アンナ・ゼーガース「死者はいつまでも若い」
一時代を自覚的に描く……擡頭するナチス、労働者の生活や抵抗

1983年6月5日火花592号


 1919年1月のスパルタクス団の蜂起に参加した一人の労働者(エルヴィン)が反革命義勇軍の三人の将校の手におちて虐殺されるというショッキングな場面からこの小説は始まっている。
 殺された労働者には食堂で働く恋人(マリー)があり、子供(ハンス)を宿している。このマリーは、生きるがために自ら「常識的」という社会民主党の労働者ゲシュケと結婚し、ゲシュケの子供三人とハンスを育てる。
 他方、エルヴィンを殺した三人とは、古い由緒あるプロイセンの士官ヴェンツェロー(彼はその誇りゆえに、ナチに同化し切れない)、ラインの新興の資本家クレム(彼はナチに急いで投資するほどには小利口である)、さらにバルト地方のドイツ貴族であり、冒険主義のリーヴェンであり、彼らは、多かれ少なかれナチスに傾いていく。
 革命と反革命に属するこれらの人々とその家族の運命――さらに農民ナードラー一家の運命を加えて――を1919年からナチス崩壊直前の1944年頃までにわたって描いたのがこの小説であり、まさに第一次大戦後の階級闘争、ナチスの勃興と勝利、第二次大戦期のドイツという一つの時代を政治史としてでなく、人々の生活の歴史を通してうかび上がらせている。
 「死者はいつまでも若い」というのは、労働者として虐殺されたエルヴィン(つまり民衆)はいつまでも若いということである。作者は「たえず補充されていく大衆の生命」(白水社版、上22頁)をじっと見つめているのである。ヴェンツェローは最後に自殺する前に思う。
 「おれたちはあいつ(エルヴィン)を殺して埋めた。だのに、あいつはなんといつまでも若いのだろう。……ノスケやカップにふみにじられながら、なんといつまでも若いのだろう。ナチどもはあいつら目当てに地上に天国を約束したのだが、あいつらはだまされなかった。ありとあらゆる弾圧に骨がみじんに砕けても、戦争に駆りだされ、戦場から戦場へとひきずりまわされても、それでも死にはしなかった。あいつらはいつまでたっても若いのだ。万事休したこの期になっても、もう一度万事を一事にかけるつもりなのだ」(下388頁)。
 ハンスは真の父親のことは知らずに、共産主義者に育っていき、ナチスの下でも非合法の抵抗闘争をやめない。
 他方、義理の父親のゲシュケはナチスを嫌悪しつつも、また社会党への期待は殆んどなくしても、なおかつ共産党には反発する。実際、社民党の労働者ゲシュケと、同じアパートに住む共産党の労働者トリーベルの関係(のちには、ハンスとの関係)はなかなか興味深いものがある。ゲシュケはひとりごとをいう。
 「おれもあいつら(共産党員)をえらいと思っとる。ただ、だからといって好きにはなれないんだ。」「あいつはソヴィト同盟一辺倒だ。ところが今はあそこはなんてざまだ?裁判つづきだ。23カ月ごとに一番よいボリシェヴィキを何人か射ち殺している。ナチは笑って、大よろこびだ」(下166頁)。
 彼は又、独ソ不可信条約がペテンであり、まちがっていると感じる。「おれには気にくわん。どうも自然に逆らうように思えるんだ、『人類のけがれ』と似たようなものにな」(同232頁)。そして彼は、まる一年、自分の方が正しかったことで「悩んでいた」のである。
 ゲシュケのスターリニズムへの反発は、作者が社会党労働者の口をかりてスターリン批判を匂わせているのであろうか、それとも、単に事実を事実として描いたにすぎないのであろうか。しかしゲシュケには作者は深い愛情を抱いているように思われる、少なくもトリーベル以上には。
 いずれにせよ、この小説は意識的な共産主義者(党員)として作者が自覚して書いた小説であり、その意味では直接に労働者の胸にひびいてくる多くのものがあり、また、学びうる多くのことがあるだろう。現在の“代々木系”の作家のような鼻につく俗臭は殆んどない。惜しむらくは手にはいりにくいことだ。(H)