アンドレ・マルロー■「希望」
スペイン内乱を描く……“正規軍”同士の戦闘として
1983年9月25日「火花」第607号
もう一つ、スペイン内乱を描いた小説を紹介しよう。
「希望」はスペイン内乱の前半期(1936年7月〜37年3月)を取扱ったルポルタージュ風の作品であるが、作者は“小説”であると断わっている。
この小説はマルロー自身の経験の直接の反映であり、作中人物はフィクションではあるが、きわめて実在性が強い(例えば国際航空義勇隊のリーダーのマニャンは著者自身の分身である等々)。この小説が出版されたのは描かれている諸事件の直後の37年のことであって、スペイン内乱が著作のなかで必ずしも一つの文学作品として“昇華”されているとはいえない。
むしろスペイン内乱が“生の”まま読者の前に投げ出されているという感じである。しかもそれはスペイン内乱をきわめて軍事的に扱っていて、政治的要素は切りすてられている。彼は、たしかに1936年7月のバルセロナの、そしてスペイン全土における労働者の英雄的な闘いを書いてはいるが、――そして我々が本当にひきつけられるのは小説のこの部分だけだ――その大部分は、スペイン内乱の――というより<ありのまま>の“戦闘”の――叙述でしかない。ここでいう<ありのまま>というのは、スペイン内乱が労働者人民の革命戦争から、人民戦線政府とフランコ軍の“正規の”戦争に変質していく過程を本質的なものも非本質的ものもいっしょくたにして、ただ次々と書き並べている、という意味である。
もっともこうしたことは必ずしもマルローの責任ではなくて、スペイン内乱そのものの限界、その実際の反映でもあるのだが。スペイン内乱は、革命戦争ではなくて、“正規戦”と位置づけられるに比例して、労働者人民の“希望”はしぼみ、勝利の展望は失われて行ったのである。
兵器の優劣、“技術力”、経済力、そして、正規軍や“規律”が勝利の条件であるかにいわれ、労働者人民の革命的闘いの意義が否定されるなら、ソ連の援助や共産党の比重が大きくなるのは避けられなかったが、それは必ずしも勝利を本当に保証するものではなかった。彼は“良心的な”共産党員(マヌエル等々)をもち出すことで、スターリニストの最も裏切り的な政治をごまかし、あいまいにしており、そこに一つの本質問題があることを理解していない。
マルローの甘さは、グアダラハラの闘いで、政府軍がファシスト反乱軍を撃退し、マドリード防衛をはたすところで小説を終えているところにもあらわれている。彼はまた、スターリニズムに幻想をもち、マドリード防衛で国際旅団を含む共産党の勢力と、ファシズムが正面衝突した事実をもって、「ここで、二つの本物の党派がぶつかったというわけです」などと作中人物をして言わしめている。彼はファシストが反動を代表する「本物の党」であるとしても、スターリニズム共産党が労働者人民を代表する「本物の党」などでは全くない、という決定的な反省がないのである――だからこそ、スターリニズムへの幻滅は、のちに直接に彼をドゴールの腕の中へと導いたのである。彼は、政府の“正規軍”や国際旅団によるマドリード防衛が単なる一時的な気休めでしかなかったこと、労働者人民の《希望》がなくなってしまえばファシズムに勝つことはできないことが少しも分かっていないのである。
マルローは「革命における最も偉大な力は《希望》(エスボアール)である」というゲルニコの言葉から小説の題名をとって来ているが、しかしこの言葉のもつ本当の意味と深さを理解しているようには思われない。この意味ではマルローの小説「希望」は“羊頭狗肉”のたぐいでしかない。
労働者人民は、内乱が本当に自分たちの階級的闘いであり、勝利が本当に自分たちの解放であると自覚したときにのみ《希望》を持ちうるのだ。
労働者の心をおどらせるスペイン内乱を描いた小説をなかなか紹介できなくて申し訳ないが、しかし最も勇敢に闘った革命的労働者は自らの英雄的な闘いを小説にしろルポにしろ残しておらず、他方、文章を書くのはろくでもない知識人が多いというわけで、これもまたやむをえない次第というべきであろうか。(H)