スタインベック「月は沈みぬ」
ナチ侵攻への抵抗……労働者人民は屈伏せず
1983年9月11日火花605号


 1940年4月、ヒトラーはノルウェーを侵攻した。小説はこの歴史的事件を背景に、“自由な国民”とファシスト侵略軍の闘いを描いたものである。とはいっても、実際の戦闘といったものは殆んど出て来ない。
 ノルウェーは実に4百年もの間、他の民族や国家に支配されたことがなく、すっかり平和になれ親しんでいた。侵略された小さな港町にはわずか12名の守備隊しかおらず、しかも彼らは「図体ばかりでっかくて、しまりのない体つきをして」いて戦闘行為はカラッきし下手、ナチス侵攻軍によって6名が殺され、3名が傷つけられアッというまに壊滅してしまう。
 占領軍の任務は石炭を確保してドイツへ送り出すことでありこのために市民のゴタゴタをおこすことを望まず協調を欲するが、しかし占領軍のこの願望はかなえられず、市民の反感は日一日と高まり、発展していく。
 小説の主人公は自由主義者の市長オーデンである。彼は占領軍のランサー大佐によって住民との協調のシンボル的地位に置かれるが、市民(実体は労働者)のレジスタンスの発展のなかで、動揺を克服して、抵抗の意志を昂揚すべく殉教する。
 彼はランサーに「長官なのに市民を統制できないのか」と問われてニッコリ答えて言う。
 「あなたにこう申しあげても信じないでしょうが、……権威は市長の手ではなく、市そのもののうちにあるんです。……このために、われわれはあなたがたのように迅速に行動をとることができませんが、ひとたび方向がきまれば、われわれ全部が一致して行動をとるのです」(新潮文庫42頁)と。
 市民たちの抵抗は広がり、発電所はこわされ、トロッコは破壊される。美しい未亡人――夫はナチスに殺された坑夫――はハサミで「口説きに来た」敵の将校を殺害する。イギリスに逃げる人々に、市長は闘うための武器を送るようにたのみ、イギリスの飛行機は取扱いの簡単なダイナマイトをパラシュートで落としていく。
 ランサー大佐はムダと知りつつ、市長を人質として逮捕し、もしダイナマイト等で叛逆するなら市長を死刑にする、と市民に告げる。ランサー大佐は市長に抵抗をやめるよう市民を説くことを命じるが、市長はそれを拒絶していう、そうしてもムダである、市民は自分の態度にちょっと悲しむだろうが、やはりレジスタンスを続けるだろうから、と。
 「彼ら(ナチス・ドイツ)はただ自分たちがひとりの指導者とひとつの頭しか持っていないことからして、われわれもみんな同様だと考えているんですよ。彼らは、十の頭がチョン斬られると、もう自分たちは破滅するということをよく知っている。だが、われわれは自由な人民です。われわれは人民の数だけ頭をもっています。危急存亡のときには、われわれのあいだから、まるでキノコのように指導者がとびだしてきます」(188頁)と。
 みられるように、これはファシズム体制に対するブルジョア民主主義体制の美化であり、ノルウェーの抵抗もただこうした視点からのみ描かれていて、労働者の闘いは背景にあるだけである。しかしこの小説のなかでも、実際に闘い、犠牲になって倒れていくのが労働者たちであり、労働者たちは、この小港町の“ブルジョア”である市長たちがどういう態度をとろうともレジスタンスを続けていくのであり、そのことを市長も又、知っているのである。
 作者の言いたいことは、自由な国民は決して征服されないということ、ファシストはうち破られ“負債は必ず返済される”ということ、そして又、自由な国民はファシストとはちがって敏速には行動できないが、しかし国民全体が決意を固めれば、“指導者”などにおかまいなく闘いをどこまでも継続し発展させていくだろう(だからこそ自由な国民は偉大である)ということである。
 作者はファシズムに対して大きな敵意をもっている、しかしそれに対置されるのは市長に代表されるブルジョア民主主義でしかない。しかしもし労働者が、自由主義的な市長が裏切ろうが裏切るまいが、それにかかわりなく闘いを発展させていくというなら、それは別に、ブルジョア民主主義体制の優越性を証拠だてるものではなく、労働者がもともと自由主義者などは臆病で妥協的であって本当に信頼することができない、と知っているからであろう。(H)