1.カール・マルクス 『ドイツイデオロギー』
『ドイツ・イデオロギー』は、1845〜6年に、マルクスとエンゲルスの共同の労作として書き上げられた。だが、この本は彼らが「自己了解という肝腎の目的を遂げていただけに、その原稿を鼠どもの噛む批判にゆだね」たためレーニン死後の1932年になってから初めて公刊されることになった。
この『ドイツ・イデオロギー』において、マルクスとエンゲルスが自らに課した「自己了解」の課題とは次の様なものであった。すなわち、フォイエルバッハのヘーゲル批判やフランス社会主義の影響、古典派経済学の研究等々を通じて到達した自らの革命的な世界観を、自分達がそこで生い育ってきたところのヘーゲルの観念論哲学の批判という形でなしとげることであった。
この時期のマルクス、エンゲルスは、経済学の研究をようやく開始したばかりであり、『ドイツ・イデオロギー』は、きわめて荒けずりで、使用されている概念も未だ十分洗練された形をとってはいない。しかし、それにもかかわらず、この『ドイツ・イデオロギー』は、革命的な共産主義運動の発展にとって画期的な、歴史的意義をもつ著作である。すなわち、『ドイツ・イデオロギー』と『フォイエルバッハテーゼ』で初めて弁証法的唯物論、史的唯物論という、プロレタリアートの革命的な世界観がしっかりと定式化され、プロレタリアートの階級闘争、共産主義的な革命的実践活動がその下に基礎づけられたのである。
現在、広松渉氏や又、「実践的唯物論を唱える芝田進午氏らは『ドイツ・イデオロギー』におけるマルクス、エンゲルスの見解は弁証法的唯物論、史的唯物論という従来の定式化と異なったものである、と主張している。だが、この様な見解は、自己の観念論的立場をとりつくろうための理論的粉飾にすぎない。確かに、この著作の内容は、主に人間の実践活動の分野、社会・歴史の分野におかれている。しかし、この場合でも、マルクス、エンゲルスの根本的な立脚点は、精神に対して物質を第一次的、根源的なものとみなし、人間の意識を物質の運動の脳髄への反映とみなす唯物論、弁証法的な唯物論におかれているのである。マルクスはこの様な唯物論の立場を「意識とは意識された存在以外のなにものかでありうるためしはなく、そして人間たちの存在とは彼らの現実的生活過程のことである」と表現している。
そして今、芝田氏らは、『ドイツ・イデオロギー』における、マルクス、エンゲルスの偉大さは、その哲学の中心に「実践」=「労働」の概念をおいたところに求めているのであるが、『ドイツ・イデオロギー』の意義は決してその様なところにあるのではない。そうではなくて、こうした明確な唯物論の観点を人間の社会的意識活動の分野、歴史の分野に首尾一貫しておし広げ、それによって「革命的な実践活動」、プロレタリアートの階級闘争の世界史的意義を明らかにしたことにあったのである。
「共産主義はわれわれにとっては、つくりだされるべき一つの状態、現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぷのは、いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。この運動の諸条件はいま現存する前提からうまれてくる」
マルクス、エンゲルスは、歴史における究極の動因を精神、神といったものに見出すヘーゲル哲学を批判して次の様にいう。
「ここでは地上から天上へのぼる。すなわち、人間がかたり、想像し、表象するところのものから出発し、あるいはまたかたられ、思考され、想像され、表象される人間から出発してここから具体的な人間にたどりつくのではない。現実的に活動している人間から出発し、かれらの生活過程のイデオロギー的反射および反響の発展をも叙述するのである。……意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」。「したがってこの歴史観はつぎの点にもとづいている。すなわち現実的な生産過程を、しかも直接的な生活の物質的生産から出発して展開すること。そして、この生産様式とつながっていて、これによってうみだされるところの交通形態を、したがって種々の段階における市民社会を全歴史の基礎としてつかむこと。さらにこの市民社会を国家としてその活動において叙述するとともに、意識の種々な理論的所産および形態、すなわち宗教、哲学、道徳などなどをすべて市民社会から説明し、それらのものの発生過程を市民社会の種々の段階からあとづけること」。「歴史上のあらゆる衝突は、われわれの見解からいえば、生産力と交通形態とのあいだの矛盾のうちにその根源をもっている」。
この様に、マルクス、エンゲルスは、弁証法的な唯物論の観点を人間社会の歴史に貫徹し、歴史の究極的な推進力を社会の経済的土台における生産力と生産関係(「交通形態」)の矛盾に見いだす、科学的な歴史観、史的唯物論(唯物史観)をこの『ドイツ・イデオロギー』において明らかにしたのである。宗教、道徳等々のイデオロギー形態がそうした下部構造の矛盾の反映としてとらえられると共に、ヘーゲルが「真の共同体」と美化したところの国家の本質も又明瞭にあばき出されている。「国家は支配階級の諸個人が彼らの共通利害を主張する形態、そして一時代の市民社会全体が集約されている形態である」。
従って、宗教的疎外やその根拠をなす資本主義社会の矛盾の解決策は、青年ヘーゲル派やフォイエルバッハらの説く様な、意識のの変革の中にでなく、正にこの資本主義社会の現実的矛盾そのものの中にある。すなわち、それは、資本家階級に対する労働者の階級闘争であり、それによる共産主義革命である。そして、「支配をめざすそれぞれの階級は、たとえ階級の支配が、プロレタリアートの場合にそうである様に、古い社会全体と支配一般との廃棄を必要とする場合でも、まず政治権力を獲得しなければならないということである」。従って、真の「実践的唯物論者」の任務は、この様な労働者の階級闘争の発展の為に闘うことにある。これが、『ドイツ・イデオロギー』における、マルクス、エンゲルスの理論的、実践的到達点である。かくて科学的共産主義の理論的基礎が確立された。
2.カール・マルクス 『共産党宣言』
1830年代、40年代、ヨーロッパの労働者は、イギリスのラッダイト運動からチャーチスト運動へ、そしてシレジアの織工の蜂起等々、ようやく資本に対する団結した闘いを開始しはじめた。しかし、労働者の闘いは、こうした個々の資本家や又政府に対する自然発生的な闘いからさらに資本家階級全体あるいは国家に対する意識的な闘い、政治闘争にまで発展しなければならない。そして、そのために、労働者を独自の政治組織に団結して闘わねぱならない。1847年に結成された共産主義者同盟は、こうした闘いのために結成された史上初めての革命的政治組織である。「共産党宣言」は、マルクスによって起草された、この史上初の革命的政治組織=共産主義者同盟の綱領である。
エンゲルスは後に「『共産党宣言』の任務は、近代ブルジョア的所有の不可避的にせまりつつある解体を宣言することであった」と述べでいるが、単なる一政治組織の綱領としての意義のみならず、その包括的な、深刻な内容によって、全世界の労働者階級の革命運動の共通の綱領としての世界史的意義をもっている。『ドイツ・イデオロギー』で基礎づけられた史的唯物論に立脚して、現代ブルジョア社会の根本的な特徴、現代社会を変革すべきプロレタリアートの階級闘争の世界史的役割、その戦術、共産主義者の任務等々が、どんなあいまいさがなく、格調高い文章で述べられている。
「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」。マルクス、エンゲルスは、まず「ブルジョアとプロレタリア」と名づけられた第一章で、現代プルジョア社会とプロレタリアートの階級闘争についての正確な、歴史的位置づけを与えている。すなわち、人類の社会はその経済的土台における生産力と生産関係の矛盾を推進力として原始共同体、古代奴隷制社会、封建社会を経て資本主義社会へと発展してきた。そして、これらの時代はいずれも、自由民と奴隷、領主と農奴等々の階級対立に基礎をおく社会であり、「自由、平等」を旗印とする近代ブルジョア社会も又こうした階級対立を決して廃棄しなかった。
「われわれの時代すなわちブルジョアジーの時代の特徴は、階級対立を単純にしたことである。全社会は敵対する二大陣営に、直接対立する二大階級に分裂しつつある。すなわち、プルジョアジーとプロレタリアートに」
マルクスは、封建的な束縛、無知と迷妄、経済的停滞をうち破り、巨大な生産力の発展、全世界的な結びつきを作り出したブルジョアジーと資本主義の革命的な役割を明らかにした後、このブルジョア社会がその内的矛盾によって没落し、社会主義共産主義社会=「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件となるような共同体」にとって変わられねばならない歴史的必然性を明らかにする。すなわち、資本主義社会における生産力と生産関係の矛盾は恐慌となって爆発することでその歴史的限界を暴露し、更に大工業の発展は不可避的に「資本主義の墓堀り人」としてのプロレタリアートを生み出し、成長させずにはおかない等々。
とりわけ、プロレタリアートの革命的な役割についてのマルクスの位置づけは、『共産党宣言』の核心をなすものであろう。マルクスは、小ブルジョアジーと労働者階級の違いについて、次の様に述べている。「今日、プルジョアジーに対立しているすべての階級のなかで、ひとりプロレタリアートだけが真に革命的な階級である。……中産身分、すなわち小工業者、小商人、手工業者、農民、これらがプルジョアジーとたたかうのは、すべて中産身分としての彼らの地位を没落からまもるためである。彼らは、したがって革命的ではなく保守的である。……もし彼らが革命的になるとすれば、それは彼らが自分らがプロレタリアートへ移行する日のせまっていることを見てのことである」。
ここには、今日、「社共」等の日和見主義者によって唱えられている「統一戦線」戦術の反動性が徹底的に暴露されている。こうした戦術は、プロレタリアートの階級闘争を切り縮め解体する反動的な小ブルジョア迎合主義、協調主義に他ならないのだ。
さらに、マルクスは現在流行の議会主義的幻想に反対して、「社会主義をめざす労働者の階級闘争の道すじについて、次の様に述べている。すなわち、資本と労働者の階級闘争は、ついには「公然たる革命となって爆発せざるをえないし、「プロレタリアートがブルジョアジーを暴力的に転覆して、自己の支配権をうちたてる」までに発展せざるをえないし、「プロレタリアートは、ブルジョアジーとの闘争において必然的にみずから支配階級となり、そして支配階級として強制的に旧生産関係を廃止することによって社会主義を実現するのである。
以上に基づいて、第二章、「プロレタリアと共産主義者」では、そうした労働者の階級闘争の前衛としての共産主義者(労働者政党)の任務が述ぺられている。「共産主義者は、一方では、プロレタリアートの種々の民族的な闘争において、全プロレタリアートの、共通の国籍に左右されない利益を強調しおしつらぬく。他方では、放らはプロレタリアートとブルジョアジーとの闘争が経過する種々の発展段階において、つねに運動全体の利益を代表する。だから共産主義者は、実践的には、すべての労働者政党のうち、もっとも確固たる、たえず推進してゆく部分であり、理論的にはプロレタリア運動の条件、進路、一般的結果を理解する点で、プロレタリアートの他の大衆にまさっている」。
この簡潔な表現の中に、「社共」がふりまいている民族主義、国民主義、改良主義、経済主義や「新左翼」の卑属な実践主義、急進主義に対する根本的な批判が含まれている。社会主義をめざす労働者は、日和見主義者のふりまく「国民的利益」や「当面の現実的利益」のためにではなく、プロレタリアートの国際的な利益、究極的利益のために独自の政治組織に団結し、「プロレタリアートの政治権力の獲得」をめざし闘わねばならないのだ。「万国の労働者、団結せよ」の呼びかけで、この宣言はむすばれている。
3.カール・マルクス 『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』
二冊同時にとりあげたのは、両書とも1848年のフランス革命をとりあげ、「マルクスが彼の唯物論的な理解方法をもちいて、今日の歴史の一時期を、一定の経済状態から説明しようとした最初の試み」(『階級闘争』エンゲルスの序文)だからである。とはいえ両書の視点はこれらが48年革命の結末であるルイ・ボナパルトの帝政“復活”(ボナパルティズム)をはさんで書かれているため、いくらかちがっている。
『フランスにおける階級闘争』が「革命は、その直接的な非喜劇的な獲得物によって、その前進の道をきりひらいていったのではなく、逆に、結束した強力な反革命を生みだしたことによって、つまり、それとのたたかいをつうじてはじめて転覆の党が、ほんとうの革命の党に成長することができるところの一つの敵をつくりだしたことによって、前進していった」ことつまり、ブルジョア支配の完成の過程を証明するのに力点がおかれているのに対し、『プリュメール十八日』の方は、ボナパルティズムの勝利を前にして「平凡奇怪な一人物をして英雄の役割を演ずることをえせしめた情勢と事件とを、フランスの階級闘争がどんな風につくりだしていったか」ということを明らかにしている。
『ブリュメール』の訳者が、「マルクスがさかんにとばす皮肉やしゃれなども、……これらは単にことばのあそぴではなく、本質もあきらかにするために注意をひきつける強調となっている」と述べているが、それは『階級闘争』も同じである。両書とも48年革命の諸潮流・諸階級の姿と行動を躍動する鋭い描写で完膚なきまでに暴露しているため、マルクスのどの特徴づけも普遍性を獲得するほどの高みにまで達しているといっても過言ではない。だが二つの重要なポイントだけを散文的に確認していくことにしよう。
第一は、民主主義の評価である。
ルイ・フィリップの七月王政を打倒した二月革命は本質的にブルジョア革命だった。闘いの主力はパリの労働者だったが、革命は、七月王政に結集した金融貴族と地主の権力を打倒し、産業ブルジョアジーと小プル共和派(ルドリュ・ロランらに代表される)の臨時政府をうちたてた。労働者はこれに「社会共和国」の宣言を強要し、「プロレタリアートの革命的要求をまとめた最初の無器用な公式」である「労働の権利」を実行させようとした。しかし労働者が得たものは、小プル民主派のルイ・ブランの入閣と彼の「予算ももたず、執行権力ももたない」リュクサンプール委員会であり、十万労働者を「退屈で単調で不生産的な土木工事に使用する」国民作業場だけであった。労働者はこうした「あいまいな存在」のために産業ブルジョアジーの権力にしばりつけられ、「自己の利益を、社会そのものの革命的利益として貫徹しようとしないで……三色旗にゆずって赤旗をひきおろした」のである。
だがブルジョアジーは二月革命のこのあいまいなプロレタリア的性格さえ抹殺しようとし、他方ではルドリュ・ロランは増大した財政赤字への増税で埋めようとしたが、浪費の源は労働者の国民作業場だと宣伝した。プロレタリアートはフランス全体から憎悪された。労働者は六月の蜂起にいやおうなしにおいたてられ、四日間の激しい戦闘の末、敗北した。
この臨時政府、ブルジョアジーと小ブル民主派、さらには二人の労働者代表をも含むこの政府はいわば“民主連合政府”である。だがこの政府は労働者にわずかな施し物を与えるだけで労働者の支持を得ようとし、あげくには労働者がいくらかでも革命を前進させようとするや、蜂起を挑発し、労働者を粉砕したのだ。
だが労働者が粉砕されたことで、労働者の背景のない小ブル民主派もブルジョア共和派(カヴェニャックに代表される)に駆逐された。憲法制定会議が招集され、大統領にボナパルトが選出された。ボナパルトを選んだのは農民であった。執行権力たるボナパルトは秩序党と同盟してブルジョアジーの議会を粉砕し、さらにボナパルトが秩序党を粉砕する。こうしてボナパルティズムが生まれるが、彼の権力は空中にあるのではない。「ボナパルトは一階級を、しかもフランス社会のもっとも数の多い階級、分割地農民を代表している。」
この過程はまさに転がる石のように進行する。ボナパルティズムは革命の頽廃のしたがって“民主連合政府”の頽廃の必然的産物である。
マルクスの分析は、こうした過程をただ「憲法がプロレタリアートの進出をおそれるプルジョアジー、議会の多数党によっていかに蹂躪され紙の上のものになってゆくか、言論、集会、政治の自由がいかに憲法に反して奪われてゆくか」(『ブリュメール』解説)としてしか見ることのできない俗流民主主義者(共産党だ!)と鋭い対照をなしている。問題は民主主義が奪われることではなくそれが頽廃し、「腐っていく」ことである。すなわち秩序党のバローが叫んだように「合法性がわれわれを殺す」のだ。
ボナパルトの権力は他方では国家機関と官僚軍の、異常な肥大議会に対する執行権力の圧倒に支えられている。マルクスは書いている。
「しかし革命は徹底的である。それはまだ煉獄の火をくぐって旅しているところである。それは自分の仕事を手順をおって遂行する。1851年12月2日までに革命は自分の準備作業の前半を完了した。いまそれはあと半分の完了にかかっている。それははじめ議会権力を完成した、これを倒すことができるように。このことをなしとげたいま、革命は、執行権力を完成しこれをそのもっとも純粋な表現にまでひきもどし、これを孤立させ、これを唯一の標的として自分に対立せしめる。自分の一切の破壊力をこれに集中するために、そして革命がその準備作業のこのあとの半分をやりとげたとき、ヨーロッパは席から立ち上がって、かっさいするだろう。――よく掘った、老いたるもぐらよ!」
クーゲルマンにあてた手紙でマルクスはこの点について、「フランス革命のつぎのこころみはこれまでのように官僚的軍事的機構を一つの手からべつの手へわたすことではなくこれを破壊することだといっていることに気がつかれるだろう。そしてこのことこそ大陸におけるあらゆる真実の人民革命の前提条件なのである」と書いている。ここでは、国家の改良ではなく粉砕が革命の条件だというのである。この点に、1848年の革命のもう一つの重大な教訓がある。
「社共」は今、議会での多数派形成を通じての漸進的な社会主義への移行を説いているが、マルクスが明らかにしたこの教訓こそ、「社共」のこうした幻想への根底的な批判となるものである。(国民文庫、岩波文庫などにあります。)
4.カール・マルクス 『哲学の貧困』
現代の社会=資本主義社会では、労働者階級ばかりでなく、農民、中小経営主等のいわゆる小ブルジョアもまた大資本への隷属や絶えざる没落の危機にさらされ、資本の体制をのろい、救済を欲している。だから、社会主義の運動の中にはいつも、こうした小ブルジョアの願望を体現する社会主義=小ブルジョア的社会主義の潮流が広汎に存在している。日和見主義の共産党、社会党がそうであり、この本でマルクスが批判しているブルードンは、いわばそうした小ブルジョア社会主義の元祖ともいえる。我々はマルクスのブルードン批判から現代の小ブルジョア社会主義への根本的な批判の視点を得ることが出来るであろう。
ブルードンはマルクスと同時代のフランスの社会主義者であり、空想的社会主義に代わる真の科学的な社会主義の確立を標榜したのであるが、その著『貧困の哲学』はイギリスのリカード派社会主義の理論を神秘的なヘーゲル哲学の衣装で包んだ俗流社会主義以外の何物でもなかった。
マルクスはここで単にプルードンを批判するのみならず、プルードンがよりどこるとするヘーゲル哲学や古典派経済学、リカード派社会主義の批判にまで突き進み、後に『資本論』で明らかにされるマルクス主義経済学の基本的内容を明らかにすると共に労働者の階級闘争の戦術のいくつかの命題について説き及んでいる。
まず、プルードンの弁証法、これはヘーゲルの悪しき戯画でしかない。マルクスはヘーゲル哲学の合理的核心を継承し、現実の客観的事物をその歴史的運動においてその内的矛盾においてとらえる唯物論的弁証法に立脚しているのだが、プルードンのそれたるや単なる「定立―反定立―総合」といった抽象的な図式をもてあそぷものでしかない。だから、彼は現実の資本主義を分析しそこから社会主義の内的必然性を明らかにするのではなく、資本主義の中に「善いもの」と「悪いもの」の対立を見出し、資本主義の基礎の上でその「統一」を「調和」を夢想するにすぎないのである。
第一章では、価値や貨幣が論じられ、古典派経済学、リカード派社会主義の批判を通じて、プルードンの空想的見解が徹底的に批判されている。「経済学者たちは、ブルジョア的生産の諸関係、企業、貨幣等々を、固定した不変の、永久的なカテゴリーとして表現する。……経済学者たちはどのようにしてこれらの与えられた諸関係の中で生産がおこなわれるか、ということについては、われわれに説明してくれる。しかし彼らは、どのようにしてこれらの諸関係そのものが生産されたかということ、つまり、これらの諸関係を生産させた歴史的運動については、われわれに説明してくれない」。ブルードンも又、ブルジョア社会及びその理論的表現としての経済的カテゴリーを超歴史的なものとみなす点で、古典派経済学と全く同一の基礎の上に立っている。
アダム・スミスやリカードは商品の価値の源泉を人間の労働に求め、その尺度を労働時間に求めることによって、資本主義社会の科学的解剖の基礎を築いた。しかし、彼らはこの様な関係がいかにして成立するのかということ、こうした価値関係が私的所有と無政府的な生産に基礎をおく商品生産という歴史的な生産様式の下で成立するということを明らかにしえなかったのである。
プルードンの全理論も又このプルジョア経済学の範疇の上に立脚している。彼は資本主義の下での労働者の貧困や資本家による搾取や恐怖や独占等々について、それを非難し、社会の変革の課題を提起する。しかし、彼はそうした課題を資本主義の基礎を根本的に変革することなしに行なおうとするのである。そのかぎりブルードンの社会主義は全くの保守主義である。たとえば、プルードンは資本主義社会における富の不平等を非難して、等しい労働時間に基づく平等な商品の交換を提案する。しかし、ブルードンは等しい労働量の交換の原則こそは正に資本主義、商品生産の原則であり、しかもこうした交換は、階級的な敵対関係の上に成立していることを忘れているのである。「私的交換もまた一定の生産様式に照応している。そしてこの生産様式そのものがまた諸階級の敵対関係に照応しているのである。だから、階級対立がなければ私的交換もありえない」。しかも「現在の社会では私的交換に基礎をおく産業では、生産の無政府性が、これほども多い貧困の源泉であると同時にあらゆる進歩の源泉でもあるのである」。
だから、プルードンのように私的交換、私的所有を前提にしながら、「正しい比例」に基づく「等しい労働量」による「平等の交換」を主張するのは反動的な幻想に他ならない。それは事実上では大工業による大規模生産を否定し、小商品生産者の自由な共同体を夢想するものでしかないからである。「独占」や「競争」についてのプルードンの理論も同様である。一方では、独占や競争の「恒久的必然性」を弁護しながら、他方では現実の競争の「悪い側面」をのろい、その総合(統一)を夢想するのである。彼は、資本主義が一方では恐慌や労働者の資本への隷属、小生産者の没落をもたらすと同時に、その下での巨大な生産力の発展が社会主義の物質的条件を準備し、又、資本に反対する労働者の階級闘争を発展させざるをえないし、そこにこそ社会主義の歴史的必然性があることを見ることが出来ないのである。従って、プルードンの社会主義は保守的であるばかりでなく反動的である。それは遅れた小商品生産を理想化し歴史の歯車を後ろに回そうとするものだからである。
ブルードンは又、労働者の団結やストライキについて次の様に主張する。労働者の団結による賃金の引上げは物価騰貴によって生活難をもたらすから労働者の団結は禁止すべきである、と。マルクスはこの様な反動的な階級協調主義を批判し、労働者の団結を擁護し、プロレタリアートの階級闘争の世界史的意義を強調し、次の言葉でこの本の末尾を飾っている。「戦いか死か。血まみれの戦いか、無か。問題は厳として、こう提起されている(ジョルジュ・サンド)」。
5.カール・マルクス 『賃労働と資本』『賃金・価格・利潤』
両書ともマルクス主義を学ぼうとする時、第一に研究しなければならない著書である。
1847年にドイツ人労働者協会でマルクスが行なった講義をもとに、49年、「新ライン新聞」で連載された『賃労働と資本』は、当時まだマルクスがプルジョア経済の批判的研究を完全になし終えていなかったために、不適当な用語が本書では散見される。91年にエンゲルスの監修下で小冊子として出版された時に訂正が行なわれたが、これはほとんどもっばら労働と労働力の区別に関わっている(文庫版ではこれが採用されている)。だがこのことは、マルクス主義の入門書としての本書の価値をいささかも減ずるものではない。
「賃金とは何か? それはどのようにして決められるか?」とマルクスは問題を提起している。それは労働力の生産費にほかならない。すなわち「労働者を労働者として維持するために、また労働者を労働者として育てあげるために、必要な費用」であり、「労働者の生存費およぴ繁殖費」でしかない。これは最低賃金であり、しかも「労働者階級全体の賃金は、その変動の内部で平均化されてこの最低限に一致する」のである。
他方では資本は「労働の生産物であり、蓄積された労働である。この蓄積された労働は生きている労働と交換され、労働者の「創造力」すなわち労働者の「消費するものを補填するだけでなく蓄積された労働にたいして、それがまえにもっていたよりも大きな価値」――剰余価値――を与える力を得ることによって、資本になるのだ。こうして賃労働と資本は互いに前提しあい、条件になりあう。
マルクスは「ここから資本家と労働者の利害が同一だとか、資本が増大すれば賃金が上がると一面的に主張する理論――パイの理論だ!――を反駁している。資本の増大によって賃金が上昇する時でも、「労働者の消費は高まったにもかかわらず、労働者には手のとどかない資本家の消費の増大にくらぺれば、またそもそも社会の発展水準にくらぺれば、それが与える社会的満足感は低くなった」のだ。多くの場合、(実質)賃金は上昇さえしない。資本の増大によって分業と機械の使用が拡大し労働者間の競争が激化して、賃金はますます縮小さえする。すなわち労働者の窮乏化は絶対的にも相対的にも避けられない。
だから「資本の利益と賃労働の利益はまっこうから対立する」のであり、資本の増大によって賃金が上昇する場合さえ「労働者の物質的生活がどれほど改善されようとも、労働者の利益とプルジョアの利益すなわち資本家の利益との対立がなくなることはない」のである。
『賃金・価格・利潤』はこうした見地をさらに詳しく展開している。
本書は直接にはオーエン主義者であるウエストンヘの批判である。彼は、賃上げは労働者の生活を改善しない、それどころか賃上げを企てる労働組合運動は、賃上げによる物価高騰をもたらして有害だ、と主張したのである。他方ではマルクスは本書の後半で『資本論』から「先どりした多くの新しいものを、極度に圧縮した、だが通俗的なかたちで」(65年6月24日付エンゲルスヘの手紙)展開し、さらには賃金闘争の意義と限界をも朗らかにしている。
1864年に設立された第一インターナショナルは、48年の革命後、本格的になった労働者階級のストライキ闘争・賃金闘争などの援助も行った。ところがここには「賃金は不変だとする「賃金鉄則」を唱えるラサール主義者、労働者の貧困は社会的な要因によるものだとするマルクス主義者、協同組合によって資本主義をそっくりそのまま社会主義にかえようとするブルードン主義者(その亜流バクーニン主義)やオーエン主義者が入り混じっていた。第一インターナショナルは高揚するストライキ闘争を前に、自らの立場を決めなければならなかった。そこへウエストンがストライキや賃上げ反対する提案を行なったのである。マルクスはウエストンに代表される俗論を完膚なきまでに粉砕し、第一インターナショナルの闘いを最も科学的、革命的な理論の上に基礎づけた。そして第一インターナショナルはパリ・コミューンを頂点とする19世紀中葉の労働者階級の闘いの発展にとって決定的な意義をもつことができたのである。
本書の内容は、小冊子ながら驚くほど豊かで多岐にわたるがここでは先にふれた労働と労働カの区別の問題からはじめよう。この区別は資本家的生産の最深奥の秘密を暴露する上できわめて重要である。
商品の価値はその商品が含む労働によって決められる。労働は価値の実体である。古典派経済学はこの区別ができず、賃金とは「労働の価値」だというナンセンスに陥った。これはウエストンのドグマでもある。この見地はまた商品の価値は利潤・地代・賃金(労働)から構成されるという価値構成説と結びついている。だからウエストンは賃金の上昇は商品の価格騰貴を招き、有害だといったのである。これはコスト・プッシュ論の原型である。そこでいつの時代も資本家と御用組合主義者は賃金闘争を何かインフレの元凶であるかに言うのだ!
だが剰余価値=利潤とは、労働者が創造した価値から労働力の価値をひいたものである。だから賃金と利潤は与えられた一定量の価値が一定の比で分解したものなのだ。賃上げは商品価値の騰貴を結果しないで、利潤の減少をもたらすのである。
マルクスは賃金の変動を詳しく述べている。何らかの原因で(貨幣価値の減少や生活必需品の高騰で)賃金が低下したり、労働日の延長に対して労働者が賃上げを要求するのは当然である。にもかかわらずそれは「先だつ諸変化の跡を追うもの」、「一定の労働の価値を維持しようとする努力にすぎない」のであり、こうした闘いの「究極の効果を過大視」してはならない。だから労働者は「結果との闘い」だけにとどまってはならず、その原因である「賃金制度の廃止」という「革命的な合言葉」を主張すぺきだ、とマルクスは結論している。それはきわめて今日的な意義をもつ言葉である。
6.カールマルクス 『経済学批判』
本書はマルクスの「十五年間にわたる研究の成果」であり、「社会的諸関係にかんするひとつの重要な見解をはじめて科学的に代表する」(ラサールへの手紙)著作である。本書が著された当時、マルクスの「経済学批判」全体の構想は「資本・土地所有・賃労働、国家・外国貿易・世界市場」の六部からなる大規模なものだった。本書は「資本」(商品、貨幣、資本一般の三章)の最初の二章にあたる。
いわゆるプラン問題として、マルクスのこの構想と『資本論』がどう関係するかの議論のあるところだが、とりあえず本書と『資本論』との関連については、マルクス自身が本書の理論的内容は『資本論』第一巻第一章に「総括されているし(『資本論』第一版序文)と述べていることを指摘するにとどめる。勿論、本書の意義はただ『資本論』に先行するという点にだけあるのではない。『資本論』では略されたり「暗示」されるだけの価値理論の歴史的批判、貨幣理論の詳細な展開及びその歴史的批判を本書は含むのである。
最初に指摘しなければならないのは――『資本論』についても同じことが言えるが――それが唯物史観に立脚するブルジョア経済学の全面的批判だ、という点である。エンゲルスの本書への書評によれば、「生産物が商品であるのは物に、生産物に、二人の人物または二つの共同体の間の関係がここではもはや同じ人物に続一されていない生産者と消費者との間の関係が、結びつくことによってである。……経済学は、物を取扱うのではなくて、人と人との間の関係を、結局においては階級と階級の間の関係を取扱う。しかしこの関係は、つねに、物に結びついており、物として現われる」というのである。
本書の序文の有名な叙述で、マルクスは唯物史観の見地を総括している。すなわち「人間は彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係をむすぶ」のであり、「人間の社会的存在が彼らの意識を規定する」と。そして社会革命はその時代意識によってではなく、「物質的生活の諸矛盾から.社会的生産緒力と生産諸関係との間に現存する衝突から」説明されなければならない。
こうした見地からマルクスは資本家的生産関係を研究する。経済学は商品をもってはじめる。だがなぜ資本や賃労働や諸階級からはじめないのか? マルクスは「経済学批判への序説」で経済学の方法について述べている。「現実的な前提」からはじめることは一見正しいように見えるが実は誤謬である。それはまだ「全体にたいする一個の混沌たる表象」にすぎず、分析的によ簡単な概念に還元されなければならない。そこで最も抽象的で簡単な諸規定に達するや今度は再び実在的なものへ上向する。こうして全体の混沌たる表象は「多くの諸規定と諸関係からなる一個の豊富な総体となる。すなわち「具体物が具体物であるのは、それが多くの諸規定の総括だからであり、したがって多様の統一だからである。だから思惟においては、具体的なものは総括の過程として、結果として現われ、出発点としては現われない」のである。
だからまずブルジョア的富の「原基」として商品がとりあげられ、使用価値と価値(交換価値)の二重の定有をもつものとして考察される。価値はさらに労働、しかも具体的な有用性をはぎとられた抽象的人間労働に還元される。だがそれは諸個人の具体的な私的労働が直接にはその社会的性格をあらわすことができない――社会的分業と人間の諸階級への分裂によって――という独自の社会的諸関係をあらわしている。そこでは私的労働はその具体的な姿を捨て、抽象的人間労働、すなわち価値として実現されてはじめて自らの社会的性格を実証することができるのである。価値の実体としての抽象的人間労働はただ量的にのみ、したがって労働時間によってのみ区別される。
商品をこのように規定することで、マルクスはさらに貨幣の発生の謎をはじめて科学的に明らかにすることができた。商品の交換過程は、諸商品の交換価値を自らの使用価値の量であらわす外化された商品、「一般的商品」としての貨幣を必然的に生み出すのである。貨幣は貴金属、金に自らの最も適当な性格を見い出す。貨幣は象徴とか技術的便宜によって作られたものではない。まして重金主義が幻想するように貨幣が価値を規定するものでもない。金はまず商品だからこそ貨幣なのである。
マルクスは貨幣の昨日として価値尺度と流通手段をあげ、さらに「抽象的な富の物質的定有」「絶対的商品」としての貨幣(支払い手段、世界貨幣等)を論じている。これに関連してインフレとIMF体制の崩壊にふれておこう。
マルクスによれば、貨幣流通量は実現さるべき諸商品の価格総額と貨幣の流通速度によって与えられる(貨幣数量説はこれとは反対に貨幣量によって商品の価格が決まると考える)。だが流通手段として貨幣は摩損し減価して、その名目上の価値と背離してくる。これが価値変換(兌換紙幣など)は貨幣を代理しうる理由だが、価値章標は国家によっていくらでも強制的に流通に投ぜられる。だが価値章標は流通に必要な貨幣量を代表する限りで貨幣を代理する。それ以上投ぜられるなら、その減価はさけられない。これが本来のインフレである。貨幣=金は紙幣の背後にあっても交換を支配するのだ。
こうして本書は、唯物史観に立脚し、また他方では労働価値説を一貫して堅持して、ブルジョア的生産関係の原基な姿をその矛盾と対立の統一においてまたその発展において、科学的に完膚なきまでに暴露しているのである。理論的展開と重合して置かれている価値理論と貨幣理論の歴史の批判的総括は、マルクス主義の「経済学批判」(まさにブルジョア経済学の「批判」である)の基本的内容をより深く理解する上で、またヒュームの貨幣数量説などが何度もブルジョア経済学によってくり返されている点からしてもきわめて重要である。『資本論』と平行して本書を徹底的に研究することの必要性を強調したい。
7.カール・マルクス 『フランスの内乱』
1871年3月18日、フランスの労働者は、パリに史上初めての労働者の政府=パリ・コミューンを樹立した。パリ・コミューンは3ヵ月にわたる英雄的な闘いの後、流血の中で倒壊したが、この闘いは19世紀における労働者の階級闘争の最高の到達点であり、全世界の労働者に自分達の進むべき道を指し示した偉大な闘いであった。
この闘いの事実的な経過については、リサガレーの『パリ・コミューン』はじめ幾つかの著作に詳しい。マルクスの『フランスの内乱』は、このパリの労働者の激烈な闘いを透徹した分析をもって総括し、その闘いの教訓を全世界の労働者に明らかにしようとしたものである。
本書の構成は、国際労働者協会(第一インタナショナル)総務委員会の三つの宣言という形をとっている。マルクス及びエンゲルスは、1864年以来第一インタナショナルを通じて、国際的な労働者の階級闘争の指導にあたってきたが、1870年晋仏戦争が勃発するや、この戦争に対する労働者の立場を明らかにし、ボナパルティズムの侵略戦争を糾弾すると共に、国際主義に立脚する各国労働者の固い連帯を訴えている。これが70年3月23日の第一の宣言である。さらに、9月9日の第二の宣言では、勝利者となったプロシア=ビスマルクの野望を糾弾すると共に、蜂起に立ち上がろうとするパリの労働者に対して「敵が殆どパリの城門を叩くばかりになっているという現在の危機にあって、新政府を倒壊するいかなる試みも、それは絶望的に愚劣なことであるだろう」と軽挙妄動を戒め、民主主義的自由を自分達の「組織的事業のために」徹底的に利用せよと訴えている。
だが、それにもかかわらずパリの労働者が決然たる闘いに立ち上がるや、マルクスはこれに熱烈な指示を与え、イインタナショナルを通じて、出来うるかぎりの支援を行った。そして、未だ硝煙の消えやらぬ1871年5月30日第三の宣言を発表して、全世界の労働者ににこのパリ・コミューンの世界史的意義を明らかにし、英雄的なパリ労働者を追悼したのである。普通、『フランスの内乱』といわれるのは、この第三の宣言を指しているが、文庫版にはさらにエンゲルスの重要な序文が添えられている。我々は、この第三宣言及びこの序文から多くの重要な教訓を学ぶことが出来るであろう。レーニンも『国家と革命』の中で本書を分析してそこから重要な教訓をひき出している。
レーニンもいっている様に、パリ・コミューンの経験は、1874年の『共産党宣言』の内容に重要な修正を要求した労働者の階級闘争の貴重な経験であった。マルクスは、『宣言』で「共産主義者の当面の目的」を「プロレタリアートを階級に形成すること、ブルジョアジーの支配を打倒すること、プロレタリアートの手に政治権力を獲得すること」と定式化したが、この具体的な内容については、将来の階級的争の経験にゆだね、ここではつまびらかにしなかった。コミューンの経験こそは、これに具体的な回答を与えるものであったのだ。
マルクスは、コミューンの教訓の第一に次のことをあげている。「労働者階級は単にできあいの国家機関を掌握して、それを自分自身の目的のために使用することが出来ない」ということである。すなわち、常備軍、警察、官僚、僧侶、及び裁判官というその遍き諸機関をもつ中央集権的国家権力は、「近代産業の進歩が労・資間の階級対立を発展、拡大、激化させたのと同じ速度を以て……労働に対する資本の全国的な力、社会的隷属のために組織された公権力、階級的専制主義の一機関という性質をおび」てきたのであり労軸者階級は革命にあたってこうした「できあいの国家機構」を粉砕しうち砕くべきであって、それをそのまま奪取するにとどまってはならないということである。そして、マルクスはこの立場から、ヴェルサイユへの進撃をためらい、ティエールらの息の根を止めなかったコミューン中央委員会の「寛容」を「決定的な誤り」と批判している。
さらに、コミューンは、この「できあいの国家」をいかなる国家でおきかえるのかという点で労働者に生きた現実の経験をのこした。「帝政の正反対物はコミューンであった。パリ・プロレタリアートによって二月革命がはじめられた、時かの『社会主義共和国』の叫は、ただひとり君主制的な階級支配形態のみならずさらに階級支配そのものをも廃棄すべき共和国への漠然たる願望を、表現したに過ぎなかった。コミューンは、そういう共和国の実証的な形態であったのだ」。また、エンゲルスは「それこそは、プロレタリアートの独裁であったのだ」と述べているが、コミューンの意義は正に、ブルジョア民主主義に取って代わるべきプロレタリアートの政治形態を根本的に明らかにした点にあるのである。すなわち、コミューンは旧来の常備軍を廃止すると共にそれを武装した人民とおきかえ、その支配は、普通選挙によって選出され有責であって短期に解任され得る議員によって行われ、コミューンは「代議体でなく、執行権であっで同時に立法権を兼ねた行動体であった。さらに「コミューン議員以下、公務は労働者賃金において執行されねばならなかった」。
さらに、コミューンは、あらゆる宗教財産を国有化し、野蛮の象徴ともいうべきギロチンを焼き捨て、製造業者によって放棄されていた諸工場の統計的調査と労働者によるこれらの工場の経営ならびにこの組合の一大連合体への組織化のための案の作成を命じたのである。こうして、コミューンは、国家を従前の「甚しく抑圧的なもの」から「徹底的に発展的な」、真に民主主義的なものにおきかえると共に生産の社会主義的組織化「労働の経済的解放」の第一歩をふみ出したのである。そのゆえに、マルクスは、コミューンを「本質的に労働者階級の政府であり、……そのもとで労働の経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態」であると述べているのである。
このパリ・コミューンの教訓は、1905年及び17年のロシア革命の経験によって更に豊富なものとされており、社会主義をめざす国際プロレタリアートの共通の原則となっている。現在、「社共」の日和見主義者は、パリの労働者が血をもってあがなった原則を忘れ去り投げ捨て、ブルジョア民主主義に拝跪し、労働者の闘い目標をあいまいにし、混乱させている。このような時こそ、労働者は、本書から徹底的に学ばねばならないであろう。