A・J・クローニン「星は地上を見ている」
労働者一家の運命描く……イギリス石炭労働者と労働党の生きた歴史

1983年8月14日「火花」第602号


 この小説はロバート・フェニックスとマーサーの夫婦及びその三人の子供――ヒューイ、デヴィッド、サム――の物語であると共に、20世紀初頭のイギリス資本主義の一断面の暴露であり、またこの時代の労働運動(とりわけ石炭労働者の)とイギリス労働党の歴史そのものである。
 ロバート一家は代々、石炭労働者の家系であり、ロバート及び三人の子供もみな炭鉱労働者である。長男のヒューイはフットボール気違いで将来の有名選手を夢見てきびしい訓練と禁欲生活を送っている。デヴィッドは父のお気に入りで、将来何ものかになることを期待され(また自分も予期して)特別に勉強を続け、奨学金を得て上級学校へ進む。
 小説は1910年ごろ、英国北部のこのネプチュン炭鉱の労働者がストライキ闘争をしているところからはじまる。このストは小説全体にとって運命的である、というのはストの原因が、典型的なブルジョアである炭鉱主のリチャード・バラスが労働者に百年前に廃鉱となり水がたまっているスカバー・フラツのすぐ近くの良質の無煙炭堀りを強要し、労働者がその危険を察知したところにあったからである。実際、数年のち、ここで大災害が起こる。
 クローニンはフェニックス一家とともに、ブルジョアのバラス一家を描き、又、第一次大戦の中であらゆる悪らつな手段で成り上がり、新興資本家として登場するジョー・ゴラウン――彼も又、はじめはネプチュン鉱の労働者であった――を活写するが、作者がこれらブルジョアの描写に成功していることを読者は認めざるをえないだろう。
 第一次大戦の直前の1914年に、バラスは再び契約を得て、例の無煙炭掘りを労働者に強要し、恐ろしい災害がおこる。余りに廃鉱近くまで掘り進んだが故に、廃鉱との境界がくずれ、炭鉱に水が奔流し百名の労働者が命を失う。ロバートも兄のヒューイも同じ運命に会う。父は、鉱底で死ぬ直前に、「バラスはこの(百年前の)廃鉱の平面図を持っているにちがいない。彼の指図は正確だった」と書き残す。つまり、バラスは危険を承知で労働者に廃鉱近くの良質炭を掘らせたのである!だが、災害の責任を追及する裁判で、バラスは百年前の平面図など残っているはずはないと白を切り、何の罪も問われないが、バラスの息子アーサーはこのことで深刻に悩み始める。
 だがすべては第一次大戦の勃発におし流され、大戦後にもちこされる。ジョーは戦争を利用してブルジョアになりあがり、アーサーは“理想主義的”人道的ブルジョアとして登場し、他方サムは戦死し、デイブイッドは「他愛のない女店員」(父ロバートの評価)と結婚し、学業を中断して生活のために小学校であくせくと働いていたが、町会議員を皮切りに、労働党の一員としてついに闘いの道にふみ出す。
 かくして小説の後半は、第一次大戦後の激動期におけるイギリス労働運動と労働党の興味あふれる生きた歴史でもある。デヴィッドはおされて国会義員に立候補し、見事炭鉱地区から選ばれる(周知のようにイギリスは小選挙区制だ)。労働党は29年に炭鉱国有化をスローガンに選挙で勝利し、政府を組織するが、しかしそれはこの約束を裏切るためだけにすぎなかった。デヴィッドは“誠実な”労働党左派の議員として自分の地位や名声しか求めない利己的な右派の政治屋連中が労働者大衆を裏切るのを見て怒り、悩む。必然的に、次の選挙では労働党は大敗し、デヴィッド自身も、保守党から立候補したジョー・ゴラウンに敗北する。彼は「必要から」再び炭鉱労働者にもどり、サムの忘れがたみと共に地底に降りていくところで小説は終わっている。
 大急ぎで小説のあらすじを語っているうちに紙面が尽きてしまったが、この小説の基調にあるのはヒューマニズムであって社会主義でなく、主人公も炭鉱の国有化がすべてを解決すると思い込んでいる労働党左派の人間であって、労働者を「裏切らない」といってもこの限界内でのことにすぎない。だがそれにもかかわらず、この小説は真に感動的であり、筆者の最愛読書の一つであることをつけ加えさせてもらいたい。(H)