レマルク「西部戦線異常なし」
最高の反戦文学……戦争の無意味さを描く
1983年5月22日「火花」第590号


 今回は私の最も愛する作家の一人であるレマルクをとりあげよう。彼はまさに“現代の”作家である――つまり第一次大戦、戦争後の混乱、革命、ナチス、そして又もう一度世界戦争という、激動の時代の“現代”を代表する作家である。
 レマルクは労働者作家でも“体制批判派”の作家でもない。彼はむしろ反戦主義、反ナチズムの作家であり、それを越えることは殆んどない。にもかかわらず、私は、読者の諸君に“現代”を一そう深く理解するためにもレマルクの珠玉のようないくつかの小説(彼の小説は全部で十余りしかないが)を是非読むように勧めたい。
 「西部…‥」の主人公バクル・ポイメルは第一次大戦の折、わずか十八歳の青年であったが、軍国主義の教師にそそのかされて級友たちと共に志願出征し、西部戦線に配属され、そこで戦争の現実に直面し、その若い魂に永久に消えぬ傷跡と空洞をつくってしまう。彼らは、「頑固になり、疑い深くなり、同情心は薄くなり、復響心は強くなり、かつ野蛮になった」、「僕らは、危険な獣になってしまった」のである。
 戦場で通用する唯一の論理は、殺されないためには殺さなくてはならないというものだ。「人を殺すことが僕らの生活における最初の職務であった」。敵国人であれば、それが労働者や農民であろうと――つまり主人公らと同じ様に何も分からないままに戦争にかり出され、人殺しを強制されたみじめな人々にすぎないとしても――一瞬といえどもためらうことなく打ち殺さなければならない。「死が鉄かぶとをかぶり両手をあげて、僕らの背後から駆りたてるという瞬間に、何を考えていられるものか」というわけだ。ここでは大事なことは本能であって、理性でも思考でもない、むしろ考えを深めて行けば、十八歳の青年たちは狂ってしまうしかない。
 彼らにあるのは深い絶望と悲しみである。「僕らは子供の如く打ち捨てられ、年寄のごとくに経験をつんだ。僕らは粗暴になり、悲しみを抱き表面的になった……僕はこう思っている、僕らはもう人間としては価値のないものになっていると」。
 レマルクは平明な文体でリアリスティックに、しかも豊かな抒情性をまじえてたんたんと戦争の無意味さ、悲惨さを述べるが、だからこそ一そうそれは読む人に迫ってくる。
 しかし、彼の小説はプロレタリア的、革命的なものではない。この小説でも、兵士の中における国際主義や階級意義の萌芽は描かれるが、しかしそれはむしろ人道主義的な色彩の中にとけこんでしまっている。ロシアの俘虜の歩哨に立っていて、主人分は「新兵に対する下士、生徒に対する教師は、僕らとこのロシア兵以上の兇悪なる敵である」と信じる。また、兵士たちは、ドイツもフランスもともに「祖国擁護」を謳っているが「いたいどっちが正しいんだ」と疑問を口にし、「なんでもこれは、戦争で得をする奴らがいるに違えねえんだ」と論じるが、しかし自覚はこれ以上深まって行かないし、その契機(革命的社会主義者の意識的な活動)はロシアとちがって殆んど存在しない。
 だから主人公はこの帝国主義戦争の現実を前にしてどこへ進んで行くペきか、いかに生きるべきかを見出すことができない。「こうしてこの戦線で暮した日と週と年とは、もう一度立ち還って来て、僕らの死んだ戦友は、そのときこそ復活して、僕らと一緒に進軍してゆくだろう。……ただそれは誰に向ってだ、誰に向ってだ」。
 こうして主人公は終戦を前に全く無意味な死を迎える。彼の死が純粋にかつ徹底的に無目的であり、無意味であればあるほど、なぜ、いかにして戦争がありうるのかという怒りと社会批判が我々には強く湧きあがるが、レマルクはそれを強調しない。むしろ個人を越えたところで進む歴史の流れにもて遊ばされ翻弄されおしながされる“個人の”運命が彼の関心の的である。彼は帝国主義戦争やナチズムのためにうち倒され、犠牲にされた無力な人々に満腔の同情と愛情を注いでいるのである。(H)