ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」
スペイン内乱の劇的な描写……作者の自由主義的立場を反映

1983年9月4日「火花」第604号


 この小説の舞台となっているのは、マドリッドの北西約60マイルのグァダルマラ山中、時期は1937年5月の最後の週の土曜の午後から火曜の昼までのほんの約68時間ほどの間である。ヘミングウェイは、この場所と時間において、スペインの内乱の様相を、ロバート・ジョーダン、マリア、ピラール、バブロ、アンゼルモ、つんぼおやじ、アグスティン等々の人間たちの闘いの姿において(そしてまた裏切りの姿をも)凝縮しようとしたのである。
 そしてそれは小説としては立派に成功しており、同時に、スペイン内乱の本質をもある意味で暴露するという点においても――作者やスターリン主義的批評家やブルジョア的批評家のおそらくは意に反して――成功している、と言える。
 ドラマとして成功している、というのは、年配の(あるいは映画ファンの)読者であれば、『誰がために鐘はなる』の古いフィルムを思い浮べていただければよい。マリアに扮したイングリット・バークマンの魅力もさることながら、ドラマティックな筋立てといい、橋梁爆砕という道具立てといい、ロバートとマリアの恋愛といい、下手な戦争小説よりよほど面白いので、ヘミングウェイが大衆作家だと評される所以もここにある。
 スペインの内乱の本質、という点では、ヘミングウェイが何かコミュニストであった、あるいは科学的、歴史的な洞察力をそなえていたわけではない。むしろ彼は、『誰がために』の主人公であるロバート・ジョーダンのように、一方では共和主義的な信念から、他方では銃と闘いを求める“冒険精神”(何とアメリカ的な!)から、この内乱に参加し、またこの小説を書いたのである。
 だが、この小説の登場人物自身が、スペイン内乱の際だった象徴である。内乱を闘うのはジプシー、百姓、インテリ及びコミンテルンとファシストである。労働者階級はこの内乱では決して主役ではないし、小説の中には一人として労働者階級を代表する人物はあらわれない。
 ジプシーのゲリラであるパブロの妻、ピラールは、人民戦線派(彼女は自称共産主義者でさえある)の最も忠実な戦士であり、ロバートを支えて橋梁爆砕の闘いをしっかりと担うが、パブロは、彼の村のファシストと評される人々を皆殺しにした前歴があるとはいえ、良馬何頭かを手にして(私有財産だ!)、動揺し、裏切り、ロバートを死に導く。この二人は、動揺と内紛絶えまなき人民戦線派の両端を象徴するであろう。年老いたジプシー、アンゼルモや命知らずのアグスティンは、人民戦線派の誠実な人々を代表する。
 そして人民戦線の指導者たちといえば、ロバートの上司ゴルツ将軍が「なるほど攻撃を行うのはわしだが、しかしそれはわしのものではない。砲だってわしのものではない。……あいつらがどんな連中か、君も知っているだろう。いちいちあげつらう必要もないことだ。いつも何かがある。いつも誰かが邪魔をするのだ」と憤慨するような状態だったのだ。
 こうした状況にもかかわらず1937年春といえば、フランコ派の反革命蜂起に対して、人民戦線派の旗色がよくみえ、自由主義的インテリや外人部隊が続々と人民戦線に加わっていた頃なのである。だがその時にもすでに、ヘミングウェイが示唆するように、人民戦線派は内的に崩壊の種を宿して頽廃を深めており、勝利は決して実現されなかったのである。人民戦線派は38年には全体にわたって守勢に立たされ、39年1月にはバルセロナ、3月にはマドリッドが陥落してフランコ派が勝利を握るのである。
 ヘミングウェイは、当時、人民戦線派の最も有名なシンパの一人とされていた(彼のスペイン好きは有名で、何回か訪れているのだが)し、パリ解放の際にも最も早くパリに入ったジャーナリストともいわれているほどに、この戦争に大きな関心を寄せていた。とはいえ、それが自由主義の域を出るものでないこともまた明らかなのだが、それゆえに、反語的に、スペインの内乱の一側面を反映することができた――共産党的な幻想なしに――ともいえるだろう。(Y)