26.ローザ・ルクセンブルク 『ロシア社会民主党の組織問題』
――前衛党を否定する自然成長論
ポーランド生れの革命家ローザ・ルクセンブルクは、その全生涯を労働者解放のためにささげた。彼女はドイツ社会民主党の中にあって第二および第二半インターの日和見主義に反対してロシアのボルシェヴィキと共に国際共産主義運動の再建のために闘い、“スパルタカス蜂起”の中で反革命的社会民主党政府の軍隊によって虐殺された。とはいえ、革命党の組織問題、民族問題、帝国主義の理論などでボルシェヴィキと対立し、“ローザ主義”といわれる独特の理論を展開した。
ローザは、ボルシェヴィキとメンシェヴィキとの間で争われた最初の組織論争の時期、1904年に「ロシア社会民主党の組織問題」を著した。これはレーニンが「一歩前進二歩後退」で展開した革命政党の組織問題を批判したものであり、今日でもスターリンの官僚主義の淵源がレーニンにあるとする人々によってもちあげられている。
ローザは、レーニンが先の「運動の直接の実践的指導者となるのは特別の中央グループ」だといったのに対して、レーニンは「中央委員会が党の根源的な活動の核となり、残余の組織はすべて単に、それの実行の道具」(「選集」第一巻、二五一頁)であるような「超・中央集権」主義的政党をとなえ、それはブランキスト的陰謀家の組織をつくることを意味していると非難している。これはまたメンシェヴィキの非難と同じであった。
ポルシェヴィキとメンシェヴィキとの論争の核心は、そしてまたレーニンが「中央集権的」政党で強調したものは何であったか。論争は、全国に独立し、分散している革命的諸サークルを全国的な、単一の社会主義政党として結成していく問題をめぐってであった。レーニンは統合された組織は、地方の自主性を制限した「中央集権的組織」であるべきだと主張したが、メンシェヴィキはこれに反対した。メンシェヴィキの主張は、事実上小ブルジョア的な自由主義者や組合主義者との連合を擁護するものであった。
メンシェヴィキに賛成するローザも、労働者の階級闘争に果す革命政党の役割――労働者人民の自然発生的闘いを意識的な階級的闘いへ発展させていくという――をまったく理解していないことを暴露した。
ローザがレーニンに反対したのは次のような考えからであった。
レーニンは労働運動のなかの意識性をもたらすものとして革命組織を重視しすぎる。ローザにあっては大衆の革命的な行動はもっばら自然発生性に求められるべきだというのである。ロシアの本格的プロレタリア運動は「自然発生的な産物だった」「社会民主主義的(社会主義的)諸組織のイニシアティーブと意識指導は、ごく僅少の役割しか演じなかった」(ニ五七頁)。「一般に社会主義政党の闘争戦術は『発明』されるものではない。それは実験的な、しばしば基本的な階級闘争の偉大な創造的諸行為の持続的つながりの結果なのである。ここでもまた、無意識的なものが意識的なものに優先し、客観的な過程の論理がその過程の担い手の主観的論理に優先する。社会民主主義的指導の役割は、その場合、本質的に保守的な性格をもつのである」(二五八頁)。
ローザはこの場合革命政党の戦術をなにか階級闘争の具体的形態に歪曲して考えているのだが、彼女の強調したいのは、革命政党は本質的に大衆の自然発生性に対して「保守的性格」をもつのであって、中央集権化がすすめばすすむほど「突撃する大衆としゅんじゅんする社会民主党との軋轢」を拡大せずにはおかない、ということである。この意味でレーニンの「中央集権」組織は「あらゆる党指導の保守主義を、まったく人為的な仕方で危険なほど強めることになろう」(二五九頁)というのである。
ローザの大衆の自然発生性への追随は、次のような革命組織に対する考え方にも表われている。「社会民主主義運動においては、組織もまた、それ以前の社会主義のさまざまなユートピア的試みとは異なって、宣伝の人工的産物ではなく階級闘争の歴史的産物であり、社会民主党は、その闘争のなかに、ただ政治意識だけをもたらすにすぎない」(二四九頁)。
こうしたローザの思想は、事実上革命政党の建設のための闘いを放棄し、それを労働者の自然成長性にゆだねてしまう日和見主義を意味している。だからこそローザは、ロシア社会民主党の中に、自由主義や組合主義、経済主義などをもちこもうとしたメンシェヴィキと激しい闘争をおこない、革命政党を建設しょうとしたポルシェヴィキの闘いの意義を少しも理解できず、日和見主義との連合を擁護する主張さえしたのである。ローザは、レーニンがあたかも規約によって日和見主義を排除しようとしたかのまとはずれな批判をおこない、レーニンの闘争は「ただ社会民主党そのものをずたずたに分断するばかりであり、またそのような試みは、党内で健康な生命の脈動を妨げ、それによって、闘争における抵抗力を、日和見主義的潮流にたいしてばかりではなく、既存の社会秩序にたいして、弱めるのである」(二七〇頁)と攻撃した。
労働者大衆の自然発生性に拝跪するローザは、革命運動の前進のためには、一切の日和見主義から独立した革命政党が必要であること、このための独自の闘いがなければ革命もまた不可能であることを理解しえなかった。ローザは日和見主義を憎み、ベルンシュタインや排外主義に転落した第二インターと闘った。だが彼女の日和見主義との闘いは中途半端であり、決定的な時点においてすら日和見主義からの組織的独立という形で結実することはなかったのも決して偶然ではない。
27.ローザ・ルクセンブルグ 『民族問題と自治』
――急進主義的立場から民族自決に反対
1908〜9年にかけてローザはポーランド社会主義者の雑誌「社会民主主義評論」に「民族問題と自治」(未完)を連載した。この論文は「ユニウスの小冊子」とともにローザの民族問題を論じた代表的文献である。
ローザはこのなかで、「諸民族の自治権」を社会主義政党の綱領に入れることに反対している。
ローザが「民族自決権」に反対するのは次の三つの理由からである。
まず第一に、諸民族の自決権は、「ブルジョア社会においてはまったく実現されえず、社会主義制度の基盤の上でのみ実現されうるような思想の形而上学的公式であるにすぎない」(福村出版、「マルクス主義と民族問題」、五三頁より)。
第二には、資本主義の発達とともに優勢となった「巨大国家形成の方向は、すでに初めからすべての小民族を政治的弱者にすべく運命づけている」(四一頁)のであり、「現存基盤の上で『民族の自決権』を実現しようとする希望は、資本主義発展の傾向に真向から矛盾するユートピア」であり、「現存の国家すべてを民族単位に分割し、民族国家や小国家をモデルに従ってそれらを相互に国境で仕切るというような目標への一般的後退」を意味する。したがってそれは「完全に見込みのない企てであり、歴史的に見れば反動的企て」(四七頁)である。
第三には、「民族自決」という政綱は、関係する諸民族に「民族問題を随意に解決することのできる無制限の権限を与えることを意味するだけ」(一七頁)であって、プロレタリアートがいかなる政治形態のために闘わなければならないかを明らかにしない。
以上のように、ローザは民族自決は資本主義の枠内では「ユートピア」にすぎないし、またそれは、国境の撤廃、民族の融合という社会主義者の目標をあいまいに、歴史的発展に逆行する無力な試みである、社会主義のみが民族の自由を完全に実現する物的前提条件をつくりだすしこの制度の下でのみ民族自決は「空辞であることをやめ」る、したがって社会主義政党は「民族の自決権を実現することを呼びかけず、……プロレタリアートの自決権のみを呼びかけるのである」(五三〜四頁)――以上がローザの結論であった。
「諸民族の権利」は「形而上学的な空辞以外のなにものでもない」(一九頁)と資本主義の下での民族自決を否定しさるローザの主張は、民族自決が“市民的自由”と同様に資本主義の上部構造たる民主主義の諸形態の一つであることを理解しない誤った議論であった。勿論、事実が示すように資本主義、帝国主義の下では、民族的抑圧をなくすことはできないし、また民族自決が実現しても不完全な、かたわの形でしかない。社会主義の勝利こそがローザもいうようにそれを完全に、徹底的に実行しうる。だからといって社会主義の実現まで民族自決をひきのばすことは日和見主義であるばかりか、民族自決を否定しブルジョアジーの民族抑圧を黙認し、あるいは正当化しようとする社会排外主義者の反動的な政策を助けることを意味した。
また「民族自決」のスローガンは民族主義を助け、労働者の社会主義のための闘いをあいまいにする、というローザの論拠も帝国主義によって労働者が二つの陣営(抑圧民族と被抑圧民族との)に分れていることを理解しない誤った議論であった。抑圧民族の労働者は被抑圧民族の自決権を完全に認めてのみ排外主義、併合主義と手を切り、あらゆる民族の労働者と連帯し資本との闘いを徹底して闘うことが可能となるのである。他方、被抑圧民族の労働者にあっては民族的なイデオロギーがなお生きつづけている。かれらが労働者の国際的な立場に立ちうるには、民族問題が存在しない社会主義の状態を思想的に先取りすることではなく、民族の自決という過程をへてである。このことは社会主義者がブルジョアジーの民族運動を無条件で支持することを少しも意味しない。逆に偏狭な民族主義をあおり民族闘争を階級闘争に優先させたり、民族の細分化、分立を固定化させたりしようとするブルジョアジーのどんな試みにも反対し、社会主義者は、民族の自決を社会主義のための闘いの一部として、それに従属させて闘う。こうした闘いによっての
み被抑圧民族の労働者はブルジョア的、民族主義的影響から脱却し、労働者の国際的立場を獲得しうる。
民族の自決を認めることと、すべての民族の労働者の共同、統一した闘いが矛宿しないばかりか、それこそが社会主義の勝利のための労働者の国際的連帯のために必要であること、社会主義をめざす労働者の首尾一貫した政綱であることを、ローザは理解できなかった。それ故にローザは社会主義政党の綱領に「民族自決」の条項を入れることに反対し、労働者の国際的連帯、統一をのべるだけでよいとしたのである。
以上のようなローザの主張の背後には偏狭な民族主義を煽り民族闘争を絶対化し、労働者の国際主義、社会主義を裏切る社会民主主義者に対する憎しみや怒りがあった。ローザは主観的にはかれらに反対し、社会主義のために闘おうとした。とはいえ、ローザの急進的な主張は彼女の意図に反し、ブルジョアジーの併合主義、民族抑圧を容認する日和見主義者を助ける危険性をはらんだものである。
28.ローザ・ルクセンブルグ 『資本蓄積論』
(1)資本主義の発展を否定したナロードニキ的議論
ローザは「資本蓄積論」で、マルクスの再生産論(特に拡大再生産論)を批判している。その目的は、もちろんマルクス批判のためではなく、当時擡頭しつつあった修正主義の資本主義弁護論を反駁するためであった。ローザは、マルクスの再生産論はツガン的な資本主義の調和的発展論を生みだす欠陥をもっていると考えた。
マルクスの拡大再生産表式は生産拡大のための新たな需要は資本家階級および生産拡大によって増加した労働者によってもたらされること、すなわち需要は生産それ自身によってつくられることな明らかにしている。ところがローザは、これに反対して、マルクスは拡大再生産のなかで剰余価値が実現されるといっているが、労働者階級と資本家階級のみからなる「純粋な資本主義」においては「資本化された剰余価値から生ずる追加生産物に対する需要」(青木文庫一四九頁)、あるいは「剰余価値のための支払能力ある欲望」(一七一頁)は見いだすことができない、と批判する。なぜならば、労働者階級のもつ需要は、その時々の可変資本の総額に等しく、また資本家階級はその剰余価値を実現しようとしているのだから、と。
ローザは、マルクスの表式は生産物を相互に売らせることによって生産の拡大が需要の増大をもたらすことを表現しているが、これは「堂々めぐりにすぎず、剰余価値の実現は追求されていない」という。
なるほどマルクスは拡大再生産のための貨幣はどこからくるかについて論及している、だが「資本制的貨幣蓄蔵は我々を困難から救いだすことはできない。そしてこのことは予想されるべきであった。というわけは、この場合には問題提起そのものがまちがいだからである。蓄積の問題にあって重要なのは、貨幣はどこから来るかということではなく、資本化された剰余価値から生ずる追加生産物にたいする需要はどこから来るかということである」(一四九頁)。
――以上がローザのマルクス批判の主要な点である。
しかしこの批判は拡大再生産の場合の価値の実現問題について、またマルクスの提起した課題についての無理解を明らかにしている。ローザの「蓄積、すなわち剰余価値の一部分の資本化という条件のもとでは、資本家階級自身がその全剰余価値を実現することができない」(一七一頁)という主張は、ナロードニキの主張そのものである。ローザは需要の大きさは生産の規模によって規定されるということを無視して、あたかも需要が独立の要因であるかに主張し、剰余価値実現――すなわち支払能力ある欲望――を問題にしているのである。
これは需要の問題を流通過程にのみもとめようとする誤った流通主義的議論である。
ナロードニキ的ドグマに立つローザは、従ってまたマルクスの拡大再生産に伴う貨幣はどこからでてくるかということを問題にしている課題も理解しえない。マルクスが問題にしているのは剰余価値を買うための貨幣のでどころではない。ここでの課題は拡大再生産にともなって増大する商品流通に必要な貨幣がいかにしてあたえられるか、ということである。ただ単に剰余価値を実現するだけの貨幣ではなく、増大した規模の商品を流通させるに必要な貨幣がどこからでてくるのか、が問題とされているのである。ところがローザは、拡大した商品量を実現させる再生産表式と、貨幣蓄蔵との関係を正しく理解できずに、マルクスを批判しているのである。
再生産論の課題は、社会的総資本の再生産・流通がいかになされているかその条件=法則を明らかにすることである。表式そのものはこれを明らかにする手段であって、それ以上ではない。したがって、ツガンが表式から資本主義の永遠の発展を導きだしたとしてもそれは表式の歪曲であって、マルクスの罪ではない。だがローザはこれを正しく批判せずに、純粋な資本主義の下では剰余価値の実現が不可能だとして、マルクスの再生産の理論に資本主義弁護論を生みだす根本的な責任があるかに主張したのである。
「純粋な資本主義」のもとでは剰余価値の実現は不可能だとする誤りの他にも、ローザは多くの誤った議論を展開している。
派生的な問題として論じられている貨幣材料としての金の生産の問題では、貨幣が「生産手段でも消費手段にも属さない」「私経済社会の独自の負担」(九六頁)であり、社会主義ではなくなるものだということから金の生産を生産手段部門に入れることに反対し「第三部門」に区別することを提案したり、マルクスが単純生産のところで貨幣蓄蔵を論じたことに反対して非難している。
だが貨幣材料としての金を貨幣の生産として生産手段を生産部門から区別することは、貨幣の本質を何一つ理解していないことを暴露するものである。金はあるがままで貨幣として生産されるのではなく流通に投じられてはじめて貨幣となるのであり、貸幣生産部門などというのは空論である。
また、ローザがマルクスが貨幣蓄蔵の必然性を明らかにしたことに対して反対しているのも、先きにのべた拡大再生産と貨幣蓄蔵との関係を理解できなかったことと無関係ではない。ローザによれば、純粋資本主義の下では剰余価値を実現するための需要、すなわち貨幣は存在しないはずだからである。
(2)資本主義の“自動崩壊”論と急進主義
「純粋な資本主義」のもとでは資本主義的蓄積は不可能であり、蓄積のためには購買者として非資本主義的領域の存在が決定的前提条件である、というのがローザの「資本蓄積論」の結論であった。
かくてローザは帝国主義を「まだ押収されていない非資本制的世界環境をめぐる競争戦における資本蓄積の過程の政治的表現」(五四一頁)と規定する。
非資本主義的領域の存在こそが資本主義の存在、およびその発展を可能とするというローザの結論からは、非資本主義的領域への膨脹への資本の絶えまない努力が生じる。だが、この領域の資本の進出の過程は同時に、それな資本制的生産諸関係に引き入れることであり、それはまたその消滅をも意味する。かくして、一方では資本主義にとっては剰余価値の実現のための領域が挟まり、他方では資本主義は新たな非資本主義的領域へ進出しなければならない。ローザが帝国主義の段階としたのは、このように非資本主義的領域が狭まり、その争奪戦が激化し、軍事的な衝突が不可避となったような資本の蓄積段階をさしているのである。
だがこうした理論からは、レーニンが「帝国主義論」で明らかにした独占、資本輸出、寄生性腐朽性等といった帝国主義の諸特徴が明らかにされない。レーニンは帝国主義生産の集中・集積というマルクス主義的な法則から出発し、帝国主義=独占資本の諸特徴を明らかにするばかりでなく、同時にそれが社会主義の物質的諸条件を革新するものであることを示した。だがローザが帝国主義の重要な諸特徴を解明することが出来なかったのは、マルクス主義を正しく理解せずに、資本主義の下では資本蓄積は不可能である、との小ブルジョア的な立場を自己の理論の基礎としていたからである。
こうしたローザの帝国主義論がそのマルクス主義理論に立ちえなかったという理由から、結果的には「帝国主義とは、大きな農業地方をすべて征服し、または合併しようとする、あらゆる資本主義的諸国民の熱望といったカウツキーの日和見主義的な規定を克服できずに、それと五十歩百歩のものにしかならなかったのも不思議なことではない。
カウツキー的な帝国主義論に反対して、帝国主義の歴史的な必然性を立証しようとして、ローザは資本主義の“自動崩壊の理論”ともいうべき結論を導きだした。
「資本主義は非資本主義的領域に侵出しそれを資本主義化する傾向をもっている。だが、ここに袋小路がはじまる。一たびかの最終成果が達成されれば、蓄積は不可能となる。すなわち剰余価値の実現および資本化は解くべからざる課題と化する。マルクスの再生産表式が現実に照応する瞬間に、この表式は、蓄積運動の終結すなわち歴史的制限を、したがって資本制的生産の終局を、示す。蓄積が不可能だということは、資本制的には生産諸力のそれ以上の発展が不可能なことを、したがってまた資本主義の崩壊の客観的な歴史的必然性を、意味する」(五〇一頁)。
非資本主義的領域の消滅とともに資本主義の「崩壊」が始まるというローザの見とおしは誤っているばかりでなく、資本主義打倒をめざすプロレタリア革命運動における意識的な努力=前衛政党の役割の過小評価、大衆の自然発生性の過大評価という急進主義と密接に結びついていた。資本主義のゆきづまりが歴史的に必然であるとしても資本主義はその克服をめざす革命的な運動なしに“崩壊”することはない。そしてこの革命的な運動は自然発生的にではなく、長期にわたる革命政党の意識的な活動によってのみ実現可能である。だがローザは革命的激痛の時期には常にプロレタリア党は大衆におくれをとる、と大衆の自然発生性を美化しつづけてきた。こうしたローザの急進主義は組織的な日和見主張と結びついていた。
彼女は社会民主党が帝国主義戦争のための軍事予算に賛成し、明確にプロレタリアの裏切り者の党に転化した後も党をはなれようとはしなかった、「けっして組織からはずれては、大衆との接触からはずれてはならない。最悪の労働者党でもないよりはまし」というのは、ローザの一貫した態度であったし、彼女は日和見主義者と手を切ることを大衆からはなれることだと主張し、党内で少数派としてとどまる道をとった。ローザは革命の時の大衆の自然発生性に期待していたのである。
ローザらが、独自の組織=共産党結成に踏切ったのはドイツ革命後の17年12月であった。だがその前身たる社会民主党左派グループの「スパルタクス」団(16年1月結成)は「烏合の衆」と評されたように無政府主義者や一揆主義者も含まれた組織でしかなかった。そして絶望的な蜂起(ローザはこれに反対)の中で反革命義勇軍によって虐殺されたのである。ローザの生涯は帝国主義・軍国主義に対する闘いとして国際共産主義運動史に刻まれている。しかしまた他方「スパルタクス」団がたどった軌跡はローザの非マルクス主義、急進主義の限界をも示しているのである。