ハウプトマン「はたおりたち」
労働者の蜂起描く……しかし自然発生性に拝詭
1983年5月15日「火花」第589号


 先週号は、ハイネの「シュレージェンの織工」の一節で結びとしたが、ハウプトマンのこの戯曲も、ハイネの時代から約30年下った同じシュレージェンの麻織工の蜂起を群衆劇にうたったものである。
 「はたおりたち」の中には特別な主人公はない。あえて言えば、貧窮のドン底にある労働者たちが蜂起に立ち上がる姿が、そしてまた彼らを煽動するベッカーやイエーガーという労働者が主人公と言えば言えるだろう。
 劇は五幕からなり、第一幕では、綾織物工場の労働条件の劣悪さが暴露され、工場主ドライシガーが不況を理由にリンネルの買い取り価格を低くおさえようとするのに対して、ベッカーらが反発する。
 「ふんとにはした金ののみしろよ。まったぐの話。朝早くから暮れがたまで、あくせく織れってせつかれる。こうして、毎晩毎晩機械でしめ上げられたみでえに、埃と熱気でめまいを起こしかけ、十八日も織物にとりついたあげく首尾よく手に入れた苦労の甲斐が十二ペーメン半ときやがる」
 第二幕では「町じゃ犬のくらしだって、まだしもあんただたよりゃましよ」と自嘲的に言われる程の、織工たちの貧窮した家庭が描かれる。同時に、闘いへの決意も高まっていく。
 「――おらたちを団結させることができたら、相手かまわず工場主を向こうにまわし、どえれえ悶着をひき起こさんともかぎらねえ。それにゃ国王も政府もいりゃしねえ」
 第三幕、第四幕では工場主やその腰巾着の優雅な生活ぶりが描かれるとともに、蜂起への労働者の意志の発展が緊張感いっぱいに展開される。
 「くらしむきがわりぐても死に絶える気んつかいのねえ連中だ。いりようもねえに子供をたくさんこさえる手合いよ」といった揶揄に対し、蜂起の声が巻きおこっていく。
 「バウメルトじいさんが、一揆をおっぽじめようっつうんだ。いよいよおらたちが事をおっばじめるんだ。まず仕立屋が半日じめだ、それから小羊、おつぎがねずみと、一揆がずんずんひろがっていぐ。いやはやまったぐ、こりゃさぞ一さわぎもちあがることだろう?」
 「やつらが、イェーガー・モーリッツを釈放、署長さんとおまわりをこてんこてんになぐり、追っ払ったのです。鉄兜もかぶらず、サーベルはぶっこわされて、とても手がでなかったのです!」「革命ではありますまいか」
 だが、蜂起は軍隊の出動を前にして、高揚に達する。第五幕は、遅ればせながらも蜂起に加わろうとした頑固一徹の老労働者が軍隊の銃弾を受けて倒れるところで、蜂起の発展を暗示しつつ、終る。
 この戯曲は、労働者の自然発生的な蜂起を――事実に取材して――描いたハウプトマンの傑作の一つである。だがこれが、パリ・コンミューンの後、1892年に書かれた(そして、ハウプトマンの主な戯曲は19世紀末から今世紀初頭に集中している)にしては、あまりに自然発生的な側面に傾きすぎている。実際、この作品のうちには、どんな自覚的な革命的労働者も、革命的な労働者党も、登場してはこない。煽動者たるベーカーにしてもイェーガ一にしても、ただ貪窮と搾取への直接的な反発をストレートに一揆(まさに一揆以上ではない)に持っていく役割を与えられているだけで、闘いの展望や資本主義の打倒という課題は少しも織り込まれてはいないのである。この点は、ハウプトマンが事実上自然主義の立場を一歩も出ることがなかった――生涯を通じて――ことによる。
 とはいえ、個々の場面々々でのセリフは秀逸で、搾取され、うちのめされているリンネル工たちの生活の姿が赤裸々に描かれており、それがこの作品の全生命だといっても言い過ぎではない。そしてこうした生活感情のいくつもの積み重さねが、「こんなくらすはうんざりだ」という怒りの爆発につながっていくのである。(Y)