ウィアリム・ヘッリク■「スペインに死す」
国際旅団の闘い通して……スペイン内乱の事態を暴露
1983年9月18日「火花」第606号
何か読後感の悪い小説ではあるがスペイン内乱の一断面――国際旅団の内情やスターリニストの悪魔的な策動――をあばいているという意味で、また、スペインと全世界の労働者の反ファシズムの闘いがそこに反映されているという限りで、一読に値するだろう。
この小説はスペイン内乱後30年もたってやっと発表されており、それだけに作者の屈折した感情を教えている。作者はスペイン内乱にアメリカ人義勇兵として参加し、主人公ジェイコプ・スターと同じように、マドリード近郊の防衛戦で負傷した、という。小説に書かれている多くのことは、おそらく作者が身をもって体験した真実であり、作中の普通の党員たちと同じように、スターリニズムや人民委員たちへの激しい反感と幻滅をはぐくんでアメリカに帰ったのであろう。
小説の筋自体は平凡なものである。アメリカ共産党の若い、虚栄心にもえる一党員ジュイコプ・スターが(といっても幹部候補のエリートだ)スペインに派遣され、ここで女性(セアラ・ラスキン)を愛し、非共産党の革命家(ポウムに所属するダニエル・ヌニエス)と因縁で結ばれ――主人公は暗殺隊の一員となり、ヌニエスをつかまえ銃殺する――、また理想にもえ、ファシズムと闘うためにスペインに来つつも、スペインの人民から犬とののしられツバをはきかけられる経験のなかで、「人間性にめざめ」、スターリニズムの権力悪、組織悪を自覚して党を裏切り、“個人として”ファシズムと闘うことを望むようになるが、最後にはフランスに逃れようとしてピレネー山中で、ほかならぬかつての仲間の暗殺者の手にかかって命をおとす、というものである。
この小説が、何か不快な、ぞっとするような後味を残すのも悔い改めたスターリニストのスターリニズム告発であるというところに根本原因があるといえそうだ。
作者がスペインのポウムの革命家を描くとき、それは感動的ではあるが、しかし彼は余りに彼を道徳的な革命家にしてしまっている(ボウムにそうした欠陥が一面ではあったにしても)作者の結論が、スターリニズムに対して“人間主義”を対置するところにあるのだからやむをえないが、しかし例えばヌニェスは次のようにも叫ぶのだ。
「なぜ黒いファシズムと赤いファシズムを交換するのか?あんな連中(スターリニズム、当然その道具としての国際旅団も入る)の助けはいらない。われわれはゲリラ戦を闘い、スペイン人民の土地と工場からわれわれの力を引きだそうではないか。軍隊と軍隊の戦いでは、われわれに勝目はない」(298頁)。
これが必ずしも“道徳”の問題でなく、階級的政策か否かの問題であることは明らかであろう。
これに対するスターリニストとGPUの返事はきまりきっている、「党の敵は自由スペインの敵であり、自由スペインの敵は反逆者として死を与えなければならない」。
スターニストの幹部や人民委員がどんなに腐敗していても、国際旅団に加わった労働者党員は健全なものを失わないし、立派な批判的精神をもちつづける。負傷してムルシアの国際旅団の病院にいるジョー・ガームズは戦場の戦友に書き送る。
「お前さんたちは前線がひどいと思っているが、後方がどんなようすか見せてやりたいよ。……あるのはおべっかやら闇討ちやら気ちがいじみた政治ばかりだ。革命と社会主義を声を大にして叫ぶやつはファシストよばわりされ、ブルジョア・デモクラシーを叫ぶやつがコミュニストであり、いいやつなんだ。みんなだましあいばかりしているんで、なにがなんだか分からない。おれはできるだけ早く前線へ戻ってファシストと闘うつもりだ。そうすれば少なくとも自分がなにをやっているかぐらいはわかるだろう」(259頁)
だがこの小説は、一面では、きわめて不愉快である、というのは男女関係の意識においてきわめて“アメリカ的”である、つまりブルジョア的であるからだ。
不快感のもう一つの原因は言うまでもなく、スペインでスターリニストの連中の行ったことの不潔さ、うす汚なさそのものにある。しかしそれもまた現代史の一面であり、避けて通ることのできない現実でもある。(H)