働かざるものは食うべからず着るべからず』というモットーの許に、各人が義務服役をなすのである。ここにおいて現在の工場組織は根本的に改造を施されて、当然『工場国有』が実現するだろう。……いま我が日本において二千五百万の婦人がみな働くことになれば、十時間の十二時間のという怖ろしく長い労働を五年も十年も続けなくてすむ。ほんの血気ざかりな婦人が一日に四、五時間ずつ、それも気分の勝れた日ばかり一ヵ年か二ヵ年も働けば、それで必要な生産はできる」(三四一頁)。
 この本は、「労働の共和国」を夢みつつ、「いま太陽の光りは濁っている」という一句で終っている。著者の言う「義務労働」はもちろん社会主義の一契機であるが、彼の社会主義は空想的社会主義の色彩をおびている、しかしそれは書にとって何ら本質的な欠陥ではない。
(岩波文庫)


42.河上肇 『貧乏物語』『第二貧乏物語』
――「いかにして貧乏を根治しうべきか」

 「驚くべきは現時の文明国における多数人の貧之である。……英米独仏その他の諸邦、国は著しく富めるも、民ははなはだしく貧し。げに驚くべきはこれら文明国に於ける多数人の貧之である」。
 こうした書き出しで始まる『資乏物語」が「大阪朝日新聞」に連載されたのが一九一六年――ちょうど第一次世界大戦にあたるこの頃、日本も資本主義が急速に開展する中で、その矛盾を激化させ、いわゆる“戦争成金”が生じるとともに、他方で大衆の生活はますます苦しくなっていった。資本主義の下で何故に多数の貧之人が存在するのか。? 「貧之問題」はいかにして解決されるのか――『貧之物語』は現代社会のこの切実な問題を日本で真正面からとりあげ、社会問題に多くの人々の眼を開かせた先駆的意義をもった著作といえるだろう。
 『貧乏物語』は、上編「いかに多数の人が貧之しているか」中編「何ゆえに多数の人が貧乏しているか」下編「いかにして貧乏を根治しうべきか」の三編から成っている。上編は英仏等の統計数字をあげ全人口中の少数者が富の大部分を占有し、逆に大多数の者が肉体の健康を維持するだけのぎりぎりの生活をしているという事実を指摘し、貧乏を「二十世紀における社会の大病」と暴露している。また人間は心の持ちよう一つで富者より貧者の方がかえって幸福だという俗説を批判した部分など注目される。
 では何故に多数のものが貧乏なのか? 従ってそれはいかに解決されるのか? この『物語』を書いた時いまだマルクス主義に立脚していなかった河上は、「貧乏」の原因とその解決策について説く中・下巻ではずい分おかしなことを言っている。いわく機械の発明によって文明国で生産力が発達したにもかかわらず、大衆は生活必要品に不足している、資本主義経済は需要あるものにかぎりこれを供給する、需要は資力がともなわねばならないが大衆の所得は少ない。そこで生活必要品はわずかしか供給されず奢侈ぜいたく品の方が優先する、と。「なぜ貧乏人が多いかといえば生活必要品の生産が足らぬのだと言い、なぜ生括必要品の生産が足らぬかと言えば貧乏人が多いからだ」というように、貧乏は貧之によって生みだされるという循環論を展開する。こうした循環からの脱出策、貧乏退治策として河上は「社会問題を解決するためには社会組織の改造に着眼すると同時に、また社会を組織すべき個人の精神の改造に重きをおき両端を攻め、理想郷に入らんとするものである」という立場を述べるが、社会的織がいくら変わっても、それを運用する人間の意識が変わらなければ理想の社会は実現されないし、逆に「個人の心がけさえ変って来るならば、たとえ経済組織は今日のままであっても、組織を改造したるとほとんど同じ結果が得られる」として、結局、資本家が社会的責任にめざめ奢侈の消費・生産を自制するよう訴えるのである。いまだ人道主義的理想主義者でしかなかった立場からすればこの様な道徳主義的空想的結果は当然であった(それ故櫛田民蔵らの批判を招いた)。
 だが資本主義が発展し国が富めるにもかかわらず民が貧しくなるという社会矛盾に人々の眼を開かせ、この「二十世紀の大病」の根治という社会的課題を真正面から提起し――ここにこそこの『物語』の意義がある――、その解決の為に真剣に取りくんだ河上はやがて自らをマルクス主義者へと変革させていく。その解決めざしてマルクス主義について徹底的に学び、自らを革命家として成長させていったのである。『貧乏物語』はそのための出発点をなすものであった。
 それから十三年後に発表された『第二貧乏物語』では同一の課題をとりあげていても、その原因把握、その解決法が『貧乏物語』と全く違ったものになったのは当然である。その「まえおき」で河上は言う。「私は今度こそは、倫理的な説教や空想的な希望やをもってこの篇を結ぶことを敢えてしないであろう。私は専ら客観的な事実によって資本主義から【共産主義】への推移の不可避性を科学的に立証し、かつかかる客観的な科学的分析に適応すべき吾々の行動について論述するであろう」と。すなわち、弁証法唯物論――史的唯物論をプロレタリアートの認識の武器として語り、その資本主義社会の解剖への適用である経済学について述べ、価値、剰余価値について、資本蓄積の法則について、従ってまた資本主義の下で貧困化が何故不可避なのかを明らかにしている。さらに資本主義の発展はその諸矛盾の発展でありそれを打倒する墓掘人を生みだし、資本主義の社会主義への移行が歴史的必然であること等々を、対話形式を使いながら平易に説明している。そして最後に、資本主義を打倒した後の未来の社会の下で「そのとき『貧乏』という文字は永久に人間社会にとって無用となるであろう」とし、こうした社会めざし、そのための革命闘争に「最善の意識的な参加」をしなければならないと結んでいる。『貧乏物語』と比すればまさに“空想より科学へ”の転化である。『第二貧乏物語』が科学的社会主義の入門書として若い知識人、戦う労働者に広く愛読されたゆえんである。
 半世紀以上も前に河上が提起した「貧乏根治」――これはまさに今日の問題である。これを実践的に解決していくこと、それが今日の労働者階級の課題であり、革命家河上の遺志をつぐことでもある。
(『貧乏物語』岩波文庫、『第二貧乏物語』著作集二巻、筑摩書房)


43.河上肇 『資本論入門』
――科学的社会主義の基礎を解説

 河上肇の「資本論入門」は、彼自身が「拙者の中で幾らかでも生命ある唯一のもの」とよんだ全五巻の大分な著作で、実にあしかけ十年近い年月をかけて完成されている。
 すなわち河上自身によれば、1923年から32年までかかったということ(直接第一巻を公けにしてからは四年)だ。
 河上は自分の手にしか人らなかった試刷木に次のような書き入れをしている。「この著書は私が分けにした最後のものであり、また半生にわたる私のふつつかながらも懸命にやってきた研究の結果を集成したものであり、しかもこの書の公刊された昭和7年11月には私は己に日本共産党員として地下に潜伏していたものであるから、これは私が意を決して党員となり得た時の思想上の姿ともいえる」。
 ここでは河上の人生とその闘い、生き様と実践について全体的な評価をくだすつもりはない。ただ、彼が思想的にマルクス主義を獲得しようと苦闘し、帝国主義と軍事ファシズムのおそるべき時代に共産党へ入党したことは、必ずしも彼の不名誉とはいえない、と強調しておきたい。今とは多くの事情がこと
なっていたのである。
 「資本論入門」についていえば、河上肇の著書の中で最も注目すべきものの一つであると共に、資本論の解説としては、最もすぐれたものの一つである。
 河上肇は、あえて少々誇張していえば、あらゆる面から、詳細にこの資本論の解説という仕事を行っている。彼は、単に資本論の内容だけでなしに方法論的な根底をも同時に明らかにする。被は、資本論と階級闘争の歴史の中で問題になった一つ一つの文章や、言葉さえもとりあげて詳細で全面的な説明を展開する。また、途中で、効用学派が暴露され、小泉信三が槍玉にあげられる等々。
 河上の解説は、資本論の第一巻までで終っている。そして、五分冊のうちの二分冊が、商品及び貨幣にあてられているが、彼がもっとも力をそそいでいるのは商品価値の箇所である。だから、この書は、資本論の一番基礎的な部分の解説であり、その意味では初心者向きともいえるかもしれない、といっても彼の説明はいささかも皮相でなく、深く、真実である。
 だが我々は若干の疑問を述べておかなければならない。彼はいわゆる「冒頭の商品」について次のような全く正しい観点を提起している。冒頭の商品は、「資本家的社会の最も捨象的な範疇としての商品である。だからそれは、一方においては、資本家的商品が『資本家的』という規定を捨象されたものとして『簡単な商品』であるが、しかし他方においては、それは資本家的社会にとっての最も捨象的な範疇に外ならぬのであるから、歴史上において資本家的商品以前に存在したものとしての
簡単な商品ではない。すなわちそれは、最も具象的な資本家的社会そのものの一面として、かかる社会と同時的に存在するものである」(世界評論社版第一分冊、一〇五〜六頁)。
 彼はこのように、「最も抽象的な範疇としては、最も発展せる商品生産の社会――資本家社会といへる具体物――の一面としての外は存在しないが故に、それは必ず常にかかる具体物を前提とする」 (同一一一頁)、「だから、完全な姿における純粋の商品は、ただ吾々の抽象の力によってのみ得られる。それはただ資本家的生産からの抽象としてのみ存在しうる」(同二三九頁)と正しく述べながら、他方では、「理論的展開の歴史的発展への適応」と称して次のように言うのである。
 「資本家的商品から『資本家的』という規定を捨象すれば、そこには簡単な商品としての一面が残るだけであるから、そして『資本論』は第一篇全体を通じて、商品をかかる捨象のもとに観察しているのであるから、そこで取扱われている商品は、これを現実の歴史にあてはめれば、正に簡単な商品(資本家的商品以前の商品)に相当するのである。吾々はこの意味においてそこでは資本家的商品ではなしに、簡単な商品が問題とされている、と言いうる。だが、かく現実の歴史に照応せしめて考える場合にも、吾々は第一節(及び第二節)で問題とされている商品と、第三節以下で問題とされているそれとを、明確に区別せねばならない」。「ところで簡単な商品がまだ資本家的商品に転形せず、しかもそれがその最も充実した・最も含蓄多き・最も多面的な形態で存在するのは、資本家的生産の成立の直前である」、つまりヨーロッパで言えば、世界商業と世界市場がすでに成立した十六世紀に相当する云々(同一一六〜七頁)。
 これははたして正しい見節であろうか? 我々はこのような論理は全く不必要と考える。河上が、第一、二節(価値概念)と第三節(価値形態論)以下を区別するのは、後者は現実の歴史的過程を述べているのだといった理解があるからである。勿論価値形態論の課題に対するこうした認識はまちがっている。
 しかし全体からみれば、こうしたまちがいは小さいことだ。
むしろ我々は、河上が誰よりもはっきりと、冒頭の商品を「資本家的生産からの抽象としてのみ存在しうる」と断言した点を評価すべきであろう。彼はさらにこれを現実の歴史に「あてはめる」といって少々脱線してしまったのだが。
(世界評論社、及び青木文庫)