ブレヒト「屠殺場の聖ヨハンナ」
革命的共産主義を擁護……共産党は当時まだ革命的だった
1983年5月29日「火花」第591号


 ブレヒトも又、レマルクと同じ1898年に生まれ、同じ時代を生きた文学者である。
 しかし彼は第一次大戦に直接参加することはレマルクよりはるかに少なく(わずかな期間陸軍病院に勤務)、他方、階級闘争、政治闘争に参加することではレマルクよりもはるかに徹底しており、すでに1924年ごろ(26歳)マルクス主義の研究にうちこみ、ナチスの擡頭とともに30年には共産党に入党、資本主義を暴露し、ナチズムを諷刺し、革命闘争を讃美する作品を数多く残している。
 「屠殺場の聖ヨハンナ」はブレヒトの入党のころの戯曲で、アプトン・シンクレアの小説「ジャングル」に外枠をかりつつ、ブルジョアの冷酷さと巧かつさをあばいたもので、シカゴの屠殺場街をバックに、教会の救世軍の“戦士”であるヨハナンの貧民に対する“救済活動”と労働者に接しての動揺と労働者の味方に徹しきれなかったが故の破滅までの何日かを描いている。
 資本家(製肉業者間)の競争や陰謀、ストライキ、かん詰工業の実体(労働者があやまってボイラーの中に落ちてベーコンになってしまった等々)、シカゴの屠殺場街の貧困のなかで、ヨハンナは宗教的な“人間愛”にかられて労働者の援助におもむく。彼女の出発点は
 「わたしは神さまに仕える兵士なのです。……不平がたかまって暴力行為の危機が迫るところに進軍し、忘れられている神を思い起こさせ、すベての人の心に神をとりもどさせるのです」といった、資本主義の現実を知らないが故の無邪気なものである。
 しかし彼女は労働者との接触の中で、又、競争の下で相手をけおとしてますます肥え太る大資本家のモーラー、しかも自分のこの行為を“善意”や“道徳的”な仮面でごまかすモーラーとのやりとりの中で、自分の行動が客観的には大資本家とその搾取を助けているのではないかと気づきはじめ、労働者への理解と同情が生れる。
 「みなさん貧乏人たちは十分に道徳というものを持たないとよく聞かされます、それはそうかもしれません。あの下層階級のスラム街には、不道徳が巣くい革命の温床となっています。でもわたしはみなさんにおききしたいのです。その貧乏人がなにひとつ持っていないのにどうして道徳だけが持てるのですか。……みなさん、道徳を買う購買力というものがあるです」。
 かくして彼女は労働者のストライキの渦中にとびこむが彼女の思想的な(もしくは階級的な)弱さ故に重大な任務の遂行をためらってしまい、ゼネストの崩壊に手を貸す結果となり、彼女は挫折して死を迎える。しかし死に臨んで彼女は、「善人として一生を送ってこの世を去ることなんか心配せずに/世を去っていくときまでに、世界のほうがいまとちがった/善なる世界になっているように、心がけるべきです!」と訴え、「暴力が支配しているところでは暴力だけが助けになる/人間がいるところでは、人間だけが救いです」と叫ぶが、救世軍のコーラスの声でかき消され、彼女は聖女にまつりあげられて結果としては資本家を助けて死んでいく。
 ブレヒトはこの作品で、資本主義の残酷な現実、労働者の抑圧と搾取と悲惨な状態、宗教や道徳の名による労働者欺瞞と共に、結果として資本主義を助ける改良主義や修正主義の不毛さ、そして革命的共産主義の正当性を強調しているのであり、まさにこの作品は世界の共産党がまだある意味で革命的だった時代の反映である、といえよう。
 ブレヒトは、ドイツの解放後も東ドイツの演劇活動を指導して来たが、1953年の6月の有名な東独の労働者の暴動――スターリン体制への“最初の”労働者の反乱の一つ――では、暴動をおこした労働者たちにむしろ同情的で東独共産党の親玉で徹底したスターリン主義者であったウルブリヒトあてに親書を送って党の行政面にも強い反省を求めている。彼は、スターリン体制に大いに「内心の憂うつ」を感じつつ晩年を過したという。(H)