11.レーニン『人民の友とは何か』
今回から約十回にわたって、レーニンの著作を紹介する。第一回は、1894年に書かれた「人民の友とは何か」をとりあげる。
ロシアにおけるマルクス主義の闘争は、プレハーノフらの「労働解放団」によって開始されていたが、社会主義的な労働者政党の建設をめざすレーニンの闘争もまず伝統的なロシアの社会主義思想=ナロードニキ主義との闘争という形で開始された。農民的社会主義としてのナロードニキ主義はこの時代にはかつての革命的なものから穏健な「素町人的」な日和見主義に転落しつつあったが、レーニンは「市場問題について」や「ロシアにおける資本主義の発達」や本書などを通じて、それに対する徹底した暴露を行っている。
本書では、ナロードニキのイデオローグたるミハイロフスキーらのマルクス主義の中傷、歪曲に抗議して唯物史観の意義を擁護すると共に、それに基いてロシア社会の現実を分析し、ナロードニキの主観主義や日和見主義的綱領を徹底的に暴露している。現代の「社共」も小ブルジョア的社会主義=「素町人的社会主義」たる点で、このナロードニキと多くの点で一致している。それ故、我々は、このレーニンの批判から大いに学ぶことができるだろう。
ミハイロフスキーは、「どういう著作の中で唯物論が叙述されているか知らない」とか唯物論者は、その社会理論をヘーゲルの三段階法のうえに基礎づけている」とかいって、唯物論や唯物史観の意義を否定する。これに対してレーニンは、「唯物論者の任務は現実の歴史過程を正しく、かつ精密にえがきだすこと」にあるのであり、「経済的社会構成体の発展を自然史的過程として考える」唯物史観こそが社会学を真に科学とする可能性をつくり出したのだと、唯物史観を全面的に擁護する。そして、逆に、「社会学の本質的任務は、人間の本性のあれこれの要求が充足される社会的条件を明らかにする」ものだというミハイロフスキーらの立場が社会学を単なる主観的願望や道徳訓にかえるものであることを明らかにする。
実際、唯物史観を否定し、主観的な方法論に立脚するナロードニキは、ロシア社会の現実を「経済社会構成体」として、一定の生産関係のもとに位置づけ分析するのではなく、何らかの主観的願望やありうべき理想から出発して、現実を告発し論難するにすぎないのである。彼らはとりわけ、農村の家内工業である「クスターリ」を「人民的営業」と呼んで大規模経営に対置し、ロシアにおける資本主義の発展の必然性やその歴史的進歩性を否定する。彼らにとっては、農民の困窮や零落、労働の強化等々の悲惨の原因は、資本主義の浸透の結果ではなくて単なる外的な諸条件=国家の諸施策等々の「欠陥」によるものなのである。それゆえ、彼らの実践的な綱領は、「農民銀行を改組し、拓殖銀行を設置し、人民の経済に有利なように官有地の賃貸を整理し、借地問題を研究し調整する」といった現存の体制を基盤として、国家・政府に様々な改良策を要求する月並みな「素町人的」な方策にすぎない。
レーニンは、こうしたナロードニキの主張に対して、実際の統計資料に依拠しつつ、ロシアの農村に浸透しているのは、純然たる商品生産、資本主義であり、彼らが美化する「クスターリ」もまた資本主義的生産の一形態であり、農民=「人民」の中に、資本家と労働者への厳然たる階級分化が深まっていることを明らかにする。
大規模経営に対して、クスターリといった小経営を美化するナロードニキの反動性はどこにあるか? それは、そうした小経営も又資本家的経営の一形態であり、そうした小経営主もまた農村の小搾取者であることを忘れていることにある。「人民的営業」といった形で小経営を美化するのは、農村住民の「小吸血鬼」による隷属「人格に対するアジア的侮辱」を擁護することを意味し、「勤労者を一人一人各個に圧迫し、勤労者を自分にしばりつけ、解放のあらゆる希望をうばいさってしまう」恐るべき状態を擁護することを意味するのである。
レーニンは、こうしたナロードニキに反対して、資本主義の進歩性と労働者の階級闘争の意義を全面的に擁護する。「大資本への隷属は――労働の抑圧のもたらすあらゆる恐怖すなわち、死滅・野蛮化、婦人や子供の不具化、等々にもかかわらず――吸血鬼への隷属にくらべれば進歩的である。なぜなら、それは、労働者の思想をめざめさせ、漠然とした不明瞭な不満を意識的な抗議に転化させ、分散した小規模の無意味な一揆を、全勤労者の解放のための組織的な階級闘争に転化させるからであり、そして、この闘争は、この大規模な資本主義の存在条件そのものの中から自己の力を汲みとりそれゆえにまた確実な成功を期待しうるからである」。
また、国家を何か超階級的な機関とみなして提起する彼らの実践的施策は、本質的には何物も変えないし、むしろ、資本主義経済を発展させるにすぎない。「彼らは、すべての人を目あてにした方策、和解と統合を期待する方策によって、闘争を停止させようとゆめみている」のであり、「収奪のない、搾取のない資本主義、人道的な地主や自由主義的な役人の庇護のもとに平和に十年一日のようにくらしている素町人だけしかいない資本主義」を欲しているにすぎないのである。
それゆえ「社会民主主義者」(マルクス主義者)とナロードニキの間には、「完全な深淵」が横たわっているのであり、ロシアの社会義者にとっては、「民主主義者の思想と完全にまた終局的に絶縁すること」が必要である。マルクス主義者の任務は、ナロードニキのこのような主観的な有害な幻想に反対して、「ロシアにおける経済的敵対のあらゆる形態の具体的研究」を行い、労働者階級に「真の闘争の合言葉」をあたえ、労働者を独自の労働者党に組織することである。レーニンはこのような理論的活動と実践的活動を一体とした社会主義者の活動をリープクネヒトの言葉を借りて次の様に特徴づけている。
「研究し、宣伝し、組織する」、と。
12.レーニン『何をなすべきか』
ナロードニキとの闘争という形で闘いを開始したロシアのマルクス主義者達は、1898年には社会民主労働党を結成し、本格的な政治闘争を開始しはじめた。しかし、この新しい党はまだ、綱領、規約、戦術等にわたる思想的統一をかちとったわけではなくすぐさま路線上の対立が表面化せざるをえなかった。
「何をなすぺきか」(1902年)は、この若い党の中に現れた最初の日和見主義的な潮流である「経済主義」との闘争のために書かれた小冊子である。この経済義は一言にしていえば、理論の意義の軽視と自然発生性への拝跪と特徴づけられるが、単に「国際的な日和見主義のロシア的一変種」たるにとどまらず、社会主義運動の中で(とりわけ運動の若い時代には)不断に発生してくる傾向であり、我々はレーニンのこの闘争から、多くの一般的教訓をひきだすことができるであろう。
「ラボーチェ・デーロ」等の機関紙誌に依拠する経済主義者達の主張の第一の核心は、永続的な統合のためには批判の自由が必要である」といって、あらゆる理論上の論争や意見の相違や政治問題、党建設計画などについて無頓着を装い、従ってマルクス主義理論への修正や歪曲の試みに対して寛容を説くところにある。レーニンは、「党内闘争こそが、党に力と生命をあたえる」というマルクスの言葉を本書の冒頭に掲げ、このような「批判の自由」が意味するのは、実際上はベルンシュタイン的な修正主義を擁護することだと批判し、革命運動における革命理論の意義を全面的に擁護する。「革命的理論なくしては革命運動もありえない」「特にロシアの社会民主主義者(マルクス主義)にとつては、第一にその運動がいまようやく形づくられつつあるということ、第二に「社会民主主義運動が、その本質そのものからして国際的である」こと、第三に「全人民を専制政治のくびきから解放すべき」ロシア社会民主義者の国民的任務からも、理論の意義はなおさら強調されなくてはならない。
さらに、この経済主義者達はこうしたレーニンらの立場に対して、「発展の客観的あるいは自然発生的要素の意義」を過小視するものだと非難する。このような経済主義の主張は、運動の経験や訓練の不足によつて生まれたロシアの革命家の「欠陥を美徳にまつりあげる」ものであり、社会主義者の任務を意識的に低め、せばめるものである。経済主義者達が美化する、「『自然発生的要素』とは本質上、意識性の萌芽にほかならない」のであり、社会主義者は労働者の意識を、単なる雇主との対立のめざめから、「自分たちの利害が現代の政治的、社会的制度全体と和解しえない対立にあるという意識」にまで高めることにある。そして、このような意識はただ外部からのみもたらしうるものなのである。「労働運動の自然発生性へのいかなる拝跪『意識的要素』の役割、つまり社会民主主義の役割のいかなる軽視もとりもなおさず……労働者にたいするブルジョア・イデオロギーの影響をつよめることを意味する」。自然発生的な労働運動とは組合主義であり……組合主義とはまさしくブルジョアジーによる労働者の思想的奴隷化を意味する」のである。
経済主義者達は、「いま社会民主主義者の当面する任務は、いかにして経済闘争そのものにできるだけ政治性を付与するかということである」とか「経済闘争は、大衆を積極的な政治闘争にひきいれるために、もっとも広範に適用されるぺき手段である」と主張するが、これに対して、レーニンは次の様に答えている。経済闘争は、「労働力販売の有利な条件を獲得するための労働者階級の闘争であり「経済闘争に政治性を付与する」というのは、実質上「社会民主主義的政治を組合主義的政治にひくめよう」とすることである。「革命的社会民主義は、改良のための闘争を、つねにその活動にふくめてきたし、いまでもふくめている。……一言でいえば、革命的社会民主主義は、改良のための闘争を、全体にたいする部分として、自由と社会主義とのための闘争に従属させるのである」。
そして、労働者階級の「革命的積極性」を「培養」することは、社会主義者が「経済的基盤のうえに立つ政治的扇動」にとどまらず、「全面的な政治暴露を組織する」ことによってのみ可能となる。だから、「社会民主主義者の理想は、労働組合の書記ではなくて、どこでおこなわれたものであろうと、またどんな層または階級にかかわるものであろうと、ありとあらゆる専横と圧制の現れに反応することができ、これらすべてのあらわれを警察暴力と資本主義的搾取とについての一つの絵図にまとめあげることが出来」る「護民官」でなければならない。
そして、こうした経済主義には、組織上の「手工業性」が照応する。つまり、もっとも身近な要求の為の闘いを掲げ、ゼネストや「刺激的なテロル」を組織することを第一の任務にすえる経済主義者には、「政治的反対や抗議や憤激のありとあらゆる現れをむすびつけて一つの総攻撃にする全国的な中央集権的な組織」=「プロレタリアートの解放闘争の全体を指導する能力のある革命家の組織」を建設することなど全く及びもつかないことである。しかし「社会民主主義の政治闘争は、雇主と政府にたいする労働者の経済闘争よりずっと広範で複雑」であり、それゆえに「革命的社会民主党の組織は、ぜひともこのような闘争のための労働者の組織(労働組合等)とはちがった種類のものでなければならないのである」。レーニンはいう。「われわれに革命家の組織をあたえよ、しからばわれわれはロシアをくつがえすであろう」と。
そして、このような党の建設は、「ひんぱんに発行され規則正しく配布される全国的政治新聞なしには不可能」であり、こうした新聞こそが「集団的宣伝者及び集団的扇動者」、「集団的組織者」となることができるのであり、それこそが「階級闘争と人民の憤激の一つの火花をふきおこして全般的な火災にする巨大な鍛治用ふいごの一小部分となるであろう」。
13.レーニン『一歩前進、二歩後退』
――革命政党の組織原則は何か?
前回の『なにをなすべきか』は、労働者の階級闘争における革命的な前衛政党の意義と前衛政党建設の槓杵となるべき全国的政治新聞の役割りを明らかにするものであった。そして、今回の『一歩前進二歩後退』は、これを進めて、この前衛政党の組織原則はいかなるものでなければならないか、これを明らかにした画期的な著作である。
『一歩前身二歩後退』は、直接には、1903年の、ロシア社会民主労働党第二回大会の顛末記であり、全面的な総括である。ロシア社会民主労働党は、レーニンらの「イスクラ」グループを中心に、いくつかのグループの代議員を結集して、ブリュッセルとロンドンで第二回大会を開催したが、この大会は実質上の結成大会といえるものであった。「綱領問題と戦術問題とにおける統一は、党を統合し党活動を中央集権化するための必要条件ではあるが、まだ十分な条件ではない。そのためには組織の統一が必要である。そして、この組織の統一は、家庭的なサークルのわくをいくらかでもはみだしている党にあっては、確定した規約なしには、多数にたいする少数の服従なしには、全体にたいする部分の服従なしにはありえない」。そして、大会ではじめて、単一の綱領、規約を採択し、中央委員会(及び機関紙編集部)等の指導機関を選出し、中央集権的な党体制を確立したのである。
しかし、この画期的な「前進」は、同時に一種の「後退」をともなわざるをえなかった。すなわち、この大会での対立を契機とする、党の「多数派」(ポルシェヴイキ)と「少数派」(メンシェヴイキ)とへの分裂であった。『何をなすべきか』に表現されている革命的社会主義と「経済主義」という形での戦術をめぐる論争は、第二回大会では、とりわけ組織問題をめぐる対立となって爆発し、ここに、プレハーノフ、マルトフらの「メンシェヴイキ」=日和見主義派とレーニンら「ボルシェヴイキ」との決裂が決定的なものとなった。『一歩前進二歩後退』は、この大会での一見非常にささいなものの様に見える対立の深刻な根底を明らかにし、党の組織論における革命的な原則を明らかにしている。
大会での論争は、ブンドの地位、言語の同権の問題、プロレタリア独裁、農業綱領の問題等々様々な部面で行われたが、その核心をなしたのは、規約第一条をめぐる対立であった。すなわち、党員の資格、要件について、レーニンの草案は、「党の綱領を承認し、物質的手段によっても、また党組織の一つにみずから参加することによっても党を支持するものは、すべて党員とみなされる」というものであるが、マルトフの草案の第一条は、「党の綱領を承認し、党の任務を実現するため党諸機関の統制と指導のもとに積極的に活動するものは、すべてロシア社会民主労働党に所属するものとみなされる」というものである。
マルトフやアクセリロードらの人々が言うところは、党組織に属して働かないでも、自分を社会主義者だと「声明」する「大学教授」や「ストライキ参加者」など、党の同調者でしかない雑多な人々を党員として認めという、はば広主義の「門戸開放」政策であった。しかしこの様な主張は、かつて「経済主義」としてあらわれたのと同様の追随主義であり、党を無定型で混沌としたものに転化する無政府的な空文句以外の何物でもない。レーニンは、この様な主張を断固として粉砕し、労働者階級の中の最も積極的な分子によって構成される「労働者階級の先進部隊としての党」の意義と独立性を擁護している。労働者階級の中に「意識の程度や積極性の程度に差があるからこそ党への近さの程度にも差をつけることが必要なのである。われわれは階級の党である。だから階級のほとんど全体が(そして戦時や内乱時代には、完全に階級全体が)、わが党の指導のもとに行動し、できるだけ緊密にわが党に同調しなければならないのである。だが、資本主義のもとでいつかは階級のほとんど全体がその先進部隊の、その社会民主党の意識性と積極性までたかまることができると考えるのはマニーロフ気質であり『追随主義』であろう。……先進部隊とそれに引きつけられる全大衆との差異を忘れ、ますます広範な層をこのすすんだ水準にたかめる先進部隊の不断の義務を忘れることは、自分をあざむき、われわれの任務の巨大なことに目を閉じ、これらの任務をせばめることでしかないであろう」。
マルトフらの主張は、中央委員会等の上部機関への指導・統制に反対し、地方的なサークル主義を維持しようとする立場、一言にしていえば、中央集権的な組織原則への不信、抗議と密接に結びついていた。このような無政府主義、サークル主義は、実際には、ブルジョア的個人主義が骨の髄までしみこんだ組織に所属したがらないインテリに譲歩するものであり、「ブルジョアインテリゲンツィア的個人主義の味方」となつて、「プロレタリア的な組織と規律」に反対することを意味したのである。すなわち、戦術問題におけるのと同様、ブルジョア的心理に無力に屈服し、ブルジョア民主主義の立場を無批判的にとりいれ、プロレタリアートの階級闘争の武器をにぶらせているのである。
レーニンは、組織不信のインテリに反対して、組織のもとに団結して闘いぬくプロレタリアの立場を次の様に要約して、この本を結んでいる。「権力獲得のためにたたかうにあたって、プロレタリアートには、組織のほかにどんな武器もない。ブルジョア世界の無政府的競争の文面によって分裂させられ、資本のための強制労働によって押しひしがれ、まったくの貧困と野蛮化と退化の『どん底』に絶えず投げおとされているプロレタリアートは、マルクス主義の諸原則による彼らの思想的統合が、幾百万の勤労者を一つの労働者階級に融合させる組織の物質的統一でうちかためられることによってのみ、不敗の勢力となることができるし、またかならずなるであろう」。
こうした中央集権的な組織原則こそ、単なる「ロシア的特殊性」といったものでなく、プロレタリアートの階級闘争の普遍的的な原則である。
14.レーニン『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』
1905年の革命で、「人民の圧倒的多数がツァーリズム政府から完全に、断呼として、公然と離反」し、「転覆される古い政府のかわりにどのような政府をつくるか」ということ、すなわち臨時革命政府が焦眉の問題となっているという緊張した情勢の下で、本書は書かれている。
ボルシェヴィキは第三回大会で、ロシア革命が民主主義革命であるという前提に立って、臨時革命政府の意義を次のように特徴づけた。(1)完全な政治的自由と民主共和制の実現、(2)それはただ勝利した人民蜂起の結果であり、臨時革命政府はこの蜂起の機関であること、(3)ロシアの民主主義的変革は資本主義の急速な発展を可能にすることでブルジョアジーの支配を強めるものであること、である。ここから、ポルシェヴィキは次のような戦術をたてた。(イ)臨時革命政府の必然性を労働者階級の間にひろめること、(ロ)反革命と闘い、また労働者階級の独自の利益を守るために臨時革命政府に参加すること、(ハ)参加の条件として、社会主義的変革のためにすべてのブルジョア政党と敵対して社会民主党の独立性を守ること、(ニ)革命を前進させるには社会民主党に指等される武装したプロレタリアートが臨時革命政府に絶えず圧力を加えることである。
ボルシェヴィキのこの戦術はメンシェヴィキの立場、臨時革命政府と並べてブルジョア自由主義派(「オズヴォポジデーニエ」紙など)の憲法制定議会もツァーリズムと徹底的に闘うことができるかに言ったり、彼らとの協調を主張したりする立場と鋭い対照をなしている。レーニンは本書の中で事実上ツァーリズムとブルジョア自由主義派に追従するメンシェヴィキの日和見主義を容赦なく批判している。共産党は本書を何か「二段階革命論」や「労農同盟」=統一戦線のドグマを証明するものであるかに卑しめるのだが、本書の意義は実はこうした日和見主義的俗論を真向から批判するところにあるのだ。
いかにもロシア革命は――共産党が「労農同盟」のドグマと矛盾しているということにさえ気づかずにこれを社会主義だと思いこんでいるのとはちがって――ブルジョア民主主義革命であり、農奴制の下に呻吟していたロシアを旧時代の残存物から解放して資本主義的発展の途におしやる革命であった。ロシアが資本主義へ前進すること、これは必然であった。だがどのような道を辿ってか、すなわち「(1)『ツアーリズムにたいする革命の決定的勝利』に終わるか、それとも(2)決定的勝利をかちとるには力がたりずに、プルジョアジーのうちもっとも『不徹底』でもっとも『利己的な』分子とツアーリズムの取引に終わるか、二つに一つ」である。そしてこのことはロシアの労働者階級が来たるべき社会主義革命のために闘うことにとって、きわめて大きな意味を持っている。
もちろん「ヨーロッパのどの国の実例をとつてみても、ほかならぬ、けっして『臨時』ではない一系列の政府が、ブルジョア革命の歴史的任務を実現したこと、革命を打ちやぶった政府すら、やはりこの敗北した革命の歴史的任務を実現しないわけにはいかなかった」のは明らかである。だがブルジョア自由主義派に追随し、ツアーリズムと取引するこの道は「長びいたぐずぐずした道であり、国民という有機体の腐った部分が苦痛をともないながら徐々に死滅していく道」であって、このためにまっさきに苦しめられるのは労働者であり、貧農である。
ロシア革命がプルジョア革命である以上、労働者階級は「ブルジョア民主主義派と肩をならぺてすすむことなしには、政治に参加することができない」という結論がでてくる。だがその場合にもレーニンとポルシェヴィキは民主主義革命の真の原動力である農民との同盟を主張したのに対して、メンシェヴィキは、自由主義派をツァーリの側にやらない――社共の論理とそっくり同じだ!――という理由で自由主義派との同盟、実際上は大ブルジョアジー、資本家への追随を行なったのである。
労働者階級と農民こそがブルジョア革命の真の革命的な原動力だということから、必然的に臨時革命政府は労働者農民の革命的民主主義的独裁でなければならないという結論がでてくる。そして「その勝利は、『合法的な』『平和的な方法で』つくりだされたなんらかの機関に立脚するのではなくて、かならず武力に、大衆の武装に、蜂起に立脚しないわけにはいかないだろう。それは独裁でしかありえない。なぜなら、プロレタリアートと農民に、ただちに必要な改革の実現は、地主からも、大プルジョアからも、ツァーリズムからも死にものぐるいの抵抗をよびおこすからである。独裁なしには、この抵抗を粉砕することも、反革命的企図を撃退することもできない。しかし、それは、もちろん社会主義的独裁ではなく民主主義的独裁であろう。この独裁は、(革命的発展のいくたの中間的な段階を経ずには)資本主義の基礎に手を触れることはできないであろう。それは、いちばんうまくいったばあいには、農民の利益になるように土地財産を根本的に再分配し、共和制をもふくめて首尾一貫した完全な民主主義を実行し、農民からだけでなく工場生活からもいっさいのアジア的・債務奴隷的なものを根こそぎにし、労働者の状態のいちじるしい改善と彼らの生活水準の向上との礎をおき、最後に、last
but not least革命の火事をヨーロッパに飛火させることができるだろう。
労働者、農民の蜂起の勢力が十分大きくなければ、これらの自由主義派とツアーリズムは取引することに成功するであろう。また労働者、農民が闘いとったものを自由主義派は切り縮めたり、簒奪したりするであろう。だからメンシェヴィキが自
由主義派に追随するのはまさに「ブルジョア民主主義派を利するもの」なのである。メンシェヴィキもまた、社共のように、「過激」なことを言えばプルジョア自由主義派をツアーリズムの方においやる、と泣き事を言ってきた。そして彼ら味方にひきつけておくことを理由に、労働者、農民の革命的要求をおし下げ労働者、農民の「手をしばる危険」をおかした。だが「ブルジョアジーは、いつでも不徹底であるだろう。それをみたせばブルジョア民主主義派を偽善的でない人民の友と見なしてよいという条件とか条項とかをならべたてようとする試みくらい、幼稚でむちなものはない」のだ。
かりに、ブルジョア自由主義派が何かツアーリに対立して憲法制定議会を招集したとしても、それが真に民主主義的な憲法を制定したり、さらにはツアーリズムと闘い抜いてこれを徹底的に打ち破るなどと考えることはできない。ロシア革命は民主的共和制を要求した。だが要求するからにはそれだけの「実力」を、「物質的条件」をもっていなければならない。ロシアにおける民主的共和制は――我々の社会主義的変革と同様に――ただ「将利した人民蜂起」によることなくしてかちとることはできない。「政治的自由や階級闘争の大問題を解決するのは、結局は実力だけである」。
レーニンは臨時革命政府は「プロレタリア民主主議派の最小限綱領を実現する」義務を負わせており、臨時革命政府がこれを実行するぺく、武装したプロレタリアートが「下から圧力を加える」ように呼びかけている。
レーニンは言う、「臨時政府は臨時的なものであるから、まだ全人民の承認を得ていない積極的な綱領を実行することはできない、といって反論するものがあるかもしれない。こういう反論は、反動派や『専制派』の詭弁にすぎないだろう。どんな積極的綱領も実行しないということは、今日では腐敗しきった専制の農奴的秩序の存続にあまんじることである」と。レーニンはこういう人々を「革命の事業にたいする裏切者」とさえ呼んでいる。共産党が民主連合政府は国民世論の合意がなければ何一つしない、というのと爪二つではないか。
15.レーニン『唯物論と経験批判論』
――現代ブルジョア哲学への根本的批判
1905年革命の敗北の後、ロシアの革命運動は後退局面を迎え、政治的にも思想的にも反動の攻勢が強まった。そして、社会民主党の内部にも混乱や動揺がうまれてきた。政治的には「解党主義」、「召還主義」等々、哲学上では、宗教とマルクス主義の折衷を図る「創神主義」やマッハ等流行のブルジョア哲学の影響をうけて、マルクス主義の改作を試みる人々が現われて皆た。特に、ポグダーノフ、バザーロフといった人々は、マッハやアヴェナリウスらの影響の下に、「現代科学の最新の成果」に依拠して「古くさい」マルクス主義の根本命題の修正、改作をめざそうとした。本書は、そうした哲学上の修正主義に対する徹底した闘争の書である。レーニンは、マッハ、アヴェナリウスからさらにカントやヒューム、バークレーにまで遡り、また最近の物理学の動向にまで考慮をはらいつつ、彼らの理論的誤謬、思想的反動性を徹底的に暴露している。また、彼らの主観的観念論、不可知論に対置して弁証法的唯物論の基本的な観点を明確な形で表明している。二十世紀末の今日においても、マッハ的な主観主義の哲学は、ブルジョア哲学の支配的な潮流をなしており、レーニンのこの間作から我々は非常に多くのものを学び取ることができるだろう。
現代のブルジョア哲学、そして現代修正主義哲学の特徴は、「現象」、「経験」、「実践」等々を中心におし出し、唯物論と観念論の対立をぼかし、そうすることで物質の実在性や根源性を否定しようとするところにある。「自我と環境との不可分の原理的同格」なるものをおし出すマッハ主義は、その典型である。彼らは、唯物論を「経験や認識の限界のかなたある彼岸的なあるものを容認する」神秘主義だとか「素朴実在論」だとか非難し、「感覚の要素」こそが世界を構成するなどと主張する。レーニンはこのようなマッハ主義をフィヒテ以来の主観的観念論の焼き直しにすぎないと述べ、このようなペダンチックな詭弁に対して「生活、実践の観点が認識論の第一の基本的観点でなければならない」、唯物論は、「物、環境、世界が、われわれの感覚、われわれの意識、われわれの自我、および人間一般から独立して存在ずる」という「人類の素朴な確信」を「意識的に認識論の基礎におくものである」と喝破する。またマッハ主義者達は「最新の科学」や「最新の実証主義」によって物質の概念が否定されたなどと主張するのに対して「物質のあれこれの構造にかんする学説を認識論的規範と混同」してはならないこと「物質とは人間にその感覚においてあたえられており、われわれの感覚から独立して存在しながらわれわれの感覚によつて模写され、反映される客観的実在を言いあらわす為の哲学的範疇である」と物質概念の意義、唯物論的反映論の真理性を擁護する。「唯物論が意識的に自分の認識論の基礎においている結論は、われわれの外に、われわれから独立して、対象、物、物体が存在し、われわれの感覚は外界の像であるということである」。
また、こうした主観的観念論に毒されたボグダーノフらは、「客観的真理の基準は存在しない」、真理とは「人間の経験の組織」である。「物理的系列の客観性はその普遍的妥当性」にすぎない等といって、客観的真理の存在を否定する不可知論、主観主義をふりまいた。レーニンはいう。だが、反対に「反映するものから独立した反映されるものの存在(意識からの外界の独立性)は唯物論の基本的前提」である。客観的な真理の存在を否定するものは、信仰主義・坊主主義に道をひらくものにすぎない。
さらに、絶対的真理と相対的真理との関係について、エンゲルスが「永遠の真理」を認めているのは正しくないというボグダーノフの主張を徹底的に粉砕し、この問題の弁証法的な説明を与えている。「唯物論者であることは、感覚器官によってわれわれに啓示される客観的な真理をみとめることである。客観的な……真理をみとめることは、なんらかの仕方で絶対的な真理をみとめることである」。「唯物論を前進させるためには……絶対的真理と相対的真理との関係を弁証法的に提起し、解決することができなければならない」。「人間の思惟はその本性上、相対的真理の総和から構成される絶対的真理を、われわれにあたえることができるし、またあたえている」のだ。「現代唯物論、すなわちマルクス主義の観点から見れば、われわれの知識が客観的・絶対的真理に近づく限度は、歴史的に条件づけられている。しかし、この真理の存在は無条件的であり、われわれがそれに近つきつつあることは無条件的である」。
また、マッハ主義者は、自然における因果性、必然性の存在や時間、空間の客観的実在性を認めないが、これに対してレーニンは次の様に唯物論を対置している。「世界は物質の合法則的運動」であり、「自然の客観的合法則性と人間の脳におけるこの合法則性の近似的に正しい反映であることを承認すること」こそが唯物論であり、「空間と時間もまたたんなる現象の形式ではなく存在の客観的=実在的な形式である」。「世界には運動する物質以外のなにものもなく、そして運動する物質は空間と時間の中以外では運動することができない」のである。
さらに、レーニンは、最近の物理学の上での革命、「物理学の危機」について論及し、「物質は消滅した」等々の物理学者や観念論哲学者の誤りが、物質に関する「古い法則や基本原理の崩壊」を即「意識外の客観的実在の拒否」に結びつけたことにあるとし、「物質の唯一の性質は客観的実在であるという性質」であり、「物質が消滅する」ということの内容は、これまでわれわれが物質をそこまで知っていたその限界が消滅することであるとマッハ主義の形而上学的立場を批判している。
最後にレーニンは、哲学上の無党派義とは、「観念論と信仰主義への卑劣にもひくめられた下男奉公にすぎない」と、哲学における唯物論を強調している。